EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

豪華客船「飛鳥Ⅱ・松山港寄航」

2011年09月26日 | 伊予松山歴史散策
豪華客船「飛鳥Ⅱ・松山港寄航」

ノスタルジック北京・大連クルーズ~「坂の上の雲」ゆかりの地をたずねて~
今日9月26日、NHKのスペシャルドラマでもお馴染みの『坂の上の雲』ゆかりの 松山・大連(旅順)・天津(北京)を辿る「ノスタルジック 北京・大連クルーズ」のため飛鳥Ⅱが松山港に寄航した。

松山では「坂の上の雲ミュージアム」を特別に貸し切り、秋山兄弟生誕地、坂の上の雲ドラマ館を見学して、午後4時に大連、天津に向けて出航する。

今回クルーズの出発は、横浜港で途中神戸港に寄航、今日松山港に寄航し大連に向かう。
一部の乗客は松山で下船、また松山から大連に向けて乗船する観光者もいた。

松山港入港は午前10時で少し早めに行ってみた。既に飛鳥Ⅱは沖合いに停泊していて、9時30分過ぎからタグボート二隻に誘導されながら10時に着岸した。今治手前から乗船したのか?または神戸から乗船したのか水先案内人が乗船し着岸指導をしていた。

今日の松山は曇天で時より小雨がぱらつく天候、真っ白な船体の飛鳥Ⅱには似つかぬ天候だ。・・快晴で青空をバックに撮れれば飛鳥Ⅱが映えるのだが残念。

NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲・第三部」最終編は12月4日(日曜日)から放映されるので是非ご覧下さい。

飛鳥Ⅱの概要

就航年:平成18年2月
総トン数:50、142GT
全長:241m
全幅:29,6m・・・・これより広くなるとパナマ運河通過に支障をきたすとか??
乗客定員:960名
乗組員数:545名

参考:今回の旅行代金 は、550,000円~2,350,000円(横浜~大連)
松山港26日午後4時出航し28日大連に午後2時入港
10月1日天津港午後7時出航し10月5日午前8時横浜港入港・・だそうです。




松山港入港は、午前10時、少し早めに港に行ってみた・・既に沖合いに停泊し時間調整をしていた。


写真を撮る為に岸壁に行ってみると、県の担当者が入港許可書がないとゲートから中には入れないとの由・・理由はテロ防止のためだそうだ。秋山兄弟生誕地の研究委員として特別にとの計らいで許可をもらった。


画像の背広姿の人物は水先人案内人(パイロット)。

水先人案内人(パイロット とは、多数の船舶が行き交う港や海峡、内海において、それらの環境に精通することが困難な外航船や内航船の船長を補助し、船舶を安全かつ効率的に導く専門家のことをいい、水先人免許(国家資格)が必要。
水先案内人の資格は、一級から三級まであり、一級水先人は沿海以遠の乗船履歴で船長として総トン数3,000トン以上の船舶への2年以上の乗船経験があること。
名目上は船長が操船を指揮して、水先人は船長の操船を補佐することになっているが、実際は水先人が操船命令を発して、船長が横で黙ったまま承認している事もあり、どちらが主体的に操船するかは主に船長の性格によって決まる。ただし、前述のとおり、安全運航の責任は依然として船長にあるため、水先人の指揮によりトラブルが発生した場合でも、その責任は船長が負うことになる。・・とある。


伊予水軍太鼓で出迎え、野志松山市長の歓迎の挨拶を聞く観光客。その上に飛鳥Ⅱの救助用のボートがある。


港内で180度回転、出航時に港外に出る時の為に船首を外海に向けて回転中。






無事着岸して、坂の上の雲の街松山に上陸・・秋山好古、秋山眞之、正岡子規達が上京のため汽船に乗ったのもこの場所から、当時は桟橋がなかったので艀に乗って本船に乗り移っていた。・・時間の許す限り散策して下さい・・そして楽しい旅行を続けて下さい・・身体に気を付けて
旅行カバンを下ろした観光者は松山で下船・・大連には行かない人達・・松山から乗船する観光者も10名程いた。


