( ヴェズレーの丘からの眺め )
5月29日(金) のち
< この旅の第一の目的地ヴェズレーへ >
この旅も終わり近くなった。
今日は、サント・マドレーヌ・パジリカ (聖堂) があるヴェズレーの丘へ向かう。
「ブルゴーニュと言えば、ワインでしょう」、「中でも、ボージョレ・ヌーボーでしょう」などと言う日本人は、フランス通産省の海千山千の商業主義に乗せられた「お人よし日本人」である。
ブルゴーニュと言えば、ヴェズレーの丘。私の中で、そこはブルゴーニュの中心。そして、サント・マドレーヌ・パジリカは、ロマネスク様式の建築と彫刻の至宝である。
いよいよ「ブルゴーニュ・ロマネスクの旅」も、クライマックス、佳境に入る。ただ、少々地味ではあるが…。
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< タクシーの若い運転手 >
ふつうは、アヴァロンという鉄道駅からタクシーに乗り、15キロ走ってもらって、ヴェズレーに行く。明日のパリ行きは、ヴェズレーからそのコースをとるつもりだが、今日は、オーセールからタクシーで行く。
列車でオーセールからアヴァロンへ行くには、途中、乗り継いで、75分かかる。さらに、オーセール駅までと、アヴァロン駅からと、二度、タクシーを使わなければならない。
それなら、ちょっと贅沢だが、一気にタクシーで行こうというのである。ゴージャスな五つ星ホテルに泊まったり、星付きレストランで食事したり、高級なツアーに入って贅沢旅行するよりも、おカネのちょっとした正しい使い方である。
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昨日、オーセール駅からホテルまで乗ったタクシーの運転手に、明朝、ヴェズレーへ行くから迎えに来てほしいと頼んだ、そのタクシーが来ない。
荷造りして、ホテルの前で15分待ったが来ない。しびれを切らし、昨日、運転手からもらった名刺をホテルのマダムに示して、多少の英語と大部分は身振り手振りで、電話をかけてと頼んだ。事情を理解したマダムの顔色が一瞬、曇り、わがことのように申し訳なさそうな表情になった。小さな町だから、よく知っている若者なのだろう。「何やってんの、ジャック。お客さんを待たせて」、という感じだ。
タクシーが飛んできた。若者が緊張した表情で降りてきて、マダムに一言、叱責され、神妙に荷物を積んでくれた。
運転しながら、観光案内もしてくれる。しかし、…… パリの街の中や、パリから空港へ行く高速道路で、前を行く車を次々抜き、抜かれることは絶対ないという、ガッツあふれる運転には慣れていたが、対向一車線の田舎の国道(県道かな)を、120キロでとばす運転には慣れていなかった。
遅い車を追い抜くとき、思わず「アッ、(危ない! ) 」と、恐怖の声が漏れたが、「えっ? どうかしましたか? 大丈夫ですか? 」と、心配して聞いてくれる。自分の運転のせいだとは、つゆ思っていない。マダムの運転する鉄道バスも速かったが、バスはバス。その比ではない。
1時間ほどで、ブルゴーニュらしい野の起伏の中に、小さな村落と、その上に聖堂の建つ丘が見えた。あれだ!!
