心身社会研究所 自然堂のブログ

からだ・こころ・社会をめぐる日々の雑感・随想

ポリヴェーガル理論とSE療法

2019-12-12 13:20:00 | 身体・こころ・社会

セミナー等でいつもすっかりお世話になっているSさんが、サンディエゴで、ピーター・ラヴィーンのマスタークラスに参加していて、逐次その様子やメモを送ってくれます。


それにふれるにつけ、日ごろ漠然と思ってきた、ポリヴェーガルとSE療法の異同についてのイメージが、確証されてくるのを感じます。ひとことで言うと、ピーター(SE)は、ポージェス(ポリヴェーガル)と、はっきり基本スタンスのレベルでちがいがある! と明言できそうに思います。

ピーターはあくまでmobilization=healthy aggression≒anger こそが核心で、これこそがlife forceに直結するものとみていて、あくまでそのために(手段として?)、その限りにおいてのみ、social engagement やfeeling of safety も重要とみるのです。ところがポージェスでは、何よりもsocial engagement やfeeling of safety こそが核心で、これこそが哺乳類としての生の本質とみていて、あくまでそれを前提として、それと組み合わさる限りでのみ、mobilization も重要とみるにすぎません。

ピーターにとっては、何よりまずmobilizationがあり、そのうえで、それをよりよく生かすためにsocial engagement やfeeling of safetyが要請されるのに対し、ポージェスにとっては、何よりまずsocial engagement やfeeling of safetyがあり、そのうえで、それを基盤にすえる限りでmobilizationが容認されるのです。SEの重心はあくまでmobilization の方にあり、ポリヴェーガルの重心はあくまでsocial engagement の方にあることを見落としてはなりません。

いいかえれば、SEとポリヴェーガルの両者が意見を同じくするのは、social engagement とmobilization のブレンドされた状態(ポリヴェーガル的にはplayの領域に相当)においてのみ、ということになり、そこを離れれば離れるほど両者のスタンスのちがいは表面化してくることでしょう。

このことはいうまでもなく、トラウマ治療のプロトコルにも小さくない影響をもたらしてくるはずです。



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取扱要注意・・・オキシトシン

2019-11-17 20:31:00 | 身体・こころ・社会

昨日、沢尻エリカさんが合成麻薬MDMAを所持していたとして麻薬取締法違反容疑で緊急逮捕されると、またもや世間では薬物依存の有名人バッシングにいっせいに火が着いていますが、問題のこのMDMA。別名「エクスタシー」とも言われるように、実はその効力は、あの“愛のホルモン”ことオキシトシンの視床下部での合成を猛烈な勢いで活性化する(そしてセロトニン受容体を活性化する)ところにあります。世にさんざん持て囃されてきた“愛のホルモン”も、ひとたび過剰に出すぎてしまうと、こんなにも世にそっぽを向かれる事態になるのですね。

ひょっとするとオキシトシンは、哺乳類ではじめて合成されるようになったペプチドですが、カテコールアミン等と同様に、そもそも生体にとって、取扱要注意の危険な物質なのかもしれません。血中で速やかに分解され、半減期が5分とか言われるのも、実はこの危険を日常的につねに未然に回避するためなのかもしれません。

オキシトシン過剰の危険は、オキシトシンが最も活躍するはずの出産時にも現に生じていることは、このブログでも前に書きましたね。

 


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安全こそ治療だ!? 自由こそ治療だ!?

2019-09-20 23:35:00 | 身体・こころ・社会

ポリヴェーガル理論のS・ポージェスは、心身の治療において、安全さ(safety)ないし安全感(feeling of safety)の意義を特に強調します。その立場は、2011年の大著を刊行した後も、2017年のポケットガイド版にかけて、ますます前面に押し出され、「私たちが安全であるとき、マジカルなことがおこる(When we're safe, magical things occur)」とか 、「この安全感こそが治療なのだ(This feeling of safety is the treatment)」と喝破しています 。

それはちょうど、イタリア全土の全公立精神病院の廃絶の法制化を推進したフランコ・バザーリアたちのスローガン、「自由こそ治療だ!」( La liberta' e' terapeutica : Freedom is therapeutic!)の、あたかも向こうを張るかのごとき口ぶりです。

「安全感こそ治療」と「自由こそ治療」。おそらく、「安全・安心」も治療的必要条件なら、「自由・自律」も治療的必要条件でしょう。「安全」派は、安全なければ自由なく、安全さえあれば自由もあるかのように主張し、「自由」派は、自由なければ安全なく、自由さえあれば安全もあるかのように主張しますが、しかし実際には、「安全・安心」ならただちに「自由・自律」とは限らず(“愛という名の支配”!)、「自由・自律」ならただちに「安全・安心」とも限りません(“自由という名の牢獄”“自由からの逃走”!)。

自由が究極的には安全からの自由であり、ある意味で安全の否定でありながら、しかもなおそれが、今までとは異なる新たな形の安全の追求にほかならないところに、安全と自由の複雑な対抗的相補関係があるのです。「安全・安心」だからこそ「自由・自律」であり、「自由・自律」だからこそ「安全・安心」であるような、互いに相乗的な不可欠の条件としてこの2つが働くとき、真に治療的な時空が花開くのでしょう(そしておそらく初期には「安全・安心」がメイン、「自由・自律」がサブ、後期には「自由・自律」がメイン、「安全・安心」がサブとして、相乗的に進行するでしょう)。

それはちょうど私たちヒトにおいて、哺乳類に萌芽する二者関係(安全・安心)が確立してはじめて三者関係(自由・自律)が成立し、霊長類に萌芽する三者関係(自由・自律)が確立してはじめて二者関係(安全・安心)も安定するのと、パラレルに照応するのではないでしょうか。

 


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口にペンをくわえて作る笑顔は幸せを生じるか!?

