EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

スペシャルドラマ「坂の上の雲」回顧録 5、 「 坂の上の雲」ラッピング列車伊予路を走る!!

2018年07月28日 | 伊予松山歴史散策

四国旅客鉄道株式会社(通称・JR四国)は「スペシャルドラマ 坂の上の雲」第2部の放映に伴いJR四国予讃線「特急しおかぜ」に坂の上の雲ラッピング列車として、平成22年10月25日~平成23年12月31日まで運転された。

運転区間は、松山駅から岡山駅区間で一日2本の列車が運転され、全国の撮り鉄さんは、いろんな場所から記念列車のシャッターを切った。

これを契機に、松山観光コンベンション協会では、ボランティアガイドが松山駅の改札口で待機して、特急しおかぜで松山観光に来られた希望者に対してガイドが引率し松山城と道後温泉を観光案内を行った。

観光ガイドは現在も継続して行っている。

JR松山駅1番ホームに停車中の岡山行き特急しおかぜ、特別列車「坂の上の雲ラッピング列車」8000系の電車である。

特急しおかぜ、特別列車にはドラマの主な出演者5人の肖像画(右から、秋山好古・秋山眞之・夏目漱石・正岡律・正岡子規)が描かれた。

予讃線上り特急しおかぜ8000系電車で列車編成は、8両編成途中、宇多津駅で6、7、8号車は切り離され特急いしづちとなり高松に向かい、1号車から5号車が特急しおかぜで岡山駅に向かう。

下り特急しおかぜ8000系電車は、宇多津駅で高松駅から来た特急いしづち3両を連結して松山に向かう。

なお、岡山から松山までは、特急しおかぜで所用時間2時間55分かかる。

坂の上の雲ラッピング列車は、「スペシャルドラマ 坂の上の雲」第2部の放映に伴いJR四国予讃線「特急しおかぜ」に坂の上の雲ラッピング列車として伊予路・讃岐路・備前路を走った。列車には、放映日時・時間等々そして第3部の放映日も記載されていた。

列車には、司馬遼太郎の筆である「坂の上の雲」ドラマの題字と主な出演者4人の肖像画が描かれた。この列車が毎日、「伊予路・讃岐路・備前路」を駆け抜けた。

ドラマの主な出演者4人の肖像画が列車の壁面にデザインされた。

JR四国予讃線の列車に、ドラマの特別仕様列車が運転されることは今後ないのではないでしょうか?・・それで撮り鉄の皆さんが大勢来られた。

列車には坂の上の雲の舞台である松山の観光地「道後温泉・松山城」も描かれた。

いま松山城は、行って良かった日本の城ランキング第3番目にランクされています。是非松山城観光にお越し下さい。

ラッピング列車は、平成4年8月から運転開始した初代特急しおかぜ8000系電車「特急しおかぜ」が使用された。

参考までに:昭和47年3月15日、四国で初めてとなる予讃線に「特急しおかぜ」が運行開始された。当時は電化されてなく列車は気動列車であった。

予讃線の電化は高松側から部分電化が行われ、松山まで電化されたのは平成5年3月18日であった。その時初代特急しおかぜが8000系電車であった。

画像は、岡山駅に停車中のJR四国2代目の「特急しおかぜ8600系電車」で、平成26年6月23日から運転開始した。順次8600系に変更されるそうです。

 

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スペシャルドラマ「坂の上の雲」回顧録 4、 全国知事会(松山大会)

2018年07月20日 | 伊予松山歴史散策

西日本豪雨で災害を受けた自治体は、8府県その中でも甚大な被害があったのが、広島・岡山・愛媛で多くの尊い犠牲者が出た。平成の大水害災害である。大自然の力は凄まじく恐ろしい。

これから復旧・復興の陣頭指示をして行かれるのが首長さんでご苦労が待っている。

これから画像で紹介するのは、平成25年7月8日・9日の2日間にわたり愛媛県松山市において、全国知事会議が開催された。その前日に開かれたプレイベント「愛媛の文化を感じる街歩き」が4カ所で開かれた。その一つの会場「俳句作り」の回顧である。

