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EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

久米地区の神社探訪その5・軍森神社 来住町

2015年06月29日 | 伊予松山歴史散策
軍森神社 旧村社
所在地:松山市来住町226番地
境 内:346坪
神 紋:三つ巴
祭 神:誉田(ほんた)別(わけ)命(のみこと) 足(たら)仲津比(しなかつひ)古(この)命(みこと)
境内社:伊勢神宮(天照大神)金毘羅者 奈良原社 素鵞社 猿田彦社 伊津奈社 
由来沿革:藤原秀郷の6世首藤助六が当地に来て、岩清水八幡宮の勧請を賜り、その後鎌倉時代に忠光が地頭となり岸城を築き、岸を名乗り鎮守社としたのが始まりと言う。正平年間(1365年頃)、河野、足利の久米原の戦いがあったことにより軍ヶ森と言われるようになった。
天正中(1580年頃)岸氏の子孫八郎右衛門が社殿を建立して軍森八幡宮と称えたが、何時しか軍ヶ森神社と呼び氏神として村民の尊崇が篤かった。しかし天正後期に荒廃し、また火災により全て焼失した時代もあった。
この地区は久米原の戦いがあり、昔は戦場として兵どもの夢のあとの感が深い所だあるが、今は住宅に囲まれ、森は鬱蒼とした茂りを残して静まり、その静粛の中にも歴史を秘めている。
境内に「戦捷(せんしょう)記念」の石碑がある。此れは明治27年7月~28年3月に掛けて行われた日清戦争(大日本帝国と大清国の戦い)、明治37年2月8日~明治38年9月5日に掛けて行われた日露戦争(大日本帝国とロシア帝国)で、来住村(旧温泉郡久米村大字来住、現松山市来住町)から戦いに出征し凱旋した皇軍兵士と地元有志が、明治39年5月建立した石碑である。
そして、東山神社同様に、松山市景観樹保護地区として、昭和53年4月25日に指定され指定番号は第21号である。
註:久米原の戦いとは、延元元年(1336)12月に後醍醐天皇が吉野に移られ、足利尊氏が京都に持明院統の光明天皇をたててから約60年間、世は、宮方(吉野朝側)と武家方(足利尊氏側)とに分かれて、全国的に騒乱が続いた。伊予の守護、河野通尭(後の通直)は始め武家方であったが、讃岐の細川頼之の攻撃をうけ通尭は宮方の援助を受けるために宮方となった。通尭は、足利方の木兵部大輔義尹の兵が伊予郡八倉に陣していたが、これを浄土寺から進んで攻撃を企てた。これに対して、義尹(よしただ)も八倉から進撃、両軍はこの軍ヶ森で正面衝突し激戦の末義尹は敗走した。この古戦場を軍ヶ森といい、これが久米原の戦いである。
次回は、来住町と隣接する、南土居町に鎮座する、五十鈴神社を探訪する。


軍ヶ森神社正面、鳥居の前に社号碑がある。鳥居は、明治31年10月と刻印されている。


鳥居を潜ると沢山の灯篭が建っている。


軍ヶ森神社拝殿。


拝殿内部、正面に軍森八幡神社の扁額があり、周囲には沢山の絵馬が奉納されている。


本殿右に「戦捷記念」の石碑が建立されている。
この石碑は、明治27年7月~28年3月に掛けて行われた日清戦争(大日本帝国と大清国の戦い)、明治37年2月8日~明治38年9月5日に掛けて行われた日露戦争(大日本帝国とロシア帝国)で、来住村から戦いに出征し凱旋した皇軍兵士と地元有志が、明治39年5月建立した石碑である。


本殿左には、境内社4社が祀られている。
右から、伊勢神宮(天照大神)金毘羅者 奈良原社 素鵞社 猿田彦社 伊津奈社 


松山市景観樹保護地区として、昭和53年4月25日に指定された表示板。指定番号は第21号である。


軍ヶ森神社に隣接して、昭和30年代に建設された来住岸団地があり、団地の南側には小野川が流れている。堤防の片隅に、平成5年3月建立した「史跡 久米原の戦跡」と揮毫された石碑が建立されている。建立者は、久米公民館である。

