今まさに平成の城郭散策ブーム、伊予松山城にも全国から多くの方々が来られる。
伊予松山城には5つの日本一があり、その中でも全国一の規模を誇る登り石垣が現存しこれを紹介します。
初めに
第1番目:近世(安土桃山時代から江戸時代)に創建された天守の内最後に建築された天守です。今から157年前(安政元年・1854年)に再建された。
現存する12天守の内・・一番新しい
第2番目:築城に要した年月日が27年を要した・・一番長い期間
第3番目:本丸と二之丸の落差が90m・・一番距離が長い
第4番目:石垣が美しい・・本丸の石垣「屏風折れの石垣」が綺麗
第5番目:藩政時代の城郭の中で3ヶ所しかない登り石垣が現存する、それも・・一番規模が大きい
登り石垣を有する城は、洲本城・彦根城・伊予松山城である
註:二之丸御殿は海抜39mにある。
日本最大の登り石垣について画像を交えて紹介しよう。
1602年1月15日に加藤嘉明が伊予松山城築城に着手、まだ松山城とは命名してなかった。
1602年10月に仮り御殿が出来、松前城から家臣と住民とともに居を新城下に移しこの時嘉明は、この地を「松山」とすると言い松山の名称が公にされた。
嘉明は、築城を開始した際、国内最大級の登り石垣を南面と北面に築いた。
朝鮮出兵で倭城(安骨浦城)を築城した嘉明はこの時の技を松山城築城に生かしている。
松山城は、本丸と二之丸御殿までの落差が90mもあり広い二之丸を敵の攻撃から防御するために南面と北面に登り石垣を構築し、その上に渡り塀と櫓を築き守りを固めた。
南面登り石垣は、二之丸巽櫓から始まり、本丸大手門に達する山腹90mに及ぶ高低差を数箇所の段差つきの屏風折れの石垣で処理し、塀にも勾配を持たせて築造された。
明治維新後に北面の登り石垣は何らかの理由で取り壊されており、殆どその形跡は残ってなく石垣の流用先も不明である。
南面の登り石垣は完全な状態で保存されていて規模は、長さ233m、高さ5mある。しかし近年石垣に隣接している樹木の根の侵食で石垣が外側に押し出され孕んできている。
これを防ぐ為に樹木を伐採して石垣の保護をした。(松山城の樹木は昭和63年に愛媛県が天然記念物に指定し勝手に伐採出来ない)松山市は、文化庁、愛媛県と伐採の理由を説明し、国、県から現状変更の許可を得た。
その結果、南面の登り石垣から2m以内の樹木を伐採、石垣の上に生えた直径70cm樹齢100年のアベマキもあった。根は約50年掛けて腐りその間に石が元の位置に戻ると考えている。
註1:彦根城
1603年から幕府普請により築城が開始された際、登り石垣が築かれており、現在まで良好な形で保存されている。
註2:洲本城
脇坂安治が石垣の大改修した際、登り石垣を設けているが、一国一城令で破却されたこともあり、遺構としての石垣の保存状態はあまり良くはない。
画像は、藩政時代国内最大規模を誇った伊予松山城の登り石垣です。
伊予松山城鳥瞰図で天守は、5層であるから加藤嘉明時代20万石・蒲生忠知24万石・松平定行15万石時代の伊予松山城である。
註1:加藤嘉明、寛永4年(1627年)40万石で会津藩に転藩
註2: 蒲生忠知、寛永4年(1627年)出羽国の上ノ山城主であったが24万石で伊予松山藩主として入城、4万石は近江国日野にあった。忠知が二之丸御殿を完成し伊予松山城が完成する。
註3:寛永11年(1634年)忠知は、参勤交代の途中京都で病死、30歳で世継ぎがなかったので断絶した。その後伊予松山藩は城主を失い幕府の命令により大洲藩預かりとなる。これを伊予松山藩在番時代と言う。
註3:寛永12年(1635年)7月伊勢国の桑名城主、松平定行が15万石で藩主となり、この時に5層の天守を3層に改築する。・・このイラスト図はこの時代のものである。
三層天守改修工事は寛永16年(1639年)8月に着手、同年19年(1642年)に完成している。
さて、これから紹介する登り石垣は、鳥瞰図に記載している本丸から、二之丸御殿、落差90mの敷地を警護防衛の為の施設で、南面の登り石垣である。
北面の登り石垣は上部乾門下の石垣と接続するがその部分しか残っていない。
註4:香川元太郎氏作成イラスト図引用
この古地図は文久4年(1864年)第13代松平勝成時代の古地図である。
註:松山市作成図引用
画像は現在の伊予松山城、三之丸から撮影した。
南側の登り石垣の始まりを見てもらうために掲示、二之丸御殿が山麓海抜39mあり位置も確認出来るから・・二之丸御殿は、伊予松山藩主の邸宅で、平成4年4月二之丸史跡庭園として一部建造物(四脚御門・多聞櫓・米蔵)を復元して、表御殿跡は、柑橘・草花園として、奥御殿跡は流水園として平面復元として表現、一般公開している。
