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(衣川と束稲山)
<衣のたてはほころびにけり>
源氏の御大将・源頼義との合戦が始まって既に6年。安倍貞任 (サダトウ) は奥六郡 (現在の岩手県の北上川流域一帯) の人心をよくまとめ、奥六郡を出た衣川の館で源頼義軍を防いだ。一方、頼義軍は兵站が続かず、味方の武士たちも引きあげる者多く、苦戦を強いられていた。
ところが、源頼義がかねて出陣を要請していた出羽国の清原武則が1万の大軍を率いて応援に馳せ参じ、形勢は一変する。源頼義の3千とともに安倍軍を攻めたてた。このとき、源頼義の子で、父以上の強者(ツワモノ)と評判の若き源義家も頼義軍に参じていた。
衣川の館が破られると、あとは一気呵成、奥六郡の柵が次々と攻略されていった。
「衣川の館が破られて、生き残った全軍が敗走した。殿(シンガリ)を騎乗で疾走するのは安倍貞任。敵将を討ち取らんと一騎先頭に立って貞任を追ったのは若き源義家である。貞任を至近の距離にとらえると、弓に矢をつがえて馬上から狙いを定めた。そのとき、ふと、安倍貞任の鎧装束が、長年の激戦のためか、綻びているのが目に入った。いかに敵とはいえ、このまま死なせては恥ずかしいであろうと、弓を引き絞ったまま、「引き返せ。もの言わん」と大音声で呼びかけた。馬上で貞任が振り向く。義家は
衣のたてはほころびにけり (※ 衣の縦糸と衣川の館を掛けている)
と歌いかけた。すると、貞任は即座に、
年を経し糸の乱れの苦しさに (※ 年月を経て衣の糸が綻びるように、苦しい戦いで私も年を取り、わが衣川の館も綻びが出てしまったの意)
と上句を返した。
義家は、辺境の蝦夷の頭目に過ぎないと思っていた貞任が意外にも雅な応答をしたことに感心し、矢をはずして射ち、一旦は追うのをやめて引きあげた」。
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── 私の小学校時代は、終戦後のまもない時期だった。私より3年上の上級生たちは、先生の指示どおりに国定教科書に墨を塗るところから授業が始まった。
学校の先生方もみな、戦前の教育を受けた方たちだった。
前九年の合戦 (1051~1062) の終局近いこのシーン ─ 逃げる安倍貞任と追う源義家の話 ─ は、5年生の時の担任の先生から聞いた。
担任は20代半ばの一番若い先生だったが、まっすぐに熱く子どもたちに向き合ってくれた。もし当時の同級生たちに、人生で一番強い影響を受けた先生は誰かと問えば、この先生を頭に浮かべる人が多いような気がする。
一度だけ、自分の過去を話されたことがある。特攻で死ぬ日を待ちつつ訓練を受けていたある日、突然、終戦になってしまったと。
先生の衣川の話は、5年生の頭の中で、彩色された絵巻物が動き出したように躍動した。今も鮮やかに思い出すことができる。
もう、思い出自体が、歴史の中のことであるが ──。
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奥六郡の奥に追い詰められた安倍軍は、最後に厨川(クリヤガワ) の柵 (現在の盛岡市の北) に立て籠もるが、安倍貞任は戦死。のちに平泉に「三代の栄耀(エイヨウ)」(「奥の細道」)をきずいた藤原清衡の父は生け捕られたあと、斬られた。父の藤原常清は安倍氏の娘婿であったから、安倍氏に味方したのである。
この後、出羽三郡に加えて奥州六郡を支配したのは清原氏である。まだ幼かった(藤原)清衡は清原氏に引き取られ、その母 (安倍氏の娘) は清原氏の後妻に迎えられた。勝者の略奪婚というより、陸奥国の奥六郡を統治するために安倍氏の血が必要だったと、現代の研究者は説明している。
