麻生太郎首相は「私生児・自衛隊の自衛官は地球のどこかで不名誉な戦死をしろ」と言いたいのか?

2008年11月12日 19時32分42秒 | 政治
◆それにしても参議院外交防衛委員会は、姑息であった。田母神俊雄・前航空幕僚長を11月11日の委員会にせっかく参考人招致しておきながら、NHKに放映もさせず、言論の府と言いながら、田母神氏に思う存分所見を発言させず、北沢俊美委員長(民主党)が田母神氏の発言を制して黙らせていた。浜田靖一防衛相、中曽根弘文外相らは、「田母神氏に好き勝手に言わせてはいかん」と言論封じに躍起になったという。これでは何のために参考人招致したのかわからない。自衛隊は、54年前に設立されて以来、多くの国民から「税金ドロボー」と言われ続けてきた。言うなれば、「私生児」のような存在であったけれど、国会での田母神氏の扱いを見る限り、依然として「私生児」であるらしい。
◆制服組の国会委員会での発言は、パールハーバー攻撃で勇名を馳せた源田実航空幕僚長(後に参議院議員)以来、二人目というから、いかに邪魔者扱いされてきたかがわかる。アメリカでは、現職軍人が公聴会などに呼ばれて証言するのは、当たり前になっているのに、日本では、自由な発言さえ許されていないのである。
しかし、改めて考えるまでもなく、自衛隊は、日本国憲法上は、相変わらず「私生児」のままであり、「正式な軍隊」ではない。限りなく軍隊的性格と要素を持った武装集団であるにすぎない。しかも、旧陸海軍の亡霊に取りつかれた怪しくも危険な存在である以上、これもまた胡散臭い政治家たちが、自衛官を国会に近づけたくないという警戒心は、哀しいまでに理解できる。
戦前の帝国陸海軍は、大元帥であった明治天皇陛下が与えられた軍人勅諭に反して、「政治に関与」して、なし崩し的に勢力を膨張させて部隊・武装を強化する名目で、ポストを増やして軍閥化し、満州事変を境にして、政府の「不拡大政策」に反して、なし崩し的に戦線を拡大していった。その果てに、敗戦してしまったのであった。この軍閥の跳梁跋扈を許したのは、何を隠そう東京帝国大学法学部、京都帝国大学法学部出身の文官たる高級官僚であり、多くの保守政治家たちであった。すなわち、これらの支配層は、軍部の暴走を食い止められなかったのである。言い換えれば、敗戦の最大の責任者は、政治家と高級官僚にあったことを忘れてはならない。軍人という生物は、放っておくと暴走するものなのである。
◆軍人が暴走しようするのは、その性質上、当然であり、暴走するくらいの猛将でなければ、一旦緩急の場合、使い物にならない。
マッカーサー元帥は朝鮮戦争の際、朝鮮戦争が勃発したとき、すぐさま出動命令を下して、自らも仁川に上陸して、共産軍を押し返した。しかし、1951年になり、共産軍の反抗が本格化し、再び戦線を押し戻すようになったため、このような状況を打開することを目的に、中華人民共和国領となった旧満州に対する空爆、さらには核攻撃の必要性を主張して、トルーマン大統領と対立した。これに対して、トルーマン大統領は4月11日、マッカーサー元帥更迭を発令した。トルーマン大統領は、マッカーサー元帥の暴走を許さなかった。マッカーサー元帥が昭和天皇陛下よりも偉いと思い込んでいた日本人は、マッカーサー元帥より偉い存在があることを知り、びっくり仰天させられたのである。これが、民主主義国の「文民統制(シビリアン・コントロール)」というものである。
◆ところがである。日本では、「文民統制(シビリアン・コントロール)」の何たるかさえ、曖昧模糊として、いまだに確立されていない。それどころか、いままさに「機能不全」状態にある。今回の田母神氏の発言に対する麻生太郎首相、浜田靖一防衛相の素早い処置は、「文民統制」をよく機能させたと感じられなくもないけれど、「臭いものにフタをする」程度のお粗末な措置にすぎない。「文民統制」とは程遠い。
