私が尊敬する、新潟県新潟市江南区沢海にある、北方文化博物館・神田勝郎館長がこの度、北方文化博物館創立70周年記念誌「北方文化博物館と澤海の風景・伊藤家八代の二百六十年」が平成30年4月30日付で刊行された。早速、私に贈って頂いた。
北方文化博物館は、江戸時代中期から初代が身を起こし、代を重ね富を築き越後随一の豪農の伊藤家である。明治に入り全盛期には1市4郡64ヶ町村に1370町歩あり昭和に入り新潟県下一の3万俵の収穫があった。
大東亜戦争終了後、GHQ(連合国最高司令官総司令部・最高司令官、マッカーサー元帥)により農地は解放され伊藤家の家屋も解体の命令が出た。GHQの新潟担当の司令官、ライト中尉が伊藤家の調査に訪れた。(この調査にはもう一つの意味があった。それは、旧陸軍の隠匿物資があると言う情報でその調査も兼ねていた。)
ライト中尉は、通訳を介して調査の説明をしたとき、素晴らしい綺麗な発音の英語で返答があった。・・中略・・ライト中尉の事は後で説明します。
ライト中尉は、伊藤文吉七代当主が母校ペンシルバニア大学の先輩とわかり交流を深めることになる。
ライト中尉は、伊藤家を価値ある文化遺産と位置付け、以降、北方文化博物館開設に絶大な支援を与えることとなる。北方文化博物館は、戦後、アメリカと日本の友情による絆が芽吹いた場所となる。
柳宗悦、バーナード・リーチ、浜田庄司、司馬遼太郎も建物は勿論、所蔵している美術品の素晴らしさに絶賛している。司馬遼太郎は、博物館でなく、美術館と評している。
素晴らしい内容のこの書籍を、神田勝郎北方文化博物館館長さんにお願いして2冊寄贈して頂くようお願いしています。届き次第、愛媛県立図書館、松山市立図書館に納本しますので是非ご講読下さい。貸出準備が出来るのは6月中旬頃だと思います。
なお、この書籍は非売品で243Pの構成です。
表紙を開けると、標題紙「北方文化博物館と澤海の風景・伊藤家八代の二百六十年」が出て来る。
北方文化博物館の全体で、好古揮毫石碑とある場所に、秋山好古揮毫の「忠魂碑」の石碑がある。
北方文化博物館の正門と空撮の全景。
北方文化博物館の正門。
撮影は、平成23年6月10日、北方文化博物館に伺った時に撮影。
北方文化博物館の中門。
撮影は、平成23年6月10日、北方文化博物館に伺った時に撮影。
北方文化博物館の西門。
撮影は、平成23年6月10日、北方文化博物館に伺った時に撮影。
北方文化博物館大門。
北方文化博物館の大玄関と大屋敷の外観。
北方文化博物館の大広間と大広間からの庭園の眺望。
庭匠泰阿弥築庭の日本庭園。
書籍の目次ですが、第六章に秋山好古に関する記述がある。
目次ですが、第九章に北方文化博物館開設に多大な尽力をしたライト中尉の記述がある。
目次、第6章P90前後に北方文化博物館と愛媛県松山市の関りも記述されている。
北方文化博物館と隣接してある、日枝神社境内に、秋山好古が揮毫した大きな立派な忠魂碑が建立されている。
平成22年3月17日、この忠魂碑を介して、神田勝郎北方文化博物館館長さんとの厚情が始まった。
忠魂碑は、平成26年3月13日、新潟市が制定した市民文化遺産に認定された。
市民文化遺産制度を制定している自治体は、京都市・岩手県遠野市・新潟市のみである。
平成26年3月13日、市民文化遺産に認定された「秋山好古揮毫石碑」の認定書である。
秋山好古揮毫の「忠魂碑」が市民文化遺産に認定された新潟日報の記事。
新潟市が制定した市民文化遺産に認定された「秋山好古揮毫石碑」に関する愛媛新聞の記事。
上の画像はGHQ、新潟担当の、ラルフ・ライト中尉と伊藤家第七代、伊藤文吉初代北方文化博物館館長。
下の画像は、36年振りに北方文化博物館で再開したライトさんと第八代伊藤文吉北方文化博物館長。
昭和20年8月28日、連合軍は日本本土に進駐を始めた。ラルフ・ライト中尉は、当初GHQ本部から青森県担当としての指示があったが、此れを辞退、次は、埼玉県担当、此れも辞退、そして新潟県担当は了承したそうだ。新潟に赴任したライト中尉は、米陸軍第8軍第27師団新潟軍政部、民間情報教育部長としての任務で、新潟県下の文化や教育改革が主な任務であった。
昭和20年10月、ライト中尉は伊藤家を調査に訪れた。(伊藤家の調査にはもう一つの意味があった。それは、旧陸軍の隠匿物資があると言う情報でその調査も兼ねていた。)
ライト中尉は、通訳を介して調査の説明をしたとき、素晴らしい綺麗な発音の英語で文吉から返答があった。ライト中尉は、ミスター伊藤その英語は何処でマスターされましたかと問うと、文吉は、私は、アメリカ合衆国のペンシルバニア大学に留学しその卒業生で、そこで英語を身に付けたことを説明した。(ドナルド・ジョン・トランプ、現米国大統領もペンシルバニア大学卒である。ペンシルバニア大学は米国第4位にランクされる名門大学。)
するとライト中尉もペンシルバニア大学卒業生で、伊藤文吉は、ライト中尉の先輩にあたる事になり、それからライト中尉と伊藤文吉の友情が育まれ交友が始まった。第八代となる伊藤文吉は17歳中学生の時であった。
ペンシルバニア大学の校風は、先輩後輩を互いに尊敬しあうことを大切にする大学であったのでライト中尉は、先輩文吉を敬い建物を文化財としての価値あるもの、そして所蔵している美術品等々を、新潟引いては日本の文化財として残す努力を考え、新潟県知事から、マッカーサー総司令長官に伊藤家を博物館として存続させる請願書を提出した。その事務手続き全てライト中尉が行ったのである。マッカーサー総司令官は、伊藤家の博物館開設を許可した。
マッカーサーは、公立にすると運営にはいろいろと支障を来す事があるから、私立として開館し自由に運用出来る方が良いとアドバイスがあった。
昭和20年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏した。荒んだ中で、昭和21年、史蹟文化振興会として博物館が開設された。今年が70周年である。
昭和24年8月10日、GHQより史蹟文化振興会の、振興が軍国主義を振興する恐れありとして名称変更を求められ、親交のあった、柳宗悦・イギリス人の陶芸家のバーナード・リーチ・陶芸家の浜田庄司、の助言を受けて、スウーデン・ストックホルムにある、ノルデスカ・ムゼー北方博物館に由来するもので、この名称に文化を入れて「北方文化博物館」と改名した。
昭和24年ライト中尉が日本を去る時、第七代伊藤文吉、初代北方文化博物館長は、ライト中尉を館に招き送別会の宴を行い、中庭に記念の碑を建設する用意をしたが、ライト中尉は、私一人の力でなく多くの人々の支援があり、北方文化博物館は開設出来たのでその様な特別な行為はしない様にと言われ帰国した。
昭和33年、第七代伊藤文吉先代が亡くなり、第八代伊藤文吉・北方文化博物館長は、美術品所蔵倉庫からライト中尉の記念碑を建立する銅板が見つかり、それからライト中尉探しが始まった。しかしライト中尉の消息を行うも困難を来した。ある時、マンスフイールド駐日大使が来館した時ライト中尉探しを依頼。その後ミネソタ州ロチェスターの高校校長さんをされている事が判明、第八代伊藤文吉館長はミネソタ州に飛び、36年振りに再開をした。
美術品所蔵倉庫からライト中尉の記念碑を建立する予定であった銅板を基に記念碑の設立委員会を発足、ライトさんと第七代伊藤文吉館長さんのリレーフ制作、リレーフは東京芸術大学名誉教授、千野茂先生の作だそうです。
除幕式は、昭和63年10月22日に行われ、主賓にライトさんご夫妻とお嬢さん、ライトさんを探しだしたパリッシュ夫妻が米国から来館して盛大に挙行された。翌日の新潟日報に大見出しで報道されたとある。
ライト中尉が担当する都道府県が、新潟県以外に赴任していたならば、北方文化博物館は開設されてなく、伊藤家は解体されていたのではないか?人との出会いは不思議なご縁がある。
ライト中尉の本来の務めは教育改革であったそうだが何故か伊藤家を博物館とし位置づけ解体を免れたのは、軍服を着た教育者ライト中尉であたからなしえた事であったと私は思う。
戦後全国初の、マッカーサー総司令長官お墨付けの私立博物館第1号「北方文化博物館」の誕生であった。
画像が、昭和63年10月22日、除幕式が行われた、ライトさんと第七代伊藤文吉館長さんの記念のリレーフとその下部に記念碑の経緯が書かれている。
記念碑は、北方文化博物館の中庭に建立されている。
撮影は、平成23年6月10日、北方文化博物館に伺った時に撮影した。
記念碑の経緯が書かれている説明版。
撮影は、平成23年6月10日、北方文化博物館に伺った時に撮影した。
ライトさんを追悼する碑が記念碑の傍に建立されている。
撮影は、平成23年6月10日、北方文化博物館に伺った時に撮影した。
北方文化博物館にはそうそうたる人物が来館している。
先ずは、日本民藝運動の創設者である柳宗悦・イギリス人の陶芸家のバーナード・リーチ・人間国宝の陶芸家、浜田庄司、坂の上の雲の作者、司馬遼太郎、その様子である。
バーナード・リーチが来館時に第七代文吉館長を描いた素顔絵。
坂の上の雲の作家「司馬遼太郎」は、八代北方文化博物館長を、現代版の陸(くが)羯南(かつなん)と呼んだ。
陸羯南は、正岡子規の叔父さん、加藤恒忠(拓川)の親友で、加藤恒忠から子規をよろしくお願いしますと頼まれた。陸羯南は、新聞「日本」の社主、東京大学を中退した正岡子規を記者として入社させた。当時日清戦争が勃発、幼馴染の秋山眞之は、命を掛けて護国の為に戦っている、子規も護国の為に仕事をしたい強い思いでいた。近衛師団付きの従軍記者となり、病弱な身であるので陸羯南猛反対をした。その反対を押し切り従軍記者として清国に渡り、帰国の途中船中で喀血する。子規、母、妹律親子の住まいとなる、現・子規庵も陸羯南が手配した屋敷である。
司馬遼太郎の「風塵抄」で書かれている「日本文化を守っている第八代伊藤文吉北方文化博物館長」の事項で「明治の陸羯南は、今の時代でこのような思想的実行者として存在してもいるのかと思った。と記述している。
司馬遼太郎の「風塵抄」で書かれている「日本文化を守っている第八代伊藤文吉北方文化博物館長」の事項で「明治の陸羯南は、今の時代でこのような思想的実行者として存在してもいるのかと思った。と記述している。
北方文化博物館創立70周年記念誌「北方文化博物館と澤海の風景・伊藤家八代の二百六十年」の奥付で、写真の人物が北方文化博物館、神田勝郎館長である。
番外編
画像の文言は、トーマスD・ドレーク陸軍大佐から住田監守宛てに書いたお礼の文書である。
昭和20年10月22日、米国軍第10軍団第24歩兵師団将兵1万2,000人が、松山に進駐した。
24師団司令官、トーマスD・ドレーク陸軍大佐は、昭和20年11月21日、松山を去る時、松山城住田監守に対し、土産に持ち帰りたいから松山城天守に展示してある甲冑をよこすように指示した。住田監守は、松山城天守にある甲冑は松山市民から寄託として展示しており松山市の所有物でないので差し上げる事は出来ないと断るも、それでも是非との事で、監守は自宅の家宝としていた甲冑を差し出した。(住田監守の家計は、旧伊予松山藩士の家系なので甲冑があった。)
画像の文言は、トーマスD・ドレーク陸軍大佐から住田監守宛てに書いたお礼の文書である。
また、道後温泉の浴室を進駐軍専用の浴場として一時期接収した経緯がある。
新潟のライト中尉は北方文化博物館開設に努力し、お別れの宴の招待も辞退して帰国した将校と、甲冑を土産にして帰国した松山駐在の将校は、天と地の差がある行為である。
なお、当初四国占領の司令部は松山市にあり、師団司令部は、松山市の旧県立図書館、師団長宿舎は久松邸の萬翠荘とし、道後の「鮒屋」・「虎屋」旅館などは将校宿舎に、旧歩兵22連隊、旧松山海軍航空隊、旧松山赤十字病院跡、旧愛媛県師範学校、旧城北練兵場、新田中学校などは幕営地として接収され進駐軍のテント村が設営された。