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久米地区の神社探訪その4・東山神社 南久米町

2015年06月26日 | 伊予松山歴史散策
東山神社
所在地:松山市南久米町426番地付近
境 内:322坪(約11アール)往古の時代には古墳地であったと言われている。
祭 神:石巣彦命(イワスヒコノミコト) 石巣比売命(イワスヒメノミコト)のご夫妻
由来沿革:上古の時代、大麻の金人が波多の石人を連れてこの地に来て乱暴を働き、土地の人々を悩ました。この時に天の神が石巣彦、石巣比の二人の神に命じて平げさせたと言う。後にこうした古い言われの地であるのでここに神社を建てた。元久年間(1205年頃、鎌倉幕府第3代将軍、源実朝の時代)白石家員が社殿を再建し神田を寄進したと言う。また昔、石鎚神社より祭神を勧請しこの地の鎮守としたので、社名を「東山神社」と名付けたとも言われる。本社には、奈良原社、恵比寿社、若宮社、金毘羅社の4社が境内末社として祭られている。奈良原社の祭礼には、子供相撲が賑やかに行われたり、浪曲等が演じられ民が楽しんだとある。また東山神社は古墳があった所と言われているが、現在はその跡は見当たらなく、神社近くの民家にも屋敷に古墳が残っていたそうだが、多くは壊されてしまってその気配は全くない。明治43年6月、愛媛県告示によって、神饌幣帛料(しんせんへいはくりょう)を供進する神社に指定され、例祭日には久米村長が参向した。
次回は、南久米町と隣接する、来住町に鎮座する、軍ヶ森神社を探訪する。


東山神社正面入口、境内は広い社である。
神社の鳥居には、昭和14年10月、陸軍中将 烏谷 章、謹書と揮毫されている。


拝殿。


拝殿内部で、何故か蛍光灯に灯がついていた。
沢山の絵馬が奉納されている。


拝殿左手に献句がある。奉納は、昭和58年秋に、ゆゐるぎ吟社奉納と記してある。


拝殿裏にある本殿。


本殿左にある四社の末社がある。
末社は、左から、奈良原社、恵比寿社、若宮社、金毘羅社。


東山神社正面入口にある、社号碑、揮毫は三輪田米山で明治36年6月建立と刻まれている。


境内にある御神木、楠の左に「紀元二千六百年記念」と揮毫した石碑がある。石碑の文字は風化が激しく判読困難。
註:紀元二千六百年記念行事とは、昭和15年(1940)11月10日に神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝った一連の行事を指す。


御神木「楠」。松山市指定保存樹木に指定されている。
根回り8,5mで幹は二つに分かれていて、南側が3,2m、北側が3,6m、高さは、17mと19m、推定樹齢は350年、樹勢旺盛である。昭和52年12月27日、松山市保存樹33本の中の1本に指定され、協定番号第18号、久米地区に現存する代表樹木で重量感に満ちている。
また、東山神社を、松山市景観樹保護地区として、昭和53年4月25日に指定され指定番号は第20号である。


松山市景観樹保護地区として、昭和53年4月25日に指定された表示板。

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久米地区の神社探訪その3・大護神社(仙波氏一族の守護神) 北久米町