それから約20年の後、清原氏の同族間の内紛に源義家までが介入して戦われたのが、後三年の合戦(1083~1087)である。多くの血が流れ、最終の勝者になったのは藤原清衡だった。だが、彼もまた、戦さの中で妻子を殺されていた。のちに、中尊寺と言う壮麗な祈りの空間をつくった動機である。
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平城遷都した朝廷は、平城京それ自体がそうであるように中国風の国家づくりに取り組み、それは平安京の時代へと引き継がれた。中国風中華思想に倣えば、国の東方の辺境は服属した異民族の蝦夷(エミシ)の地でなければならぬ。思想はしばしば現実よりも観念の中で組み立てられ、そう思い込まれてしまう。
しかしこの時代、陸奥国は畿内に負けないくらい田畑が広がっていた。縦貫道の奥大道(タイドウ)が本州最北端まで通り、南は北上川の水運で太平洋に出ることができた。そこを金や馬をはじめ、昆布、毛皮などの交易品が運ばれた。かつて想像されたより、ずっと開けた豊かな地域であったようだ。
安倍氏とは何者なのかについて、研究者の間でも諸説があって、よくわからない。例えば、ちくま新書の『古代史講義』には、「蝦夷出身と長らく信じて疑われなかった安倍氏も、京から派遣された武門の名門貴族安倍氏が、現地の勢力に迎えられて土着化した可能性が指摘されている」と記述している。だが、そうであっても、すっかり土着し、六郡の長として人望があったのだろう。
奈良の桜井に安倍文珠院がある。大和の寺院としては、優美の趣がある。
645年、乙巳の変の年に、安倍氏の氏寺として建立された。桜の美しい池には浮御堂があり、安倍仲麻呂や安倍晴明が祀られている。
(安倍文珠院)
(浮御堂)
(安倍仲麻呂の碑)
奥州の安倍氏の時代、寺も建立され、仏も作られて、一族から僧侶も出ていたようだ。つまり、辺境未開の異民族ではない。衣川を中心とした三十余里に、山桜が植えられたという。奥州藤原時代に平泉を訪れた西行が、束稲山(タバシネヤマ)の桜を見て歌を詠んでいるが、その山桜は安倍氏の時代に植樹されたものである。
藤原三代の栄耀は突然変異のように現れたのではない。
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<もう一度、平泉へ>
2024年11月、岩手県の平泉と盛岡へ旅行した。齢のわりには遠出だったかもしれないが、齢のわりによく歩いた。平泉では、思いがけずも美しい紅葉に出逢うこともできた。
平泉も盛岡も2度目である。だが、前回の旅の記憶は断片的で、その旅がいつ頃だったのかもぼんやりしている。もの忘れが進んだのだが、そればかりでない。今思えば働き盛りの旅行は体力任せで、気持ちが駆け足なのだ。あわただしいばかりで、心に残らない。
それでも、復元されたばかりの毛越寺の庭園が記憶の中にある。ただ、私が訪れたときは、藤原基衡が造った浄土庭園を観賞するというようなものではなく、考古学上の発掘の結果を見学したという印象だった。
毛越寺の庭園の修復・復元は、昭和の末から平成の初めにかけて (1980~90年) 行われている。だから、私が訪れたのはその直後ぐらいだったのだろうと思う。30年も前のことだ。
それから歳月がたち、その間に新たな発掘調査も進み、奥州藤原氏の実像も次第に明確になって、2011(平成23)年には「平泉 ─ 仏国土 (浄土) を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群 ─」がユネスコ世界文化遺産に登録された。
そこをもう一度訪ねてみたい。
今度は、心静かに平泉の景色を楽しみ、往古の姿を想像する旅にしたい。これが今回の旅の動機の一つである。
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<「旅ごころ定まりぬ」>
