( 晩秋のパリの朝 )
今回で9度目のパリである。
パリには、シャンゼリゼも、エッフェル塔も、ルーブル美術館も、カルチェ・ラタンもある。
それぞれに魅力があるが、パリに来るたびに、いつもそれらを見て回るということはない。しかし、ノートル・ダム大聖堂を訪ねなかったことはない。
セーヌ川のそばに立つその姿も魅力的だが、何よりもこの大聖堂のステンドグラスの輝きを、パリに来た以上、確認しておきたくなるからだ。
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西正面から見るノートル・ダム大聖堂は、均整がとれて端正であり、穏やかで、暖かい。
その前の広場はいつも賑わっている。
( 写真を撮る恋人たち )
観光シーズンになると、世界から集まってきた観光客が、扉口に長蛇の列をつくる。ただし、入場料を払う窓口があるわけではないから、列はどんどん進む。堂内は広く、ごった返すというようなことはない。もっともそういう日には、スリやスリグループも大聖堂の内外で活躍しているはずだから、用心は必要である。
そう言えば、昨日、メトロ1号線に乗っていて、突然、日本語のアナウンスがあったのに驚いた。メトロでアナウンスも珍しいが、それも日本語である。「車内にスリがいるから気を付けろ」、というアナウンスだ。初め、狙われやすい日本人だけを対象にアナウンスされているのかと思ったが、英語など他の言語でも放送されているようだった。それにしても、何度もパリに来て、メトロ内で、日本語による、「スリがいる、注意」は初めてだ。
上の写真はアフリカ系の恋人同士。明るいブルーの襟巻の似合うチャーミングな彼女を、大聖堂の全体をバックにして何とか小さなカメラに収めようと、青年の方が石畳に這いつくばったり、カメラを地面に置いたり、20分近くも悪戦苦闘していた。その青年の愉快なしぐさに微笑みながら、彼女の方も根気よくポーズをとり続けている。互いに愛がなければ、こうはいかない。
突然、写真を撮ってもらえませんか、と声をかけられる。これまた、とても感じのいい青年と、はにかんで立つ美人。「奈良からですか? 僕らは北海道からです」「新婚旅行で?」「はい」。 そうでしょう。誰が見ても、爽やかでお似合いである。お幸せに。
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パリは、セーヌ川をはさんで、右岸と左岸に分かれる。
そのセーヌ川の中の大きな中の島、シテ島に、ノートル・ダム大聖堂は立つ。
大聖堂前の広場には、パリの番地のゼロ地点を示す印が埋め込まれている。渦巻き状に配置されたパリの番地の、渦巻きの中心点が、ノートル・ダム大聖堂なのだ。
ここはパリの発祥の地でもある。
紀元前3、4世紀ごろには、このシテ島に、ガリア人の一派、パリシイ人が住み着いていた。 セーヌ川を利用して、盛んに交易を行っていたらしい。パリという名の起源は、パリシイ人による。
そこに、ローマ軍がやってくる。キリストの生まれる半世紀も前の話だ。あのユリウス・カエサルの軍団である。彼らはセーヌの左岸の丘陵部に文明を築いた。今も、大浴場跡や競技場跡など、その痕跡が残っているし、セーヌ左岸はラテン地区と呼ばれる。
ノートル・ダム大聖堂の改修の折、大聖堂の下から見事な石の塔が発掘された。1世紀、パリシイ人が時の皇帝ティベリウスに献上したものだった。パクス・ロマーナの下、セーヌ川で交易を行うパリシイ人たちの豊かな経済力を示している。
同時にこの発見は、キリスト教文明(大聖堂)がローマ文明(石の塔)の上に成り立っていることを象徴する発見として、有名である。シテ島こそ、パリ発祥の地なのだ。
王都パリのノートル・ダム大聖堂は、1163年に起工し、200年近くかけて、1345年に完成した。その起工は、ストラスブール大聖堂の起工やシャルトルの再建より早く、従って初期ゴシックの様式を残し、盛期ゴシックの様式もある。
ぐるっと大聖堂の旅をしてきて改めて思うのは、都パリの大聖堂が、その端正な姿においても、ステンドグラスの気品ある美しさにおいても、シャルトルの大聖堂と並ぶゴシック大聖堂の最高峰だということである。
中央扉口のティンパニム(半円部分)にはキリストが君臨し、その足元には最後の審判の場面が彫られている。(下の写真)
( 西正面扉口とティンパヌム )
ティンパニムの上、バラ窓の下に水平に並ぶ彫像群は、「王たちのギャラリー」と呼ばれるが、今あるのは後世のもの。本物はフランス革命のときに革命派によって全て破壊されてしまった。
歴代のフランス王たちだと思って破壊したのだろうが、最近の研究で、旧約聖書に描かれているキリストの祖先たち、ユダヤの王たちではないかと言われている。