2015年06月24日 | 伊予松山歴史散策
大護神社
所在地:松山市北久米町392番地
祭 神:天津児屋根之命(アマツコヤネノミコト) 仙波大炊介貞高(センバオオイノスケサダタカ)
由来沿革:詳細なる創建は定かではないが、境内に記念碑があり、明治39年(1906)に300年祭が行われている事から試算すると、慶長12年~18年(1607~1613)頃と推察される。松山地方では珍しい氏神さんで、北久米町内で仙波氏を名乗る家は、約60戸、毎年名月(旧8月15日)に神官を招いて祭祀が行われ、同族の繁栄と祖先の功業を偲んでいる。
境内には、五輪の墓があり、仙波貞高のであると伝えられている。社の前面右側に三輪田米山謹書の社号碑があり「仙波祖大護社300年記念」と揮毫されている。
付記1:河野氏と仙波氏
建武元年(1334)河野氏は、本拠地を高縄山麓から道後の湯築城へ移した。鎌倉に居た鎌倉幕府の御家人、河野通盛は足利尊氏の配下となり、延元3年(1337)旧領を与えられて伊予に帰国、河野氏の頭領となって湯築城を本拠地として武家方(北朝)の勢力拡張にあたるようになった。伊予においても南北朝争いが続いたが南北統一により武家方が権力を得て河野氏が有利となった。この河野氏の配下に仙波朝宗がいた。朝宗が現在の仙波氏の祖である。
付記2:仙波氏と仙波館
仙波朝宗は下野国、入間郷仙波庄(栃木県安蘇郡葛生町・現、佐野市)に居た。また結城朝光13代の末裔とも言われている。応永年間(1394~1427)伊予に来て河野氏の配下になった。興国年間(1340年頃、楠正成・新田義貞戦死の後に来たとの説もある。)朝宗5代の孫は、伊予郡三秋に住まい、子孫に仙波大炊介貞高があり豪勇の士で、河野通直の命により久米地区の凶賊を討伐し、その功績によって久米の地を賜り、久米の地に館を構え豪族としてこの地を支配した。
付記3:仙波氏の末期
秀吉は、四国統一の際、毛利輝元に伊予征伐を命じ、輝元は一族の小早川隆景を出討させ、河野氏と抗戦した。仙波氏も河野方として参戦したが湯築城は落城し、秀吉は河野氏の緒領を没収し小早川隆景に与え湯築城主となった。河野通直は、隆景のすすめで譜代の将士50名と安芸国竹原に隠居した。この中に仙波貞高の子、直貞がいた。ほどなく通直は没し、嗣子が居なかったので宗家は絶えた。仙波直貞は久米に帰り野に下り農に従事したと言われている。
註:伊予仙波氏については、もう一つの説がある。平安から鎌倉時代に掛けて武蔵武士として活躍した武蔵七党と称しるものがあった。その中に村山党武士団がありその一人に仙波七郎高家がいた。その嗣子が伊予に来たとも言われている。詳細は、埼玉県川越市仙波町の仙波館跡にある長徳寺で調査すれば何か判明するのではないか。
註:天津児屋根之命とは、天照大神が隠れた岩戸の前で祝詞を唱えて岩戸が少し開いたときに太玉命とともに鏡を天照大神に差し出した神。
次回は、北久米町と隣接する、南久米町に鎮座する、東山神社を探訪する。


仙波氏一族の守護神、大護神社で神社には珍しく鳥居がない。


拝殿右側に、二つの記念碑がある。
一つは、明治39年建立の300年祭記念碑で、揮毫は三輪田米山謹書である。
その右側に、伊豫仙波一族と中央に大きく揮毫されている記念碑がある。
大護神社400年祭記念事業、平成20年3月吉日と記してある。


大護神社300年祭記年と400年祭記念に石碑裏面。


大護神社400年祭記念事業、平成20年3月吉日と記してある。
石碑に伊豫仙波一族発刊と揮毫されているから、400年記念として同族の書籍が発行されたのでは?


拝殿左に仙波氏の由来が記された石碑がある。




拝殿裏に本殿がある。本殿の屋根に河野氏と同じ家紋「折敷に三文字」が刻まれている。


仙波貞高の墓と言われる五輪塔、その左に仙波家大々祖先之墓と揮毫した石碑がある。


本殿左に、誰をお祀りしているのか社がある。


拝殿正面と、本殿屋根の棟に河野氏と同じ折敷三文字が刻まれている。
河野家の家紋は「折敷三文字」。鎌倉幕府の開府の時に鎌倉で行われた酒宴の席順が、源頼朝、北条時政に次いで河野通信が3番目で、「三」と書かれた紙が折敷に置いてあった。このことから、それまで使用していた大山祇神社の社紋である「折敷縮三文字」を改め、席順の紙を上から見た「折敷三文字」の紋を頼朝から貰ったと伝えられる。北久米町と福音寺町の仙波氏の家紋は、隅切折敷縮三文字・三ツ割桐・五三の桐・丸に三つ鱗の紋等々が使用されている。
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松山の句碑巡り3・野村 朱鱗洞 追記

2015年06月23日 | 伊予松山歴史散策
野村朱鱗洞の句碑

「れうらんのはなのはるひをふらせる」
「れうらん」は「りょうらん」で、「繚乱」、「撩乱」とも。花の咲き乱れるさま。「はるひ」は春の陽光のこと、花ざかりの春の明るさを詠んだ句で、大正4年(1915)4月21日の「海南文芸」に、朱燐洞が主宰する十六夜吟社4月例会での句として見える。この時、朱燐洞は数え年二三歳。この句は、後に「層雲」大正5年8月号にも掲載されている。
 この句碑は、はじめ昭和26年4月、永木町の松山城南高等学校旧校舎を入ったところに建立されたが、校舎移転に伴い、昭和56年7月、現在地に移された。朱燐洞自筆である。・・俳句の里松山より
なお、俳句の里松山には、句碑散策コース城東地区5番と掲載されているが、現在は、松山市北久米町の松山城南高等学校正門前に再建立されているから、城南コースに組み替えるべきだ。