今回の全国知事会議での意見交換の中、「泉田新潟県知事から防災・減災事業に対する協力や支援について」「佐藤福島県知事からは避難者受入れ自治体への財政措置の感謝と、復興のインフラ整備にかかる技術者不足の状況に対する協力の依頼について発言があった。」

此れは5年前の知事会の意見交換で発言された一部である。今回の、西日本豪雨災害復旧復興に値する事項で該当する首長さんの力が欠かせないし、被災地えの限りない努力と支援が必要である。

すでに吸水支援、ごみ処理支援が始まっているが、膨大なごみ処理を如何に迅速に行うかが最大の課題で各首長さんの支援が必至である。

さて、此れからの画像は、NHKスペシャルドラマ坂の上の雲の主人公である秋山兄弟生誕地で俳句作りに挑んだ8名の知事さんの光景回顧画像である。

参加された8名の知事さん既に引退された知事さん、現役で活躍されている知事さん今後益々のご活躍と自治体のご発展を御祈念申し上げます。

 

全国の知事さんに愛媛県の文化を味わってもらいたいとプレイベント「愛媛の文化を感じる街歩き」が市内4カ所で開かれた。

その一つが、小説「坂の上の雲」の主人公である秋山兄弟生誕地での俳句作り会場となる秋山兄弟武道場である。

画像は、参加される8名の知事さんをお迎えする武道場で、この日は梅雨明けしたかのような天候で場内は室温32度・・冷暖房設備なしです。

所定の席に着かれ、夏井教室長から俳句の心得を伝授されて、8名の知事さんがいよいよ句を詠む、32度の熱気意を吹き飛ばすこの後名句が詠まれた。

夏井教室長は、ご存知の通り、TV番組「プレバト才能ランキング」俳句部門で辛口の査定する夏井いつきさんです。

夏井教室長から俳句の心得を伝授されて真剣に俳句を詠む中村時広愛媛県知事さん。

夏井教室長が指導した俳句作りを参考にして真剣に俳句を詠む、嘉田由紀子滋賀県知事さんももっか思案中。

参加知事さんが詠んだ句は色紙に書かれ、夏井教室長が一句・一句読み上げて紹介、嘉田由紀子滋賀県知事さんが詠まれた句を紹介すると会場から大きな拍手が起こった。

画像は、「TV・プレバト才能ランキング」俳句部門で辛口の査定する夏井いつきさんが講評する嘉田由紀子滋賀県知事が詠んだ句で好評を得た。

句を詠み終わった知事さん達は一安心。

知事さん達が詠まれた句を、夏井さんが講評、(TV・プレバト才能ランキングの様な辛口のいい方でなく)思いやりのある優しさを帯びた口調で批評した。そして詠まれた各知事さんからの思いも発言された。

参加知事が詠んだ句に対して素晴らしいと絶賛する中村時広愛媛県知事さん。

中村時広愛媛県知事が松山市長時代、松山を坂の上の雲を基盤とした街づくりをした。その主人公の秋山好古・秋山眞之の生誕地で、正岡子規が俳句を近代文学としての位置を確立したその俳句を詠んだ8名の知事さんは素晴らしいの一言で、中村時広愛媛県知事もひとしおの深い思いがあったのではないでしょうか。

