cogito ergo sum

日々の雑感・料理レシピ・KinKi Kidsに関することなど…
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話そう。*鶏肉のエスカルゴバター包み焼き*

2009-05-29 | Weblog
[レシピ] ブログ村キーワード

今日は週末金曜日、5月29日。
剛紫くんは今日から横浜ですね~。
あ、ソロデビューも今日でしたっけ。
これもひとつの記念日。
今日もそこにしかない素敵な時間が生み出されていることを遠くから願いつつ、共有している人たちをうらやましく思う私です

ひとつの記念日、といえば、今日は草なぎさんがテレビ復帰。
「いいとも」にも出演されていましたね。
昨日は会見もあったとか。
その模様は、今日のニュースでちらっと見たくらいですが、しっかりとした元気そうな姿、
新しく踏み出そうとする晴れやかな表情が感じられて、素朴によかったかな、と思います。
起こしてしまったことは反省すべきことですが、これをまた再出発の記念に、心配をしていた人、待っていた人、
たくさんの人のために、そして一番に自分のために、
しっかりと歩んでいってほしいものだと思います。
今回のことを通して、あらためてその影響力の大きさ、これまで重ねてきたものの大きな意味を見ている側も、本人も、とても強く感じることとなったと思いますし…。
これからにもまだまだ期待していますからね、
頑張ってほしいと思います。
この復帰に伴って、それをおもしろくないと思うのか、まったくもって非論理的、何の根拠もない“たたき”も、ジャニーズ関連に対して、普段に増して盛んになっているような話も聞きましたが、
そういうくだらない行為の無意味さ、
いかに人間として悲しい行為かということに気づいてほしい、と思います。
もちろん、ジャニだから、というわけではなく。
なんでも。
理由なく弱い者、特定の者に対して、心ない言葉を浴びせたり、何らかの行為をとって、自分の気を晴らす、
屈折した思いのはけ口にする、偽りの楽しさに浸る、
…そんな悲しく、なさけなく、卑劣な行為はない。
悲しい人、と見られるこれ以上ない情けなさ、カッコ悪さ、
はやく気づいてほしいものだと思います。
こういう当たり前のことをわざわざ訴えなければならないことが、私は悲しい。
早く言う必要のない世界に…
それを願います。

そんな今日ですが、こうした報道のなかにおされてあまり取り上げられなくなっているけれど大切な問題、深い問題からひとつ。
臓器移植法案の改正について、
ちょっと思うところを書いてみようかなと思います。

A案からD案まで、4つの案が提出され、何処へ落ち着くのか…
党内での規制もないこの問題は意見も分かれ、決定打のないままに成立が延び延び
になっている、という印象ですね。

簡単にまとめると、

A案は現行法と大きく変わるもの。
脳死を一律に「人の死」とし、4案中A案だけが、本人の生前の拒否がない限り家族の同意で臓器提供が可能。
小児も例外ではないため、臓器提供が大幅に増えるとして日本移植学会や移植患者団体などが支持。
臓器提供、脳死による死亡判定への拒否権は残されますが、
という案。

次にB案。
臓器提供に限り脳死を「人の死」とし、提供には本人の意思表示と、家族の同意が必要という点は現行法と同じ。
唯一の変更点は、意思表示できる年齢を15歳から12歳に下げること。
乳幼児は無理ですが、少しは小児への臓器提供も可能になってくる、という案ですね。

C案は、法的脳死判定をより厳格化する案。
脳死の判定基準に、今はない脳血流や脳代謝の有無を加えるほか、生体移植も2親等に限るなどの制限を設定。
臓器提供は現在より確実に減るけれど、脳死判定というものに抵抗を示す人からは根強い支持のある案。

最後にD案。
これが折衷的な案で、最後に出されたもの。
B案と同じく、臓器提供を希望するときに限り、脳死を「人の死」と認めるという現行法の考え方を踏襲しているが、
焦点の子供の臓器提供に関しては年齢制限を撤廃。
この一方で、15歳以下の子供の場合、家族の同意と病院の倫理委員会など第三者の判断を取り入れる、と。
ま、かなり条件付きで…というふうに進める、という案ですね。

