ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

歴史の中の幻影 … トルコ紀行(1)

2018年06月19日 | 西欧旅行…トルコ紀行

 多くの興隆と、多くの滅亡があった、遥かなる人間の歴史。

 その中でも、3つの都(或いは国)の陥落・滅亡の姿が、鮮烈なイメージとして、私の想念のなかに形成されている。それは叙事詩であり、貫くのは悲壮美。

 その一つ目はトロイ城の陥落。

 二つ目は百済国の滅亡。

 そして、コンスタンチノープルの陥落、である。

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トロイのヘレンの話 … ホメロスの叙事詩「イーリアス」 >

 「トロイのヘレン」の話は、中学3年の時、英語の先生から聴いた。貫禄十分、ふだんの授業ではニコリともしない怖い先生だった。教科書が最後まで終わったということで、学年の終わりの授業時間を4時間分くらい割いたであろうか?

 気の遠くなるような遠い時代の、美女や英雄が活躍するエキゾチックな話に、クラスの秀才も腕白少年も胸をときめかせて聴いたのである。

 ギリシャの神々のこと。3女神の争い。絶世の美女ヘレンとトロイの王子パリスの恋。勇者アキレスとヘクトールの一騎打ち。息子をなくした父王の嘆きとアキレスの情など、そのエピソードの一つ一つに熱中し、10年もの長い攻城戦の後、最後は(極めて卑怯な手である)木馬に兵を忍ばせるという詭計によって、あっけなくトロイ城が陥落したとき、私たちは深い落胆のため息をついたものである。

 生徒たちの反応にすっかり機嫌を良くしたのか、先生はトロイ戦争の後日譚の「オデッセウス」の話まで、語ってくれた。

 それから2年後、高校2年の時、『トロイのヘレン』という映画がきた。進学した高校はばらばらだったが、おそらくクラスの多くがそれぞれに同じ映画館に行ったのはまちがいない。

 ヘレンには何千人の中から抜擢されたというロッサナ・ポデスタという女優が扮していた。確かに美女だと思ったが、物足りなかった。女神アフロディテ或いはヴィーナスの化身のような美女は、もっと美しいはずだと思った。

 映像化されたものよりも先生の話の方が、登場人物たちの輪郭も鮮明で、もっと生き生きと躍動していた。言葉による想像力とは不思議なものである。 

 英語の授業はまったく覚えていないのに、この先生の「トロイのヘレン」の話は鮮明に覚えている。そして、中学生にそのような教養を与えてくれた先生に、今も畏敬の念を抱いている。

 教育とは、不思議なものである。

             ( トロイの遺跡とエーゲ海 )

※ トロイ城を攻めるためにおびただしい数のギリシャの軍船が浮かんだ古代の海は、もっと城跡に近かったという。

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古代日本史上最大の危機 ── 百済の滅亡と白村江の大敗 >

 日本を揺るがしたこの歴史的事件については、当ブログ『玄界灘の旅』の中の第6「水城に見る古代日本と現代の東アジア情勢」の中に、「古代日本史上最大の危機…百済滅亡と白村江の大敗」と題して書いた。 

 西暦660年、膨張する唐は新羅の要請に応じる形で、水陸13万の兵を出し、百済攻撃に乗り出した。

 「百済の防衛軍は、唐・新羅連合軍のためにほとんど一撃でくずれた」(引用は司馬遼太郎『韓の国紀行』)。

   百済の義慈王は唐の捕虜になり、唐土へ連れ去られる。

 唐の主力が高句麗に向かうと、百済の遺民たちは百済国再興のために兵をあげ、日本に援軍を乞うた。百済と同盟関係にあった日本には、義慈王の王子豊璋がいた。彼らは豊璋の新王としての帰還も乞うた。

 大化の政変からまだ15年。新羅が唐に接近していたことは聞いていたが、事態は急転したのだ。多年、交流を深め、揚子江流域の南朝仏教文化をわが国に伝えてくれた (→飛鳥文化)百済が、焦土と化したのである。そして… 次はわが国かもしれない。

 662年、まず新百済王・豊璋に5千余の兵を付けて送り返し、翌年には、老いた女帝・斉明天皇が自ら筑紫に出向くという軍事行動に乗り出して、2万7千余の兵を新たに半島に送り出した。当時の日本の人口を考えれば、国を挙げての大動員であった。

