日露友好のかけ橋 3
画像は、松山市が、昭和41年4月20日、ロシヤ海軍太平洋第二艦隊・第三艦隊(通称、バルチック艦隊)の戦闘艦・ヘルスベートの艦長のV・A・ボイスマン大佐の墓碑を再建立したものである。
「明治38年9月21日松山の収容所で亡くなった。捕虜となり松山に収容された露軍兵士の心の支えとなった大佐である。」
松山の収容所で過ごした露軍兵士達は、ゆったりとした収容生活を過ごし、道後温泉の入浴も許され、松山市内見学、砥部焼見学(現、砥部町)、郡中五色濱(現、伊予市)へのピクニック、時にはお酒まで振舞われた。
兵士達は、捕虜になったら松山の収容所行きを希望する者が多かったと言われたそうだ。
最近、松山城三ノ丸で埋蔵文化財の発掘調査がされているが、此処でロシヤ金貨が発掘されこれに頭文字の刻印が発見された。ロシヤ兵士と収容所病院で勤務していた看護婦の頭文字ではないかと??・・淡い恋が芽生えたのではと騒がれている・・・このような行為はご法度だったので二人は引き離されたのではないか??
画像は、松山市が、昭和41年4月20日、ロシヤ海軍太平洋第二艦隊・第三艦隊(通称、バルチック艦隊)の戦闘艦・ヘルスベートの艦長のV・A・ボイスマン大佐の墓碑を再建立したものである。
「明治38年9月21日松山の収容所で亡くなった。捕虜となり松山に収容された露軍兵士の心の支えとなった大佐である。」
松山の収容所で過ごした露軍兵士達は、ゆったりとした収容生活を過ごし、道後温泉の入浴も許され、松山市内見学、砥部焼見学(現、砥部町)、郡中五色濱(現、伊予市)へのピクニック、時にはお酒まで振舞われた。
兵士達は、捕虜になったら松山の収容所行きを希望する者が多かったと言われたそうだ。
最近、松山城三ノ丸で埋蔵文化財の発掘調査がされているが、此処でロシヤ金貨が発掘されこれに頭文字の刻印が発見された。ロシヤ兵士と収容所病院で勤務していた看護婦の頭文字ではないかと??・・淡い恋が芽生えたのではと騒がれている・・・このような行為はご法度だったので二人は引き離されたのではないか??