5月15日(月) 。
北海道の5月は、曇り空が多いのか?? それとも、北海道が、曇り空が多いのか??
今日も曇天。
旅に出て、5日目。最終日である。
この朝も、7時半にホテルを出発した。旅寝が重なり、気楽にバスに乗っているだけとはいえ、さすがに疲労を覚える。
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< プロフェショナルなバスガイドさん >
バスガイドいわく、「本州では、縄文時代から弥生時代に移行し、それから古墳時代、さらに奈良時代、平安時代と進んでいきますが、北海道には弥生時代はありません。縄文土器文化に続くのは、続縄文土器文化。そのあと、擦文(サツモン)土器文化とオホーツク文化が並行する時代があって、アイヌ文化の時代になります」。
バスガイドという職業が脚光を浴びたのは、高度経済成長の1960年代~70年代のころ。国内観光の全盛期。OLなど当時の他の女性の職種と同じように、高校を卒業して結婚退職するまでの仕事だった。
若いバスガイドたちは、観光バス会社が各方面ごとに作成した、何百ページもある「バスガイドブック」を丸暗記した。だが、たいてい暗記しきれず、途中からカンニングペーパーのようにして読んでいた。その「バスガイドブック」の内容も、興味を呼び起こされるようなものではなかった。
戦前のことだが、最初のバスガイドは東京観光のバスで、大卒の男性だったらしい。戦前の大卒は相当の高学歴だ。
本来、こういう仕事は、それなりの教養があって、さらに、必要な情報 (知識・ネタ) を収集する能力、そこから選択し、整理し、再構成する能力、そして発信する (表現する) 能力がないと、できない仕事だ。
つまり、高校卒業後間もない女子には、ムリというもの。
しかし、最近のバスガイドは違う。少なくとも、大手の旅行会社の企画するツアーに参加すると、地方の空港或いは駅で迎えてくれる観光バスのバスガイドさんは、総じて年齢が高く (孫がいたりする)、職業人としての経験も豊かで、話の内容もしっかりしている。旅程を管理する添乗員は別にいるから、まさにガイドのプロフェショナルである。多分、登録制で、客や旅行会社の添乗員の評価の高い人から声がかかるのだろう。それなりの報酬があり、ふるさとの誇る文化遺産・自然遺産を説明して旅人に旅の満足を与える仕事だから、やりがいもあるに違いない。
今回のガイドさんは、5段階評価なら5、10段階なら10である。
女性の年はわからないが、多分40代後半、もしかしたら50代。なかなかの美貌の持ち主である。少々中年太りだが、若いころはスタイルも良かったと思われる。きれいな標準語で話し、それも、きめ細かに配慮の行き届いた言葉遣いである。ちなみに、北海道を出たことはないそうで、母方はこれから行く襟裳岬の漁師の娘だったという。
「ガイドブック」は手にしないし、暗記した文章をそのまま口にしている話し方でもない。すべて、頭の中で一度咀嚼されて、自分の言葉で紡ぎだされている。よほどしっかり勉強し、熟成されているのだろう。
バスが立ち寄り、或いは、通り過ぎていく地域や市町村について、その歴史、地理、産業、民俗、伝承などを語っていく。その内容は奇をてらい、客に媚びるものではなく、時に考古学から北方領土問題に及び、知的で、系統立って、興味深い。
トイレ休憩で、半官半民の観光施設に立ち寄ったとき、市の観光課や土地の歴史博物館などが作成して観光客向けに置いているパンフレット、リーフレットから、1、2種をピックアップしているのを見かけた。なるほど、こういう現地の資料も参考にして、たえずインプットしているのだと感心した。
今回の旅は、既に何回か北海道を訪れた人が参加する、秘境めぐり的なコースなので、私も楽しい、と言っていた。
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< 日本の源流を考える >
( オホーツクの海岸で何か収集している人 )
以下は、バスガイドさんから北海道の考古学的時代区分を聞いて、旅の後、調べなおした事柄である。
日本の古代史の本を読んでも、北海道の記述になると、つい本筋ではないと思って読み飛ばしてしまう。今回、北海道を旅して、北海道のバスガイドさんから「和人」以前の北海道の考古学時代のことを聞いて、もう一度本を読みなおした結果、北海道を含めた日本人の来歴ということについて改めて納得がいくところがあった。
(以下は、例によって、自分の覚えとして書き留めたものなので、興味のない方はシャットダウンしてください )。
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< 日本列島をおおった縄文文化 >
前回のブログで、バスガイドさんの受け売りだが、宗谷海峡は水深が浅い、と書いた。
