EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山好古揮毫石碑を訪ねて 2、神奈川県平塚市、添田賢二郎の石碑

2018年10月31日 | 伊予松山歴史散策

画像は、秋山好古揮毫石碑を訪ねて・1で掲載した東京都世田谷区の石碑裏面で、中央に「添田賢二郎」隊員が記載されている。

             

東京都世田谷区の石碑裏面の「添田賢二郎」隊員部分を切り抜いたもの。

添田賢二郎は、神奈川県大住郡金目村字広川出身で、地主の長男として生まれた。
明治19年4月高等小学校に入学、「学業優秀ナルヲ嘉賞ス」その後三郡共立学校に進み優秀な成績で卒業している。明治26年12月20日、第一師団騎兵へ入隊、明治27年11月17日騎兵隊員として日清戦争に従軍し、明治28年2月8日、清国盛京省二道河で戦死した。
明治28年2月8日、金目村村葬として葬儀が行われ、明治28年12月15日、靖国神社に合祀された。

秋山好古は、父親からの依頼を受け、添田賢二郎騎兵一等卒の勇士を讃え、最高の意を漢詩で表現し書き上げた。父、保吉は添田家の後世に伝えるために「賢二郎の哀悼碑」として添田家の傍にある広川神社に哀悼碑を関係者の許可を得て建立した。

1.篆   額 : 義  烈

2.   文 鐡馬奮闘 蹴雪衝風 斃而後止 惟義惟忠 

3.所 在 地: 神奈川県平塚市広川・広川八幡神社

4.揮 毫 者: 陸軍騎兵大佐 秋山好古

5.建 立 者: 添田保吉(賢次郎・実父)

6.建立年月日: 明治31年10月吉日 

7.碑石大きさ: 高さ1m 70cm  横幅1m 23cm  厚さ24cm 

8.石碑の由来:

添田賢次郎は、神奈川県大住郡金目村字広川(現 平塚市広川)で保吉氏の長男として生まれた。
明治26年12月第一師団騎兵第一大隊第二中隊に入隊し、その後騎兵一等卒に進み馬術・銃鎗の技を修め本体に属し戦地に赴く。
斥候の任務に服し蓋平の戦いに於いて勇ましく戦い、二道溝栄口に敵を迎え撃つも激戦の末名誉な戦死をした。
御国より戦功を追償し、金若千を賜りまた別に遺族を扶助する金を賜る。
騎兵隊員、添田賢次郎の実父添田保吉は、息子の名誉な戦死を添田家の後世に伝えたく秋山好古に揮毫を依頼し石碑を建立した。
現在、好古揮毫の石碑は全国に52基発見されているが、名誉な戦死をした優秀な騎兵隊員について漢詩で撰文した石碑は2基のみである。
(1基は千葉県道鎌ケ谷市道野辺中央五丁目にある道野辺神社に三分割され、数十年年間境内に眠っている。)よって建立されているのはこの添田賢次郎哀悼の石碑のみである。
石碑の情報提供者は、添田保吉氏から4代目に当たる、吉則氏の妻、敬子氏が遠路はるばる神奈川県平塚市から、秋山兄弟生誕地に石碑に関する資料を持参し、お越しになり判明した。

東京世田谷区にある石碑「日清戦争で戦死した哀悼碑」の裏面に、好古は15名の隊員の氏名を自筆で刻印しているが、騎兵一等卒添田賢次郎の名前を好古は忘れることなく揮毫している。
この石碑は、2番目に古い貴重な石碑である。
添田家現在の当主・吉則氏の妻、敬子氏は放送大学学生であった。
敬子氏は卒業論文として「日清戦争における戦没兵士遺族の行動と心情」と題した論文を書いている。
この様な事を鑑みるとこの石碑が発見され、好古が哀悼の意を篭めて東京都世田谷区池尻四丁目に建立した思いが116年経過したいま実ったのである。・・「高が石碑、然れども石碑」である。取材する中痛感した。