松山市北久米町の松山城南高等学校正門前にある野村朱鱗洞の句碑。
「れうらんのはなのはるひをふらせる」の説明板、松山市教育委員会設置。


野村 朱鱗洞、明治26年11月26日 生まれ、大正7年10月31日逝去、享年26歳。愛媛県温泉郡素鵞村(現・愛媛県松山市)出身の俳人である。本名は守隣(もりちか)である。前号は柏葉、朱燐洞である。
父・徳貴、母・キヌの次男で、三姉一兄がいた。松山高等小学校卒業し温泉郡郡役所給仕になり、その頃から、短歌を上司の和田汪洋に学び「柏葉」と号した。明治42年より俳句に心を傾け、同年5月、17歳の時、「四国文学」創刊号に、初めて「柏葉」の名前で俳句が一句載った。河東碧梧桐とは、翌明治43年秋、松山で相識る。明治44年3月15日から俳号を「朱燐洞」と改め、同年4月井泉水の「層雲」の創刊号よりこれに参加し、5月には松山で「十六夜吟社」を結成する。明治45年2月から「海南新聞」俳句欄選者となり、森田雷死久に師事する。大正4年10月「層雲」松山支部を創立、翌5年には、「層雲」選者となり、広く活躍し、十六夜吟社を率いて松山に自由律俳句運動を展開するなど少壮の俳人として期待されていたが、大正7年の世界的な流感(スペイン風邪引)がもとで、その鬼才を惜しまれながら夭折した。その時、朱燐洞は、温泉郡郡役所書記、月俸17円であった。つつましく、口数少なく「純真で質素な生活の中にあって自分を深く生かす事を怠らず、求道者の勇猛心をもち、鋭い神経を集めた細い肉体と、深く土に喰い込んで行く強い意力の根を持っている」人であったと、井泉水は、自ら編んだ朱燐洞の遺稿集「礼讃」の序で述べている。


種田山頭火が、昭和14年10月1日、松山を訪ねて来たのは、朱燐洞の墓参が最大の目的であった。10月5日、朱燐洞の墓所が判明し、夜更け、雨の中墓参をして念願を果たした。自由律俳句運動の旗頭として将来を嘱望されながら僅か26歳の若さで逝去した朱燐洞を俳壇の啄木と評していた。
松山を終焉の地としたのは、朱燐洞を慕って来たものであり、朱燐洞没後22年目のことであった。昭和15年10月11日午前4時頃、脳溢血で自らが望んだ「コロリ往生」を一草庵でとげた。享年59歳。・・前日の10日夜、句会があり、山頭火は隣室で酒を飲み、鼾をかいて気持ちよさそうに寝ていたので起こさずに帰ったそうです。
平成25年9月30日のブログで野村朱鱗洞の句碑を取り上げたが、この度久米地区の神社探訪、辰岡天満宮に行った時、松山城南高校正門前に朱鱗洞の句碑を発見、追加としてブログに書く事にした。正岡子規の句碑は市内いたる所に存在するが、野村朱鱗洞の句碑は少なく貴重な句碑である。


れうらんのはなのはるひをふらせるの句碑がある、松山城南高等学校正門で、左側ソテツの前にある。


松山城南高等学校は、愛媛県松山市にある私立高等学校。プロテスタント系の高校で、初代校長作詞の「山路こえて」が学校の中心的な賛美歌になっている。またこれとは別に校歌がある。創立当時は夜間学校であったが現在では全日制に移行している。なお姉妹校として、同じ松山市の松山東雲高等学校がある。明治24年1月14日- アメリカ人女性宣教師・コーネリア・ジャジソン、西村清雄と共に松山市三番町に「普通夜学会」を創立。
明治27年11月、松山市永木町に移転「松山夜間学校」と改称。
昭和23年4月、松山城南高等学校と改称。
昭和57年3月:松山市北久米町に移転。


種田山頭火終焉の地「一草庵」。
平成19年松山市の「坂の上の雲・フィールドミュージアム」構想により一草庵周辺の整備が進められ、隣接する用地を取得して休憩所等の施設も整えられました。庵の庭はいつも自由に観覧できます。
また、庵の内部は、平成21年4月より毎週土曜、日曜、祝日に一般公開され、「一草庵案内人」の説明を聞いたり、ゆったりとくつろいだりすることが出来ます。松山市の委嘱を受けた「NPO法人まつやま山頭火倶楽部」が中心となり、市民ボランティアの一草庵案内人や地元の「一草庵管理協力会」とともに山頭火顕彰活動が進められております。

