奈良県高市郡明日香村冬野にある「冬野城」は、多武峰城塞群の一角を成す中世の城です。多武峰城砦群の中でも、最高所・最大規模のお城です。また、「畑城」は、明日香村畑にある城で明日香村最小の城です。
明日香村は、飛鳥時代の歴史的遺産が多いのですが、実は縄文時代から人々が生活していたようです。
今回は、地元の方々と講師の先生と一緒に、明日香村にある中世の城郭の最大規模のお城「冬野城」と最小の「畑城」を歴史散策してきましたので紹介したいと思います。
〇「冬野城」の 遺 構としては、 曲輪、土塁、堀切、土橋等があり、 築城者は、 多武峰寺です。 築城年代としては、平安時代末期のようです。 見 ど こ ろとしては、「冬野城」は、談山神社を中心として周囲の峰々に築かれた多武峰城砦群の中でも最大の規模があり、南の吉野方面への備えの城のようです。
多武峰寺は、興福寺との争いが続き、幾度も興福寺衆徒により堂宇を焼かれ、その都度普請され城砦化されていったようです。南北朝時代から戦国時代まで、多武峰を舞台に三度の合戦が行われ、冬野城ではその度に激戦が繰り返されました。
「冬野城」の 遺 構としては、電波塔や神社などにより改変はありそうですが、北側一帯は連郭式の山城の様相です。多武峰・談山神社に繋がる北方の尾根状に階段状に郭が続き、竪堀のような遺構と堀切が3本(それより先にもあるようです)、主郭(最高所)に近づくごとに高い切岸により敵を寄せ付けない構造になっています。北東方面にも郭が4段続いて堀切が2本あります。古くから、興福寺と対立していた多武峰は付近が城郭化していた可能性もあり、また1437年から10年にかけて起こった大和永享の乱の際は越智方が多武峰を中心に抵抗し広く戦場になったようです。1506年には赤沢朝経の大和乱入があり、その際、南和の越智氏や箸尾氏が多武峰に逃れ、北和の筒井氏は東山内に逃れました。多武峰は、大和国中(奈良盆地)の東南に位置し、別天地の感があります。筒井氏の東山内と同じような位置づけで、多武峰周辺にのがれた南和の国人達が冬野城を改修し使用したと考えられます。城跡の概要は、神社の境内にある建物や電波塔の建設による改変以外は比較的良好な状態で残っているものと思われます。
冬野には、何度か行ったことがあります。明日香村でも山奥にあり、車1台分位の道しかありません。この地には、鎌倉時代の人で亀山天皇の第8皇子である「良助親王」の「冬野墓」があります。親王の遺志により、冬野に葬られました。まさか、この「冬野墓」から歩いて数分の所に中世の城郭があるとは思いもしませんでした。
〇「畑城」は、畑集落の北側にあり標高538mの城山に位置し北側に大きな堀切がある単純な造りです。西側の堀も土塁もなくだらだらと降りるだけですが、500m下った先に堀切があり。広大な城塞郡の一画であったようです。
「畑城」は、「冬野墓」に行く途中にあります。道沿いにあり、見落としてしまう位の小さな城跡でした。
両城共に、数百年以上経っており木々等が生い茂り、最初は何も分かりませんでした。講師の先生の後を歩きながら、地形の詳しい説明を受けてはじめて人工的な城跡であることが分かりました。まさか、こんな場所に中世の城郭があるとは思いもしませんでした。
今回は、明日香村にある最大規模のお城「冬野城」と最小の「畑城」を、滋賀県から来られた熱心な講師の先生のもと、とても興味深く歴史散策をすることができました!
次回は、明日香村にある中世の城郭である「飛鳥城」・「雷城」を紹介したいと思います。
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