添田賢二郎騎兵一等卒の哀悼碑。

添田賢二郎騎兵一等卒の事を好古が漢詩で表現したその撰文が石碑に書かれている。

石碑に書かれている撰文。

石碑に書かれている撰文の読み。

添田賢二郎騎兵一等卒の哀悼碑の、篆 額:義 烈

義  烈:義を守る心の堅いこと

 秋山好古の簡単な経歴

 明治 8年 5月、      大阪師範学校入学。

 明治 9年 7月、      名古屋師範学校附属小学校教師。

 明治10年 2月、      名古屋師範学校附属小学校教師依願退職。

 明治10年 3月、      東京府予備教員。

明治10年 5月 4日、陸軍士官学校騎兵科入学。

 明治12年12月23日、陸軍士官学校騎兵科を卒業し、陸軍騎兵少尉となる。

明治16年 2月28日、陸軍騎兵中尉となる。

明治19年 6月 2日、陸軍騎兵大尉となる。

明治25年11月 1日、陸軍騎兵少佐となる。

明治28年  5月10日、陸軍騎兵中佐となる。好古が揮毫した初めての石碑「世田谷の哀悼碑」建立。

明治30年10月11日、陸軍騎兵大佐となる。神奈川県平塚市の石碑建立。

明治35年 6月21日、陸軍騎兵少将となる。長野県安曇野市豊科石碑建立。

明治36年   6月千葉県習志野薬円台に移転する。

明治38年   6月19日、母貞習志野薬円台にて逝去する。

明治42年 8月 1日、陸軍騎兵中将となる。

大正 5年11月16日、陸軍騎兵大将となる。

大正12年 4月30日、元帥を辞退、特旨を以て従二位を授かる、翌年4月北豫中学校長就任。

大正14年 4月 1日、後備役、昭和4年月1日、退役。この時代以降から進んで揮毫を始めだした。

昭和 5年 3月31日、北豫中学校長辞任、同年11月4日、東京の陸軍軍医学校病院にて逝去、72歳であった。陸上自衛隊習志野駐屯地に「軍馬慰霊之碑」は昭和5年10月5日の筆で絶筆となった。
註:北豫中学校は、現在愛媛県立松山北高等学校である。

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋山好古揮毫石碑を訪ねて 1、東京都世田谷区池尻の哀悼碑

2018年10月24日 | 伊予松山歴史散策

左から、秋山好古・清浦圭吾・新田長次郎

 揮毫嫌いであった秋山好古は、大正14年、新田長次郎氏の招きで、元総理大臣清浦奎吾氏が伊予松山に来られた。滞在は僅か2日間であった。
各所の視察、歓迎会、講演会等々昼夜をとはず多忙で、筆を取る時間などなかったが、松山の諸方から揮毫を頼まれていた。
二日目の早朝に、道後の旅館に滞在している清浦奎吾氏を好古が訪ねてみると、一生懸命に、依頼された揮毫をひたすら書いている姿を見た好古は、新田長次郎氏に対し、「長さんそんなに年寄りを責めたらいかんぞな」・・といった。長さん曰く信さん「清浦伯は、日本の清浦伯ですよ、だから揮毫を請う者が多くあり、今朝など朝4時から起きて、厭な顔もせず書いて居られます。信さんも今は日本の秋山大将です。人は一代、名は末代と言いますから、家宝とするため揮毫を依頼する人には、書いてやって貰いたいものですな」と好古を口説いた。

「なるほど長さん分かったよ、これから俺も書くよ」と言ったので、新田長次郎氏は、大阪に帰ると早速画仙紙一反と、大きな硯と筆を、松山の好古に送った。翌年の春、新田氏が再び松山で好古に合った時、「長さん、今年は正月からもう数百枚も書いて方々へ送ったよ」と言った。

好古に揮毫依頼が多くなったが、約束の期日は決して遅らせなかった。以上が好古が揮毫を行いようになったきっかけである。
清浦奎吾氏来松の本来の目的は、大正12年松山高等商業学校(現 松山大学)の開校式の出席であったが、急な所用が出来、大正14年になったのである。大正12年であれば好古は北予中学校長として松山には赴任しておらず、清浦奎吾氏と出会っていないので、揮毫などしてなかっただろう。

秋山好古揮毫の石碑は、上記の様に新田長次郎氏からの指摘で揮毫し始めたので大正14年以降に揮毫した石碑や扁額が殆どで、大正14年以前に揮毫した石碑は8基だけであり、よほどの深い関係者からの依頼があっての揮毫である。当時好古の揮毫嫌いは有名であった。

何故かその理由は謎である。

それでは秋山好古揮毫石碑を訪ねてみましょう。

まず最初は、好古が揮毫し建立者も好古、現在発見されている好古が揮毫し建立されている一番古い石碑から訪ねて行きます。
なお現在好古が揮毫し石碑として建立されているものが全国に52基発見されています。

石碑を訪ねて 1、東京都世田谷区池尻・哀悼碑

[東京都世田谷区池尻四丁目にある・日清戦争騎兵隊戦没者の哀悼碑]

1.碑    文 : 征清之役戦死者哀悼碑

2.所 在 地: 東京都世田谷区池尻四丁目22番7号「官有地」児童遊園(見晴らし広場)

3.揮 毫 者: 騎兵第一聨隊長・陸軍中佐 秋山好古 

4.建 立 者: 騎兵第一聨隊長 秋山好古

5.建立年月日: 明治29年6月30日 

6.碑石大きさ: 高さ・  1m 14㎝ 横幅・  1m 71㎝  厚み・ 8㎝

この石碑は現在発見されている中で一番古い石碑で、明治29年6月30日に建立された。揮毫は、勿論建立者も秋山好古自身で、現在全国に建立されている好古揮毫の石碑の原点となる碑で、日清戦争で戦死した部下の哀悼の碑である。