飛鳥Ⅱの後ろ姿


乗客の上陸を待ち受ける貸切バス。「坂の上の雲」の街松山中心地に向けて・・楽しんでください。
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秋山好古揮毫石碑&窪寺跡&彼岸花群生

2011年09月24日 | 伊予松山歴史散策
松山市窪野町北谷地区に「彼岸花」の群生地があり、地元住民たちが大切に管理育成している。
この地区には、四国88ヶ所第46番札所「浄瑠璃寺」があり、四十五番札所・岩屋寺(上浮穴郡久万高原町)からの第46番札所「浄瑠璃寺」に巡礼する遍路道である。
 お遍路さんと地元住民の見ず知らずの人同士が出会い、言葉を交わし、心を通わせお持て成しの心でお接待をしている姿をみると心が和む。・・いい光景である。

「彼岸花」の群生地の上に一遍上人が修行をした窪寺跡の石碑がある。
今日、少し早いかなと思いながらバイクでカメラを持って彼岸花群生地区に行ってみた。満開であった。
地元農家の方が草刈機で除草していたが「彼岸花」を避けて巧く刈っていた。
撮影に県外からも来ていた。

近くに由緒ある  正八幡(しょうはちまん)神社があり、陸軍大将従二位勲一等功二級 秋山好古
が揮毫した 注連石(しめいし)がある。「碑文: 「作善降之百祥」・「不善降之百殃」
作善降之百祥は、「よいことをすれば百の嬉しいことがあり」」
不善降之百殃は、「悪いことをすれば百の災いがある」

画像は、今日「9月24日」撮った彼岸花群生地区(松山市窪野町北谷)。


彼岸花は、全草有毒な多年生の球根性植物。散形花序で6枚の花弁が放射状につく。
道端などに群生し、9月中旬に赤い花をつけるが、稀に白いものもある。その姿は独特で、夏の終わりから秋の初めにかけて、高さ30 - 50cmの枝も葉も節もない花茎が地上に突出し、その先端に包に包まれた花序が一つだけ付く。包が破れると5 - 7個前後の花が顔を出す。花は短い柄があって横を向いて開き、全体としてはすべての花が輪生状に外向きに並ぶ。花弁は長さ40mm、幅約5mmと細長く、大きく反り返る。


分布
北海道から琉球列島まで見られる。自生ではなく、日本には中国から帰化したものと考えられる。その経緯については、稲作の伝来時に土と共に鱗茎が混入してきて広まったといわれているが、土に穴を掘る小動物を避けるために有毒な鱗茎をあえて持ち込み、あぜや土手に植えたとも考えられる。また鱗茎は薬になり、救荒食でもある。そのような有用植物としての働きを熟知しての運搬の可能性も無視できない。
日本に存在するヒガンバナは全て遺伝的に同一であり、三倍体である。故に、雄株、雌株の区別が無く種子で増えることができない(遺伝子的には雌株である)。中国から伝わった1株の球根から日本各地に株分けの形で広まったと考えられる。


日本に存在するヒガンバナは全て遺伝的に同一であり、三倍体である。故に、雄株、雌株の区別が無く種子で増えることができない(遺伝子的には雌株である)。中国から伝わった1株の球根から日本各地に株分けの形で広まったと考えられる。

彼岸花は、別名「曼珠沙華」とも呼び異名が多く、死人花(しびとばな)、地獄花(じごくばな)、幽霊花(ゆうれいばな)、剃刀花(かみそりばな)、狐花(きつねばな)、捨子花(すてごばな)、はっかけばばあと呼んで、日本では不吉であると忌み嫌われることもあったが最近は趣が変わり活花として観賞するようになった。・・世も変わったものである・・・
季語・花言葉
秋の季語。
花言葉は「情熱」「独立」「再会」「あきらめ」
「悲しい思い出」「想うはあなた一人」「また会う日を楽しみに」。
迷信
花の形が燃え盛る炎のように見えることから、家に持って帰ると火事になると言われている。


