ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

ドナウ川越しに眺めるレーゲンスブルグの町 … ドナウ川の旅3

2022年11月10日 | 西欧紀行…ドナウ川の旅

  さぼり癖が付いて、うかうかと日々を過ごしてしまいました。ブログを再開します。しかし、パソコンやスマホに向かい続けるとどうも眼精疲労気味。ぼちぼちと進みますのでよろしく願いします

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 旅行社のツアー参加ではなく、いつか自分の足でドイツを旅してみたい、そう思いつつ拾い読みしていた『地球の歩き方 ドイツ』。その時、写真とともに、この一文を見つけた。

 「ドナウ川をはさんで眺める町の景色は息をのむばかり

 ここへ行ってみたい。

 これが、レーゲンスブルグという町との出会いだった。

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<十字軍も渡った石橋>

   今日は5月24日。お天気は快晴。

 レーゲンスブルグに2泊して、この町で丸一日を過ごした。

 ホテルは代えた。1泊目は旧市街の大聖堂の横の小さなホテル。2泊目は大聖堂の眺めの良いドナウ川の中の島のホテル。どちらにも泊まってみたかった。

 ただし、同じ町でホテルを代えるのは面倒だから、こういうことは普通はしない。

 朝一番にホテルを移動。「ホテル・ミュンヒナー・ホーフ」をチェック・アウトし、キャリーバッグを引いてシュタイネルネ・ブリュッケ(石橋)を渡り、「ゾラート・インゼル・ホテル」へ行く。

 レセプションで、今夜宿泊を予約をしている旨を告げて、荷物を預かってもらった。チェックインはまだできない。

 身軽になって、今日の観光を始める。

 もう一度、シュタイネルネ・ブリュッケ(石橋)を渡る。橋の下の川岸にはランニングする人や自転車の人。欧米人は健康志向だ。

  (石 橋)

 橋脚は堅固で、その上、橋脚を支える土台部分が楕円形で水流を二分している。日本の新幹線のような流線形だ。1135年に工事が始まり46年に完成した。ヨーロッパ中世の橋梁建築として、白眉のものとか。日本で言えば平安時代の終わり頃だから、立派なものだ。

 昨年参加したフランス周遊ツアーの折、ローヌ川のアヴィニョンの橋を見学した。同じ12世紀に架けられたが、16世紀に崩壊し、今は残った部分が観光名所になっていた。

 この石橋を、第3次十字軍も聖地エルサレムに向けて渡ったそうだ。第3次十字軍(1189~92年)は、赤髭バルバロッサ(皇帝フリードリッヒ1世)を総司令官として出発した。だが、彼は旅の途中で事故死。仏王フィリップ2世は初戦の戦いに勝利したあと口実をつくってさっさと帰国してしまい、結局、英王リチャード1世が一人、リーダーとして戦うこととなった。「獅子心王リチャード」の「獅子」は、敵であるイスラムのサラディン軍の将兵が彼のあまりの強さにそう呼んだらしい (塩野七海『十字軍物語』)。

 日本では橋は木の橋だ。同じ12世紀、満月の夜、五条の大橋の上で、女装の牛若丸が舞うように、ひらりひらりと大男の弁慶と渡り合った。これはこれで美しい。

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<遊覧船でドナウ川をゆく>

 この旅の目的の第一はドナウ川を見ること。

 事前の勉強で、レーゲンスブルグにはヴァルハラ神殿まで往復するドナウ川遊覧船があることを知った。ヴァルハラ神殿には興味がないが、船に乗ってドナウ川をゆくのはこの旅の目的に合致する。ローマ兵も船に乗って、文明の果てる地、このドナウ川をパトロールしたのだ。

 ヴァルハラ神殿は、19世紀にバイエルン王国のルートヴィヒ1世がアテネのパルテノン神殿を模して建造した。レーゲンスブルグの街から10キロほど下流の丘の上にある。大理石の巨大な神殿には、古代から近世に到るゲルマン系(ドイツ人)の英雄や著名人を顕彰する像や石板が並べられているそうだ。

 ルートヴィヒ1世の孫は、あのノイシュヴァンシュタイン城を築いたルートヴィヒ2世。ドイツの森の丘にヨーロッパ中世のメルフェンチックなお城を築くのは理解できなくもないが、ドナウ川に古代アテネのパルテノン神殿の大模造品を建造するというのはちょっと趣味が悪い。