石碑裏面には、騎兵第一聯隊長秋山好古隊員が名誉の戦死をした隊員15人の名前、階級、戦死した場所、年月日が刻まれている。
この石碑の取材には苦労した。まず建立地が国有地で、土地の管理者は財務省関東財務局が管理している。ここに秋山好古が勝手に建立したもので、国は関知しないといっている。
現在は世田谷区役所に管理をさせているとの事で、区役所に連絡をした。

実はこの石碑は、文字の刻印が浅く、写真を撮っても文字を写し撮る事が難しく、文字に墨を入れ、浮きださせて撮る必要があった。区役所にこの事をお願いすると、担当職員立会いのもとが条件となった。区役所の指定する日時で了をえた。指定された日時は、平成18年10月6日午前10時に現地集合であった。この日は朝から大雨で、文字の墨入れは難儀をした。石碑にビニールを被せ作業を行い、不思議に写真撮影時は雨が止んだ。区役所職員ともども、今がシャッターチャンスと急ぎ早に撮った。撮り終わると、また雨が降り出した。

「これは好古さんのご加護ですよ」雨が止んだのは、皆がそう言った。

哀悼碑の裏面には名誉な戦死をされた隊員の当時の階級と氏名・戦死された日時・場所が克明に記載されている。

石碑裏面には下記の事項が刻まれている。

陸軍騎兵少尉        山口毅夫    明治二十八年二月十三日於廣島陸軍豫備病院

陸軍騎兵曹長     吉田四郎   明治二十八年二月八日   於老爺廟

豫備陸軍騎兵一等軍曹 藤堂立    明治二十七年十一月十七日於龍口戦死

陸軍騎兵一等軍曹   渡邉武松   明治二十八年二月八日    於二道河戦死

陸軍騎兵一等卒    西澤三十   明治二十八年二月二十四日於太平山戦死

陸軍騎兵一等卒    根本由之助  明治二十八年二月八日    於高刋戦死

陸軍騎兵一等卒    羽毛田安太郎 明治二十八年二月八日年  於老爺廟戦死

陸軍騎兵一等卒    添田賢次郎  明治二十八年二月八日    於二道河戦死

陸軍騎兵一等卒    内田與作   明治二十八年二月八日    於二道河戦死

陸軍騎兵一等卒    新井斧三郎  明治二十七年十一月十九日於龍口戦

豫備陸軍騎兵一等卒  小野田勝三郎 明治二十七年十一月十九日於龍口戦

陸軍騎兵一等卒    飯尾金彌   明治二十七年十一月十八日於土城子

陸軍騎兵一等卒    芝﨑章    明治二十八年二月二十二日於聶家堡子戦死

豫備陸軍騎兵一等卒  加瀬音吉   明治二十七年十二月三十日於蘇家屯病死

陸軍騎兵一等卒           蕪木夘八         明治二十八年一月三十一日於朱家旬子戦死

石碑裏面には、上記戦死した騎兵隊員15人の名前、階級、戦死した場所、年月日が刻まれている。その中程に、陸軍騎兵一等卒・添田賢二郎と陸軍騎兵一等卒内田與作の名前が刻まれている。

この二名の石碑が添田賢二郎出身地の神奈川県平塚市に、内田與作の出身地、長野県安曇野市に建立されているので後で述べることにする。内田與作の長野県安曇野市の石碑は平成28年5月31日取材を行い一番新しいく発見された石碑で、これ以降新しい石碑は発見されていない。

東京都世田谷区の許可を得て写真取材をした。

石碑裏面に添田賢二郎騎兵一等卒・内田與作騎兵一等卒両家も家族から揮毫を受け好古は最高の意を籠めて漢詩で表し添田家に送り、内田家は墓を建立に及び揮毫を依頼した。

石碑を訪ねて 2、添田賢二郎の顕彰碑・3、内田與作の墓石で紹介します。

所 在 地:東京都世田谷区池尻四丁目22番7号「官有地」児童遊園(見晴らし広場)経路説明

地下鉄半蔵門線が渋谷から東急田園都市線へ乗り入れています。
田園都市線で渋谷の次の駅、「池尻大橋駅」で下車して「西口」出口から地上へ出る。
目の前を首都高速道路が見えるのでそれに向かって右方向へ進むと30mほどで東京三菱UFJ銀行が見える。その角を右へ曲がる。後は道なりに約380m進むと交差点に出るので右へ曲がる。約130m進むと分かれ道に出る。そこが写真1の地点です。左前方向へ約120m進むと写真2の地点になる。階段の入り口には何も標識が無いが写真を参考にして階段を56段登って現地到着です。
この地図の緑色のルートは「池尻大橋駅」西口出口を出て30mほど右へ行った東京三菱UFJ銀行前の地点からの経路で、全距離は700m程度です。

画像は、石碑の所在地、東京都世田谷区池尻4丁目「官有地」児童遊園(見晴らし広場)入り口で小高い丘に建立されている。
この地は、元騎兵第一聯隊の跡地で現在国有地です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スペシャルドラマ「坂の上の雲」回顧録 10、 伊吹文部科学大臣

