( 村人がつくった案山子 )
熊野磨崖仏のある胎蔵寺から車でほどなく、真木大堂へ。あたりは静かな山里の風情だ。
ここには、昔、六郷満山(後述)の一つで、七堂伽藍を備えた馬乗山伝乗寺という大寺があった。だが、約700年前に火災により焼失。今は、そのあとに建てられた小さなお堂と9躯の仏像を納める収納庫があるばかり。幻の大寺の跡である。
鄙びたお堂の玄関口で、火災を免れた仁王像が迎える。
9躯の仏像は、ガラスケースの向こうに並んで、或いは威厳に満ち、或いはおだやかなお顔に理知の光を見せ、或いはおそろしい形相で炎の中に立って、いずれも国の重要文化財である (撮影禁止)。
( 真木大堂入口の仁王像 )
先の胎蔵寺(熊野磨崖仏)も、この伝乗寺もそうであるが、伝説では、奈良時代の初めごろ、仁聞という僧侶 (一説では菩薩、他の説では宇佐八幡宮の八幡神) が、国東半島の山々や谷筋に28の大寺を開き、69000体の仏像を造ったという。
しかし、実際に国東半島一帯に多くの大寺、堂宇が開かれたのはもう少し後で、奈良時代末期から平安時代の前半にかけてらしい。宇佐神宮、或いはその神宮寺である弥勒寺のバックアップや天台宗の影響のもとに、その特徴は神仏習合の山岳信仰であった。
それらの寺院群には、目的別に3つのグループがあった。学問をするための本山 (モトヤマ)、修業をするための中山 (ナカヤマ)、布教するための末山 (スエヤマ)で、併せて満山と呼ばれた。六郷満山である。
伝乗寺は学問をする本山 (モトヤマ) の本寺のひとつであった。
現在でも、33の寺院に宇佐神宮を加えた国東六郷満山霊場が構成されて (国東半島33箇所)、山岳修行も行われている。
山岳修業のスタート地点は、あの熊野磨崖仏の下らしい。
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真木大堂の前の道路の向こう、空き地や茶店の前のそこここに、案山子が置かれている。その数はもしかしたら住人より多いのではないかと思われるほどだ。
( すべて案山子です )
ここから、次の富貴寺に行く途中の、田染荘(タタシブノショウ)小崎(オザキ)と呼ばれる地域は、2010年に国の「重要文化的景観」に選定され、さらに、2013年には、「国東半島・宇佐の農林水産循環システム」として「世界農業遺産」に認定された。
パンフレットによると、FAO (国連食糧農業機関) の認定する「世界農業遺産」は、ユネスコの「世界文化遺産」が遺跡や歴史的建造物など、「不動産」を登録・保護するのに対し、グローバル化のなかで衰退の途にある伝統的な農業や文化、土地景観の保全と持続的な利用を図ることを目的として、その地域の伝統的な農業の「システム」そのものを登録・保護するものらしい。
両子山山系から放射状に延びる尾根と谷筋から成る国東半島は、平野部が狭く、さらに降水量が少ない地域だから稲作のためには水が不足する。しかも、火山性の土壌は、保水力もない。
そういう水田農業に向かない土地であったが、古代から、宇佐八幡宮の荘園として開発・工夫されてきた。
広大なクヌギ林を保護することによって、水を保水し、浄化する。その水はため池に貯えられ、それぞれの農家の田んぼに供給される。狭い土地だから、多くは段々畑で、田は上の方から順に潤い、21世紀の今も、綺麗な水辺風景と生物の多様性を保持しているそうだ。
田染荘(タタシブノショウ)に村落と農地が開発されたのは、紫式部らが生きた11世紀前半に遡る。その小崎地区には、14、15世紀の耕地と村落の基本形態がほぼそのまま現在に継承されいる。そして、今も、水田オーナー制のもと、住民によって美しい景観が保存されているのだそうだ。
国東半島は、古代から開発されてきた稲作農業遺産と、その土壌の上に形成された神仏習合の民俗文化遺産を今に伝えている。
「ここには日本の原風景がある」といわれるのもうなづけるではないか。