(旧秀隣寺庭園)
白洲正子『私の古寺巡礼』から
「それは本堂に向かって左手の片隅にあったが、雑草に埋もれて、わずかに石組らしいものが見えるだけで、ほとんど庭とは呼べないほど荒廃していた」。
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<朽木氏の菩提寺・興聖寺(コウショウジ)を訪ねる>
琵琶湖岸に立つと広々と開けて風景が明るいが、湖西の西は比良山系が屏風のように連なって、視界を遮っている。今回は、その山並みの西に隠れている「信長の朽木越え」の道を車で走ってみたかった。
ただ、とことこ走るだけで良かったのだが、1か所だけ寄り道した。
朽木の村の岩瀬という所にある興聖寺(コウショウジ)という寺である。その境内に「旧秀隣寺庭園」があり、国の名勝に指定されている。
観光客の訪れない山間の寺だが、司馬遼太郎も白洲正子も立ち寄っている。『街道をゆく』や『私の古寺巡礼』を愛読する者として、ここまでやって来て立ち寄らぬわけにはいかない。
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(「高聖禅寺」の石碑)
高く木立のそびえる空き地に車を置き、寺の境内に入った。
苔が蒸し、古い石垣が残っている。この石垣も穴太衆の手によるものだろうか。人の気配はない。本当に観光客など来ない寺なのだ。
庫裡で2、3度声を掛けると、中年の女性が出てこられた。
(高聖寺本堂)
その方が本堂の扉を開け、中に招じ入れてくれた。
本尊の釈迦如来(藤原時代の重文)を拝観させていただく。そして、仏像のこと、寺の歴史のこと、朽木氏のあれこれについて、ざっと説明をいただいた。
かつて流離の足利将軍を慰めたという庭園は、今は水を抜いて修理中とのこと。あとは自由にご見学くださいと言われて、巨木の陰の濃い境内の中をそぞろ歩いた。
司馬遼太郎は『街道をゆく1』の中で高聖寺について、「かつての朽木氏の檀那寺で、むかしは近江における曹洞禅の巨刹としてさかえたらしいが、いまは本堂と庫裡といったものがおもな建造物であるにすぎない」と書いている。
その一文が、さっきいただいた案内のしおりに、そのまま引用されていた。
(高聖寺境内)
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<不遇の足利将軍を迎えた朽木氏>
時の朽木氏の当主は稙綱(タネツナ)という人だった。信長の朽木越え(1570年)を援けた元綱の祖父に当たる。元綱の父は早く他界したから、ほとんど稙綱からまだ幼かった元綱へ引き継がれた。
1528年、12代将軍足利義晴は三好の乱をさけて朽木谷へ逃れた。
義晴も、京都から大原を経て、今日たどった朽木越えの道をやって来たのだろうか??
朽木稙綱(タネツナ)は将軍を迎え、書院の前に庭を造って、流離の将軍を慰めた。将軍は足掛け3年をここで過ごした。その間に、稙綱は、将軍義晴にとって最も信頼のおける御供衆となった。将軍義晴が京に戻ってからも、稙綱は御供衆として仕え、また、何か事があれば朽木から兵をつれて駆け付けた。
将軍義晴の嫡子・義輝が将軍職を継ぐと(1546年)、義輝の御側衆としても仕えた。
大河ドラマ『麒麟がくる』の中では、向井理が13代将軍足利義輝を演じた。明智光秀を主人公にしたドラマだから、将軍義輝はちょい役だった。しかし、将軍職に生まれても当時の将軍に力はなく、向井理が自らの無力に孤高に耐える貴公子の姿を演じて心に残った。
将軍義輝もまた三好長慶との争いに敗れて、細川藤孝らを供に、朽木稙綱の孫・元綱を頼って朽木谷に逃れた。そして、ここで5年の歳月を過ごす。その後、京の政界に戻ったが、突如、松永久秀や三好三人衆の兵1万に襲撃されて殺害された(1565年)。将軍義輝は剣客だったというが、少数の供回りの侍たちでは抗すべくもなかった。
そのあと、1568年に織田信長が足利義昭を奉じて上洛する。義昭は、最後の足利将軍となった。
朽木元綱が信長を援けたのも、将軍義昭を奉じていたからで、その後、信長が義昭を追放すると、元綱も朽木に引っ込んだようだ。
朽木稙綱(タネツナ)から4世代目の当主は、かつて将軍をかくまった館を秀隣寺という寺に変えた。将軍の庭は寺の庭としてそのまま残される。
江戸時代、秀隣寺は同じ朽木村の野尻という地に移転し、また歳月を経て、朽木で最も由緒ある高聖寺が大火に遭い、この地に移転してきた。
(旧秀隣寺庭園)
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<足利将軍を慰めた庭園のこと>
司馬遼太郎が訪れた時も、白洲正子が最初に訪れた時も、その庭は荒廃して、長く風雪に放置されたままだったようだ。
「私が最初にこの石組みをみたとき、村の子供10人ばかりが石のかげにかくれたり、石の上へのぼったりして、いい遊び場所になっていた。山から降りてきた村のひとに、『これは庭でしょう』ときくと、『ハイ、ハイ』と、答えてくれて、くぼう様のお庭です、と教えてくれた。荒れて子供の遊び場になっているのがなんともうれしく、室町末期の将軍の荒涼たる生涯をしのぶのにこれほどふさわしい光景はないだろうとおもった」(司馬遼太郎『街道をゆく1』)。…… (さすがに、名文ですね👏)。
白洲正子は越前や近江の旅の途中に何度かここに立ち寄ったが、そのたびにこの庭が少しずつ修復され、ついに水をたたえた室町庭園に復元されたと書いている。国や県や市の努力に拠ったのであろう。
だが、今回、私が行ったときは水が抜かれて、復元前のように石組みだけになっていた。その方が良かったかもしれない。
「いつ行ってみても観光客などいたためしはなく、室町時代の文化を偲ぶには絶好の場所であるが、鳥の声のほか物音一つしない山間の侘び住居は、将軍にとっては寂しい日々であったろう」(『私の古寺巡礼』)。
寺は段丘上の高台にあり、庭の端に立つと北近江の山あいの景色が広がっていた。今は秋の終わりだが、春になり、草木が萌え出す頃は美しいに違いない。山の麓の林は桜並木だろうか。そのすぐ向こう側を安曇川が流れ、流れに沿って桜が植えられているのだろう。
(安曇川に向けて開ける)
白洲正子も同じことを書いていた。
「木立を通して比良山の山並みが見渡され、田圃の向こうに安曇川が流れている風景が、いかにもゆったりと気持ちよかった」(『私の古寺巡礼』)
さらに、…… 専門家はこの時代に「借景」という造園の技法はなかったと言っているが、と続け、「 はたして日本人が庭を造る場合に、完全に周囲の自然から離脱しえたであろうか。前方にそびえる比良山は、古代から信仰された神山であり、それを取りまいて流れる安曇川は、おのずから神奈備(カンナビ)川の様相を呈している。西洋の幾何学的な庭園とはちがって、はじめから自然に似せて構成された日本の庭が、周囲の山水、それも長い歴史と伝統に彩られた風景を、まったく無視することが可能であったかどうか」。
「木立に囲まれた庭園の、安曇川に面した側だけが開けて、比良山を望めるように造形されているのは、…… これ見よがしに借景風に造った庭園よりも、かえって深い趣があるように思われる」と書いている。
鳥のさえずりとかすかな風のそよぎ以外に何の物音もしない静かなひと時を過ごして、車に戻った。
(つづく)