各知事が詠んだ句を会場に掲示。

知事さん達が詠まれた句。

嘉田由紀子滋賀県知事さんが詠まれた句で、嘉田滋賀県知事さんの了解を得て秋山兄弟生誕地に頂き所蔵している。

秋山兄弟生誕地の足立研究員の説明を受ける吉村美栄子山形県知事さん。

吉村山形県知事さんは、秋山兄弟生誕地の研究委員からの説明に関心深く聞きいっておられた。

秋山兄弟生誕地の見学に来られた観光客の要望に答えられ写真を撮られる吉村美栄子山形県知事さん。

平成17年1月19日から一般公開された秋山兄弟生誕地、8名の県知事さんと多くの関係者の来館は初めての事であった。

俳句体験教室も無事終了し、多忙な御身の知事さんたち時間の許す限り秋山兄弟生誕地を見学されて帰られた。

美人の「吉村美栄子山形県知事」さんの名刺。

有名であった「嘉田由紀子滋賀県知事」さんの名刺。

滋賀由紀子県知事さんは、当時新幹線新駅問題で連日のようにTVで流れ有名になった。

吉村美栄子山形県知事さん。

名刺には、山形産米「つや姫」が書かれている・・美しく美味しいお米。

ご自分もつや姫の如く美人の知事さんでした。

秋山生誕地に観光に来られた人達は、美人の知事さんと一緒に写真を撮りたいと騒いでいた。

 

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西日本豪雨お見舞い申し上げます

2018年07月16日 | 伊予松山歴史散策

平成30年7月発生「平成の大水害・西日本豪雨」で被災されました皆様お見舞い申し上げます。

皆様の一日も早い生活再建をお祈りいたします。

そして、ボランティアとして活動されている皆様ご苦労様です。

広島県・岡山県・愛媛県地区では特に甚大な災害が発生し、尊い命が失われました。

全国各地の県警・消防・企業局・医師団・自衛隊・それ以外で派遣されている皆さん方の救助活動が毎日のようにTVで報道されており猛暑の中ご苦労様です。

また、TVで報道されていない地区でも被害が出ています。

私の住まい松山市では、怒和島の被害状況は度々報道されましたが、報道されてない地区で土砂崩れが発生、家屋が倒壊し被害が出ています。ボランティアの皆さんが参加して復旧作業のお手伝いをされています。この所松山も34度を超える猛暑の中の作業ご苦労様です。

被災された皆様、ボランティアの皆さん、ボランティアを助けるボランティア、恩返し支援をされる方々、全国の自治体から派遣され活動されている皆さん御身大切にされながらご活動されて下さい。・・皆様ご苦労様です。

一日も早いご再建をお祈りいたします。

 追記:ボランティア活動を装い被災地に入込み如何わしい行動をする者がいるそうです。

 私の呟き

私たちの代表である国会議員が、観測史上類の無い最大級の豪雨と予報報道されていたにもかかわらず宴会を行い、その様子を画像で流すその行為が信じられない。

日本国家を支えて行くはずの政治家も地に落ちたものだ。

この所、政治家・官僚達の目に余る行為の続出に大喝だ。

 

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秋山兄弟生誕地、研究員研修・海上自衛隊第一術科学校(旧海軍兵学校)

2018年07月10日 | 伊予松山歴史散策

画像は、海上自衛隊幹部候補生学校舎(旧海軍兵学校生徒館・通称赤レンガ)。

 秋山兄弟生誕地で奉仕活動をしている、研究員各位は毎年県外研修を行い研鑽している。

今年度の研修地は、広島県江田島にある海上自衛隊第一術科学校(旧海軍兵学校)で7月4日(月)に実施した。

研修でお世話ななった広報担当の海上自衛隊員による適切なる案内と、教育参考館で詳細な説明を受け新たな知識が習得出来た。

前回、平成19年10月29日に伺った時は、教育参考館が改装中で重要な資料を見る事が出来なかったが、改修工事も完了し、案内をして頂いた広報担当海自隊員の素晴らしい説明で最高の学習が出来た。

これから全国から秋山兄弟生誕地にお越しになられる皆さん方を新しい形でご案内出来る事を確信した。

画像は、第1術科学校学生館。
海上自衛隊幹部候補生学校舎(通称赤レンガ)の西隣にある建物で、兵学校西生徒館として昭和13年に建てられたが、昭和31年、横須賀にあった術科学校がここ江田島に移転し、現在第1術科学校学生館として使用されている。
もともとはクリーム色の3階立ての建物だったが老朽化に伴い、平成10年から全館改築し、真新しい現在の建物となったと説明を受けた。