 というのは、自民・公明与党は、私生児である自衛隊を嫡出子とする憲法上の法的措置を講ずることもなく、自衛隊本来の任務である「専守防衛」の制限枠を、なし崩し的に破壊して、「国際貢献」という身勝手な名目をかざしてPKOからさらに一足飛びにイラクなどの事実上の「戦地」に送り込み、インド洋では、海上自衛隊にガソリンスタンドの真似事をさせ、今度は、米国のオバマ次期大統領の要請に応じて、タリバンがすでに大半を実効支配しているアフガニスタンに派遣する検討まで始めている。
 これでは、戦前に軍部が「不拡大政策」を無視したのとどこが違うのであろうかと、素朴な疑問か沸いてくる。軍人というのは、本来どこにでも侵略に行きたがるものであるとはいえ、戦地は、殺戮が当たり前の地獄である。いま日本は、軍事に疎い政治家や高級官僚たちにより、「なし崩し的に戦争のできる国」にされようとしている。
その無責任な政治家や高級官僚たちから、「私生児・自衛隊は、地球上のどこにでもでかけて行け、自衛官は人知れず、不名誉な戦死をしてこい」と言われているのも同然である。察するに、田母神氏は、「犬死だけはしたくない、部下にもさせたくない」と悲憤慷慨してきたのであろう。
〔参考〕
「大東亜戦争」を「アジア解放戦争」とする「大東亜戦争正当論」は、日本政府見解が示される以前から、とくに日本の左翼陣営やマスコミ、ジャーナリストたちの多くから批判の対象にされてきた。
歴史研究家・草地貞吾先生(元関東軍作戦班長、大佐)は、「大東亜戦争正当論-大東亜戦争は空前の人類革命」(日本民族覚醒の会刊)については、2005年5月に紹介し、その一部を11月11日のプログで再録した。この論旨は、私のような昭和21年生まれの「戦争を知らない世代」には、一種の新鮮さを持って響いてくる。順序は、前後するけれど、その前段のところから、以下、改めて紹介しておこう。

●歴史研究家・草地貞吾先生(元関東軍作戦班長、大佐)は、「大東亜戦争正当論-大東亜戦争は空前の人類革命」(日本民族覚醒の会刊)のなかで、以下のように述べている。
 歴史家・草地貞吾先生(元関東軍作戦班長、元大佐)の「大東亜戦争正当論ー大東亜戦争は空前の人類革命」より引用。
 〔大東亜戦争は絶好無二の時点に発動した〕
 「その第二の理由は、予想大東亜戦場における敵方戦力の最低時であった。
 あの当時は恰も欧州において、独・伊枢軸側と英・ソ連側が、第二次世界大戦ともいうべき死闘を続けていた。ために、英・ソ連合側の東亜に対する戦力の増強指向は自ら制限せられた。加えてわが国は、ソ連との間に、昭和十六年五月、不可侵条約を結び、対北方の危険性が緩和された。
 反面、当時のアジア全地域は三百年来、白色帝国主義に完全支配され、ひたすら奴隷的桃源の甘夢をむさぼっている状態であった。 ただ、残された問題は米国であるが、米国太平洋艦隊の根拠はハワイを急襲成功すれば一年ぐらいの余裕が生じ、それまでの間に大東亜戦場の形勢は世界全戦場との関連において、何とかなるだろう程度の大本営判断ではなかったか。それ以上のことは、神様でも分かるものではない。
 大東亜戦争を頭から無謀の戦争という連中が多いが、前述の桶狭間合戦や関が原合戦、また日清・日露戦争に比しても決して無謀などというに当たらない。それが売られたケンカなるにおいて特に然りである。
 その第三は、台湾・海南島・仏印(インドシナ)にまで作戦面が延伸し、好適の前進基地が設定せられたことである。
 大観すれば日露戦争以来の歴史の集積の結果であり、ここまで出ていなければ、白色人種東亜の牙城シンガポールを攻略奪取することは、当時の戦争手段では不可能であったからだ。
 これを要するに、わが作戦発起地が仏印に推進せられざるかぎり、大東亜戦争の発動は無理であった。
 その第四の理由は、関特演(関東軍特殊演習)として対北方準備陣を布いていたことである。
