画像は、淡路ヶ峠から撮影。
慶長5年9月15日(1600)、美濃国不破郡関ケ原で天下を左右する大合戦が行われ、賤ヶ岳の戦い七本槍の一人、加藤嘉明は、松前城から兵を率い東軍の将として加担した。
この時、伊予国でも戦いがあった。現在の松山市古三津周辺で、加藤勢と毛利勢(旧伊予の守護河野氏連合軍)この戦いは、激戦であり伊予の関ヶ原と言われている。加藤勢は守り抜いた。もし加藤軍が敗退していたら、加藤嘉明は関ケ原から帰ってくる領地がなかった。松前城の留守居として領地を守ったのが嘉明の重臣、佃十成で松山城築城に際しその重責を称え、北ノ郭に重厚な屋敷を構えて貰った。
嘉明は、関ケ原の戦いで武勲を挙げ、伊予国の半分20万石を、徳川家康から拝領した。
慶長7年1月15日、(1602)徳川家康の許可を得て勝山に築城を開始した。
この時、築城予定地三カ所を候補地として家康の許しを願い出た。第一候補地が「天山」現在の松山市天山町にある。第二候補地が「勝山」現在の松山城、第三候補地が「御幸寺山」現在の松山市御幸一丁目、を願い上申した。当時家康は、第二候補地に許可を出していたので、加藤嘉明が築城したかった勝山を第二候補地とした。願い通り、勝山に築城許可が下った。・・という逸話があり今も語り継がれている。
慶長8年10月、加藤嘉明は家臣及び松前の住民と共に居を新城下に移し、ここを松山と言う名称が公にされたのが松山の開市である。
その後20余年後の寛永4年(1627)苦難の末に松山城はようやく完成となる。
平成18年9月25日、御幸寺山に登山した時の画像が行方不明であったが先日見つかり、回顧として掲載しました。
参考までに
「水口加藤家譜」によると、慶長6年(1601)嘉明は家康に勝山城築城の事情を具申して、その許可を受けている。「松山俚人談」によると、嘉明は築城の位置について、天山と勝山と御幸寺山の三カ所を候補地として上申したところ、勝山が許可されたとの説話がある。またこの伝説は広く世に知られているが、これに関する歴史上の根拠は発見されていない。・・松山市刊行「松山城増補5版から引用」
なお、勝山は、室町時代までは味酒山と呼ばれていた。
築城候補地の標高は
天山:50、4m 勝山:132m 御幸寺山:164、6m
一草庵の右側の道を進み御幸寺山に登山する。画像の一部は、一草庵の裏にある真言宗豊山派の御幸寺が建立されている。この寺の東側の道を登る。
暫く歩くとお堂が見えてくる。
お堂の中。
山頂には大きな鳥居と数基の石碑が建立されている。
平成13年3月2415時28分に発生した芸予地震、松山は震度5強で激しく揺れた。多くの鳥居、石碑が倒壊したが、御幸寺山の石碑類は悠然と立っていた。
芸予地震に耐えた、数基の石碑。
その中に大きな「国威宣揚(こくいせんよう)」と揮毫された石碑がある。
松山城三之丸に駐屯していた陸軍歩兵第二十二連隊の連隊長であった梅津喜一大佐が揮毫した「国威宣揚」の碑があります。何故か肩書が削られている。
昭和20年10月2日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が設置、総司令官、ダグラス・マッカーサーは多くの禁止令通達を発令したが、その一つとして、教育施設内またはその周辺に軍人が揮毫した石碑。扁額等々の撤去命令通達がある。
私が知る限りでは秋山好古が揮毫した石碑が3基、扁額が2面ある。その一つ、松山市立清水小学校校庭にあった「天壌無窮」の石碑が撤去された。平成7年10月、愛媛県護国神社,当時の宮司が再建立した。愛媛大学付属高校職員室にあった扁額「質実剛健」も撤去され保管されていたものを、平成17年11月、秋山兄弟生誕地に寄託展示してある。
国威宣揚の石碑も、マッカーサー通達により遠慮して揮毫者の肩書を削りしたものかも?である。
御幸寺山の山号碑。
日露戦争記念の灯篭。
国土地理院の三角点がある。
山頂には大きなケルンの様な岩場があり、石像が設置してあり周囲を鎖がまかれている。
御幸寺山蔵王と刻印された小さな社がある。
プレハブ製建物の中には祭壇があり石鎚山を拝むように設置されていた。
現在は撤去されないそうです。
山頂から見た勝山(松山城)
松山城本丸にある天守で、平成の大修復の最中でした。
城北、城西方向で、画像奥は瀬戸内海(伊予灘)
松山城と御幸寺山の間に現在は小、中、高、大学があるが、戦前は旧日本陸軍歩兵第22連隊の練兵場であった。
城東から城南を望み、遠く築城候補地の一つ「天山」が見える。
御幸寺山、東山麓に秋山好古が揮毫した「石鎚神社遥拝所」の石碑が建立してある。
御幸寺山は、164mあり登山できない人々は、この地から石鎚山を遥拝した。
天壤(てんじょう)無窮(むきゅう) 昭和3年御大典記念・清水小学校開校記念碑
昭和3年清水小学校開校及び昭和天皇即位の大礼を記念して、20数名の先生方が醵金し建立した。
昭和20年11月、GHQが進駐し軍の命令により石碑を撤去、同校の用具室に保管してあったのを、平成7年10月、渡部校長の許可を得て愛媛県護國神社、波爾荘宮司の努力で境内に再建立した。
石碑が割れているのは、撤去作業時に破損したものである。
秋山好古は、当時北豫中学校長在任中であり揮毫を依頼されたものである。
なお、醵金建立した先生方の名前が碑石裏面に刻印してあったが、風化し消えて見えない。
愛媛県護國神社正面で、後ろの山が「御幸寺山」164mである。
松山城天守最上階から見た、築城候補地の一つと言われる「御幸寺山」。
松山城天守最上階は約160mあり、御幸寺山も164mある。
画像の建物は、左から、松山大学、県立松山北高校(旧北豫中学校・秋山好古が、大正13年から昭和5年まで校長を務めた)国立愛媛大学の文教地区で、戦前は22連隊の練兵場であった。