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パリのノートル・ダム大聖堂のステンドグラスは誠に美しい。宝石のよう、という形容詞が当てはまるのは、ここと、シャルトルのステンドグラスだけである
( 薔薇窓 )
高い薔薇窓には宝石のきらめきがあり、低い窓の絵硝子には、聖書の数々の場面が描かれて、信者の心に語りかける。
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さて、セーヌ川沿いの散策へ。
木村尚三郎 『パリ』 (文芸春秋社)から
「パリを味わうには、…… 最低、3、4日、できたら1週間は滞在したい。1日、2日では、ここがコンコルド広場か、ここがチュイルリー公園かと、ガイドブックのなかにある写真と実物を照合するのが精一杯で、訳もわからず興奮しているうちにパリとおさらば、ということになってしまう。3日目くらいから少し落ち着き、少しくたびれて、その辺のカフェに腰を下ろし、ぼんやりと通る人を眺めながら、1、2時間を何となく過ごすようになる。パリが見えてくるのは、それからである」。
16年前、1人で4日間もパリに滞在したが、見て歩くことに忙しく、全てに緊張し、ただただ疲れて帰国した。東京や大阪と変わらぬ単なる大都会ではないか、なぜ、人は、パリ、パリと言うのだろう? と思った。
しかし、その4日間、歩き回ったお蔭で、2度目、3度目からは、もう、新しく見て回るものもなくなり、見て回らねばならないという強迫観念からも解放された。そうすると、好きな道をそぞろ歩いたり、「その辺のカフェに腰を下ろし」て昼間からグラスワインを傾けたり。そうしているうちに、だんだんとパリを美しいと感じるようになっていった。
確かに、パリは美しい街だ。
(チュイルリー公園を行く人)
チュイルリー公園の木々の葉は落ちていたが、かろうじて残る茶や緑の葉っぱに風情があり、建物も意図的に構成されていて、絵になって、美しい。
セーヌにはいくつも橋が架けられている。歩行者専用の橋もある。ボン・デザール、芸術橋。ルーブル美術館とフランス・アカデミー(学士院)を結ぶ。
( 遊覧船から、ポン・デザール )
シルエットになった一人一人の人物の、心のときめき、哀感、人生に思いをはせれば、シャンソンの調べが聞こえてくるようである。
(観覧車から、セーヌ川とエッフェル塔)
遊覧船から見上げるパリの街並みも美しいが、コンコルド広場にある観覧車から俯瞰するパリもなかなかの味わいがある。ただし、軽度の高所恐怖症だから、カメラを構えていると、風に揺れてちょっと怖い。
エッフェル塔が建設されるとき、パリに鉄の塔なんて 見苦しい パリの街並みには似合わない などと、批判の声も大きかったようだ。しかし、今は、すっかりパリの街並みになじんで、セーヌ川の風情に溶け込んでいる。
( ショイヨ宮のテラスから )
ただし、単に、高さを競って、高い塔を建てたらよいのではない。
ショイヨ宮から、手前のトロカデロ庭園、セーヌ川をはさんでエッフェル塔、その向こうにマルス公園、さらに士官学校の建物と、きちんと計算されて景観が造られている。パリの街並みの美しさは端正な美しさである。
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< 閑 話 >
フランスの大統領が長年連れ添った「実質的な妻」(婚姻届けを出していない)と別れて、別の女性と同居した、などということが報道されても、ふつうのフランス人やパリっ子は、知らん顔だ。
こういう場合、日本では、最初、週刊誌がゴシップ記事としてすっぱぬき、それは致し方ないにしても、週刊誌の掲載したゴシップを、連日、「お昼のテレビ」が取り上げて、やいのやいのと批判し、断罪する。どのチャンネルも、一様に、連日。挙句の果て、大統領が辞任せざるをえないほどに追い込む…… だろう。これでは、日本の「主婦」層の政治的劣化は避けられない。
フランスでは、各自の家の中は各自の勝手。人のプライバシーに立ち入ることは、下司のすること。大統領の評価は、政治家として有能かどうかで決まる。
こういう点において、フランス人は、見事な「個人主義」である。この場合の「個人主義」とは、人の家のことに関わらない。「のぞき見」しない。人の暮らしを尊重するという意である。
だが、「人に迷惑をかけなければ、何をしても勝手でしょう」と、ただ自己中心的に生きているわけではない。もう少し積極的である。
杖をついた危なかしい足取りのおばあさんが、長い横断歩道を渡ろうとしている。 すると、横を歩いていた若い女性が、すぐにおばあさんの腕をとって、信号が赤になっても、おばあさんのペースでゆっくりと歩き、渡りきる。おばあさんは一言お礼を言い、女性はにこっと笑ってさっさと歩いて行く。 (フランスの横断歩道の信号はすぐに赤になるが、車は歩行者がいる限り発進しない)。
