圧力団体イクチヲステガの公演「物語」は、若い才能と感性に溢れていて秀作であった

2008年03月17日 17時30分01秒 | 演劇・映画
◆以前ブログでご紹介しました、圧力団体イクチヲステガの公演「物語-ペディル・コルフォイ」を観劇にいきました。3月8日午後2時からの公演で、なんと、ありがたいことに「アフタートーク」にゲスト参加の栄誉に浴しました。自分の年齢を忘れて、若い演出家やスタッフの方々とトークができて、急に若返った気がしました。
 寺山修司、唐十郎といった一世を風靡した「アングラ演劇」が、一歩まぢえるとどことなく胡散臭く、エロ、グロ、ナンセンスだったのと違い、圧力団体イクチヲステガの演劇人は、清潔感があり、みな、生真面目です。
◆この「物語」は、「ベルリンの壁」が大きなモチーフになっていると聞き、若い方々が国際政治に強い関心と問題意識を持っていることに感動させられました。
 ベルリンの壁は、東独が1989年11月9日、実質的に撤去、ベルリン市民が同月11日、壁の破壊を開始し、ついにソ連・東欧の共産主義が崩壊しました。
ソ連という国は、フィンランドを侵略し、エストニア、ラトビア、リトアニアを攻め取り、東欧諸国も蹂躙してきた帝国主義、植民地主義国で、「共産主義国」というのは、まやかしでした。それにもかかわらず、日本の社会主義者たちは、ソ連を「理想国家」として擁護していました。これに対して、日本西側陣営の多くの人々は、ソ連の支配が何世紀も続くのではないかと、絶望感に囚われていたものでした。それが、驚くなかれ、内部崩壊により、自滅したのですから、これほど痛快なことはありませんでした。
もう19年も前の出来事です。「おぎゃあ」と生まれた赤ちゃんが、ようやく成人になろうというまでの長い月日が経っています。それほど過去の出来事をモチーフにしていること自体に、むしろ驚嘆させられました。日本の若い世代も、捨てたものではありません。
◆しかし、人間どうしが、「壁」を築き合う不幸な出来事は、いまでも、また将来でも起こり得ることです。「格差社会」という言葉が象徴しているように、現代の日本社会の中にも国民どうしが、大きな壁をつくりつつありますから、油断はできません。
 公演のクライマックスのところで、照明が消え、舞台となっている床面に敷かれた黒い布が、一気に巻き上げられて、舞台を挟んで対面していた観客席が、遮断され、「闇の世界」となりました。これは、一種のサプライズです。この見事な演出により、観客は、「壁」を意識し、空想の中を一瞬さ迷う感覚に陥ります。
◆ところで、公演を観劇して一週間の後、中国のチベット自治区の区都・ラサで大規模な暴動が起き、一説には治安部隊や軍隊の発砲により、100人が虐殺されたという報道がテレビ、新聞などで報道されました。胡錦涛国家主席は、チベット自治区の書記時代に暴徒鎮圧に辣腕を揮い、20万人を虐殺した実績を持っているという話もあります。中国は、依然として外部に対して「大きな壁」を設けており、内部情報が正確に伝えられていません。中国は、ソ連に負けず、劣らず、帝国主義的であり、植民地主義的であります。「北京オリンピック」に浮かれている場合ではありません。欧州諸国から、「北京オリンピックをボイコットせよ」という声が上がるのは、当たり前です。アメリカの俳優、リチャード・ギアが怒るのは、もっともです。
 こうした意味で、圧力団体イクチオステガの今回の公演「物語」は、「ベルリンの壁」をモチーフにしていながら、極めて現代的で、しかも普遍的なテーマを取り扱っている秀作と言えるでしょう。
◆人間は、「言葉」によって、いろいろな関係をつくります。あるいは、つくられると言った方が正確かも知れません。そこから様々な物語が生まれてきます。「言葉」というツールによって、物の見方、考え方が制約されたり、あるいは、社会の掟やルール、慣習・陋習、などの「フィルター」の機能に左右をされたりします。固定観念にとらわれたり、マジックにかかったり、錯覚に陥ったりもしてしまうのも、言葉のためです。「人を殺すには、刃物はいらない。一つの言葉があればよい」と言われるように、言葉は、恐ろしい武器、凶器にもなり得ます。こんなことを改めて痛感させられた公演でした。
 圧力団体イクチオステガは、これから「大阪公演」を経て、再び東京に帰ってくるそうです。この旅によって、出演者やスタッフの皆さんが、どのように変化、変身、あるいは大化けしてくるか、楽しみです。大いに期待されるところでもあります。
 若い演劇人が陸続と育ち、日本の文化の発展に寄与してくれるのは、実に頼もしい限りです。
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