国会では結局議論が前へ進まないので、ひとつひとつ、成立順に立てて、決議されればその案で、
というカタチをとる、という方向へ流れているようですが、
そういう決め方で良いのか、もう少し専門性の高い議論が、慎重な議論が積極的に重ねられるべきではないのか、
という思いもぬぐえないように思います。
先日、目にしたテレビの番組の報道でも、臓器移植を待つ側と、脳死状態の小児患者を身内に持つ側、
その両者から取材をしていて、その試みには感心、
きちんと両者をたてたことには評価したいと思ったのですが、
その特集の末に出した意見、
そのVTR明けのコメンテーターらの意見が、
「私たちは、分からなくなってしまいました」
で集約されてしまった、
そこから踏み込んだ意見が結局のところ何も出されず、
みな、難しい問題ですから…と異口同音、なんの意見もなくひいてしまった、丸投げしてしまったものになっていて。。。
非常に残念。
取り上げるからには逃げないでほしかった、と私は感じました。
たしかに微妙な問題、難しい問題であることは誰もが分かっている、一見しただけで分かる、
だけど、それであいまいにしていては、逃げていては何も変わらない、
顔色をうかがうばかりだから進まない、
そうこうしているあいだに救える命が消えていく、時は刻刻と流れる…
どんな意見でも、小さな、素朴な意見でも出ないよりはマシ、
考えないことが一番、逃げることが一番、そこにかかるいのちを軽んじている、愛がないんじゃないかなぁ、と。
思うわけで。
単純に自分の希望でもいい、
そう考える理由をつけて、様々な考え方が交わされれば、そこからなにかを得る、
自分の考えを発展させる契機になる人も出てくるだろうになぁ…
と。
私は、思っています。

なので、私はあくまで自分の希望と断ったうえで、臓器移植について思うことをここで書いておきたい、
そして、これもひとつの意見で、それとは異なる様々な人の意見があって、
それがくみ取られて、国民の豊かな生のためのいのちの法整備が、きちんと進められることを願います。

私は、脳死は「人」というものを人格においてとらえるとき、「人の死」だと思います。
唯一、交換のきかないもの、代替できぬ、心、人となり、個人をつかさどるもの。
それが脳であり、それが死ねば、今の、過去の連なりから生ずる「私」という人格、オリジナルな「人」は死ぬ。
そのとき、心臓を含め、他の器官がまだ生きていても、肉体が生きていても、それはあくまで物体、
温度があることに、生を感ずるかもしれないけれど、それはあくまでエネルギー反応、燃焼反応の熱にすぎない。
心臓死は医学の発展が今よりも乏しい状態でも、確実に見てとれる、自然で最も分かりやすい終わり、
死の判定の基準として採用しやすいものであったために、長く採用され、長き歴史の中で今のように大きなものとして定着した。
たしかに、心臓は中心的器官、全身へ血を栄養を酸素を、送るいのちのポンプ。
だけど、そこに“個”はない。
代替もまったく不可能、ではない。
近代の“個”“人格”“こころ”、それはやはり脳がつかさどり、今の医学ではその脳が死ぬということ、
脳死というものを判別できる、
それならば…
と思うのです。

人間の臓器までもが合理的リサイクルというか、効率重視で利用される、
そういう見方でしかいのちと接しない、
そういう空気があるのであれば、
もしくは実験重視、物体あつかいとしての実験重視、
やはりそこにあるのは、いのちの不在ですが、
そのような見地から推し進められる臓器移植であれば、
移植そのものに対して、否定的立場をとります。
そんな移植は一件たりとも行われるべきではない、
そのことを強く訴えたうえで、
「いのち」ある移植を、
救える命へといのちをつなぐ移植を希望する、
自分が脳死となった場合も、それが意思…
と、考えています。