街角で、東洋人の旅行者がガイドブックを広げて首をひねっている。買い物かごを乗せた自転車のマダムがピュッと横に自転車を止めて、「何かお手伝いしましょうか?」 。
こうした光景は、地方だけでなく、人間関係が薄いと言われる大都会のパリでも見る光景であり、日本の都会で暮らしている者にとっては、新鮮に映る。
日本では… 戦後の日本だが … 、誰もがもう少し自分の殻にこもって、「個人主義」で生きているように見える。人のことに関わらない。「人に迷惑をかけなければ、私の勝手でしよ」。
フランスでは、各自の家の中は各自の自由。しかし、一歩家を出たら共同体の一員としての市民の自覚。或いは、責任。市民として関わりあう精神がまだ生きているように思う。
「市民精神」の基盤の上に、「自由」や「個人主義」が成り立っている。
「市民精神」の基盤の上に立たない「自由」や「個人主義」は、砂の集まりだ。手のひらから落ちる砂はサラサラのバラバラ。── 「もしどこかの国がが攻めて来たら??」「逃げる」。
今でも、多少とも市民精神のDNAが残っているのが、フランスであり、西洋なのだと思う。
「自由」とは何か、「市民精神」とはどういうものかについて、以下、木村尚三郎 『パリ』 (文芸春秋社) から
「ノートル・ダム大聖堂はパリのなかでも最も高い建物であり、…… それより高い建物は認められなかった…。パリの建物が6階ないし7階にそろえられているのも、このためである」。
「ちなみに、パリ市内の建築・居住規制は、日本の都市などとは比べものにならないくらいに厳しい。一戸建て住宅は存在せず、大統領・首相以下、誰もがマンション暮しである」。
「パリが美しいと感じられるのは、建物による均整美だけではない。洗濯物がベランダなどにまったく見えないからである。…… ベランダに洗濯物や絨毯を干したりすれば、美観を損ねるとして罰せられる」。
「たとえ自分が所有する立木一本と言えども、市の許可なく勝手に切ることはできない。これも、中世以来の決まりである」。
「それは、パリに生まれ育った人たちにとってだけではなく、世界の誰にも美しいとされる普遍性が追求されているからである。そこに、世界都市パリの面目がある」。
「市民共同体の一員として、自ら積極的に公益を実現しつつ生きる、これなくして都市に生きる資格のないことを、パリは教えている 」。
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そして、辻邦生『言葉が輝くとき』(文藝春秋) から
「そのとき、メトロがぱっとセーヌ川の上に出て、窓からパリの街が見えた。夕日のもとですごく美しかった。私はただたんに、美しいなという感嘆よりも、そこに、その風景を美しくしている意志があるなと感じた。ただ漠然と美しいのではなく、美しくあらしめよう、きちんとした街にしようという激しい秩序への意図があり、さらにそれを実現する営みがある、これがつまりヨーロッパなのだと思った。ここから、私とヨーロッパとの最初の出会いが始まったと思います」
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< 旅の終わりに >
イル川の中州につくられた世界遺産の町ストラスブールは、ドイツ風の木組みの家々のある落ち着いた街並みで、赤色砂岩で造られたという大聖堂が、夜、金色に輝いていた。
ランスの大聖堂は第一次世界大戦で破壊されたが、残されたファーサードの彫刻群の、その中でも、「微笑む天使」は最高にgood それに、シャガールの青のステンドグラスは、中世のものと一味違って、さすがにステキでした。
ランスやアミアンの天を衝く大聖堂に入ったとき、鬱蒼と高い樹木の中にいる感じがした。確かに、ゴシック様式はゲルマン的な北方・森の文化を背景にしている。白雪姫も、ヘンデルとグレーテルも、森の中の物語だ。
ゴシック様式発祥の地・パリ郊外のサン・ドニ修道院は、修道院長シェゼールというリアリストが面白い。
シャルトルの大聖堂は、地平線に夕日が沈むボース平野に立つから、一層、素晴らしい。
パリのノートル・ダム大聖堂は、セーヌの流れにその姿を映して、より感動的である。
どちらも、その姿が端正で、ステンドグラスの輝きに気品と深みがあるが、そればかりでなく、周囲の環境に溶け込んで、美しい調べを奏でている。
最後に。
この旅は、馬杉宗夫『中世の聖なる空間を読む … 大聖堂のコスモロジー』 (講談社現代新書) を読んだ時から頭にあった旅で、いわばこの本に導かれて出かけたようなものである。馬杉先生とは全く面識はないが、そのご研究に敬意を表して、終わりとします。
でも、同じ本の中に紹介されているゴシック様式の前の時代の聖堂、鄙びた味わいのあるロマネスクの聖堂を、人里離れたフランスの田舎に訪ねる旅もしたくなりました。