 百済独立軍と日本軍の戦いは、唐軍が高句麗を攻めていた間隙を衝いて、大いにふるった。

 だが、百済独立軍に内紛が起こり、士気は一気に衰える。

 独立軍の内紛を知らず、半島の南部で新羅軍と戦っていた日本軍1万が、百済軍の立て籠もる周留城救援のため、船で白江に向かった。一方、唐・新羅軍も周留城を包囲し、唐の水軍は白江に集結した。

 日本軍が白江に着いたとき、唐の水軍は待ち構えていた。海戦は、日本軍が到着した日と翌日の2日間戦われた。

 唐の巨大な軍船に対して、日本の船は歩兵や武器の輸送用に動員した小型船で、しかも、水軍としての戦い方を知らなかった。

 唐側の記録にいわく、「四たび戦って勝ち、その (日本軍の) 舟四百艘を焼く。煙と炎、天にみなぎり、海水赤し」。

  『日本書紀』 にいわく、「ときの間に官軍敗積し、水に赴きて溺死する者多し。艪舳(ヘトモ) めぐらすを得ず」。

 陸上においても、百済独立軍が立て籠もる周留城は落ち、戦いは日本軍・百済独立軍の惨敗に終わった。

 白村江の戦場をかろうじて離脱できた日本水軍は、半島の南部に退いて、各地を転戦中の日本軍を集め、亡命を希望する百済人を乗せられるだけ乗せて、日本に帰還した。

 さらに、当時の天智政権は国をあげて、かれら亡国の士民を受け入れるべく国土を解放した。

 「百済の亡国のあと、おそらく万をもって数える百済人たちが日本に移ってきたであろう」。

 百済人ばかりではない。やがて大唐の攻撃を受けるようになった新羅からも亡命者はくるようになった。

 優れた仏教文化国家であった百済の炎上と亡国のイメージは、トロイの落城や、コンスタンチノーブルの陥落などと並んで、胸に迫るものがある。白村江における日本軍の壊滅的敗北もまた、日本古代史の悲劇的な1ページであった。

    ( 広大な大宰府庁舎の跡 )

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最後の熟柿が落ちるような西ローマ帝国の滅亡 >

 西洋の歴史を古代、中世、近世 … と分けるなら、古代の終わりは、ふつう、便宜上と断りながらも476年の西ローマ帝国の滅亡をもってし、中世の終わりは、オスマン帝国に包囲された東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都コンスタンティノープルが陥落した1453年とする。

 476年の西ローマ帝国の滅亡は、一つだけ残った熟柿がぽとんと地に落ちるような終わり方だった。そこに悲壮美はない。

 前年、皇帝位に就いた若きロムルス・アウグストゥルスだが、既に西ローマ帝国皇帝としての力は何もなかった。まもなく東ゴード族の傭兵隊長のクーデターによって退位させられる。父の先帝は殺されたが、彼は命を奪われることはなく、家族とともにカンパーニャに送られ、恩給を支給されて余生を送った。クーデターを起こしたオドアケルは、東ローマ帝国皇帝に西ローマ帝国皇帝位を返上し、イタリア半島を統治する許可を得る。以後、西ローマ帝国皇帝は復活されることはなかったから、歴史の上では、「476年、西ローマ帝国滅亡」となった。 

 なお、東ローマ帝国皇帝は、その後、東ゴード族の族長・テオドリックにオドアケル征討を命じ、征討に成功したテオドリックがイタリア半島に東ゴード王国をつくった。このテオドリック王も、元皇帝のロムルス・アウグストゥルスに恩給を支給し続けたという。元皇帝には娘がおり、その血筋はその後もずっとたどることができるそうだ。動乱の時代に、平和で幸せな生涯だったと言えるのかもしれない。

 もっとも、ローマの皇帝は、中国の皇帝や、ロシアのツァーリや、オスマン帝国のスルタンと違って、もともと血筋で受け継ぐことを原則としていない。基本は市民と元老院の支持によって皇帝となる。ローマ帝国の末期には、皇帝はいつも異民族との戦いの前線にいる軍人皇帝だったから、兵士たちの支持によって新皇帝は決まった。

 東ゴード王国は、後に東ローマ帝国皇帝・ユスティニアヌスによって滅ぼされた。アヤ・ソフィアを造らせた大帝である。

 ユスティニアヌスの時代に、東ローマ帝国は大きく領土を回復したが、それも一時的で、やがて西ヨーロッパはフランク族のつくったフランク王国の下にゆるやかな再統一をし、その後は分裂して互いに戦争ばかりしながらも、東ローマ(ビザンチン)帝国とは別の中世ヨーロッパを形成していく。

  ( 古代ローマの中心・フォロロマーナ )

  

 

 

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