話は今から数万年前にさかのぼる。地球上は氷河期で、海面は低下し、日本列島は北海道の宗谷海峡付近で、サハリン、そしてユーラシア大陸とつながっていた。
地続きのシベリア、サハリン(樺太)を経由して、打製石器をもつ人々が日本列島にたどり着き、住み着いた。一方、南からも、島々を伝ってやって来て住み着く人々がいた。
こうした2方向からの人類の日本列島への移動は、一度ではなく、何度も繰り返されたようだ。
もちろん、日本列島はユーラシア大陸の行き止まりで、その先は茫々とした広がりをもつ海があるだけ。流れ着いたヤシの実ではないが、アフリカを出発して何万年も旅してきたホモサピエンスが、流れ着いたユーラシア大陸の果ての日本列島で、混ざり合い、ここを終の棲家にしたのである。
氷河期を終えて、世界が暖かくなった時、世界の他の地域と同じように、日本列島も旧石器時代から新石器時代に移行した。
他の地域では、生きていくために、遊牧や農耕を始めたところもあったが、山と海の幸に恵まれ、四季の循環のあるこの列島では、狩猟・漁労・採集による豊かな生活が花開いていった。
土器を発明し、食べ物を貯蔵し、煮炊きするようになったのは、画期的なことである。縄目模様の縄文を特色とする土器の文化は、この列島の独自の文化であった。この文化は1万年も続き、その模様は進化し、炎のようになって、自己を主張しあった。女性を象った土偶も少しずつ進化し、現代の考古学者が「〇〇のビーナス」などと名付けるものが生まれた。
縄文土器の文化の範囲は、北は千島、南は沖縄に及んで、驚くべきことに現在の日本の領土の範囲と一致する。物と物とが、海峡を越えて、流通している。
司馬遼太郎の『街道をゆく オホーツク街道』は、北海道の考古学界 (在野の人たちを含む) と、北海道の考古学時代の1ページを飾った「オホーツク文化」との出会いを訪ね歩いた紀行である。
例えば、知床で、司馬遼太郎は次のように書いている。
「知床オホーツク沿岸の考古学遺跡はにぎやかで、斜里町から半島の先端にいたるまでわずか70㎞ほどの沿岸に、こんにちわかっているだけで82か所もの遺跡がある。遺跡銀座のようなものである。そのほとんどが、縄文時代早期から続縄文時代のもので、… 、縄文文化ほど、日本固有の文化はない」。
「この固有性と、オホーツク文化という外来性がいりまじっているところに、北海道、とくにそのオホーツク沿岸の魅力がある」。
< 稲作の時代へ >
1万年という縄文時代の長さと比べると、弥生時代に入ってから現代までの時間は、わずか2千数百年に過ぎない。紀元前5~9世紀ごろ、九州北部に稲作が入ってきて、瞬く間に西日本各地から関東へと広がった。
北九州から、瀬戸内海を経て、近畿に至る間、同時代の縄文のムラと弥生のムラが、たいした距離を置かず、入り混じって発掘されている。が、両者が争った形跡は一つも発見されていない。共存し、共生し、次第に稲作文化に同化していったと考えられている。
稲作が入ってきたころには、縄文土器は、既に過剰な装飾性を排して機能的になり、弥生式土器に近いものになっていた。シンプルな弥生式土器は、少し縄文的装飾を加えて、生活を豊かにしていった。
戦いは、その後、弥生のムラとムラとの間で起こるようになり、クニへと統合されていった。腕力だけではない。この時代、鉄素材は朝鮮半島南部からしか入手できなかったから、鉄を手に入れる才覚のある者が社会のリーダーになり、ムラムラも、人々も集って、クニへと統合されていったのである。
「倭国争乱」と中国の史書に書かれた時代を経て、やがてクニグニを調整するヤマト王権が生まれた。連合の証として、九州から関東の各地に、前方後円墳が造られるようになる。
一方、稲作は、東北地方になかなか根付かなかった。
以下、『オホーツク街道』を引用しつつ、北海道の長い考古学時代を要約する。
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< 北海道の考古学時代のこと >
「奧羽の地が、近畿政権が成熟してからもなおこれと対立したのは、ひとつには縄文のよい暮らしを捨てて泥田を這いまわる気になれなかったのかもしれない」。
(私なら、絶対にそうだ。農業はしんどい。工業はもっとわずらわしい。森の中で獣を追い、海で魚を獲り、木の実を探して、自然と呼吸をひとつにする生活の方が、良いに決まっている)。
「が、東北地方はやがて弥生文化でおおいつくされる」。
「が、当時の北海道は稲作の不適地だったので、弥生人はここまで侵入してこなかった。北海道には、ながく縄文人が残った」
なお、縄文的生活にこだわる東北の人々のなかには、ヤマト王権の支配をいやがって、北海道に移住した人々もいたと思われる。
北海道の考古学的時代区分は、
① 縄文時代から
② 続縄文時代 (本州では弥生時代)となる。