多くの方がカメラ持参で自分の好みのアングルで撮っていた。


一遍(いっぺん)は鎌倉時代中期の僧侶。時宗の開祖。
延応元年(1239年)伊予国(ほぼ現在の愛媛県)の豪族、河野通広の第2子として生まれる。幼名は松寿丸。生まれたのは愛媛県松山市道後温泉の奥に宝厳寺の一角といわれ、元弘4年(1334年)に同族得能通綱によって「一遍上人御誕生舊跡」の石碑が建てられている。本家の河野氏は、承久3年(1221年)の承久の乱で京方について祖父の河野通信が陸奥国に配流されるなどして没落し、一遍が生まれた頃にはかつての勢いを失っていた。河野一族の極楽往生を願い全国遊行を行いっていたが
父の死をきっかけに還俗して伊予に帰るが、一族の所領争いなどが原因で、文永8年(1271年)32歳で再び出家、信濃の善光寺や伊予国の窪寺、同国の岩屋寺で修行する。窪寺は、一遍上人成道の地として極めて重要な所である。
一遍上人生誕750年・没後700年を記念事業として記念碑が建立してある。


陸軍大将従二位勲一等功二級 秋山好古謹書・・とある。


由緒ある  正八幡(しょうはちまん)神社があり、陸軍大将従二位勲一等功二級 秋山好古
が揮毫した 注連石(しめいし)がある。「碑文: 「作善降之百祥」・「不善降之百殃」
作善降之百祥は、「よいことをすれば百の嬉しいことがあり」」
不善降之百殃は、「悪いことをすれば百の災いがある」


昭和3年4月に秋山好古揮毫の注連石が完成し地元民が記念写真を撮った画像で、
上の画像は現在の正八幡神社。
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橘 右之吉さん秋山生誕地来館

2011年09月23日 | 伊予松山歴史散策
橘 右之吉 さん

橘 右之吉(たちばな うのきち)さん秋山兄弟生誕地来館
橘流寄席文字・江戸文字書家。
株式会社UNOS 代表、江戸趣味雑俳「つ花連」同人/投扇興「綾香連」にも属する。
昭和25年東京台東区生まれ、橘流寄席文字家元・橘右近に師事し、昭和44年年に正式な一門継承者として認められ「橘右之吉」の筆名を認可される。神社や寺などで見かけるミニ千社札は右之吉が考案したものである。
近年は橘さんが考案し、柘植の板に漆で文字を書いた「消し札」と呼ばれる携帯ストラップが人気を得ている。・・と紹介がある。・・私も愛用している。

現在は寄席等の伝統的な仕事に加え、浅草賀神社、柴又帝釈天、湯島天満神社等社寺、浅草観光連盟、京都市観光協会、東都のれん会等の開催ポスターのタイトル筆耕と企画デザインから、本やCDジャケットのタイトル、イベントタイトル、企業名や商品名等その作品は、お台場の人気温泉「大江戸温泉物語」、デニーズの和風店舗「七福・弁天庵」などロゴダイプとして、また女優山口智子氏のプロデュースのもと、江戸風俗や文化を語る「暦作成委員会by KAKITSUBATA」に参画。江戸東京博物館をはじめ、トークイベントも各所で開かれている。
有名なのは、浅草寺本堂、浅草雷門・宝蔵門の大提灯の文字は橘さんの揮毫である。

私は、3年前に橘 右之吉さんの工房を訪れお茶をご馳走して頂いたし、毎年松山市の三越デパートで実技公開されていて、今年は9月20日から26日まで開催される。

一昨日(9月22日)秋山兄弟生誕にお越し頂いき写真を撮らせて頂いた。
江戸文字書家の大家でありながら気さくで、礼儀正しいお人柄で近寄りやすい芸術家である。
橘 右之吉さんに造ってもらった柘植の板に漆でコールサインを書いて頂き愛用している。
橘さん曰く、ローマ字の江戸文字を書くことがあまり無いので良く覚えてます・・との由、ローマ字は「JR5EEK」で、私のアマチュア無線局のコールサインである。
今年も松山市でお逢い出来てよかった。