車は、一本の道筋に沿って小さな土産物店やレストランが並んだ、サント・マドレーヌ寺院の門前町のような通りを、丘の頂上へ向けて上る。
( ヴェズレーの村と聖堂 )
ほどなく頂上の広場に出た。正面にはサント・マドレーヌ聖堂が建つ。パジリカの右手の建物が、今夜の宿である。世界遺産の隣にあるホテルだ。
タクシーの若者は重い荷物をホテルへ運び、チェックインもしてくれた。
入った所がレストランになっていて、ご近所のおじさんたちがモーニングコーヒーを楽しんでいる。若干のチップ込みでタクシー代を渡すと、恐縮して、「コーヒーを飲みませんか」と勧め、エスプレッソをご馳走してくれた。律儀な青年である。オーセールに帰ったら、ホテルのあのマダムに、もう一回叱られるかもしれない。
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< マグダラのマリア伝説とサント・マドレーヌ聖堂 >
朝、オーセールを出発して、ずっと曇り空だったが、ヴェズレーで青空になった。空気が澄んで、気持ちが良い。
ここは、ブルゴーニュの野のど真ん中。丘の頂上に聖堂があり、それ以外に何もない。
これから明日の朝まで、24時間ほどここで過ごす。
( サント・マドレーヌ聖堂。右にホテル )
「まるで寄木細工の寺院である。四角と三角と円形とを組み合わせた単純な外形だが、独特の美しさを持っている」(井上靖『化石』から)
ただし、この西正面は、13世紀と19世紀に改修されて、ロマネスク時代のものではない。
サント・マドレーヌとは、マグダラのマリアのことである。イエスの生前、12人の弟子たち以外にも、イエスに付き従った女性たちがいた。マグダラのマリアは、そのなかでもイエスに最も愛された女性であり、イエスが処刑されて岩窟に葬られたあと、復活のイエスに最初に出会ったのも、マグダラのマリアである。
イエス昇天後、彼女がどこでどう生きたかについては、諸伝説がある。
一説によると、彼女はラザロらとともに南仏に逃れて布教し、死後、その遺体はヴェズレーに移された。
11世紀になると、マグダラのマリアの遺骸を持つサント・マドレーヌ聖堂は、あのクリュニー修道会の傘下に入って、スペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラへ巡礼する巡礼路の出発点となった。聖堂前のこの広場は、遥かに遠く巡礼の旅に発つ多くの巡礼者たちの熱気に埋め尽くされた広場である。
さらに別の一説によると、マグダラのマリアとイエスは男女の関係にあった。身ごもっていたマリアは、イエスの死後、信徒たちに守られてフランスに逃げてきた。その子孫が、フランク王国のメロヴィング朝へと続く。という話を踏まえて作られたのが、映画にもなった『ダ・ヴィンチ・コード』である。
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< ルネッサンスに先んじたロマネスク美術 >
サント・マドレーヌ聖堂の西正面右側の扉口を入ると、ナルテックス(入口の間)と呼ばれる空間がある。
そこにもう一つ扉口があって、その奥が身廊である。
本来、身廊は信徒の入ることができる空間。ナルテックスは信徒と非信徒とを分ける空間だった。
そのナルテックスから身廊に入る3つの扉口の上の半円部分 = タンパン、特に中央扉口のタンパン「使徒に使命を与えるキリスト像」が、オータンのサン・ラザール大聖堂のタンパン「最後の審判」とともに、ロマネスク美術の至宝とされる。
身体をS字状にくねらせ、大きな両手を広げている巨大なキリスト像である。
( タンパンのキリスト像 )
先に訪問したシトー派のフォントネー修道院は、まことに清冽で、このような彫像は一切なかった。
同じブルゴーニュの地に起こったシトー派は、大きな聖堂建築を造り、彫像で飾り立てるクリュニー派を厳しく批判した。
シトー派が批判するのもわかる。モーゼの十戒の一つは、このように偶像を刻み、拝むことを禁じている。
しかし、それはキリスト教の純化を求める立場からの正義。人類の文化遺産という立場に立つ美術史家の記述では、こうなる。
馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー』から。。
「紀元1000年を境として、ヨーロッパ中に建てはじめられたロマネスク聖堂扉口に、古代ローマ時代以来忘れられていた石による大彫刻が、奇跡のごとく、壮大な形で復活してくるのである。
西欧美術の展開の中で、聖堂扉口を飾る壮大な大彫刻の登場ほど画期的なものはなかろう」。
ならば、中世ロマネスク芸術は、暗黒の中世を打ち破る第一のルネッサンスであったとも言えよう。でなければ、あのオータンの大聖堂に掲げられていた「裸のイブ」像は、理解できない。
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馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー』から
