日本陸軍騎兵第一旅団の発祥の地、千葉県習志野市大久保に秋山好古の顕彰碑が建立され除幕式が行われますと連絡が入った。平成21年4月18日のことであった。
連絡があったのは、習志野騎兵連隊史跡保存会代表・三橋 正文氏からで、建立場所は、千葉県習志野市大久保一丁目17番14号、真言宗豊山派薬師寺の入口で、除幕式は平成21年5月17日に挙行しますであった。
また、秋山好古のお孫さん秋山哲兒氏(秋山宗家第10代)からも千葉県習志野市大久保商店街に秋山好古の顕彰碑が建立され除幕式が行われますと連絡を頂いた。
画像は、除幕式の回顧である。
除幕式の後、日本城郭協会選定の日本100名城第20番である佐倉城跡を散策して帰路に着いた。
除幕された秋山好古顕彰碑。
秋山好古は日本陸軍騎兵の育ての親で、明治34年12月習志野に創設された騎兵第一旅団第2代目の騎兵旅団長である。
明治37年2月日露戦争が勃発すると同年4月9日同旅団長として習志野から出陣し習志野に凱旋した。
騎兵第一旅団は、日本最強の騎兵軍団で、騎兵第13連隊と第14連隊が所属していた。
除幕式に儀礼隊として参加された陸上自衛隊習志野駐屯地の隊員さん。
平成21年3月29日に執行された千葉県知事選挙に無所属として立候補し当選した森田千葉県知事が参列され挨拶をされた。
次期知事選には出馬せず勇退されるそうです。
若き日の森田千葉県知事。
謝辞を述べる秋山好古のお孫さん秋山哲兒氏(秋山宗家第10代)
残念に一昨年逝去されました。
祝辞を述べる陸上自衛隊習志野駐屯地の司令官。
除幕された秋山好古騎兵第一旅団長の顕彰碑。
顕彰碑「天地無私」は秋山宗家第10代秋山哲兒氏所蔵の扁額から転用された。
秋山好古騎兵第一旅団長の顕彰碑除幕式に当たり挨拶をされる、三橋 正文氏(習志野市大久保商店街理事長・習志野騎兵旅団史跡保存会会長)で挨拶の中に、平成21年から3年に渡りNHKが企画制作し放映される「スペシャルドラマ・坂の上の雲」放映を記念し習志野市大久保の活性化を図りそして秋山好古第一旅団長の功績を顕彰することを籠めて石碑を建立しましたと挨拶をされた。
顕彰碑横に設置された説明板。
除幕式には多くの市民が駆けつけた。
千葉県習志野市大久保商店街は毎日多くの学生が通学する街である。
習志野騎兵第一旅団配下であった、騎兵13連隊跡は「東邦大学薬学部」、騎兵14連隊跡には「日本大学生産工学部」、習志野騎兵第ニ旅団配下であった騎兵15連隊跡は「東邦大学付属中・高等学校」騎兵16連隊跡は更地となっている。
学生たちは、京成電鉄大久保駅で下車し商店街を通り通学している。
学生達が秋山好古顕彰碑を見て一層の勉学に励んでくれると期待している。・・と三橋 正文氏(習志野騎兵旅団史跡保存会会長)は語った。
秋山好古顕彰碑前にある習志野市大久保商店街展示資料館で秋山好古・秋山眞之兄弟に関する資料が展示してある。
資料館は自由に閲覧出来る。
習志野騎兵旅団史跡保存会の役員各位、この方達の努力で秋山好古騎兵第一旅団長の顕彰碑が建立された。
秋山好古騎兵第一旅団長の顕彰碑を見る人々・・昨日まではなかったのに何が出来たのでしょうか・・としげしげと見つめる人々。
何時も秋山好古についてご助言を頂く山岸良二先生です。
先生は、日本考古学協会全国理事・千葉県習志野市文化財審議会会長をされており、
現在は、昭和女子大学特任教授として活躍されておられます。
令和元年5月25日初版発行の書籍「秋山好古と習志野騎兵旅団」の発行に付いては大変お世話になりました。
これからの画像は日本100名城第20番の佐倉城跡です。
国民栄誉賞を受賞した長嶋茂雄さんで有名な、千葉県佐倉市にあった城、佐倉城跡です。
佐倉城址公園管理センターでここに(城郭風の建物)日本100名城第20番である佐倉城のスタンプが設置してある。
私が行った時はこんな立派な建物ではなかった。
史跡内には、立派な「国立歴史民俗博物館」があった。
また、正岡子規の句碑「「常盤木や冬されまさる城の跡」があるそうだが見つけることが出来なかった。
皇太子殿下御野立場所の記念碑。
明治44年5月21日に、皇太子殿下(後の大正天皇)が歩兵57連隊を視察された際に、練兵場にお出になって、設けられた御野立所で中隊対抗演習を観閲された。
その御野立場所跡に、大正5年5月21日に記念碑が建てられた。
また、一時期児玉源太郎は、歩兵第2連隊長として、明治13年〜明治18年までこの地に住んでいた。
佐倉兵営跡の碑で揮毫は、第17代連隊長を勤めた今村均陸軍大将で、明治6年1月、太政官布告で、東京鎮台に東京(歩兵第1聯隊)、佐倉(歩兵第2聯隊)、新潟(歩兵第3聯隊)の3聯隊が設置された。
歩兵第ニ聯隊佐倉兵営全図が史跡内に掲示されていた。
明治6年明治新政府は廃城令を公布しその跡地を陸軍が軍用地としてまた一部は学校用地となったものもあった。
しかし地元からの天守存続請願書が各地から届き、同政府は19の天守の存続許可を下した。
先の大戦で、広島城・福山城・岡山城・和歌山城・名古屋城・大垣城の各天守は戦災で消失、北海道の松前城天守は不審火で消失し現在は12の天守が現存している。