二之丸御殿跡で、昭和59年から文化庁の指導を受けながら3年間を費やし藩邸建物跡の発掘調査が行われ、貴重な遺構が検出されたことから、これを恒久的に保存し松山城の威容をさらに高め市民の安らぎの空間として活用する新しい目的によるものであった。
その後史跡庭園として整備が行われ、平成4年4月に文化庁長官臨席の下落成式が挙行され、伊予松山城二之丸史跡庭園として一般公開され、また年間を通して多彩な文化行事が行われている。
先ほど南登り石垣と明記した所でこれから日本最大規模の「長さ233m高さ5m」登り石垣が始まる。
登り石垣が始まる・・始めの石垣は5m以上の高さがある。
登り石垣中間所で、石垣保護の為に233m、石垣から2m内の樹木を伐採した。
伐採して直ぐであるため木々の取り除き作業が出来てない。撮影は平成19年3月4日
数箇所に及ぶ屏風折れの工法で構築されている。
画像は、平成19年3月4日に開催された登り石垣現地説明会に参加した松山市民 その時の画像で、講師は愛媛大学の内田教授、前日に 韓国の倭城の説明会が開催され、講師は、大韓民国釜山東三洞貝塚展示館館長・釜山博物館学芸研究士の・羅東旭 氏を迎えて行われ、現地説明会にも参加され盛大に行われた。
説明会には現地で愛媛大学生が登り石垣の実測も行った。
下で指示を出す方が愛媛大学内田教授である。・・このあたりに沢山の刻印が見られる。説明会で特別に見やすくする為に白墨を入れた。
登り石垣にある刻印。
画像は、登り石垣上部「内側」で、石垣の上に生えた直径70cm樹齢100年のアベマキもあった。根は約50年掛けて腐りその間に石が元の位置に戻ると想定している。
南側の登り石垣は本丸大手門下の石垣と接続していて、人が居る上の石垣が本丸の石垣で、これと接続する。当時は石垣の上に渡り塀があった。
この石垣は、北側の登り石垣で、本丸乾門下の石垣と接続する。
現在はこの部分のみ残っている。
その他の石は明治時代になり何処かに流用され跡形もなく流用先も不明いである。
上に見える櫓は乾櫓である。
本丸屏風折れの石垣「普段は入れない所なので貴重な画像である」高さ13mある。
伊予松山城には5つの日本一があり、その中でも全国一の規模を誇る登り石垣が現存しこれを紹介します。
初めに
第1番目:近世(安土桃山時代から江戸時代)に創建された天守の内最後に建築された天守です。今から157年前(安政元年・1854年)に再建された。
現存する12天守の内・・一番新しい
第2番目:築城に要した年月日が27年を要した・・一番長い期間
第3番目:本丸と二之丸の落差が90m・・一番距離が長い
第4番目:石垣が美しい・・本丸の石垣「屏風折れの石垣」が綺麗
第5番目:藩政時代の城郭の中で3ヶ所しかない登り石垣が現存する、それも・・一番規模が大きい
登り石垣を有する城は、洲本城・彦根城・伊予松山城である
註:二之丸御殿は海抜39mにある。
日本最大の登り石垣について画像を交えて紹介しよう。
1602年1月15日に加藤嘉明が伊予松山城築城に着手、まだ松山城とは命名してなかった。
1602年10月に仮り御殿が出来、松前城から家臣と住民とともに居を新城下に移しこの時嘉明は、この地を「松山」とすると言い松山の名称が公にされた。
嘉明は、築城を開始した際、国内最大級の登り石垣を南面と北面に築いた。
朝鮮出兵で倭城(安骨浦城)を築城した嘉明はこの時の技を松山城築城に生かしている。
松山城は、本丸と二之丸御殿までの落差が90mもあり広い二之丸を敵の攻撃から防御するために南面と北面に登り石垣を構築し、その上に渡り塀と櫓を築き守りを固めた。
南面登り石垣は、二之丸巽櫓から始まり、本丸大手門に達する山腹90mに及ぶ高低差を数箇所の段差つきの屏風折れの石垣で処理し、塀にも勾配を持たせて築造された。
明治維新後に北面の登り石垣は何らかの理由で取り壊されており、殆どその形跡は残ってなく石垣の流用先も不明である。
南面の登り石垣は完全な状態で保存されていて規模は、長さ233m、高さ5mある。しかし近年石垣に隣接している樹木の根の侵食で石垣が外側に押し出され孕んできている。
これを防ぐ為に樹木を伐採して石垣の保護をした。(松山城の樹木は昭和63年に愛媛県が天然記念物に指定し勝手に伐採出来ない)松山市は、文化庁、愛媛県と伐採の理由を説明し、国、県から現状変更の許可を得た。