大講堂。

鉄骨煉瓦石造の大講堂は大正6年に兵学校生徒の入校式、卒業式また精神教育の場として建築された建物で、外壁には瀬戸内海産の花崗岩を使い、内部はほぼ吹抜けとなっており、約2000名の収容能力があり、90年以上経った今日も、変わらぬ姿で建っている。現在は幹部候補生、第1術科学校の学生等の入校式、卒業式等儀式に使用している。

NHKスペシャルドラマ坂の上の雲のロケにも使われた。

 

大講堂の内部。

入出時には、脱帽・一礼する。

広報担当の海自隊員から説明を受ける秋山兄弟生誕地研究員。

海上自衛隊第一術科学校・中畑康樹学校長先生が大講堂で秋山兄弟生誕地の研究員各位を笑顔で迎えて頂いた。

中畑康樹学校長は、愛媛県立松山東高校卒で秋山眞之の後輩になりで迎えは特別な計らいであった。

今年3月21日開催された秋山眞之生誕150年祭に際し、秋山兄弟武道館で特別講演をして頂いた。

3月21日開催された秋山眞之生誕150年祭を記念し、秋山兄弟武道館で特別講演をされる海上自衛隊第一術科学校・中畑康樹学校長。

3月21日開催された秋山眞之生誕150年祭で、皆さんのご要望により、秋山眞之胸像横に立たれて記念写真撮影された海上自衛隊第一術科学校・中畑康樹学校長。・・この時も笑顔が絶えなかった。

中畑康樹学校長と記念撮影です。

中畑康樹学校長は何時も絶やさぬ笑顔が素晴らしい。

海上自衛隊第一術科学校・幹部候補生学校舎(旧海軍兵学校生徒館・通称赤レンガ)。

通称「赤レンガ」と呼ばれ有名な、幹部候補生学校校舎、明治26年に海軍兵学校生徒館としてその生活、教育のため建築された。
設計は、東京築地にあった兵学校も手がけたイギリス人建築家によるもので、屋根は建築当初は日本瓦葺であったが、明治38年の安芸灘地震後にスレート葺に葺き替えられた。大切な生徒を親御さんから預かり、瓦が落ちて怪我をさせては大変だと言う事で葺き替えられた最大の理由だそうだ。

レンガは英国製で、一つ一つ紙に包み軍艦で輸送、現在の価格に換算すると一個が一万数千円に値するそうだ。明治26年に建造され使われているレンガの色は殆ど変わっていないと説明があった。・・一説には日本製のレンガも使われているとか?です。

海上自衛隊第一術科学校・幹部候補生学校舎の裏側で、表とは全く違った様子である。

赤レンガ校舎の(幹部候補生学校舎)の廊下。

この砲台は、戦艦「陸奥」の4番主砲として搭載されていた40センチ砲で海軍兵学校生徒の教材として昭和10年移設されたそうで、終戦後GHQに接収された時期があった。

戦艦「陸奥」の4番主砲この位置から西方向に発射すると山口県岩国市にある錦帯橋までは届くそうです。

武道館。

海上自衛隊第一術科学校の武道館で、学校内の建造物の中、唯一の日本風建造物である。

この日は剣道の錬成をしていた。

水交館。

明治憲法公布の前年、明治21年に「集会所」として建築され、江田島地区で現存する最も古い建築物。以後、「文庫館」、「図書館」、「会議所」、「将校集会所」使用目的で名称変更しながら、終戦まで使用されたと説明があった。
終戦後、進駐軍接収時には、牧師等の宿泊所としても使用されたが、海上自衛隊に返還後は「水交館」と名称し国内外の来賓の接遇等に使用しているそうだ。

水交館の庭で、坂の上の雲のロケにも使われた。

水交館には何故か沢山の灯篭が設置してあった。

教育参考館横には、日清戦争で活躍した三景艦(松島、橋立、厳島)の主砲砲弾、その右に戦艦大和の主砲砲弾、そして昭和16年、真珠湾攻撃に使用された特殊潜航艇5隻の内の1隻が展示されている。