画像は、松山三越で江戸文字匠の技を披露している多忙な時間を割愛して頂き秋山兄弟生誕地にお越し頂き撮らせて頂いた。
江戸文字書家・橘 右之吉さんです。


お忙しい時間帯を割愛して頂き秋山兄弟生誕地、秋山好古騎馬像の前で。




お忙しい時間帯を割愛して頂き秋山兄弟生誕地、秋山眞之胸像の前で。


江戸文字書家「橘 右之吉」の招木。


橘右之吉さんが考案した除災厄「消し札」。


松山市の三越デパート展示品。・・今年はこれで「がんばろう日本」とある。


松山市の三越デパートで江戸文字匠の技を披露する「橘 右之吉」さん。


浅草寺本堂正面に掲示されている大提灯・・「志ん橋」、江戸文字の大家「橘 右之吉さん」が揮毫、この大提灯は東京新橋組合の有志が奉納したもので、提灯にはその東京新橋組合にちなんで、「志ん橋」と大きく書かれている。
昨年12月本堂の大提灯が10年ぶりに新調されたそうだ。
提灯は、京都の「高橋提灯」が製作し、鳥取県の手すき和紙、京都・丹波産の竹が使われていて、直径3.5メートル、高さ4.5メートル、重さ約600キロ。


浅草宝蔵門にも橘さん揮毫の提灯がある。
提灯は高さ約3.7メートル、幅約2.7メートル、重さ約400キロ。製作費は約400万円といい、中央区の日本橋小舟町の有志が町内の個人や商店、企業約190件の寄付を集め実現した。約340年前、同町の魚河岸商人の信徒らが提灯を奉納したのがきっかけで同町で受け継がれている。江戸開府400年を期に新調奉納された。
6月12日撮影


江戸文字匠の大家「橘 右之吉さん」が揮毫した・・雷門
直径3.6m、高さ4.5m、重さ750kg、松下電器(現パナソニック)の創業者松下幸之助が1960年に大提灯を寄進したそうです。
6月12日撮影


6月12日撮影

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NHK取材「秋山好古揮毫石碑」

2011年09月21日 | 伊予松山歴史散策
NHK取材「秋山好古揮毫石碑」

昨日松山市は、台風15号の影響で朝から雨であった。
HNK松山放送局が秋山好古揮毫記念石碑の取材をして頂いた。

好古揮毫記念石碑は、私が平成17年5月18日からある出来事が切っ掛けとなり写真取材を始め今年で6年になる。

平成23年6月10日現在全国に48基の石碑が発見されている。
その殆どが愛媛県内で、県外では東京都世田谷区に一基、千葉県船橋市に1基、習志野市に一基、鎌ヶ谷市に一基、静岡市に一基、新潟市に一基、魚沼市に一基、魚沼市に一番、この石碑が一番新しい石碑で6月10日に取材に行った。

昨日雨の中、松山市神田町にある厳島神社に建立されている「忠魂碑」と今治市大西町小山、薬師堂にある碑文「衆心和暢化乃成」の取材を受けた。
話の下手な私にとってカメラの前で話すのは非常に緊張いたしあまり中身のないものになったのではと心配しております。