 昭和十六年六月二十二日、突如として欧州東方戦線に独ソ戦が発生した。ためにわが国は北方情勢の急変に対処するため、七、八の両月にわたり約五十万に及ぶ兵力の大動員を行い、その主力を関東軍隷下に入れ、対北方警戒に遺憾なからしめた。これが、はしなくも大東亜戦争の総予備的戦力--昔式に言えば後詰め、ということになった。
 逆に言えば、適時に関特演の行われたこと自体、南方作戦発動の一つの引鉄的作用をなしたと言えないこともあるまい。
 かつて、対南方作戦の下準備と心構えが着々と完成しつつあった時しも、ハル・ノートという不遜無法の最後通牒が寄せられたので、チャンスとばかり十二月八日の開戦となった。
 その八日・九日・十日の七十二時間に、世界情勢は完全に一変した。そのことはほかならぬ英国首相チャーチルが告白しているのだから(前記)ウソとは申せまい。
 すなわち、あの十二げつ八日という時点は、世界史に特筆大書さるべき記念日である。その意味から言えば、ハルなる人物は、日本に対して、この歴史的最大・最高・最良・絶妙の『時』を与えてくれた恩人と言えないこともない。恰も本能寺の変が、豊臣秀吉に天下人となる絶好の機会を提供してくれた如くに」
 〔戦後、白人たちが戻って来たことを考えよ〕
 「終戦の後、すなわち昭和二十年八月十五日以降に彼ら白人共は、以前の植民地が忘れられずにノコノコ戻って来た。白人達には旧態どおりに植民地支配の慾望が、まだ、というよりも大いに残っていたのである。そして、それは若干の派兵ぐらいでわけなく実現できるもの甘く考えていたフシがないでもない。
 ところが、どうして、そこには大東亜戦争以前と全く類を異にした物心両面の武力を兼備して、自由・独立・解放の大旆を飾した有色人種が、眥を決して「いざ、ござんなれ!」と待ち構えていた。
 マレイも然り、インドネシアも然り、仏印も然り、ビルマもインドもフィリピンも然りであった。
 これには白人共もビックリ仰天した。それでも昔の植民地は欲しいので兵力の逐次増強を練り返し、印度シナ半島ではテン・ベン・フーの激戦、インドネシアでは、スバラヤ戦争や大規模の独立戦争が行われたが、みな現地側の勝利に帰して白人共は追い返された。流石に英・米はアグロサクソンとして政治性にすぐれているので、その広大な旧植民地は特に大規模の戦乱はなかったようだが、澎湃たる人種・民族運動の盛り上がりには、如何ともするなく、いずれも期年ならずして独立を完成した。すべてこれ大東亜戦争の結果と言わねばならぬ。
 ただ、ここに白人がわけなく帰って来た一例がある。それは、平成九年七月にシナに返還された香港である。
 この香港は、昭和十六年十二月八日の開戦と同時に、支那派遣軍が攻略作戦に任じ、クリスマスの十二月二十五日に完全占領したものである。以来、わが国は香港総督を置いて終戦までその占領統治に当たらしめた。(この事実を知らない日本人が少なくない。)
 ところで、その香港はもともとシナのものだ。そこに英国が平然として戻って来たのは、当時の中華民国(蒋政権)が弱かったからである。
 香港以外のすべては大東亜戦争のお蔭で強くなっていたから、白人の復帰を許さなかったのである。換言すれば、香港以外の旧植民地も物心両面の力が弱かったならば、香港同様の運命に立ち至ったと言えるだろう。しかも、香港はもともと租借地で年限があったが、他の植民地には年限がなく、いつまで属国奴隷の境涯に沈淪されたやも計り知れなかったのである。
 もって、三百年間にわたり、白人はもとより有色人種からも「天地無用」と確信されていた世界旧秩序を完全壊滅し、自由闊達なる天地有用の世界新秩序を構築した大東亜戦争の真義を更めて認識するべきであろう。
板垣英憲マスコミ事務所

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コメント (2)
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