2018年10月18日 | 伊予松山歴史散策

平成19年1月10日、伊吹文部科学大臣が来県、中村時広愛媛県知事がご案内され秋山兄弟生誕地に来られました。

秋山兄弟生誕地を管理する常盤会同郷会は、平成22年4月1日、愛媛県教育委員会所管の中で愛媛県第1番目に認定された公益財団法人なので此れの視察を兼ねての訪問であったのかもしれないです。

公益財団法人常盤同郷会の主な目的・事業は「育英奨学」で、秋山兄弟生誕地では合気道・柔道を介して青少年の育成と、心身の鍛錬、秋山好古・眞之兄弟の生涯と生きて来た経緯を次世代に伝えていく事、東京都東久留米市にある、常盤学舎は明治20年伊予松山藩主・久松定謨が、松山の子どもたちが学問をするため上京、その時の寄宿舎として創設した常盤学舎の管理をする事です。

画像は、平成19年1月10日、秋山兄弟生誕地に伊吹文部科学大臣が来られた時の様子です。

伊吹文部科学大臣に秋山兄弟生誕地をご案内する、中村時広愛媛県知事。

伊吹文科大臣と中村時広愛媛県知事。

此処で兄弟は生活され、成人されて立派な活躍をされたのですね、幼少時ご両親の躾が素晴らしかったのでしょう。・・と知事と会話をされていた。

秋山兄弟生誕地の見学も終わり訪問記念に署名をされる伊吹文部科学大臣。

平成19年1月10日、秋山兄弟生誕地のご署名簿に記載された伊吹文科大臣。

所定の見聞を終え秋山兄弟生誕地を後にされる伊吹文部科学大臣。

秋山眞之が海軍兵学校1期生の時、夏休みを利用して薩摩(鹿児島県)で行われている青少年の文武両道の教育を見聞に行った。・・郷中教育見学である。・・いい教育であると感じ取った。

この教育があって西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀、そうそうたる人物が生まれたのであろうと思った。眞之は自分の目で確認しないと気が済まない性分であったので薩摩に行ったのである。

伊予松山でも青少年の育成に何かをしなければならないと考えた。

明治21年薩摩の郷中教育を参考にして設立されたのが、松山同郷会である。その後松山同郷会は、江戸末期東京に伊予松山藩主・久松定謨設立した、常盤会と昭和28年合併し、現在は、公益財団法人常盤同郷会として活動している。

画像は、秋山眞之が興した「松山同郷会」の名残として今も行っている合気道・柔道を介しての青少年の健全な育成と心身の鍛錬・・文武の武の教育の一つである。

松山市立味生小学校6年生120名が秋山兄弟生誕地で校外学習をした様子です。

松山市内の小・中・高校生が生誕地に訪れ、秋山好古・眞之兄弟の生涯と生きて来た経緯を勉強している。文武の文の分野です。

武道場に上った松山市立味生小学校6年生120名の生徒さんの靴、見事に整然と脱ぎ置いてあった。先生の良き指導が伺えます。・・お見事です。

武道場でお話を聞き、これから秋山兄弟生誕地を見学、お話をする山崎常務理事、現在は理事長で、元愛媛県立松山北高等学校の教諭(前身は、秋山好古が校長を務めた、北豫中学校)である。

各班に分かれて秋山兄弟の研究員が説明しました。

説明を聞き自分たちが見分したい処を真剣に見学、時折質問がありました。

秋山好古の騎馬像をみて、好古さん凄いな・・との声が!!

秋山眞之の胸像に集まる生徒さん、一人の男子生徒さんが言った言葉が、「先日、愛光学園中学校の入学試験に合格するようにお願いに来たら、合格しましたと嬉しそうに私に話してくれました。」・・おめでとう・・🎊の言葉を送りました。即有難うございの言葉が返って来ました。

また、4年前に、東京の女子高生三人が、秋山眞之生誕祭に(生誕祭は毎年3月20日か21日に開催している。)やって来て東大、早稲田、津田塾に合格いたしますようにと眞之の胸像に祈願に来ました。

すると三人の女子高生は、志望大学に合格、翌年の生誕祭にわざわざ東京からお礼に来ました。

今や、松山のパワースポットになっている眞之の胸像、眞之の手は皆さんが触って帰るからピカピカに光っています。海軍兵学校首席で卒業した秀才です。

画像は、現在の常盤学舎で、東京都東久留米市中央町四丁目18番17号にある。

常盤学舎は、伊予松山藩主・久松定謨が、松山の子どもたちが学問をするため上京、その時の寄宿舎として創設した学生の学舎で、一時期秋山好古も舎監を務めた。正岡子規・勝田主計(大蔵大臣・文部大臣を歴任)・桜井忠温など多くの人材を輩出している。

なお、秋山眞之は常盤学舎に入舎せず、兄好古が間借りをしていた旧旗本佐久間家の兄の許に置かれ兄の監督の許厳しい躾を受け帝国大学を目指し東京大学予備門で勉学に励んだ。だが帝国大学をあきらめ海軍兵学校に進んだ。東京大学予備門時代の同級生に夏目漱石がいた。