「続縄文文化がおわるのはいつごろかとなると、大体、6世紀から7世紀ごろだろうという。もしそうなら、『日本書紀』に出てくる7世紀半ばの阿倍比羅夫が、秋田県あるいは青森県の十三湊の浜か、もしくは北海道南部の砂浜で接触したエミシ(蝦夷)は、続縄文文化のひとびとだったことになる」。
③ 擦文 (サツモン) 時代 (併行して、オホーツク沿岸ではオホーツク文化時代)
「擦文とは、ヘラで擦 (コス) り付けたような文様のある土器のことである。この土器とそれに付随する文化の時代を、北海道考古学ではとくに「擦文時代」とよぶ。歴史は存外新しく、8世紀半ば(奈良朝時代) にはじまり、13世紀 (鎌倉初期) に終わってしまう」。
「奈良朝の影響を受け、鉄器が使われている」。
「ささやかながら、農業も行われていたらしい」。
「(擦文文化の) 担い手はだれかとなるととむずかしいが、いまのアイヌの祖でもあり、ちょっぴり本州人もまじっていたにちがいない。なぜなら、鉄器や農業がひとりで飛んでくるとは思えないからである」。
「注目すべきことは、擦文文化がさかえていたころ、オホーツク文化も併行していたことである」。
「オホーツク文化人はなにものかについては、… ひろく黒龍江下流域から樺太に住むツングース系の諸民族のどれかだ、とみた人もいる」。
「(擦文文化が) 決定的にオホーツク文化と異なるのは、東北地方の影響を受けて全き鉄器文化(鍬先、刀子(トウス)、直刀、斧など) であったことである。オホーツク文化はまだ石器をつかっていた。両者は、住み分けていたにちがいない」。
「アイヌの祖と思われる人たちは、内陸に住み、河川や山に依存していき、一方、オホーツク文化人たちは、北から流氷のやって来るオホーツク沿岸に住んでいた」。
④ アイヌ文化の時代
「擦文文化の終末は、12世紀末から13世紀 (平安末期から鎌倉初期) である。消えたあとは、いま私どもが知っているアイヌ文化が誕生する」。
「アイヌは固有に日本列島にいた民族である。かれらは縄文的な採集のくらしを、弥生時代になってからも、頑固にまもりつづけた人々の後裔であることは、まぎれもない」。
以上が、もう一つの日本の源流、北海道の考古学時代の概略である。
( フーッ。インプットした情報を簡潔に要約するという作業は、結構大変な作業なのです。)
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< 日本人のものの見方、感じ方、考え方について >
( オホーツク海と遠くに知床の山並み )
司馬遼太郎は、『オホーツク街道』のなかで、樺太から移住してきた一人の女性(アイ子さん)のエピソードを記述している。
千島・樺太交換条約の後のことだが、樺太は日露戦争の結果として、南半分が日本領になった。
日本政府は樺太庁を置き、最盛期には人口も40万人を超え、漁業、林業、製紙、パルプ工業、石炭採掘などの産業が興った。
領有40年で、太平洋戦争の敗戦の結果、ソ連の領土となった。
「日本時代、(樺太の) 原住民の数は、樺太アイヌ約2千人。ニブヒ (旧称ギリヤーク) とウイルタ (旧称オロッコ) とをあわせて、約3千人」。
「日本の敗戦のとき、かれらの多くが日本に移ることを望み、北海道のオホーツク沿岸 (北は稚内から南は網走まで) に移住した」。
「弦巻さん (中学校の社会科の先生で、ウイルタの北川アイ子さんの外護者のひとり) は、アイ子さんが自然に対していかに敬虔であるかを語ってくれた。
『あるとき、札幌までお誘いしたのです』
アイ子さんは、民族の故郷である樺太南部でうまれ、成人した。そのころ日本の敗戦をむかえ、日本人の引き揚げを手伝いつつ、結局は彼女も両親や兄たちとともに海をわたって網走に来、ここが終の棲家 (スミカ) になつた。
都市にはあこがれない。しかし弦巻さんにすればせっかく北海道に住んでいるのにとおもい、あるとき車にのせた。
(略)
『大変でした』と、弦巻さんはいう。走っていて、あたらしい山に出くわすと、アイ子さんは弦巻さんに車をとめさせる。彼女はゆっくり下車し、あたらしい山のために菓子をそなえる。
むろん、川にも敬意を表する。あたらしい川にさしかかると、彼女は降りて拝礼し、供物をそなえる」。
そして、司馬遼太郎は言う。
「私は、中国をのぞいて極東の古代信仰はほぼ一つだとおもっている。縄文人がそのようにしたかどうかは証しにくいにせよ、弥生人にとっては、天も地も神だった。
ずっと降って、江戸期の船乗りは、あたらしい岬がみえると、帆を下げて拝礼した。岬は、神だった。農民にとって里山も神だったし、山住まいのひとびとにとっては、神のふところのなかで生きていると思っていた。
旅人にとっては、峠も、神であった。トウゲということばはタムケ(手向け)からきている。タムケとは、アイ子さんのように手を合わせて神仏に供え物をすることなのである」。
