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久米地区の神社探訪その⒈素鵞神社(若宮八幡社)福音寺町

2015年06月18日 | 伊予松山歴史散策
古代から現代に掛けて努力し、苦難を克服して歴史と伝統を築いて来た久米の先人達の足跡を辿り、その伝統を引き継ぎ発展させ後世に伝えて行く事が私たちの務めだと考え、それには先ずは、神社・仏閣を訪ねるのが先決だと考えた。
久米地区(旧温泉郡久米村)には、11社の神社が鎮座している。私が育った久米地区の歴史を勉強してみたい。先ずは、居住地の神社(村の鎮守)である「素鵞神社」を訪ねる事にした。
始めに、神社とは何ぞや?である。書物を紐解いてみると、日本の民間信仰(神道)における神様を祀っている施設で、一般に「お社」「お宮」等と呼ぶ。・・とある。
では、神道とは?、神道は、古代日本に起源をたどる事が出来るとされる宗教で、伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤に中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立した。また、日本国家の形成に影響を与えたとされている宗教である。・・とある。
この様な事を踏まえて、久米地区11社の神社を訪ねてみる事にした。神社を訪ねる資料として持参した文献は、昭和40年10月20日発行の久米村史と平成4年3月10日発行の久米郷土誌で共に非売品、発行者は同書共、久米公民館が各々10年の歳月を掛けて編集した郷土歴史誌であり此れを引用させて頂く。

素鵞神社(若宮八幡社)
所在地:松山市福音寺町116番地
祭 神:健速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)
境内社:天王社 境内面積は、72坪(約2,4アール)
由来沿革:旧福音寺村の鎮守の神で、村人の氏神である。貞観11年(870)11月山城国八坂郷より祇園牛頭(ごず)天王社を勧請(かんじょう)し、八坂祇園社と同体の神として祭った。
素鵞神社は、古くから若宮八幡宮と呼ばれていた。この事は境内にある常夜灯(享和2年・1802)に記載されている事で、又古事記、久米郡手鏡にも記録されている事で明らかである。明治維新新政府の一村一社の合祀令により、明治10年に社号が素鵞神社となり日尾八幡神社の末社となった。しかし村民(地区民)は素鵞神社と呼ばず、昔ながらのまま、いまだに若宮さんと呼んでいる。
昨日(6月17日)久米地区の神社探訪、最初に私の居住地の村の鎮守神を祀る素鵞神社(若宮八幡社)に行って来た。
毎年、年末に神社のお札が、地区の宮総代さんが各家庭(氏子)に配ってくれるお札、天照皇大神宮、日尾八幡神社のお札と、福音寺町の鎮守神を祀る素鵞神社の三枚のお札がセットになっている。
日本国の神社発祥起源は、7世紀から8世紀とされる。神社仏閣を核として福音寺地区の歴史と伝統文化が拓いて行った原点の場所だと思う。最近は、氏神さんに対する崇拝の気持ちが希薄になっているのでは?。・・此れは私だけが感じる事なのだろうか。

追記:特筆事項として挙げる事の出来る人物が、この地区から輩出されている。その人物は、仙波太郎(陸軍中将)で、福音寺村の庄屋・仙波元太郎(幸雄)の長男として安政2年4月21日、素鵞神社の直ぐ近くで生れる。陸軍教導団を経て明治8年12月、陸軍士官学校歩兵科2期生として入学、明治16年4月陸軍大学校1期生として入学、明治18年12月、陸大を10名中3位の成績で卒業。同期生に坂の上の雲の主人公、秋山好古がいる。その後陸軍の三太郎(宇都宮太郎、桂太郎、仙波太郎)と呼ばれて活躍した。最終階級は、陸軍中将。晩年は、岐阜市から衆議院議員として社会教育に貢献した。