眞之が東京大学に進学しなかったのは、兄好古に経済的な負担を掛けてはいかぬとの思いで断念し、・・兄を説得して海軍兵学校に入学するのである。海軍兵学校を首席で卒業している。

 

東京都文京区本郷四丁目10番13号に設置されている常盤会跡の説明版が設置されている。

東京都東久留米市中央町に移転する前はこの地にあった。東大が近く立地条件のいい場所であった。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スペシャルドラマ「坂の上の雲」回顧録 9、 村上誠一郎 衆議院議員

2018年10月13日 | 伊予松山歴史散策

平成17年8月13日、愛媛県2区から選出している衆議院議員、第3次小泉内閣で内閣府特命担当大臣であった村上誠一郎国会議員が秋山兄弟生誕地に来られた。

ご本人によれば、戦国時代に名を馳せた村上水軍の子孫で18代目だそうです。

衆議院議員、無所属の会の岡田克也氏は義弟で、国会では野次将軍と呼ばれるほど熱い方です。

秋山眞之の胸像に立たれた村上誠一郎議員。

秋山家も祖先は村上水軍の一族と言われており、秋山眞之が日本海海戦時に戦法の一つに用いた丁字戦法は村上水軍が使っていた戦略である。村上誠一郎家と秋山家は関係があるのかも?

秋山兄弟生誕地裏庭に建立されている大きな記念碑がある、その横にも村上議員は立たれた。

題額は「秋山両将遺邸之碑」と揮毫されている。

揮毫者は、陸軍大将・南 次郎である。

「秋山両将遺邸之碑」で、題額を揮毫したのが陸軍大将南次郎で、建立は、昭和12年7月秋山両将遺邸保存会が建立、碑文は井上要撰書である。

秋山両将遺邸之碑 

1.碑   文 :  別途説明(碑文の要約等参照)

          撰文、井上 要

2.所 在 地:  松山市歩行町二丁目3番地6、秋山兄弟生家裏

3.揮 毫 者:  題額、陸軍大将南次郎

          撰文、井上 要

4.建 立 者:  記載無し

5.建立年月日:  昭和12年7月 秋山両将遺邸保存会 

6.碑石大きさ:   高さ2m70㎝ 横幅1m50㎝  厚さ30㎝

7.石碑の由来:    井上要他秋山兄弟と深い関わりのあった人たちが後世の人々にその功績を伝えるために建立した

8.題額を南次郎に揮毫依頼した経緯は不明

碑文
陸軍大将従二位勲一等功二級秋山好古君海軍中将従四位勲二等功二級秋山眞之君兄弟生誕ノ地タル松山城東中歩行町ノ邸宅ハ天保年間考久敬翁ノ構築ニ係リ環堵蕭然トシテ素朴ヲ極ム大将ノ晩年帰リテ北予中学校長ノ任ニ就クヤ旧屋中ニ起臥シ僅ニ墻壁ヲ修治セシノミ今ヤ両将既ニ館ヲ捐ツ遺邸ノ漸ク朽廃ニ帰セントスルヲ憂ヒ同志ノモノ其保存ヲ計ラントスルニ際シ久松伯爵及ヒ山下亀三郎新田長次郎氏等資ヲ投ジテ之ヲ助成シ旧邸ヲ購ヒ修補ヲ施シ且両将ノ遺品ヲ蒐集シテ永ク其徳風ヲ傳ヘントス而シテ其保護管理ハ挙テ松山同郷会ニ託シタリ同会ハ青年教養ノ為メ中将ノ創設セル所ニシテ大将モ亦曾テ舎長タリシヲ以テナリ是ニ於テ同会ハ更ニ其西隣ノ地ヲ求メテ会館ヲ移シ以テ旧邸管理ノ任ニ便スルコトヽセリ若シ夫レ両将ノ人格勲業ハ赫々トシテ人ノ耳目ニアリ復タ縷説ヲ要セザルナリ

 昭和十二年七月 秋山両将遺邸保存会 井上要撰幷書

碑文の要約
秋山好古、秋山眞之両将軍の旧邸は、天保年間、父久敬翁がこの地に建立したと伝えられる。
兄弟はこの質素な家に生まれ育ち、好古将軍は退役後ここに住み北豫中学校の校長として子弟の教育に尽した。
秋山兄弟はすでに亡くなられたので、兄弟とゆかりの深い伯爵久松定謨、山下亀三郎、新田長次郎らが資金を集め西隣地も購入し、その管理を常盤同郷会に委嘱した。
両将軍の功績は、あらためて記す必要のない程偉大であり、誰もが知るところである。
昭和12年7月 秋山両将遺邸保存会 井上 要