教育参考館。

海上自衛隊第一術科学校内の撮影は許可されているが、教育参考館内は撮影禁止であった。防止の着用も禁止である。

教育参考館入口には「脱帽・禁煙・館内撮影禁止・携帯電話禁止・飲食禁止」の掲示板がある。

建物は、ギリシャ神殿風の鉄筋コンクリート造の2階建て、この教育参考館は、先輩の偉業を偲び、「温故知新」によって自己修養と学術研鑽の資とするため、兵学校卒業生の積立金及び一般企業等の寄付をもって、昭和11年(1936)に建築されたそうだ。
 教育参考館には、戦前約40,000点の歴史的資料が保存されていたそうだが、終戦時、一部の貴重な資料を厳島神社、大山祗神社等に奉納した他は、進駐軍による没収を恐れ焼却処分とされたとある。
 現在は、返却された資料等約16,000点を保存しており、そのうち約1,000点を展示しているとの由。
 主な展示資料・・勝海舟の書・広瀬武夫中佐の資料・特別攻撃隊、関行男の資料・特攻隊員の遺書・横山大観画伯の富士を描いた「正気放光」・秋山好古の書「自学自活」・秋山眞之が描いた「鯉の滝登り」、等がある。年間約7万人の見学者が同館を訪れているそうだが、特にNHKスペシャルドラマ坂の上の雲が放映された3年間は見学者が多かったそうだ。

今回最大の研修場所である教育参考館で、前回は改修工事中であった。

教育参考館は、昭和時代宝物館と言っていたし、展示資料や展示方法が大分変更していた。

昭和40時代に一度見学しているが、その時専任で案内をされていた人が居られた。

その方は、旧海軍特別攻撃隊員で生存者の方で、生き残った自分の命を何か役に立てたいと思い、お願いして宝物館の案内人として説明をさせて頂いていますと語られたのを覚えている。その方の説明を受けると見学者の殆どが涙を流しながら聞き入っていた。

特に印象に残ったのが、愛媛県西条出身の特別攻撃隊、関行男の説明で、外国人は関行男の遺影の前に来ると暫く移動しなかった。この顔は日本海軍が作り上げた顔であると言われた。・・との説明を受けた言葉が未だに頭の隅に残っている。今回、関行男の遺影を見たが小さかった。以前はもっと大きかった印象がある。遺影を小さくしたのか?

研修も予定の日程は終了し退出する研究員。

NHKスペシャルドラマでもロケが行われ、秋山眞之を演じた本木さんも一日体験学習をされ一泊された。

海軍兵學寮跡の石碑

碑 名:海軍兵學寮跡・海軍軍醫學校跡。

所在地:東京都中央区築地五丁目1番1号・国立ガンセンター内。

画像は、平成17年9月12日、国立ガンセンター管財課の許可を得て撮影した。

海軍兵学校の起源は明治2年創設の海軍操練所で、翌年海軍兵学寮と改称、さらに明治9年に海軍兵学校と名前を改めた。明治3年海軍兵学寮に入学した生徒から第1期生とした。

明治16年東京で初めての赤煉瓦造りの生徒館が落成、この建物は東洋一大きな2階建ての堂々たるもので、あと海軍大学校の校舎となる。

明治21年8月13日兵学校は江田島に移転する。

秋山眞之、「第17期生」で、広瀬武夫は江田島に移転した最初の卒業生で、「第15期生」・山本五十六は「第32期生」・関行男は「第70期生」・源田実は「第52期生」である。

 

海軍兵學寮跡記念石碑の裏面。

海軍兵學寮跡記念石碑の後ろは、首都都心環状線外回り銀座入口ゲートで防御用の金網があり写真撮影は難しい。

昭和19年10月25日、神風特別攻撃隊である敷島隊を指揮し、自らの命と引き換えに敵空母を撃沈した。神風特別攻撃隊第一号隊長である関行男中佐の慰霊碑。

23歳の若さであった。

昭和50年3月、愛媛県西条市の楢本神社に、関行男中佐の慰霊碑が建立されたが、この慰霊碑建立に源田実が尽力をされ、慰霊碑裏面に源田実が撰文した碑文が揮毫され除幕式にも参列されたそうだ。