新大阪から「のぞみ88号」で東京へ。東北新幹線の「やまびこ61号」に乗り継いで、岩手県一関まで来る。
一関駅のホームで、在来線の「東北本線盛岡行き」を30分待った。
(一関駅ホーム)
芭蕉は「奥の細道」の旅で、「白河の関にかかりて、旅ごころ定まりぬ」と書いている。
白河の関はみちのくの入り口で、福島県に入った所にあった。江戸を出発したのが「弥生も末の七日」だったが、白河の関を越えるときは青葉の季節となり、卯の花が咲いていた。ここまで来て、芭蕉は旅の遥けさを思い、「旅ごころ」が定まったと感じた。
現代の旅は速い。新幹線で東京を出ると、福島県を走り抜け、宮城県も一気に通過して、岩手県との境を越えた一関までわずか2時間半。旅の情緒はない。
一関駅から在来線に乗って、わずか7分で平泉駅に着いた。プラットホームで「盛岡行き」の列車の後ろ姿を見送りながら、わずかな時間でも車窓風景を眺めながら平泉に着いて良かったと思う。少しばかり旅ごころが定まった気分になった。
(平泉駅)
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<歌枕の地・衣川へ>
平泉駅から宿までタクシーに乗った。2泊する宿は、歩いて行くには遠すぎる。
運転手に、衣川(コロモガワ)の橋のたもとで、暫時、車をとめてほしいと頼んだ。橋の上から衣川の流れを写したいからと。観光タクシーもやっているという運転手は快く応じてくれた。
明日はまる一日、平泉を徒歩で見て回る予定だが、衣川まで足を延ばすのはちょっとしんどい。若い頃なら馬力で歩いただろうが、今はそういう歩き方はできない。だが、衣川を、一度、自分の目で見ておきたかった。
どんな川なのだろう。想像したような川なのだろうか。或いは、近代化の波に洗われて、昔の面影など片鱗も残っていないのだろうか。たとえそうであっても、現地に立ってみたかった。
(衣 川)
流れは細かったが、橋が架かる谷は茫々として、かなり広い。長雨が降り続いたりすると、この茫々とした谷筋一帯が大きな流れになるのかもしれない。
北上川水系の一河川で、奥羽山脈の一角に源を発し、東流して、平泉(写真右手)の北端をめぐり、北から流れてきた北上川に流れ込む。前九年の戦いのとき、衣川の北側(写真左手)に安倍氏の衣川の館があった。古戦場でもある。
寄ってもらって良かった。 「山河あり」である。
水鳥が浮かび、飛び立った。あちこち指さしながら教えてくれていた運転手が、「シャッターチャンス!!」と叫ぶ。が、まあ、そううまくは写せない。水鳥を写しに来たのではないし。
都人たちは、この衣川を、蝦夷の勢力と倭人の勢力とを分ける境界の川と考え、遥かなロマンを感じ、歌にした。
歌枕は、和歌に詠まれてきた日本各地の名所・旧跡をさす。
司馬遼太郎『街道をゆく26』から
「古来、日本の名勝は、歌によってつくられた。そこが詠まれつづけているうちに、土地そのものが歌枕になる。松島も塩釜も宮城野も、王朝のころ、すでに歌枕第一等の地で、いわば詩による霊気を帯びていた。
その霊気に感じなければ、歌詠みとはいえない。はるかな後代に生まれた芭蕉もまた、中世の歌枕の地を踏むべく、聖地巡礼のようにして白河の関を越えるのである。越えるとき、『風流の初めやおくの田植えうた』(注:「おく」は陸奥のこと) という句をつくって『おくのほそ道』に挿入したのは、美の聖地へゆく覚悟をしたものである」。
「奈良朝・平安朝の都人(ミヤコビト)たちは奥州の山河を愛し、その草木まで知識として知っていた。宮城野の萩で象徴されるように、草の名さえ詩になった」。
古代の都人の、遥かな異郷へのあこがれが歌枕となった。そこは一生行くこともなく、もちろん写真で見ることもなかった時代の、頭の中の想像の地、空想の地であった。
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<「束稲山の桜花」>
