奈良県 天理市稲葉町 三十八柱神社宝篋印塔
天理市稲葉町集落の南西にこんもり茂る樹木が見える。これが三十八柱神社で、す ぐ北側は塀を隔てて成安寺という小寺院と隣接している。境内の南西隅に近世の常夜灯と並んで宝篋印塔が建つ。相輪は欠損している。笠下2段、笠上6段で、6段目の上には伏鉢を一体成型し、伏鉢に枘穴を穿っている。伏鉢は半分ほど欠損している。隅飾は軒と区別してほぼ直立しているが、まっすぐ立ち上がって途中でやや外反する。現状は1弧無地に見える。かなり風化が進んでおり、2弧輪郭付の痕跡のような部分もあり判然としない。4つとも概ね残っており、笠全体に比して大き過ぎず小さくもない。塔身は四方に月輪を陰刻し、その中央に金剛界四仏の種子を薬研彫する。文字は雄渾な印象は受けないが貧弱さはない。基礎は上2段で、側面四方無地。基壇や台座はなく、代わりに四角く平べったい自然石の上に置かれている。下端の1部はコンクリートで補修されている。基礎は幅に比してやや高さが高い。埋込みを意識して当初から基礎の底が不安定な形状であったためコンクリートで補修された可能性もある。その場合は基礎の相対高が大きいことを差し引いて造立年代を考えなければならないだろう。表面がざらついた感じの材石で、「奈良県史」では花崗岩製とするがやや疑問が残る。欠損する相輪を除く高さ約1mとさして大きいものではない。全体的に均整の取れた造形で、表面の風化は進行しているが、欠損している相輪と伏鉢以外の保存状態は悪くない。造立時期について「奈良県史」では鎌倉末期の造立とされる。笠上伏鉢の構造形式は先に紹介した滋賀県米原市の朝妻神社の宝篋印塔に類例があり、定型化以前のスタイルと思われ、基礎がやや高いのが気になるものの、鎌倉後期に遡っても不思議ではない。隣接する成安寺の西側の本堂裏は墓地になっており、神社の境内に続いている。もとはこっちにあったのであろうか。神社と寺院が隣接していることはしばしばあることであるが、墓地と境内が続いていることは珍しいように思う。
参考 清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術 192ページ