江田島の旧海軍兵学校の教育参考館(以前は宝物館と言っていた)に、関行男中佐の遺影が展示してあるが、外国から見学に来られた方々は、遺影の前で暫く立ち止まり微動だにせず真剣に見られ、この顔は日本海軍が作った顔だと言われたそうだ。

関行男中佐の慰霊碑の裏面で、撰文は源田実が書いた。

旧海軍兵学校全図・・海上自衛隊第一術科学校資料より引用。

 

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スペシャルドラマ「坂の上の雲」回顧録 3、 大石尚子氏(秋山眞之の孫)

2018年07月01日 | 伊予松山歴史散策

平成21年3月20日、秋山眞之生誕141年祭にお越しになった時、祖父、眞之胸像の前で挨拶される大石尚子さん。上品で、おしとやかで、清楚な方でした。

大石尚子さんのお母さんは、秋山眞之の次女・宜子さんです。

宜子さんは、大石宗次(海軍兵学校第54期生)、に嫁ぎ尚子さんは長女として、広島県江田島に生まれました。

平成19年3月21日、開催した秋山眞之生誕139年祭にお越しになった時挨拶される大石尚子さん。

尚子さんは、横浜国立大学卒業、神奈川県議会議員を5期18年勤め、その後、衆議院議員・参議院議員を務められました。

また、A.K.I.合気道研究会インターナショナル会長、記念戦艦三笠保存会評議委員などを務められ、平成24年1月4日、呼吸不全のため急死されました。享年75歳でした。

 

平成23年11月3日に開催した「秋山眞之生誕143年祭」で挨拶をする大石尚子さん。

 平成21年3月20日、秋山眞之生誕141年祭にお越しになった時挨拶される大石尚子さん。

平成23年11月3日、眞之生誕143年祭献茶のあと、眞之の大好物「いり豆」を供える、大石尚子さん・・以降このような光景も見る事が出来なくなりました。・・この時眞之は・・尚子有難うと言っただろう。

最後となった祖父眞之胸像との記念写真。平成23年11月3日撮影。

秋山兄弟生誕地は平成17年1月18日、生家・秋山好古・眞之の銅像が復元され、生誕祭の開催は、平成17年3月21日、眞之の生誕祭から初めました。

好古の生誕祭は、翌年1月8日、に生誕148年祭を行い、毎年開催いたしています。

秋山好古は、安政6年1月7日生まれなので、毎年1月10日前後の日曜日に開催し、秋山眞之は、慶応4年3月20生まれなので、毎年3月の春分の日に開催いたしています。

なお、東日本大震災が発生した平成23年の眞之生誕祭は11月3日に変更して開催いたしました。

平成21年3月20日、開催した秋山眞之生誕141年祭にお越しになった時の大石尚子さん。

この時はお元気でした。

平成19年3月2日、秋山眞之生誕139年祭で挨拶をされる、旧伊予松山15万石藩主・第18代当主、久松定成氏(財団法人常盤同郷顧問・靖国神社崇敬奉賛会会長・愛媛大学農学部教授)秋山眞之生誕祭最後の挨拶となりました。