秋山両将遺邸之碑に記載してある人物紹介

1.      陸軍大将南次郎

明治7年年8月10日~昭和30年12月5日、81才没、大分県豊後高田市生れ、陸相、朝鮮総督、貴族院議員、A級戦犯となる

2.      陸軍大将秋山好古

安政6年1月7日~昭和5年11月4日、71才没、松山藩士秋山久敬3男、北予中学校校長は大正13年4月~昭和5年3月、墓所は青山霊園(松山市鷺谷共同墓地は分骨)

3.      海軍中将秋山眞之

慶応4年3月20日~大正7年2月4日、49才没、松山藩士秋山久敬5男、明治20年松山同郷会を結成、明治23年海軍兵学校を首席で卒業、明治38年連合艦隊首席参謀、墓所は鎌倉霊園

4.  伯爵・久松定謨(さだこと)

慶応3年9月9日~大正18年2月19日、75才没、松山藩最後の藩主(定昭)の嗣子、陸軍少将、 東京に学生寮「常盤舎」を設立、大正10年松山城の麓に萬翠荘を建築、模範農園を設置、伊予松山城存続に尽力 久松家第17代当主

5.  山下亀三郎

慶応3年4月9日~昭和19年12月13日、77才没、元宇和郡河内村出身、明治15年上京し明治法律学校に学ぶ、実業家、山下汽船創設者、参議、山下実科高等女学校(現吉田高校)、第二山下実科高等女学校(現三瓶高校)を設立

6.  新田長次郎

安政4年5月29日~昭和11年7月17日、79才没、元温泉郡山西村出身、実業家、明治18年製革業を創業、明治35年緑綬褒章を受章、明治44年大阪市難波に私立有隣尋常小学校(現、大阪市立栄小学校)を設立、大正12年私立松山高等商業学校(現、松山大学)を設立、温山と号す

7.  井上要

慶応元年5月5日~昭和18年3月18日、77才没、元喜多郡菅田村出身、実業家、有友兵衛の長男として生る、明治16年井上コンの養嗣子となる、明治18年独学して代言人試験に合格、明治21年東京専門学校(早稲田大学)に留学、明治39年元伊予鉄道社長、明治23年県会議員、同年12月同議長明治35年衆議院議員、明治36年11月愛媛進歩党を結成、大正2年伊予水力電気会社社長を兼務して大正5年伊予鉄道会社と合併、昭和2年松山商工会議所会頭、昭和8年69才で伊予鉄道電気会社会長と松山商工会議所会頭を辞職、退職金を県立図書館建設資金に寄贈、伊予教育義会会長、北予中学校理事、松山高等商業学校理事、道後グランドを造成、伊予史談会を援助、高浜不去庵で悠々自適の生活、徳富蘇峰の撰になる頌徳碑は梅津寺公園にある。秋山好古を北豫中学校校長に就任以来した

以  上

 南 次郎は、(明治7年8月10日生まれ、昭和30年12月5日没、81歳) 最終階級は陸軍大将。大分県速見郡日出町の出で、南次郎が最も慕ったのが、秋山好古大将で、日露戦争の時秋山好古は騎兵第1旅団長で、その傘下に南次郎連隊長の第13連隊があり、最も実践向きの猛者揃いであった。

先の大戦、大東亜戦争後A級戦犯として東京裁判にかけられ,終身刑の判決を受けた。東京巣鴨拘置所獄中時に大病を患いGHQの特別な計らいで出所が許可され自宅療養が許され鎌倉の自宅で逝去、81歳であった。

また、千葉県習志野市にある東邦大学構内に南次郎揮毫の立派な石碑が建立されている。東邦大学は騎兵第13連隊の跡地である。

南次郎の墓。・・平成26年6月21日撮影

南次郎の本籍は、日出町にあり、暘谷学校(現在の日出小学校)を卒業、家は旧藩政時代のご用人の家系であった。

大分県速見郡日出町神田(以前は日出塔の平と言っていた)、神田団地の傍に南次郎の墓がある。

陸軍大学校58期生、終戦時少佐、嗣子は鎌倉在住。秋山好古は陸大第1期生である。

千葉県習志野市、東邦大学構内にある南次郎が揮毫した石碑で、六角柱の立派な碑である。

平成21年8月24日東邦大学許可を得て撮影。

東邦大学は騎兵第13連隊があった場所である。

なお、習志野市には、騎兵第13・14・15・16連隊・騎砲連隊、その北に陸軍衛戍病院があった。現在13連隊跡に、東邦大学、14連隊跡に、日本大学生産工学部、15連隊跡に、東邦大学付属東邦中・高等学校、16連隊跡、は空き地、騎砲連隊跡は順天堂大学(現在は印西市に移転)その跡はマンション群となり、陸軍衛戍病院跡は済生会習志野病院となっている。東邦大学構内には、13連隊当時の建物が一棟現存しており、大学では永久保存する事が決定している。現在は、当大学の柔道部・空手部の武道場として使用している。

習志野市にある東邦大学構内には、13連隊当時の建物が一棟現存しており、大学では永久保存する事が決定している。現在は、当大学の柔道部・空手部の武道場として使用している。