運転手が、あれが束稲(タバシネ)山だと教えてくれた。
(衣川と束稲山)
旅の歌人・西行(1118~1190)は、平泉を2度訪ねている。
1度目は20代後半から30歳の頃かとされる。
北面の武士として平清盛とも交流があった武人としての西行(佐藤義清)が、20代も早い時期になぜ出家したのか。現代にいたるまであれこれ追究され文学作品にもなっているが、人の心はわからない。
みちのくへの長旅に出た直接の動機は、彼より100年以上も前の旅の歌人・能因法師が歩いた歌枕の地をたどってみたかったからだろう。
西行が平泉に着いたのは冬の初めだった。前九年(1051~1062)の古戦場をまず見たいと思い、着いたその足で衣川へ向かった。だが、その日は、風が吹き荒れ、雪が激しく舞って、かつての衣川の館は、今は川の南側に、(藤原氏によって) 想像していた以上に立派に再建されていたが、川辺には人影なく、汀は凍り、流れはただしんと雪の中に沈んでいた。
とりわきて心も凍(シ)みて冴えぞ渡る衣河見に来たる今日しも (西行「山家集」)
西行は、翌年の春まで、平泉に滞在した。
西行が訪れたとき、奥州藤原氏は2代目の基衡(1105~1157)の時代で、3代目を継ぐ秀衡(1122~1187)は西行よりやや年下の青年であった。初代の清衡(1056~1128)が中尊寺金色堂を建立し、自らの棺を祭壇の下に納めさせてから、既に20年近くの歳月がたっていた。
西行と奥州藤原氏は、平将門の乱で功を挙げた関東武士団の雄・藤原秀郷の流れをくむ遠い縁で結ばれていたと言われる。
ひと冬を奥州藤原氏のもとで過ごし、春を迎えた。その頃、北上川の対岸の束稲山(タバシネ)山は、全山が山桜におおわれていた。前九年の合戦で滅ぼされた安倍氏の時代に1万本の桜木が植えられたと伝わる。
「みちのくの国に、平泉にむかひて、束稲山と申す山の侍るに、こと木は少なきやうに桜のかぎり見えて、花の咲きたるを見てよめる
聞きもせず束稲山のさくら花吉野のほかにかかるべしとは」(同上)
束稲山の山桜がこんなに美しいとは聞いていなかったなあ。あの吉野山の桜に負けていないことよ。
(吉野山の桜)
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<西行、二度目の旅のこと>
西行の1回目の平泉訪問から、40年近い歳月が流れた。2度目の平泉訪問は、1186年、西行69歳の時である。平氏によって焼かれた奈良の東大寺(大仏)再興のため、僧重源に依頼されて、陸奥の藤原秀郷に砂金の提供を求めるためであった。
途中、鎌倉に寄り、源頼朝と面会している。この時、既に義経は頼朝に追われ、北へ北へと行方をくらましていた。頼朝に会ったのは、今回の旅の目的に他意がないことを知らせておくためだったかもしれない。行く先々の関でいちいち詮議されたらたまらない。
(鎌 倉)
平泉で、藤原秀衡と再会し、旧交を温めた。互いに年を取っていた。秀衡は西行の求めに快く応じた。
その翌年(1187年)、義経、平泉へ入る。そのあと、秀衡、病に伏し、逝去。
軍事の天才・義経をいただけば、必ず侵攻してくるはずの鎌倉軍を奥州深くに呼び込み、義経の巧妙な作戦に加えて、やがて鎌倉軍は兵站尽き、冬将軍に襲われて、わか奥州は独立を維持し続けるだろう。秀衡はそう考えていたのだろうか。
だが、1189年、秀衡の子・泰衡は義経を攻撃し、義経は高館にて自刃。そのあと、満をきたしていた頼朝は、自ら兵を率いて泰衡ら藤原一族を滅ぼした。
1190年の春、望月の頃、西行は花の下にて73年の生涯を閉じた。一歌人にとって、世の変遷はただ眺めるしかなかった。
(衣川のたもとで)
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