触るとあたたかい、
脳死と宣告されても、温度がある、
そのまま他の器官を生かすことはできないことではない、
その状態から臓器を取り出す、
他の人へと移植する、
「死」として認める、
それはその人と近く接してきた人にとっては、抵抗のあること、辛いことだと思います。
私の場合でも、そうして抵抗を感じてくれる人がいれば、
反応がなくても、器官だけでも生き延ばせたいと強く願ってくれる人が、仮に板としたら、
それは本当にありがたいこと、うれしいことです。
その人を悲しみにつきとばして、移植の意思を推すのはたしかに心苦しい。
だけど、そこにある肉体に同じ心は存在しないし、
その一方で、そう願ってくれるその人は、同じあなたのままこれから先も生きなければならない。
私はその人を深い悲しみや残された肉体に縛りたくはない、
それよりも、移植を通してつながる命に思いをはせることで、外の社会との、世界とのつながりを再び感じてほしい、
失った悲しみで社会から疎外されたようになっている状態から、早く抜け出し、また歩み出してほしい、
笑ってほしい、
そう思う…
意思が示せない、心として、人格として、死んでしまったとき、
そうして深く悲しみ、惜しんでくれる、かけがえのない深い愛にたいして、できる最後の、唯一の応え、
愛し方かな、と。

今のところ、の考えで、至らないところばかりなのですが、そんなふうに思っています。

こういう個人の考え、希望がかたまらないとされる小児をどうするか、
それはやはり依然問題として残される…
ただ、海外にのみ頼る現状は認められない、
国内でも海外でも、「いのち」に変わりはないわけで、それを解決策とするのは違う、と思います。
やはり親の考えと医療的、専門的知識に照らし合わせた慎重な判断とによる、
垣根は高くなるが、個人の意思表明が固まる年代よりもさらに条件をきつく…
というのが妥当なのではないかと。
う~ん…そこまでしか言えないですね。。。
できるだけ、小さなときからいのちについて考えさせること、
身近に悩ませること、
そういうことも必要だと思います。
そのことが思いやりだったり、他人のいのちを思ういのちの教育、道徳教育やしつけにも、しっかりつながってくると思いますし。

なににしても、家庭でも社会でも遠ざけないで話し合う環境をつくっていくべき、
子どもも大人も…
それが一番、私の思うところです。

長くなりましたが、なにか感じていただければ嬉しいです。
ご意見&ご感想もお気軽に♪


今日のレシピです

・鶏肉のエスカルゴバター包み焼き 蚕豆のペースト添え …①
・焼きネギのマリネ 岩塩とオリーブオイルで …②
・スパイシーなミント風味サラダ …③


①の作り方



1 鶏肉は厚みを均等にひらいて、塩こしょうをする
2 パセリ、粉末バジル、おろしにんにく、バター、塩を練り合わせてエスカルゴバターを作る
3 1に2のバターをのせて、包み込むように成形する
4 片栗粉、卵、パン粉の順に押し付けて衣をつける
5 軽くつまようじでつなぎ口をとめ、まず油を敷いたフライパンで焼きつける
6 耐熱皿にうつし、オーブンで中まで焼き上げる
7 蚕豆は塩ゆでにし、皮をむいてつぶす
8 7を皿に広げ、焼き上がった6をつまようじを抜いて、盛り付ける


②の作り方



1 長ネギは適当な長さに切って蒸す(レンジでよい)
2 焼き網で直火にのせ、炙る
3 とろりとしたら皿に並べ、岩塩、オリーブオイルを回しかける


③の作り方



1 太きゅうりは皮をむく
2 1をスライスし、トマトは適宜カットする。キャベツも切る
3 アンチョビオイル、塩、カレーパウダー、クミン、ワインビネガーを合わせてドレッシングを作る
4 3で2を和える
5 器に盛りつけて、ミントをのせる


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先にも書きましたが、コメント大歓迎☆
お気軽にお寄せくださいね
それでは