 とにかく、そこまでの10キロほどの間、遊覧船からドナウ川を味わいたい。

 石橋を渡り、ドナウの川岸を、遊覧船の発着場を探して少し歩いた。

 (ドナウ川遊覧船に乗る)

 季節は春。快晴。日差しは暖かく、風は春の妖精のよう。遊覧船の展望席で白ワインを注文して飲んだ。

 日本のレストランで出されるような、大きなワイングラスの底にごく少量、もったいぶって注がれた白ワインではない。やや小さめのグラスとは言え、ほぼ9分程度、なみなみと満たされた地元産のワインだ。値段は500円くらい。それならコーヒーよりワインとなる。

 心楽しい。

 (ドナウ川をゆく)

 レーゲンスブルグの街並みを出れば、あとは茫々とした自然の中。何もない。

 ヴァルハラ神殿の船着き場で20人ばかりの観光客らと下船する。欧米系の中・中高年の人ばかりだ。

 河岸からいきなり大理石の大階段を上がる。映画『ベン・ハー』の凱旋式で、主人公が皇帝謁見のために上がったような大階段。1段1段がゲルマン人の歩幅なのか高く、斜度があり、手すりもなく、高くなるにつれて高度恐怖症になった。

 500段の階段を上がった神殿からの眺望は、何もない広がりだった。しばし陶然となる。

 (ヴァルハラ神殿から眺めるドナウ川)

 山ばかりの日本と違って、豊かな広がりのある国なのだ。

 これがドナウ川。オーストリア、ハンガリー、セルビア、ルーマニアなどの国々や国境を流れて、黒海までゆく。ドイツ南西部の黒い森(シュヴァルツヴァルト)に端を発して、ドナウの旅はまだ始まったばかりである。

  司馬遼太郎が言うように、「人間」を探究しようと思えば書斎だけの思索ではどうにもならない。山川草木のなかに分け入り、そこに立ってみる。そこがたとえ廃墟であったり、或いは、一塊の土くれしかなくても、「その場所にしかない天があり、風のにおいがある」。そこに立って初めて、歴史と文明とそこで生きた人間の生を感じることができる。

 下りは大階段を下りず、山の中の小道をたどって船着き場へ向かった。ハイキングしながら船着き場へ下ることができると何かに書いてあった。遊覧船の乗客の中の数人のマダム、ムッシュと道連れになった。人種、民族は異なれど、同じような発想をする人はいるものだ。

 森の中の分かれ道に道標はなく、前後して歩いていた皆も立ち止まって一つになり、互いに顔を見合わせる。一人のマダムが「こっち」と決断し、私もそう思い、皆も付いていった。樹木の蔭をたどる小道は意外に時間がかかり、視界は開けず、こんな異国のハイキングコースに入り込んだことを少し後悔し、船の出発時間に間に合うか心配になった。

 そのうち突然、下り道が平坦になり、樹木の陰にドナウ川と船着き場と停泊する遊覧船が見えた。

 互いに顔を見合わせて笑い合った。

 言葉は通じ合わなくても、互いの不安がわかり、仲間がいるから何とかなると感じ、つまりは、しばらくの間、同志だった。ローマも、ゲルマンも、ユーラシア大陸の果てのジャパニーズもない。

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<ドン・ファンのこと>

 感じのよさそうなレストランに入って、昼食をとった。美味しい。

 (旧市庁舎=帝国議会の通り)

 レストランのある通りの先に旧市庁舎があり、その2階は、かつて神聖ローマ帝国の帝国議会が開催された場所だ。

 見学時間が決められたガイドツアーしかないので、入らなかった。英語とドイツ語で微に入り細を穿つ説明を聞いてもわからないし、写真で大体は想像できた。帝国議会会議場といっても、意外に素朴で、ローカルなものだ。