その結果、南面の登り石垣から2m以内の樹木を伐採、石垣の上に生えた直径70cm樹齢100年のアベマキもあった。根は約50年掛けて腐りその間に石が元の位置に戻ると考えている。
註1:彦根城
1603年から幕府普請により築城が開始された際、登り石垣が築かれており、現在まで良好な形で保存されている。
註2:洲本城
脇坂安治が石垣の大改修した際、登り石垣を設けているが、一国一城令で破却されたこともあり、遺構としての石垣の保存状態はあまり良くはない。
画像は、藩政時代国内最大規模を誇った伊予松山城の登り石垣です。
伊予松山城鳥瞰図で天守は、5層であるから加藤嘉明時代20万石・蒲生忠知24万石・松平定行15万石時代の伊予松山城である。
註1:加藤嘉明、寛永4年(1627年)40万石で会津藩に転藩
註2: 蒲生忠知、寛永4年(1627年)出羽国の上ノ山城主であったが24万石で伊予松山藩主として入城、4万石は近江国日野にあった。忠知が二之丸御殿を完成し伊予松山城が完成する。
註3:寛永11年(1634年)忠知は、参勤交代の途中京都で病死、30歳で世継ぎがなかったので断絶した。その後伊予松山藩は城主を失い幕府の命令により大洲藩預かりとなる。これを伊予松山藩在番時代と言う。
註3:寛永12年(1635年)7月伊勢国の桑名城主、松平定行が15万石で藩主となり、この時に5層の天守を3層に改築する。・・このイラスト図はこの時代のものである。
三層天守改修工事は寛永16年(1639年)8月に着手、同年19年(1642年)に完成している。
さて、これから紹介する登り石垣は、鳥瞰図に記載している本丸から、二之丸御殿、落差90mの敷地を警護防衛の為の施設で、南面の登り石垣である。
北面の登り石垣は上部乾門下の石垣と接続するがその部分しか残っていない。
註4:香川元太郎氏作成イラスト図引用
この古地図は文久4年(1864年)第13代松平勝成時代の古地図である。
註:松山市作成図引用
画像は現在の伊予松山城、三之丸から撮影した。
南側の登り石垣の始まりを見てもらうために掲示、二之丸御殿が山麓海抜39mあり位置も確認出来るから・・二之丸御殿は、伊予松山藩主の邸宅で、平成4年4月二之丸史跡庭園として一部建造物(四脚御門・多聞櫓・米蔵)を復元して、表御殿跡は、柑橘・草花園として、奥御殿跡は流水園として平面復元として表現、一般公開している。
二之丸御殿跡で、昭和59年から文化庁の指導を受けながら3年間を費やし藩邸建物跡の発掘調査が行われ、貴重な遺構が検出されたことから、これを恒久的に保存し松山城の威容をさらに高め市民の安らぎの空間として活用する新しい目的によるものであった。
その後史跡庭園として整備が行われ、平成4年4月に文化庁長官臨席の下落成式が挙行され、伊予松山城二之丸史跡庭園として一般公開され、また年間を通して多彩な文化行事が行われている。
先ほど南登り石垣と明記した所でこれから日本最大規模の「長さ233m高さ5m」登り石垣が始まる。
登り石垣が始まる・・始めの石垣は5m以上の高さがある。
登り石垣中間所で、石垣保護の為に233m、石垣から2m内の樹木を伐採した。
伐採して直ぐであるため木々の取り除き作業が出来てない。撮影は平成19年3月4日
数箇所に及ぶ屏風折れの工法で構築されている。
画像は、平成19年3月4日に開催された登り石垣現地説明会に参加した松山市民 その時の画像で、講師は愛媛大学の内田教授、前日に 韓国の倭城の説明会が開催され、講師は、大韓民国釜山東三洞貝塚展示館館長・釜山博物館学芸研究士の・羅東旭 氏を迎えて行われ、現地説明会にも参加され盛大に行われた。
説明会には現地で愛媛大学生が登り石垣の実測も行った。
下で指示を出す方が愛媛大学内田教授である。・・このあたりに沢山の刻印が見られる。説明会で特別に見やすくする為に白墨を入れた。
登り石垣にある刻印。
画像は、登り石垣上部「内側」で、石垣の上に生えた直径70cm樹齢100年のアベマキもあった。根は約50年掛けて腐りその間に石が元の位置に戻ると想定している。
南側の登り石垣は本丸大手門下の石垣と接続していて、人が居る上の石垣が本丸の石垣で、これと接続する。当時は石垣の上に渡り塀があった。
この石垣は、北側の登り石垣で、本丸乾門下の石垣と接続する。
現在はこの部分のみ残っている。
その他の石は明治時代になり何処かに流用され跡形もなく流用先も不明いである。
上に見える櫓は乾櫓である。
本丸屏風折れの石垣「普段は入れない所なので貴重な画像である」高さ13mある。