(レーゲンスブルグ大聖堂の白い雲)
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<旅の不安>
5月23日の朝、ルフトハンザ航空で関空を出発。フランクフルト空港で乗り継ぎ、ニュールンベルグへ。
ニュールンベルグ空港から、タクシーでDB(ドイツ鉄道)のニュールンベルグ駅へ行く。
ニュールンベルグは、「ロマンチック街道と南ドイツの旅」(2009年)で少しだけ観光し、ブログにも書いた。
駅の券売機で切符を買い、RE(日本で言えば鈍行の次の快速)に1時間半ほど揺られて、レーゲンスブルグ駅に到着。タクシーでワンメーターの小さな宿「ミュンヒナー・ホーフ」にチェックインした。
現地時間で夕方の7時半。日本ではもう深夜の午前2時半だ。家にいたらゆっくり寝ている時間なのになあ、とも思う。
「旅に出ることは日常の習慣的な、従って安定した関係を脱することであり、そのために生ずる不安から漂泊の感情が湧いてくるのである」(三木清「旅について」から)
関空で、パスポートを提示してチェックインした時から、ずっとそれなりに緊張が続いている。旅の間、初日ほどではないにしても、この緊張は続く。なにしろ、異国の旅なのだから。
小さな部屋に荷物を置いて、黄昏の旧市街に出てみた。
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<日落ちて暮るるに未だ遠し>
今夜のホテルはレーゲンスブルグ大聖堂の傍らにある。大聖堂は旧市街の北部に位置し、街の北端をドナウ川が流れている。
5月のドイツの空は、午後8時というのにまだ明るい。太陽は地平に沈んだが、街には残光の明るさが残って、建物の間から見える空は未だ美しい青。
大聖堂のゴシック様式のファーサイドは周りの建物よりも遥かに高く聳え、ごつごつと装飾された石の壁面が残光によって赤みを帯びていた(冒頭の写真)。
欧米の観光客は宵っ張りの朝寝坊だ。彼らにとって、この時間帯はまだまだ宵の口。大聖堂前の広場に面するレストランのテラス席は、観光客で賑わっていた。
(大聖堂の前のレストランのテラス席)
広場越しに大聖堂を見上げる位置の席に座り、簡単な料理を注文して、グラスワインを飲んだ。
営々と石を積み上げて築かれた2つの塔をもつ古い大聖堂と、暮れなずむ青空と白い雲を眺めながら、ワインを飲む。観光客向けの料理が少々不味かろうと、テーブルが多少ガタガタしようと、この席は一等席だ。
南ドイツの建物はパステルカラーでカラフル。お隣の国・フランスの街並みがグレーであるのとは対照的だ。どちらが良いかは別の話。
石畳の広場に、カッコいいスポーツカーが、ブルルン、ビューンという感じて入ってきて、止まった。つるつる頭のいかつそうなおじさんが運転している。もしかしたら、春の宵を楽しむ観光客たちにカッコよさをちょっと見せびらかしたくなったのだろうか。黄昏時は、人恋しくなるものだ。
ここは制限時速20キロですぞ。
建物の間に広がる空の美しい青が紺青に変わり、さらに濃紺になった。地上には夕闇が漂い、目には街灯が明るさを増したように見える。
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<皇帝マルクス・アウレリウスの「レーゲン川沿いの要塞」>
レーゲンスブルグは、ドイツのバイエルン州に属する。人口は約15万人。127万人の州都ミュンヘンや50万人のニュールンベルグと比べると、こじんまりした町だ。
中世の時代のレーゲンスブルグは、アルプス山麓で採取される貴重な岩塩をはじめとする商品流通の中継地として、ドナウ川の水運で発展した。
13世紀には帝国自由都市となる。
商工業都市としてミュンヘンやニュールンベルグに圧倒されるようになった16世紀以降も、帝国議会の開催都市として歴史に名を残した。
