画像は、秋山好古揮毫石碑を訪ねて・1で掲載した東京都世田谷区の石碑裏面で、中央に「添田賢二郎」隊員が記載されている。
東京都世田谷区の石碑裏面の「添田賢二郎」隊員部分を切り抜いたもの。
添田賢二郎は、神奈川県大住郡金目村字広川出身で、地主の長男として生まれた。
明治19年4月高等小学校に入学、「学業優秀ナルヲ嘉賞ス」その後三郡共立学校に進み優秀な成績で卒業している。明治26年12月20日、第一師団騎兵へ入隊、明治27年11月17日騎兵隊員として日清戦争に従軍し、明治28年2月8日、清国盛京省二道河で戦死した。
明治28年2月8日、金目村村葬として葬儀が行われ、明治28年12月15日、靖国神社に合祀された。
秋山好古は、父親からの依頼を受け、添田賢二郎騎兵一等卒の勇士を讃え、最高の意を漢詩で表現し書き上げた。父、保吉は添田家の後世に伝えるために「賢二郎の哀悼碑」として添田家の傍にある広川神社に哀悼碑を関係者の許可を得て建立した。
1.篆 額 : 義 烈
2.碑 文 : 鐡馬奮闘 蹴雪衝風 斃而後止 惟義惟忠
3.所 在 地: 神奈川県平塚市広川・広川八幡神社
4.揮 毫 者: 陸軍騎兵大佐 秋山好古
5.建 立 者: 添田保吉(賢次郎・実父)
6.建立年月日: 明治31年10月吉日
7.碑石大きさ: 高さ1m 70cm 横幅1m 23cm 厚さ24cm
8.石碑の由来:
添田賢次郎は、神奈川県大住郡金目村字広川(現 平塚市広川)で保吉氏の長男として生まれた。
明治26年12月第一師団騎兵第一大隊第二中隊に入隊し、その後騎兵一等卒に進み馬術・銃鎗の技を修め本体に属し戦地に赴く。
斥候の任務に服し蓋平の戦いに於いて勇ましく戦い、二道溝栄口に敵を迎え撃つも激戦の末名誉な戦死をした。
御国より戦功を追償し、金若千を賜りまた別に遺族を扶助する金を賜る。
騎兵隊員、添田賢次郎の実父添田保吉は、息子の名誉な戦死を添田家の後世に伝えたく秋山好古に揮毫を依頼し石碑を建立した。
現在、好古揮毫の石碑は全国に52基発見されているが、名誉な戦死をした優秀な騎兵隊員について漢詩で撰文した石碑は2基のみである。
(1基は千葉県道鎌ケ谷市道野辺中央五丁目にある道野辺神社に三分割され、数十年年間境内に眠っている。)よって建立されているのはこの添田賢次郎哀悼の石碑のみである。
石碑の情報提供者は、添田保吉氏から4代目に当たる、吉則氏の妻、敬子氏が遠路はるばる神奈川県平塚市から、秋山兄弟生誕地に石碑に関する資料を持参し、お越しになり判明した。
東京世田谷区にある石碑「日清戦争で戦死した哀悼碑」の裏面に、好古は15名の隊員の氏名を自筆で刻印しているが、騎兵一等卒添田賢次郎の名前を好古は忘れることなく揮毫している。
この石碑は、2番目に古い貴重な石碑である。
添田家現在の当主・吉則氏の妻、敬子氏は放送大学学生であった。
敬子氏は卒業論文として「日清戦争における戦没兵士遺族の行動と心情」と題した論文を書いている。
この様な事を鑑みるとこの石碑が発見され、好古が哀悼の意を篭めて東京都世田谷区池尻四丁目に建立した思いが116年経過したいま実ったのである。・・「高が石碑、然れども石碑」である。取材する中痛感した。
添田賢二郎騎兵一等卒の哀悼碑。
添田賢二郎騎兵一等卒の事を好古が漢詩で表現したその撰文が石碑に書かれている。
石碑に書かれている撰文。
石碑に書かれている撰文の読み。
添田賢二郎騎兵一等卒の哀悼碑の、篆 額:義 烈
義 烈:義を守る心の堅いこと
秋山好古の簡単な経歴
明治 8年 5月、 大阪師範学校入学。
明治 9年 7月、 名古屋師範学校附属小学校教師。
明治10年 2月、 名古屋師範学校附属小学校教師依願退職。
明治10年 3月、 東京府予備教員。
明治10年 5月 4日、陸軍士官学校騎兵科入学。
明治12年12月23日、陸軍士官学校騎兵科を卒業し、陸軍騎兵少尉となる。
明治16年 2月28日、陸軍騎兵中尉となる。
明治19年 6月 2日、陸軍騎兵大尉となる。
明治25年11月 1日、陸軍騎兵少佐となる。
明治28年 5月10日、陸軍騎兵中佐となる。好古が揮毫した初めての石碑「世田谷の哀悼碑」建立。
明治30年10月11日、陸軍騎兵大佐となる。神奈川県平塚市の石碑建立。
明治35年 6月21日、陸軍騎兵少将となる。長野県安曇野市豊科石碑建立。
明治36年 6月千葉県習志野薬円台に移転する。
明治38年 6月19日、母貞習志野薬円台にて逝去する。
明治42年 8月 1日、陸軍騎兵中将となる。
大正 5年11月16日、陸軍騎兵大将となる。
大正12年 4月30日、元帥を辞退、特旨を以て従二位を授かる、翌年4月北豫中学校長就任。
大正14年 4月 1日、後備役、昭和4年月1日、退役。この時代以降から進んで揮毫を始めだした。
昭和 5年 3月31日、北豫中学校長辞任、同年11月4日、東京の陸軍軍医学校病院にて逝去、72歳であった。陸上自衛隊習志野駐屯地に「軍馬慰霊之碑」は昭和5年10月5日の筆で絶筆となった。
註:北豫中学校は、現在愛媛県立松山北高等学校である。