「身廊に入るや、…… まず目につくのは、白とピンク色の交互の石による横断アーチの列である。それは、西から祭室のある東側に向かう方向性にアクセントを与えている」。「身廊部には10もの柱間があり、他の聖堂よりかなり長い身廊にされ…… 西から東へと向かう水平的方向性を強調しているのである」。
( 身廊部)
ロマネスク様式の身廊には、高い窓にステンドグラスが輝くというゴシック様式の華やかさや神秘性は、ない。しかし、古い石の持つ温かみがあり、柱頭彫刻の形態の面白さとともに、どこかなつかしい、やさしさがある。
神父さんと尼僧が何やら話をしている。その姿が、ここが今も生きた信仰の場であることを示している。
馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー』から
「豊かさ。これがヴェズレーのサント・マドレーヌ聖堂の印象である。色彩にみちた華やかな石組。聖堂内の柱頭にも、主として旧約聖書から引用された物語が所狭しとばかりに刻まれ、扉口彫刻とともに、クリュニー派の豊かで大らかな形態観を見せている」(同)。
( 柱頭彫刻 )
井上靖『化石』の主人公は、柱頭彫刻にひかれ、オペラグラスで見て回る。
井上靖『化石』から
「これら(柱頭彫刻)を造った者は、…… この地方の名もなき石工たちであったに違いないと思われた。庶民の知恵以外からは出ないアイディアがここには生かされてあり、しかも、それが立派な芸術作品になり得ているのである」。
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< ヴェズレーの丘の白い雲と野の広がり >
「 (丘を) のぼり切って右側奥の教会裏から眺める春のブルゴーニュの風景の何と美しいことか、杏の花が咲くサン・ピエールの村が下に見え、遠くはるかに緑の丘の起伏が連なる」(饗庭孝男『フランス四季暦』)
こうした美しい紀行文や物語の幾つかに心ひかれて、この旅は始まった。いよいよ「ブルゴーニュ・ロマネスクの旅」の最終章、最後の目的地である。
ここからは、井上靖 (『化石』の文章にゆだねよう。
「建物に沿って裏手へまわって行くと、一面のマロニエの林である。…… そのマロニエの木立の向こうに城壁のような石の塀がまわっていて、そこに身を寄せている二人の女性の姿が見えた」。
( 聖堂の裏手のテラス )
( 聖堂の裏手に回り、野の道を行く )
「…… 石の塀に身を寄せ、そこから、いま自分が立っている丘を取り巻くようにして、広がっている平原を眺め渡した。雄大な眺めであった。上から見ると、小さい丘が何十となく重なり合って波打っており、……」
「大平原ですね」
一鬼が言うと、
「ここからの俯瞰はみごとです。あの、ずっと向うに赤い屋根の集落が見えるでしょう」
岸は言った。…… 家々が互いにひっそりと寄せ合っているような美しい集落の表情である。
「あそこはサン・ペルという村です。あそこにもロマンの教会があります。お寺の塔が見えるはずですが」
なるほど教会らしいものの塔が、玩具のそれのように小さく見えている。
「この辺は、どこの村にも、ロマンの教会があります。……」 (以上『化石』)
( サン・ピエールの村 )
最後の岸の言葉が、ブルゴーニュらしくて、良い。
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< ホテルの前のテラス席で白ワインを >
心ゆくまで、、青い空と、白い雲と、その下に広がるブルゴーニュの野の広がりを見た。
「見るべきものは見つ」。
聖堂前の広場に戻り、村の本通りのお土産やさんを見て回る。
一軒のワイン屋さんで、ちょっと高級な赤ワインを2本買った。ブルゴーニュを旅した以上、お土産にはワインしかない。ただし、私がブルゴーニュワインを贔屓にするのは、そこがロマネスクの里であるからだ。
( ヴェズレー村の本通り )
( ちょっと面白い看板 )
旅の終わりにお土産も買って、もう、何もすることはない。それに、歩き疲れた。
今夜泊まるホテルの前に置かれたテーブル席に座って、脚を投げ出し、聖堂のたたずまいや、雲の変化を、ぼんやりと見上げる。
改めて、野の花のように、鄙びた風情の、いい感じの聖堂だと思う。
聖堂の前の広場も、広すぎず、「ミケランジェロが設計した広場です」などという仰々しさもなく、春のブルゴーニュの丘の上の広場にふさわしい。
ホテルのムッシュの息子が出てきて、「何かお飲み物をお持ちしましょうか」と聞く。「白ワインを」。
大きな聖堂の右下にある、いかにも小さな扉口。そこを出入りする、さらに小さな見学者たち…。
彼ら、彼女らの背景には、いろんな思いを抱いてここを訪れ、祈り、願い、嘆き、感謝して去って行った、千年に及ぶ人々の「生」の積み重ねがある。それが歴史というものだ。
時折、修道僧や修道尼の姿も、扉口から出入りする。多分、この広場に面した建物のどれかが修道尼用、聖堂の裏手の建物のどれかが修道僧用の僧坊として、使われているのだろう。
別々の高校生のグループが、2組やってきた。見ていると、中には、聖堂よりも、彼女や彼に興味がある生徒もいる。どこの国も同じだ。
一般の見学者は、当然のことながら、西欧人が圧倒的に多い。夏休みではないから、それなりの年配のご夫婦、或いは、グルーブ・ツアーである。
陽気なグループは、アメリカ人だろうか? それとも、ドイツ人?
ドイツ人は、大ジョッキを持って歌を歌い、陽気に騒いでいるかと思えば、黄昏迫るころには「若きウェルテル」のようにメランコリックになったりする、と犬養道子さんが書いていた (『ヨーロッパの心』)。一般に誤解されているが、フランス人は明晰さを好み、悪く言えば理屈っぽい人。数学はフランス。ドイツ人は憂いの人で、人生とは何かを考える哲学タイプ。両者の違いは、清少納言と紫式部に似ている。「をかし」の清少納言から見れば、紫式部は深刻ぶったイヤな人だし、「もののあはれ」の紫式部から見れば、清少納言は理屈っぽいくせに、「軽い」人だ。
東洋人の姿は見かけない。パリを席巻するようになったあの中国人観光客も、ここでは見かけない。
ただし、数は少ないが、日本人はいる。年配のおばさまたち数名のグループとか、リタイアしたご夫婦とかである。日本の旅行社のツアーは、ここには来ない。
紅山雪夫『ヨーロッパものしり紀行 ── 建築・美術工芸編』から
「初めてヨーロッパを訪れる日本人はみな、雄大にして荘厳なゴシック建築に感嘆の声をあげる。しかし、ゴシック建築を見慣れてから、さらに古いロマネスク建築に接すると、ロマネスク式の方が好きになる人がたいへん多い。
ゴシック式と違って、ロマネスク式には仰々しいところがなく、簡素な中に何ともいえぬ深い味わいがある。それが日本人の感性、美意識にぴったりなのだ。日本の古寺を訪れたときに似た心の安らぎを与えてくれる点で、ロマネスク式は数ある教会建築の中でも一番である。ロマネスク式独特の素朴で幻想的な彫刻にひかれる人も多い。今後もロマネスク式の愛好者はますます増えるだろう」。
私が、この紀行で伝えたかったことは、これに尽きる。
バロックの国ドイツで、日本人に人気があるのはロマンチック街道である。今でも、日本人が多いし、私ももう一度行きたい。メルヘンチックな雰囲気と、素朴な田舎の風景が日本人好みなのだ。
中国人は、近くのウイーンやザルッブルグにあふれているが、ロマンチック街道ではあまり見かけない。
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< 交響楽の聞こえるヴェズレーの丘 >
夕刻、もう一度、ブルゴーニュの野を俯瞰するテラスに行ってみた。
暮れるになお時間があり、今日一日の最後の数刻の光が、静かに平野を満たしていた。
空気は一層、澄み切り、透明感を増していた。
静かであった。その静寂の中に、音楽が聞こえてくるようだった。交響楽だ。
その荘厳な広がりは、日本人の感性とは微妙に異なるものであったが、心に沁みた。
( 夕刻のテラスからの眺め )
テラスから帰ると、待つほどもなく黄昏れ時になった。空は、美しい濃い紺青となり、灯がともされ、聖堂もライトアップされた。ヨーロッパを旅していて、この時刻の空の色は本当に美しい。この青を見るために、旅をしているのかもしれない。
やがて、月が上った。
俳句が一句、浮かびかけたが、やめた。石の建物の上に出る月は、俳句では表現できない。
俳句で表現するにしても、英語やフランス語の俳句になる。今、各国で静かなブームとなっている自国語による俳句だ。短詩型の一種である。
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< サント・マドレーヌ聖堂の朝のミサ >
翌朝、もう一度、サント・マドレーヌ聖堂へ行った。
日の出は遅く、少し冷えた。
( 朝のミサ )
聖堂の中では、オルガンが弾かれ、数名の修道僧と修道尼が、静かにミサをあげていた。他に人はいない。
そこには、観光のサント・マドレーヌ・パジリカではなく、信仰のサント・マドレーヌ・パジリカがあった。
それは、我々には異質のものであるが、まちがいなく、人間の営みの一端、今も生きているヨーロッパの姿である。