平成20年4月3日逝去され享年81歳でした。

大石尚子さん、旧伊予松山藩主・第18代当主、久松定成さん、そして秋山兄弟生誕地研究員と撮られた最後の写真です。

平成19年3月21日、開催した秋山眞之生誕139年祭にお越しになった時、秋山兄弟生誕地研究員、河端さんと仲良く写真撮影に応じられ気さくなお人柄でした。

平成21年3月20日、秋山眞之生誕141年祭にお越しになった時、式典も終わり関係者と煎茶を召しあがられる大石尚子さん。

秋山眞之生誕祭は当初は、外庭で行っていました。

生誕祭は、平成23年から武道場で開催する事になりました。

平成23年11月3日、生誕祭を武道場に変更しての茶話会で、大石尚子さん最後となった眞之生誕祭です。

大石尚子さんの偉大なる祖父、秋山眞之です。

秋山眞之のカラー仕様の肖像画です。

原画は大正4年に撮影した写真を基にして、芸大卒の有名な画家が描かれました。日本に二つしかない貴重なカラー仕様の肖像画で、一つは千葉県習志野市大久保商店街資料館に展示されており、後の一つが松山市の秋山兄弟生誕地・秋山兄弟武道場に掲げてあります。

眞之のカラー肖像画は千葉県習志野市大久保にある、真言宗豊山派薬師寺、三橋秀紀住職さんからの寄贈です。

秋山眞之の家族で、前列右、眞之の夫人「季子(スエコ)」左、長男「大(ヒロシ)」。

後列右、四男「全(ヤスシ)」、長女「少子(ワカコ)」、次女「宜子(タカコ)」、左上円の中は三男「中(タダシ)」。

次女「宜子」さんが、大石尚子さんのお母さんです。

母・宜子さんは、大石宗次(海軍兵学校第54期生)、に嫁ぎ、尚子さんは長女として、広島県江田島に生まれました。

眞之の母・貞は、六人の子どもを授かり、一番可愛がったのは末っ子の、淳五郎(眞之)であった。腕白坊主で一番手が掛かったが、可愛かったそうです。

眞之が季子と結婚する時に、貞は、季子に対して「私の一番大切な眞之をお前さんに差し上げるのだから」と母・貞は言ったそうだ。眞之を非常に可愛がって大事にしていた。眞之も母をひどく敬愛していた。・・この記述は昭和8年2月10日、発行の伝記・秋山眞之に記載されています。

大石尚子さんは、A.K.I.合気道研究会インターナショナル会長をされていた関係で秋山兄弟武道場に、合気道を開設する事を提唱され、秋山兄弟合気道部の顧問をされておられました。今も名札には、黒の紋章を飾り大切に掲示してあります。

また、大石尚子さんは、戦艦三笠記念艦保存会評議委員を務めておられました。

秋山兄弟武道場には、開祖・二代目道主・当代道主の写真を掲示してあります。

写真上から、

合氣道開祖:植芝 盛平

二代目道主:植芝 吉祥丸

当代道主 :植芝 守央

秋山兄弟合気道道場の公認證。

大石尚子さんが残した遺産の一つです。

秋山兄弟武道場は、明治21年、大石尚子さんの祖父・秋山眞之が提唱して出来ました伊予松山で文武両道の青少年育英を目的にして発足した団体が、「松山同郷会」でその名残として武道場があり、合気道と柔道の錬成が現在も行われています。

大石尚子さんは、秋山兄弟合気道部の顧問をされていて、平成23年10月に秋山兄弟合気道部開場5周年記念式典にもお元気でご臨席され、ご逝去が信じられない!!事でした。

ご冥福をお祈りいたします。

 松山同郷会と常盤会についてご説明しておきます。

秋山兄弟生誕地の管理運営母体である、公益財団法人常盤同郷は、明治21年、秋山眞之が提唱して出来ました伊予松山で文武両道の青少年の育英を目的にして発足した団体が、「松山同郷会」であり、旧伊予松山15万石藩主・久松家の当主、久松定謨が創設した伊予松山藩主の子弟が東京で勉学するための組織が「常盤会」で、その学生寮が「常盤会寄宿舎」であります。

昭和28年、「松山同郷会」と「常盤会」を統合して「財団法人常盤同郷」が発足し、常盤会寄宿舎は「常盤学舎」と名称を変更、昭和30年、東京都文京区本郷四丁目10番13号から、東京都東久留米市中央区四丁目18番17号に移転し現在に至っています。

平成22年4月1日、財団法人常盤同郷は、公益財団法人愛媛県認定第一号を頂、青少年育英を目的とする団体として活動しています。

 

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