2019-09-15 13:25:00 | 身体・こころ・社会

2019年のイグノーベル賞が9月13日(日本時間)に発表されました。 心理学賞の受賞者は、ドイツのフリッツ・ストラック(Fritz Strack)。

 ストラックは1988年に、口にペンをくわえると、必然的に顔が笑顔になり、気分も幸せになることをユーモラスな実験で発見し、当時は大きな話題となって、「プライミング効果」の実例としても非常に評判になりました。さらには、2002年に心理学者としてノーベル経済学賞を受賞したあのダニエル・カーネマンが、『ファスト&スロー』でこの発見を紹介したのも大きかったのかもしれません。

 ところがその後ストラックは、2017年、別の研究者がこの実験を大規模に追試したところ、同じ結果が得られなかったことを報告するに至ります。このイグノーベル賞授賞式でも、ストラック自ら出席し、このことを(わずか2分の時間内で)報告したとのこと。事柄の衝撃の大きさと、ご本人の誠実さとが印象深く私たちの心を打ちます。何より・・・心理学の科学的な実験とはいったい何か!? もちろんこの深い問いが、重く響きを残します。

マシュマロ・テストの顛末に続く、衝撃的なトピックです。

Strack, F., Martin, L. L. &Stepper, S.,1988 Inhibiting and facilitating conditions of the human smile: a nonobtrusive test of the facial feedback hypothesis,in Journal of Personality and Social Psychology, vol.54, no.5, pp.768-777.

Strack, F., 2017 From Data to Truth in Psychological Science. A Personnal Perspective”,in Frontiers in Psychology.
https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/fpsyg.2017.00702/full



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エリク・エリクソン 自分が自分の親になること

2017-06-05 08:13:56 | 身体・こころ・社会

エリク・エリクソン(Erik Erikson)の本名は、エリク・ホーンブルガー(Erik Homburger)。

しかし、父親は定かではありません。デンマーク人の芸術家だったのではないかと言われていますが、

ユダヤ系デンマーク人だった母のカーラ・アブラハムセン(Karla Abrahamsen)は、最後まで息子にその実父の名を明かさなかったようです。

 

エリクソンは、1902年6月15日にフランクフルトに生まれたのですが、1905年、3歳のときに母カーラが、

エリクソンの主治医も務めていた小児科医のテオドール・ホーンブルガーと再婚(それに伴ない、カールスルーエに転居)、

エリク・ホーンブルガーの名になったのです。

 

しかしエリクソンは、実父の出自も所在もわからない状態で育ったうえ、

ドイツ人コミュニティからはユダヤ人との理由で差別を受け、かつその北欧系の風貌からユダヤ系社会やユダヤ教の教会からも差別を受け、

二重の差別を受けて育つことになりました。

カールスルーエのギムナジウム・ビスマルク校を卒業したあと、芸術学院に進学するも卒業はせず、

その後画家をめざしながら、各地を転々と“デラシネ”(根なし草)として放浪生活を送るのでした。

まさに後に彼の言う「アイデンティティ拡散」の青年だったのです。

 

そんななか、たまたまウィーンにいた時代、エリクソンは友人の紹介で、

フロイトの娘アンナ・フロイトがウィーンの外国人の子弟を対象に始めた私立の実験学校で教師を勤めることになりました。

そこでアンナの弟子となり、教育分析も受け、アンナが所長も務めたウィーン精神分析研究所で分析家の資格を取得するに至ります。

こうして精神分析家としてのエリクソンの生涯がスタートしたのでした。

 

しかし、アンナ・フロイトの教育分析でも、決して十分に解決できないままでいたのが、自分の父親の問題です。

そこでエリクソンは、自分が自分の親になることで、これを克服しようとしました。

そのしるしとして、1938年秋、アメリカに帰化申請の際、「エリクソン」(Erikson)という新しい苗字を自作して、

「ホーンブルガー」という苗字をミドルネームに移し、

「エリク・ホーンブルガー・エリクソン」の名で市民権を求めました(翌1939年9月に正式に改名)[Friedman 1999,p.135]。

Eriksonとは、エリク(Erik)の息子(son)、つまり今のエリクがエリクの親になるという意味なのです[Ibid.,p.139]

自分が自分の理想の父親エリクになり、デラシネ少年エリクソンと共に生きていく、その“生まれ直しの宣言”がこの名前なのです。

 

<文 献>

Friedman, L., 1999 Identity’s Architect: A Biography of Erik H. Erikson. Cambridge, Massachusetts :Harvard University Press. =やまだようこ・西平 直監訳、鈴木真理子・三宅

 真季子訳、2003『エリクソンの人生 アイデンティティの探究者』新曜社。

 

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