次回は、福音寺町の隣接の北久米町に鎮座する、辰岡天満宮を探訪する。


素鵞神社(若宮八幡社)の鳥居にある社号額。
素鵞神社と言う神社は全国に沢山鎮座しており、久米地区にも鷹子町にある。


東南方向から見た素鵞神社(若宮八幡社)の全景。


正面東から見た素鵞神社(若宮八幡社)。小さな新旧の注連(しめ)石(いし)が建立してある。
新しい注連石は、昭和58年10月、鳥居は、平成7年10月に新しく再建立された。
手前の古い注連石は、明治23年10月、と記してある。
鳥居を潜ると、拝殿があり、その奥に本殿がある。



拝殿の奥にある、素鵞神社(若宮八幡社)の本殿。


素鵞神社(若宮八幡社)本殿の南側に小さな社がある。天王社である。元は、窪田猛宅の北東の隅に祠があり、中世の乱の世に非業の死を遂げた武将を祀っていた。明治維新新政府の一村一社の合祀令により、明治10年に素鵞神社の地に合祀され、今も天王社として祭られている。昭和53年、拝殿の屋根の葺き替えを行った。


若宮八幡宮と刻印されている、素鵞神社境内に現存する一番古い建造物「常夜灯」で正面に、横書きで「若宮八幡宮」中央に縦書きで「奉獻常夜燈」右下に「村中」左下に「安全」と記してある。


正面に、横書きで「若宮八幡宮」中央に縦書きで「奉獻常夜燈」右下に「村中」左下に「安全」
常夜燈右側に「享和二年」と記載されている。
享和二年は西暦1802年で、伊予松山藩第9代松平定国の時代である。定国は、第8代将軍、徳川吉宗の次男、田安宗武の6男である。7男に、江戸幕府老中になる、松平定信がいる。
田安家は、徳川御三卿、田安、一橋、清水家の一つ。


毎年、年末に神社のお札が、地区の宮総代さんが各家庭に(氏子)に配ってくれるお札で、天照皇大神宮、日尾八幡神社のお札と、福音寺町の鎮守神を祀る素鵞神社の三枚のお札がセットになっている。初詣には、古いお札を持参して、氏神さん本社である、日尾八幡神社に詣でる。


陸軍中将仙波太郎、福音寺村の庄屋・仙波元太郎(幸雄)の長男として安政2年4月21日、素鵞神社の直ぐ近くで生れる。陸軍教導団を経て明治8年12月、陸軍士官学校歩兵科2期生として入学、明治16年4月陸軍大学校1期生として入学、明治18年12月、陸大を10名中3位の優秀な成績で卒業。同期生に坂の上の雲の主人公、秋山好古がいる。首席で卒業は、東条英教(東条英機の父)、秋山好古は席次9位であった。15名が入学し卒業できたのは10名、その中に伊予松山出身者が2名いたと言う事は素晴らしく誇りえる大先輩である。
その後陸軍の三太郎(宇都宮太郎、桂太郎、仙波太郎)と呼ばれて活躍した。最終階級は、陸軍中将。
大正8年4月退役、44年の軍隊生活に終止符を打ち、長年の功労に対して旭日大授賞が贈られ、同時に御下賜金を賜ったが、これを私すべきでないとして岐阜県教育会に一千円、郷里の久米村青年団に一千円を匿名で寄付した。昭和4年2月19日、岐阜で逝去 享年75歳。墓所は、岐阜市加納町穴釜共同墓地と松山市福音寺町土亀山先祖代々の墓にある。

晩年は、奥さんの故郷から岐阜県(岐阜市加納町)から衆議院議員として社会教育に貢献した。
    







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1 コメント

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福音寺 (遅生)
2024-05-29 08:22:00
こんにちわ。
岐阜で、古民家ミュージアム・故玩館を開いている遅生といいます。
この神社や仙波太郎の生家は、妻の実家のすぐ近くです。
現在、gooブログで三輪田米山の作品の紹介をしています。
よろしかったら、覗いてみてください。
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