平成21年に地域の街おこしの一環として、周辺に残る陸軍由来の歴史的事物の調査を開始したところ、上記の経緯をもとに本建築物が本格的な調査の対象として浮かび上がった。
そこで、東邦大学付属東邦高校の考古学研究会が中心となり、建物周辺の発掘調査を主とする周辺確認調査を行い、事実を確認した。同大学は、文化財の価値ありとして永久保存管理する事を決定した。

習志野市騎兵連隊史跡保存会もこの事に協力していく方針だそうです。

  1. 築年月/明治33年12月
  2. 構 造/木造、切妻造平入、波板鉄板葺、小屋組は木造トラス
  3. 大きさ/梁間5 間×桁行10 間
  4. 建物用途/騎兵第十三連隊、十四連隊共用の用材庫

習志野市、東邦大学(旧騎兵第13連隊)構内に旧騎兵連隊当時の兵舎の内部で現在は、同大学の空手部・柔道部の道場として使用している。

平成25年10月31日、東邦大学の許可を得て撮影。

秋山好古騎兵第1旅団長時代の騎兵連隊。

秋山好古騎馬像の前で、左から、平松昇常盤同郷会理事長、村上誠一郎議員、宇都宮良治常盤同郷会常務理事。

秋山眞之胸像の前で、左から、宇都宮良治常盤同郷会常務理事、村上誠一郎議員、平松昇常盤同郷会理事長。

秋山兄弟生誕地を視察され帰られる、元内閣府特命担当大臣であった村上誠一郎国会議員。

村上誠一郎国会議員の目線の先には、秋山好古騎馬像がありそれを見られる村上誠一郎議員。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡山県倉敷の旅

2018年10月10日 | 伊予松山歴史散策

岡山県倉敷市の親戚に新築された洋風の家屋。

平成30年10月6日・7日、新築祝いに倉敷市に行って来ました。その時の様子です。

7月に発生した「平成30年7月西日本豪雨」の時には、家の入口まで水が来たそうです。

 10月6日、倉敷市にある親戚の新築祝いに家内と一緒に行って来ました。この日は、台風25号の影響で瀬戸内海を渡るのに大変でした。

倉敷行の行程は、松山観光港からスーパージエット(高速艇)で広島港に渡り、新幹線で岡山、そしてJR在来線(山陽本線)で倉敷のコースで、帰りは、JR予讃線・特急しおかぜ(新車両・8600系)で松山に帰る1泊2日の旅でした。

10月6日は、台風25号大型台風襲来で瀬戸内海を航行する船舶は前日から欠航で唯一松山・広島間のスーパージエットのみが運行していた。私たちが乗船した午前10時発を最後に以後航行のスーパージエットは全て欠航しました。

広島港に着くと台風25号の影響で桟橋には波が打ちあがり強風でした。スーパージエットはよく航行したものだった。しかし雨は降らず今回も風台風でした。

広島港からは路面電車でJR広島駅に行き、新幹線も台風の影響で最大45分の遅れで運行、広島市、岡山市両市とも政令都市、中四国で1番と2番目に大きな都市、連休とはいえ台風襲来の中でありながら大勢の旅行者で混雑していた。

予定よりも少し遅れて目的地倉敷に到着出来ました。

ホテルまで迎えに来て頂き、新築された各部屋を拝見、まるでモデルハウスの様な近代的な造りで、台風・地震にも強い自然災害に対応しているA社の注文住宅であった。

夕食は、日本食専門のお店でご馳走になり楽しいひと時を過ごさせていただき、翌7日は、倉敷の美観地区散策と、岡山の特別名勝・後楽園を観光して帰路に着いた。

両日共に台風が引き連れて来た熱風で真夏の様な暑さ、大変であったがお陰様で降雨でなく晴天であったのが何よりでした。降雨の旅は楽しみが半減するから!!

画像は、その時の様子です。

松山観光港の風景、周囲に島がありそのため台風による高波は無かった。

10時発のスーパージエットで広島に渡った。11時以降は欠航したそうだ。

外海に出ると白波が立ち、予報では3m~5mと出ていた。

画像は、音戸の瀬戸に掛かる橋をくぐる。

画像は、今回乗船した松山観光港~広島港を約1時間で航行するスーパージェット(高速艇)。

スーパージェット(高速艇)は、189トン、速度32、0ノット(時速59,3km/h)定員156人、2Fにスーパーシート(500円)がある。

日立造船が開発したハイブリット船型の双胴水中翼船、2000馬力の高速デイーゼルエンジン2基搭載、9隻が建造されたとある。

画像は、今年7月2日撮影した。今回はこのスーパージェット・瑞光に乗船した。

松山観光港~広島港を一日12便が航行しており、その内6便が途中呉港経由となる。

10時発のスーパージェットは呉港経由であった。松山観光港~広島港まで66,2Kmを約1時間で航行する。

画像は、呉港。

スーパージェット・瑞光の1階席。

スーパージェット・瑞光の2階席。

 JR広島駅から岡山駅間、新幹線のぞみN700A型で移動、グリーン車の内部。

倉敷の親戚の招待で夕食を御馳走になりながら楽しく語り合いひと時を過ごしました。

画像は、下津井産のタコのから揚げで、凄く美味しかったです。

倉敷美観地区の倉敷川で、6日夜、ISO:12800に感度を上げて撮影した。

頂いた資料によると・・

倉敷市は、岡山県の南部に位置する自治体で、白壁の町並みが残る倉敷美観地区や本州と四国を結ぶ瀬戸大橋などで知られ、中国地方で3番目の人口を擁する中核都市に指定されていて、人口、475、000人の街である。