町の起源を遡れば、AD70年頃、ローマ帝国皇帝ヴェスパシアヌスの時代に、この地に160m×140mのローマ軍の宿営地が建設された。
それから100年ほどの後、ドナウ川を越えて侵攻してきたゲルマンの一族マルコマンニ族に襲撃され、宿営地は壊滅する。この頃、ゲルマンの諸族が頻々とドナウ川を越えて襲ってくるようになった。
時の皇帝は、マルクス・アウレリウス (在位161~180)。ローマ史上では、「5賢帝の時代」と言われる皇帝の最後の皇帝。陣中でも、夜、灯の下で書き続けたと言われる「自省録」の著者として知られ、「哲人皇帝」と呼ばれた。
マルコマンニ族の襲来に対して、持病をおし、皇帝の責務として自ら出陣。ドナウ川沿いに配置されていたローマの各軍団の守備と連携を強化し、南下するゲルマン諸族と戦った。
その一環として、レーゲン川が北から流れ込むドナウ川の南岸に、第3軍団の本部となる宿営地を築かせた。基地の大きさは540m×450m。6千人の軍団兵を収容でき、「Castra Regina(カストラ・レジーナ)」即ち「レーゲン川沿いの要塞」と呼ばれた。これがレーゲンブルグ市の名の起源となった。
マルクス・アウレリウス帝は、ゲルマン諸族の勢いを抑え込んで戦いに終止符を打つことができないまま、ドナウ川のさらに下流のウィーンの陣営で、持病が悪化して病没する。
塩野七海の『ローマ人の物語』は、マルクス・アウレリウスの時代を、「5賢帝の時代」の章の終わりではなく、「終わりの始まり」という章の冒頭に置いている。ゲルマン諸族や、その後方にいたスラブ民族の南下は、歳月とともにとどめようもなくなり、300年ほど後の476年に西ローマ帝国は滅びる。
6世紀にはバイエルン族がこの地に侵攻、支配し、ローマの要塞の跡に宮殿を建設した。
8世紀には、バイエルン公国を吞み込むように、フランク族がフランク王国を広げた。
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<暮れなずむドナウの流れ>
大聖堂から100mも北へ歩けば、ドナウ川に架かる古い「石橋」がある。
レーゲンスブルグはドナウ川の右岸(南岸)に建設されたローマ軍団の宿営地として出発した。ドナウ川よりも北(左岸)は、ローマの防衛線の外になる。もっとも、日頃、ローマ軍は、そのあたりに住む住民とも慣れ親しんでいた。マルコマンニ族はもっと奥地に居住していた。
中世の時代に架けられた「シュタイネルネ・ブリュッケ(石橋)」は、ドイツで最古と言われる橋。
橋の手前には、中世都市レーゲンスブルグ(旧市街)の北の境界を示す城門と塔が建っている。
(橋の上から見た城門と塔)
橋上に立ち、遥かに上流・西の方角を眺める。日が沈み、濃紺の美しい空はピンク色に染められていた。
(ドナウ川上流を眺める)
赤い屋根、白い壁の家が見える。明日の夜、予約している「ゾラート・インゼル・ホテル」。ここはドナウ川の中の島。
「ゾラート・インゼル・ホテル」は人気ホテルではないが、ネットで調べて予約した。ホテルの部屋のテラスから、居ながらにしてライトアップされたレーゲンスブルグの夜景が眺められる。ネットに写真が載っている。これは、すごい。もちろん、石橋を渡ればすぐに旧市街で、街の見学にも便利だ。
こうして自分の旅の目的にかなう宿をネットで探して泊まるところが、個人旅行の楽しさでもある。
(ブリュッケン・メンヒェン=橋の小人像)
橋の欄干に石の小人の像が立っていた。ブリュッケン・メンヒェン。手をかざして眺めているのは大聖堂の方角だ。
(レーゲンスブルグの街と大聖堂)
旧市街の方を眺めると、ライトアップされた大聖堂が、レーゲンスブルグの街を圧するように、一段と大きく輝いてる。
橋の城門の塔の左手の白い建物は、中世、この町に富を呼び込んだ塩の倉庫。
石橋も含めて、旧市街全体が世界遺産。
9時をかなり過ぎて、大聖堂のそばの小さなホテルへ戻り、明日の観光の用意をした。