兎に角、私の6年間の好古揮毫記念石碑取材の集大成としていい記念になります。
HNK松山放送局関係者の方々に御礼を申し上げます。

どのような形で放映して頂けるのか楽しみです。


松山市神田町厳島神社境内にある、秋山好古揮毫石碑「忠魂碑」で平成18年9月22日私が撮影。


松山市神田町厳島神社境内にある、秋山好古揮毫石碑「忠魂碑」、48基の内一番大きい石碑で高さ:4m63cmある。






今治市大西町小山にある薬師堂境内に建立されている秋山好古揮毫石碑。


今治市大西町小山にある薬師堂境内に建立されている秋山好古揮毫石碑で、高さ3m30cm、昭和3年1月建立、平成19年3月31日私が撮影。


石碑建立者は、当時越智郡小西村村長であった近藤大作氏が秋山好古に揮毫依頼して建立した。
昭和30年3月、小西村は、大井村と合併し大西町となり、平成17年1月に 今治市と越智郡11か町村の合併で新:今治市となり、地方自治体としての大西町の歴史を閉じた。
近藤大作氏は明治2年越智郡朝倉村の長井家次男として生まれ、愛媛師範学校を卒業して小学校の教員となり同41年小西村の近藤家に婿養子となる。そのご弓削小学校長、大正10年今治第二尋常小学校校長(現、美須賀小学校)に就任大正13年体調を崩し退職。昭和2年小西村村長に就任し昭和21年まで連続5期村長を務めた。石碑建立は昭和3年、大作氏は村長に就任し小西村の教育の振興に石碑を建立し寄与したいと教育者時代に親交があった教育者として名声を誇り尊敬する秋山好古に揮毫を依頼した。
これに応えた好古が揮毫した碑文が凄い
「衆心和暢化乃(しゅうしんわちょうかだいせい)」

その意味は、「皆の心がのびのびしていれば、やがて必ず教化(教育)は成就する」とい
うものである。
好古揮毫石碑の中で碑文が漢詩はこの石碑のみである。
教育者好古を垣間見ることが出来る。・・好古は凄い。


今治市大西町小山にある薬師堂境内に建立されている秋山好古揮毫石碑
昨日雨中の取材。


最近建立された好古揮毫石碑の説明版。・・雨の中傘をさして片手で撮影したため手ブレ状態。
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ことば「絆:きずな」

2011年09月20日 | 伊予松山歴史散策
ことば「絆:きずな」

松山市では、 平成12年より、市民参画を基本に松山らしい文化事業として、「ことば」をキーワードとした企画し、その核となる事業として全国より「ことば募集」を行っている。
そして、12,001点の応募作品の中から最優秀となった「恋し、結婚し、母になったこの街で、おばあちゃんになりたい!」をはじめ、数十作品を選考し、これらの作品を生かした様々な企画を展開している。
中でも、最優秀作品は作詞・作曲家の新井満氏により「この街で」という曲が作られ、 7組ものアーティストによってCD化され、松山が「ことばを大切にするまち」として全国に情報発信されている。

平成22年は、「絆:きずな」をテーマとした「だから、ことば大募集“2010」に国内外から1万2200点のことば作品が寄せられた。これらの心温まることばを松山の宝として、電車・バスの側面や松山空港、松山城リフト下などに提示している。

またJR松山駅・松山市駅では、平成12年の募集で市長賞に選ばれたことばを表現して生まれた曲「この街で」のメロディーが電車の発着音として流れている。
ことばの魅力で街を彩り、松山を訪れた人や市民に笑顔を届けるとともに、お持て成しの心でお迎えしている。

「この街で」誕生秘話
2000年6月、市民による「松山21世紀委員会」が設立。 委員会は、同年10月に、「21世紀に残したいことば」あなたのことばで元気になれる『だから、ことば大募集』を開催。
 全国から12,001作品の『ことば』が寄せられ、その中で、松山市長賞を受賞した、
『恋し、結婚し、母になったこの街で、おばあちゃんになりたい!』

この街で:作詞・作曲 新井 満
という作品は、5年の時を経て、『この街で』という歌を生みました。

1、この街で生まれ この街で育ち
この街で出会いました あなたとこの街で

2、この街で恋し この街で結ばれ
この街でお母さんに なりましたこの街で

3、あなたのすぐそばに いつもわたし
わたしのすぐそばに いつもあなた

4、この街でいつか おばあちゃんになりたい
  おじいちゃんになったあなたと 歩いてゆきたい
 
5、坂の上に広がる 青い空
  白い雲がひとつ 浮かんでる

 6、あの雲を追いかけ 夢を追いかけて
  よろこびも かなしみも あなたとこの街で

7、この街でいつか おばあちゃんになりたい
  おじいちゃんになったあなたと 歩いてゆきたい

8、この街でいつか おじいちゃんになりたい
    おばあちゃんになったあなたと 歩いてゆきたい
  
9、いつまでも好きなあなたと 
歩いてゆきたい

画像は、ことば大募集で寄せられた一部を紹介しよう。


路面電車(市内電車)に掲示されている。


路面電車上部側面に掲示。


松山空港出発ロービー階段に掲載。






松山城ロープウエイの危険防止ネットに掲示している。




路面電車(市内電車)側面上部に表示。






この街でのCDタイトル
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