倉敷市役所の庁舎は欧州風の建物で、まるで高級ホテルの様、建築当初は、観光に来た人達は、今夜はこのホテルに宿泊したいと言われたそうだ。

昨晩撮影した同じ場所から撮影。

藩政時代物流の拠点として使われた倉敷川、今や観光の拠点観光船「天領丸」が運行されていた。

近世、倉敷は江戸幕府の天領として発展し、領地は名目上5万石であったが、実質は10万石以上の領地を支配した。ちなみに、倉敷代官所は、現在の倉敷アイビースクエアのある場所に置かれ、美観地区の蔵屋敷はこれによって富を得た商人の蔵であるそうだ。

この日は、多くの外国人が観光を楽しんでいた。

「平成30年7月西日本豪雨」の時、美観地区は、何ら被害は無かったが暫く観光客が来なかったそうです。

観光客は、倉敷川と両岸に立ち並ぶ家並みを散策するが、川の裏側にも歴史を感ずる街並みがある。しかし観光する人の姿は少なかった。

その一角に、老舗の酒造会社・森田酒造があった。

NHKのブラタモリに出て一躍有名になった。隣接して売店があり色んな酒や土産物があった。酒を数本購入した。

元プロ野球選手・監督を務めた、星野仙一さんの記念館もありました。

倉敷から岡山に移動しました。特別名勝・岡山後楽園入り口です。

岡山市北区後楽園にある日本庭園で、日本三名園のひとつ、倉敷美観地区を散策したあとに行きました。

頂いた資料によると・・

後楽園は、江戸初期に岡山藩主・池田綱政によって造営された、元禄文化を代表する庭園で、国の特別名勝に指定されている。 総面積は133,000平方メートルであり、東京ドームの約3倍で、同園は岡山県が所有管理しているとある。

岡山藩は、外様の大藩で、31万5000石、池田光政が入封し、以後明治まで光政の家系、池田家宗家が岡山藩を治め明治を迎えた。

関ヶ原合戦において、西軍方の主力となった秀家は改易となり、西軍から寝返り勝敗の要となった小早川秀秋が入封した城として有名である。この日は、台風25号の影響で気温が上がり真夏日であった。

暑い中結婚式の記念写真を撮っていた。

後楽園は、芝生の多い公園で、南側に岡山城天守が見える。

旭川から見る岡山城天守。

明治新政府は、明治6年廃城令を発布、明治の初め135の天守があった。地元からの要請を受け政府は19の天守を残す。先の大戦により爆撃により7つの天守は焼失、岡山城もその一つで、昭和20年6月29日、B・29、140機が飛来し爆撃をうけ国宝岡山城天守は焼失した。現天守は、昭和41年鉄筋コンクリート造で外観復元された。

こんな風景に出くわした・・記念写真を終え式場に移動する新郎新婦。その後に親族が続いていたが、皆さん正装姿なので汗だくだった。

後楽園の一番高い場所から正面入り口方面を望む。

真夏日の中、観光者に案内をするボランティアガイドさん。

今回の旅の目的は、新築祝いで倉敷に行くのが主な目的であった。

一ヶ月前からの計画で楽しみにしていた旅であった。倉敷の家族の皆さんとも久し振りに会う事が出来よかった。

台風25号の影響で、交通機関がストップすると折角の計画が水の泡になるところだったが天の救いで何とか予定の行動が出来た。行きは高速艇・新幹線で、帰りはJR予讃線で記念に残る旅だった。

画像は、予讃線特急しおかぜ・新型車両、8600系でJR岡山駅発車前である。

下り特急しおかぜは、途中、宇多津駅で高松発の特急いしづちを連結して松山に向かう。

上り特急しおかぜは、途中、宇多津駅で特急いしづちを切り離して、岡山駅に向かう。

画像は、宇多津駅で、高松発特急いしづちを連結するところ。

特急しおかぜグリーン車両で座席は24席である。

7日の特急しおかぜ17号車は、私たちを含めて6名であった。

特急しおかぜは、JR岡山駅から四国側の宇多津駅までは、揺れも無く快適に走行するが、JR四国の宇多津駅以降は松山までは揺れが大きい。線路の状態が悪いのでしょう。岡山から松山まで約3時間の列車の旅でした。

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする