秋山兄弟生誕地で奉仕活動をしている、研究員は毎年館外研修を行い観光にお越しになった皆様をご案内いたすため研鑽しております。
今年度の研修地は、令和元年10月21日、(令和天皇即位の礼の前日)愛媛県護國神社で開催いたしました。
先ず研究員全員で、正(公)式参拝を行った。
宮司が祝詞を述べる中に「秋山兄弟生誕地の研究員一同」が参拝にこられたと述られ参拝が終わると巫女さんからお神酒を頂き引き出物を頂戴した。(画像参照)
正式参拝とは、賽銭箱前で拝んだり、ご祈祷を受けたり等とは違い、拝殿に参列してお祓いを受け、祝詞を聴き玉串を捧げて拝礼する正式な参拝作法によって行われる神事のことです。
正式参拝後、護國神社境内に建立されている、秋山好古が揮毫した石碑「天壌無窮」を拝観、この石碑の建立経緯を私が説明した。
そして新しく終戦70年記念事業の一環として、本殿西側に建てられた「御幸殿」に移り、宮司から説明を受け、2階の会議室で研修会を行った。
GHQ司令で撤去対象となった秋山好古揮毫の石碑2基と扁額2面の説明を行い、今年12月までの行事と、令和2年の開館と休館日、秋山好古生誕祭・秋山眞之の生誕祭開催日時の確認を終え研修会を終えた。
昼食を道後温泉の「山の手マリアジュガーデン」で行い食事の後、秋山好古の墓参をして散会した。
今回は護國神社での館外研修は有意義な研鑽が出来ました。
詳細は画像をご覧ください。
参集所から見た護國神社神門。
護國神社神門から見た拝殿で、この拝殿・本殿で正式参拝を行った。
愛媛県護國神社の配神御祭神は
社会公共のために尽くして公務に殉職、また産業文化に貢献の先賢諸士之神霊 49,728柱が祀られている。
本殿に掲げられている扁額「護國」で昭和28年10月、再建造営中に、高松宮宣仁殿下がご参拝にお越しになり、その時揮毫され護國神社の社の宝としている。・・と宮司さんから説明を受けた。
高松宮宣仁殿下はよっぽどのことがないと揮毫はされない殿下で、貴重な扁額だそうです。
正式参拝後、巫女さんからお神酒を頂き、そして引き出物を頂戴して参拝は終わった。
引き出物の中身で
※お神酒
※御神菓(金平糖)
※愛媛県護國神社の社報(令和元年10月10日付)
※愛媛県護國神社の栞
参考事項
愛媛県護国神社は、
明治32年 4月16日、温泉郡道後村持田(現松山東警察署付近)に招魂社として創建。
大正 2年10月 3日、愛媛県松山農学校設立のため新立町の多賀神社に移設。
昭和14年10月 9日、現在地(松山市御幸町一丁目476番地)に遷座社殿竣工。
昭和15年、勝山町(現在地に松山東警察署が新設のため松山農業学校は樽見町に移設。(現、愛媛大学農学部)
昭和20年 7月26日、松山大空襲により社殿焼失。
昭和30年10月 1日、現社殿竣工。
平成28年 9月20日、御幸殿完成。
護國神社境内、参集所右側に再建立された、秋山好古が揮毫した「天壌無窮」の石碑。
この石碑は、昭和天皇の即位の礼(御大典記念)と松山市立清水小学校開校記念に昭和3年清水小学校校庭に建立された。
昭和20年8月30日、沖縄から5時間かけてマッカーサー元帥は厚木に降り立ち、そして五大改革を発令し、日本の戦後処理が始まった。
財閥解体・農地解放・労働者の民主化等・その内の一つとして連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による改革の一つに教育改革が行われ、教育施設内にある軍人が揮毫した石碑や扁額の撤去命令が発令されその対象となった秋山好古が揮毫した石碑が2基・扁額が2面あった。
その一つが、清水小学校校庭に建立されていた「天壌無窮」である。
昭和20年11月、GHQの命令により撤去された石碑は、平成7年まで同小学校の用具室に置き去りにされていた天壌無窮を、愛媛県護國神社波(は)爾(に) 荘(さかえ)宮司さんが見つけられて、平成7年10月、清水小学校の了解を得て護國神社境内に再建立をした。
いい方に見つけて頂き、護國神社境内の最高の場所に再建立して頂いた幸せな石碑です。
碑石が割れているのは、撤去作業時に破損したものである。
なお、醵金建立した先生方の名前が碑石裏面に刻印してあったが、風化し消えて見えない。
石碑「天壌無窮」を拝観する秋山兄弟生誕地研究員。
昭和16年3月、國民学校が公布され教育の目的は、「皇國ノ道ニ則りテ初等普通教育ヲ施し國民ノ基礎的練成ヲ為スヲ以テ目的トス」(第一条)とあって、「皇國ノ道」とは「天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スル道」と意味づけされたと言う。・・天壤無窮の碑文碑が校庭にある事がGHQに注意され、司令長官命令で石碑が撤去されたという。
碑文解釈⇒天地とともに永遠に続くこと。天地は永遠に極まりなく続くこと。
石碑「天壌無窮」の拝観後記念の写真を撮る。
石碑裏面に奉祝昭和・・・御大典並開校記念の文字が見える。
醵金をした先生方の氏名は風化して判読出来ない。
昭和3年清水小学校開校記念に建立された当時の石碑「天壌無窮」の写真。
平成28年9月20日、終戦70年記念事業の一環として建てられた御幸殿で、本殿西側に建てられ、鉄筋コンクリート造2階建ての延べ床面積約700平方メートル。
社務所を兼ね備え、授乳室を設え、待合所や200人規模の会議が開ける部屋がある。
1階に戦没者の遺品などを展示し、平和の大切さを未来に伝えていこうと、愛媛県護國神社
の御幸殿に「祈念史料室みゆき」が開設され入場無料。
同神社の終戦70年記念事業の一つとして企画され、これまでに約2200人の遺影、約600通の戦地からの手紙をはじめ軍服などの遺品約2千点の寄贈を受けた。史料室では、このうち約200点を公開し、整理されたものから定期的に入れ替える。史料はアーカイブ方式で記録するため、映像でも閲覧が可能という。開館は午前9時~午後4時。12月25日~1月15日は休館。無料の駐車場がある。
同神社の終戦70年記念事業の一つとして企画され御幸殿について1階で宮司さんから説明があった。
終戦70年記念事業の一環として建てられた御幸殿「祈念史料室・みゆき」の入口。
「祈念史料室・みゆき」に展示してある貴重な資料を拝観した。
「祈念史料室・みゆき」に展示してある貴重な資料の一つ、昭和20年7月26日午後10時過ぎから始まった松山大空襲で投下された焼夷弾。
「祈念史料室・みゆき」に展示してある貴重な資料の一つ。
「祈念史料室・みゆき」会議室での研修の一部。
GHQによる改革の一つに教育改革が行われ、教育施設内にある軍人が揮毫した石碑や扁額の撤去命令が発令されその対象となった秋山好古が揮毫した石碑が2基・扁額が2面あった。
その一つが、清水小学校校庭に建立されていた「天壌無窮」で、あとの一つが画像の「忠魂碑」である。
宇和島市立喜佐方小学校にあった「忠魂碑」でGHQの命令で撤去された。
その時安楽寺の住職奥山昭典さん曰く、「私が罪を被る命を掛けてでも我が寺に引き取り再建立して護って行く」と言われそれから安楽寺が護って来た。
この石碑は、一昨年県外研修時に拝観しました。
なお、奥山昭典住職は教育者で、宇和島市立簡野道明記念吉田図書館の初代の図書館長をされた。
GHQの司令で撤去された秋山好古揮毫の扁額「質実剛健」。
大正14年、照宮成子(東久邇 成子)親王御誕生記念にと、愛媛県立松山農業学校(後の、愛媛大学農学部付属農業高等学校・現、愛媛大学付属高等学校)から揮毫依頼を受け秋山好古が揮毫した質実剛健の扁額。
この扁額は、職員室に掲示されていたが、昭和20年11月、GHQの命令で扁額は撤去されることになった。
撤去された扁額は、額から外され箱に入れられ保管されていたが、平成17年10月、私の知人である愛媛大学農学部付属高等学校の久山副校長から、秋山兄弟生誕地に寄贈しますが如何されますかと連絡があり、寄託の形で譲り受け、新たに額を新調し、現在秋山兄弟武道場に掲示し来館者に鑑賞してもらっている。
質実剛健は、絹の布地に揮毫されていて、和紙でなく布地に揮毫するのは大変であったと思われる。
扁額裏面に、大正14年照宮成子親王御誕生記念と記載されている。
愛媛県立伊予農業高校の扁額
扁額の読みは=研精而不倦・けんせいしてうまず・・(心身ともに磨き、怠けず、精進努力をする)
途中でやめることなく、何処までも勉強し尽くす・・の意味の扁額で、愛媛県立伊予農業高等学校の職員室に掲示してある。
この扁額も、昭和20年11月、GHQの命令で扁額は撤去されることになった。
平成25年3月20日、愛媛県立伊予農業高校の日山先生から秋山兄弟生誕地経由で私に連絡があった。
大洲市長浜の三島神社に秋山好古さん揮毫の石碑がありますがご存知ですかと、日山先生も個人的にいろいろな石碑の調査をされているようでした。
私としては、未調査の石碑であったので同年4月4日、現地に調査に行った。
そしてその後、伊予農業高等学校にお礼に行くと、職員室に秋山好古揮毫の扁額が掲示してあった。
同校の岩村校長先生(現、松山商業高等学校長)曰く、どの様な経緯で秋山好古さんに揮毫を依頼したのかは不明ですが、GHQの命令で撤去され、当時の校長先生が、自宅に持ち帰り保管され、戦後、もとあった学校に掲示し現在に至っていますと伺った。
いろんな方々が廃棄するのでなく、その時の関係者が心を籠めて揮毫し、建立し、掲示され大切に保存されていたものを、それを引き継ぎ、現在も存続しているこの気持ちが大切であり、これぞ日本人魂(大和魂)であると感じ入るものです。
肩書に陸軍大将がないと言う事は、
昭和4年4月1日退役した以降に揮毫したのかも??である。
終戦後、日本を占領下したGHQの一番の目的は、「日本人から愛國心を奪い、日本人の精神を弱体化させる事」 が重要な使命、任務でよくGHQの洗脳政策とも言われた。
昭和14年10月9日、多賀神社から現在地の松山市御幸町に遷座社殿。
この社殿は昭和20年7月26日、松山大空襲で焼失した。
現社殿は昭和30年造営された。
頂いた愛媛県護國神社の資料の一部。
護國神社境内に松山市立中央図書館が管理運営する移動図書館「つばき号」の巡回日程表が開示してあった。
全国の護國神社で移動図書館が巡回してきて図書の貸出返却業務を行う場所を提供しているのは愛媛県護國のみではないでしょうか??。
駐車場として許可したのは、波爾 荘宮司さんでした。
松山市立中央図書館は4台の移動図書館つばき号が松山市内を巡回し図書の貸出返却業務を行っている。
愛媛県護國神社での研修会を終わり、道後温泉の「山の手マリアジュガーデン」で昼食を頂いた。
昼食後、秋山好古の墓参をした。
鷺谷墓地の墓参路の案内石碑。
秋山好古の墓を清掃。
松山市鷺谷墓地にある秋山好古の墓は、秋山宗家の許可を得て東京の青山墓地にある遺骨を分骨して松山の有志が建立した。
なお、秋山家宗家の祖先の墓はここにある。
沼田研究員が般若心経を唱え研究員一同が墓参。
秋山好古の両親の墓参りをして令和元年の館外研修を無事終えた。
合掌。