 帝国議会は8世紀、フランク王国のカール大帝のもとで始まり、その後、レーゲンスブルグはよく会場となった。

 12世紀にはあのフリードリッヒ1世(バルバロッサ)もやってきて議会を運営している。ちなみに、レーゲンスブルグは13世紀に帝国自由都市になった。

 1663年から1806年には、レーゲンスブルグに神聖ローマ帝国議会が常設された。ただし、常設といっても諸侯の出席はなく、代理の外交官による使節会議だった。 

 その1世紀ほど前の16世紀。ハプスブルク家が最も栄えた頃の話。

 皇帝カール5世 (スペインではカルロス1世) が帝国議会に出席した折、このレストランのすぐ近くの「黄金十字の宿」に滞在し、この地の娘との間に男子が生まれた。

 男子は大切に育てられ、後、フェリペ2世の庶弟として、オーストリア公ドン・ファンと呼ばれるようになる。

 ドン・ファンというと、プレイボーイとか女たらしの代名詞のように使われるが、本者はそうではない。

 1571年、ギリシャのレパント沖で大海戦があった。膨張するオスマン帝国の大艦隊とスペイン・ヴェネツィア連合艦隊とが激突し、初めてオスマン帝国が敗北した戦いである。このとき、スペイン・ヴェネツィア連合艦隊の総司令官に祭り上げられていたのが、まだ26歳のドン・ファンだった。

 塩野七海の『レパントの海戦』はヴェネツィア艦隊の副将を主人公にしてヴェネツィア側から描いた作品だが、総司令官ドン・ファンはいよいよ戦いの火ぶたが切られるというとき、小型の帆船に乗り、海から連合艦隊の将兵を激励して回るという、凛々しい貴公子として登場する。

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<レーゲンスブルグ大聖堂に入る>

  レーゲンスブルグの大聖堂の正式の名は、聖ペテロ大聖堂。

 街角のどこからでも高い尖塔が見えるから、手元の『地球の歩き方』の小さなマップと、実際に見える大聖堂の塔の方角で、自分が今いる場所を判断できる。

 (Neupfart広場から見る大聖堂の塔)

 この大聖堂は典型的なゴシック建築。

 着工は1275年だが、尖塔以外が完成したのが1634年で、尖塔の完成は1869年という。その息の長さは、我々日本人の物づくりの「時間」を遥かに超えている。宮殿なら発注した王の「時間」を考慮せずに造ることはできないが、神の「時間」は天国へと続き、人々の創造と労働の過程は祈りであったのだろう。

 (レーゲンスブルグ大聖堂のステンドグラス)

 聖堂の中に入って見学した。

 フランスのロマネスク様式の大聖堂やゴシック様式の大聖堂を見た目には、その精神性や美意識において見劣りがした。この点は、以前にツアー参加した「ロマンチック街道と南ドイツの旅」でも感じたことだ。

 ステンドグラスも、メルヘンチックな趣にドイツらしさを感じるが、フランスの大聖堂のステンドグラスの宝石箱をひっくり返したような瀟洒な美意識にはかなわない。

 レーゲンスブルグ市議会は、16世紀、ルター派の宗教改革を受け入れた。

 一方、この聖ペテロ大聖堂はローマ・カソリックの司教座であり続けた。少数派の信者もいた。

 さらに、この町には3つの修道院があった。修道院は司教座に所属せず、ローマ教皇に直属する。

 それで、レーゲンスブルグには、市議会(市民)と、司教座大聖堂と、3つの修道院という、計5つのStatesが存在していた。そして、それらはそれぞれ帝国議会の議席と投票権を持っていた。ちょっと日本人には、(お隣のフランス人でも)、理解しがたいドイツの政体である。

 今は、それら全てを含めて1つの世界遺産になっている。

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<レーゲンスブルグそぞろ歩き>

 もうこれといって見学したいと思う所はなく、夕方まで街の中をそぞろ歩いた。

 この町には大学があり、海外の留学生も積極的に受け入れているらしい。学生らしい若者をよく見かけた。

 (自転車の若者)

 (中の島で憩う人たち)

 (岸辺で憩う家族)

 川岸を歩いた。水辺に憩う人々がいる。

 ドイツ人は、自然が好きだ。高校生の夏には大きなザックに寝袋を載せてワンダーフォーゲルの旅に出る。親は漂泊の旅に出る子の巣立ちを見送る。泊めてもらう民家がなければ、森の中で野宿する。

 都会のサラリーマンは、土、日曜日、アウトバーンをぶっ飛ばして森へ行き、キノコ狩りをするのが一番の悦びらしい。リタイアしたら、都会を離れ、郊外の森の近くに家をもって、日々、森の中を散策するのが夢なのだそうだ。そういうところも、現代日本人とは少し違う。

 夜。ドナウ川の中の島のホテルの部屋からは、暗いドナウ川の向こうに、旧市街の街並みと、街並みの上に聳えるライトアップされた大聖堂がよく見えた。異国にいる、と感じた。なかなか見飽きることがなかった。

 (ライトアップのレーゲンスブルグ大聖堂)

 

 

 

 

 

 

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