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< 縄文時代のなごりは今に残る >
〇 北海道博物館のホームページ「AKA RENGA」から ── 縄文文化の人々の祈りとこころ ──
「今も私たちは、森の大木や山々、海、自然の現象などにいろいろな「カミさま」がいて、恵みを与えてくれたり、悪さをしたりすると考える「文化」をもっています。一人だけ偉大な神がいるのではなく、たくさんの「カミさま」がいます」。
「このような考え方は……縄文文化からすでに存在し、現在まで受け継がれてきた自然と人間のかかわりの思想に他なりません」。
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〇 戸矢学『縄文の神』から
「縄文時代の縄は、何で作られた縄であったのか。農耕文化が主体となる以前のことであるので、少なくとも稲わらでも麦わらでもない」。「その素材は縄文人の暮らしにとって大いに役立つものであり、きわめて重要なものであった」。
「その名残が、現在なお神社・神道に引き継がれている。神社の注連縄 (シメナワ) や鈴縄などは、すべて縄文土器の文様を刻んだ縄と同じ素材の縄である。縄文土器は3000年ほど前に作られなくなったが、その縄は縄文人に用いられ続け、今なお神社・神道において用いられている」。
「それは『麻縄』である。麻縄でなわれた縄である。
実は、神社の鈴縄や茅(チ)の輪は麻で作られている。そして何よりも、注連縄は麻わらで作られるのが本来である。近年では麻が貴重で高価であるため、稲わらや麦わらで作られることが少なくないが、上等なものは麻縄、麻糸で作られている。しかも、枯れたものではなく、若く青い新しい茎を用いる。だから、作られたばかりの注連縄や茅の輪は薄い緑色をしており、青草の香りが匂い立つ」。
「麻は、すでに縄文時代の遺跡から発掘されており、1万数千年以前からわが国に根付いている。縄文土器の文様に使われていた縄は、麻縄である。そして縄文人の衣服も麻織物・麻布であった」。
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〇 司馬遼太郎『この国のかたち五』から
「この島々にいた古代人たちは、地面に顔を出した岩の露頭ひとつにも底つ磐根 (イワネ) の大きさをおもい、奇異を感じた。
畏れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした。それが、神道だった。
むろん、社殿は必要としない。社殿は、はるかな後世、仏教が伝わってくると、それを見習ってできた風である。
三輪の神は、山である。大和盆地の奥にある円錐形の丘陵そのものが、古代以来、神でありつづけている」。
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〇 司馬遼太郎『この国のかたち五』から
「『葦原の瑞穂 (ミズホ) の国は神 (カン) ながら 言挙 (コトア) げせぬ国』
という歌がある (万葉集巻13)。他にも類似の歌があることからみて、言挙げせぬとは慣用句として当時ふつうに存在したのにちがいない。
神ながらということばは、"神の本性のままに" という意味である。言挙げとは、いうまでもなく論ずること。
神々は論じない。アイヌの信仰がそうであるように、山も川も滝も海もそれぞれ神である以上は、山は山の、川は川の本性として ── 神ながらに ── 生きているだけのことである。くりかえすが、川や山が、仏教や儒教のように、論をなすことはない。
例としてあげるまでもないが、日本でもっとも古い神社の一つである大和の三輪山は、すでにふれたように、山そのものが神体になっている。山が信徒にむかって法を説くはずもなく、論をなすはずもない。三輪山はただ一瞬一瞬の嵐気をもって、感ずる人にだけ隠喩 (メタフア) をもって示す」。
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大神神社のご神体は三輪山であり、熊野三山のご神体は熊野川、神倉山(ゴトビキ岩)、那智の滝である。上賀茂神社は神山、下賀茂神社は糺の森、出雲大社は八雲山。
古くからある神社はみな、山、川、岩、森、巨木などに聖なるものを感じて畏れた縄文人の信仰から始まり、弥生人の神として受け継がれているのである。
日本の各地に、春になれば山に神を迎えに行き、秋の収穫が終われば里から山へ神を送るという祭りが残っている。これは、縄文の神から弥生の神へという時間の流れを、1年に集約した行事であろう。
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紀行が足踏みしてしまった。
次回は、この旅のおわり、襟裳岬を訪れます。