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久米地区の神社探訪その2・辰岡天満宮 北久米町

2015年06月22日 | 伊予松山歴史散策
現在、全国各地には、菅原道真公をお祀りした神社が、およそ一万二千社とも言われ、その多くは京都北野天満宮から御霊分けをした神社である。菅公の清らかで誠実な人柄と晩年の不遇はさまざまな伝説を生み、やがては天神さまと崇められ、学問の神様としての信仰は昔も今も変わることなく人々の生活のなかで受け継がれている。
北久米町の辰岡天満宮も、北野天満宮から御霊分けを受けた神社である。藤原氏の策謀により、昌泰4年(901)大宰府に左遷され、そのわずか2年後、大宰府の配所にて波乱の生涯を閉じられました。その途中瀬戸海を航行中、嵐に遭遇し遭難、越智郡桜井の海岸に漂着、陸路西下し松山に滞在した。その時この地に立ち寄られ一時の休息をされ、石に腰を掛けられて疲れた身体を癒されたと言う伝説の石があり、「菅原公御腰掛石」の記念石碑が建立されている。残念ながら菅原道真公が伊予に来たと言う証拠はない。
この神社の創建に付いては、伊予の守護河野氏がこの地に神社を興し、腰掛天神と呼んだと伝えられている。
慶長7年(1602)加藤嘉明が松山城を築き、新城下町に移った時、城の辰の方角の守りとして本社を辰岡天満宮と称して、厚く崇敬したとも言われる。
辰岡天満宮
所在地:松山市北久米町 松山城南高校の北に位置し、面積は、237坪
祭 神:菅原道真公
境内社:奈良原神社がる。
由来沿革:旧北久米村の鎮守の神で、村人の氏神である。本社に関する記録に、天明5年(1785)「菅公御霊、鷹ノ子村三輪田播磨預り、祭祀9月25日、本社五尺ニ六尺、桧椽(ひのきたるき)三尺五寸、釣殿壱間四尺ニ弐間壱尺、神楽殿二間半ニ三間半、鳥居高サ八尺、境内東西弐拾壱間、南北五間」とある。
本殿は、永年の風雨のため多大の損傷が酷く、南久米町の小倉宮大工により改築された。石段、鳥居、玉垣も一新された。境内に小社があり、奈良原神社と言われている。
奈良原神社とは、今治市玉川町龍岡、標高1014mの楢原山頂にある農民信仰の神社で、南北朝時代、北朝方によって都を追われた長慶天皇が牛や馬を乗り継いで千疋峠を越え、楢原山から東三方ヶ森を通って川内の山之内へと逃れた伝承がある。
同社は、江戸中期以降牛馬の守護神としてひろく崇敬され,県内各地に分祀されている。農民は、毎年必ず参拝に詣で、自宅で飼育する農耕用の牛馬の健康と一年の安全を祈願し、牛舎に同社のお札を祀っていた。最近は、近代化にともなって農業機械の導入により、農村部から牛馬が姿を消すにつれ崇拝も薄れて来た。

次回は、同じく北久米町に鎮座する、大護神社(仙波氏一族の守護神)を探訪する。


松山城南高等学校正門左に参道があり、星岡古戦場跡の一番北側の丘に社がある。
鳥居は、昭和11年7月再建と記してある。
鳥居の前にこの神社で一番古い建造物とみられる常夜灯があり、文政3年(1820)10月と刻印されている。この時期は、伊能忠敬が日本地図を完成させた一年前になる。伊予松山藩第11代松平定通の時代である。


鳥居を潜ると注連石があり、一対の狛犬が、そして玉垣がその後ろに沢山の灯篭がある。
注連石の揮毫は、大東亜戦線前、秋山兄弟生誕地を一時期管理していた秋山好古の後輩、烏谷章陸軍中将である。建立は、昭和14年10月。


さて立派な石段を登り拝殿に行こう。石段は57段、平成3年10月に改修された。


神社の創建に付いては、伊予の守護河野氏がこの地に神社を興し、腰掛天神と呼んだと伝えられている。
慶長7年(1602)加藤嘉明が松山城を築き、新城下町に移った時、城の辰の方角の守りとして本社を辰岡天満宮と称して、厚く崇敬したとも言われ拝殿で、拝殿の中には、天満宮の扁額と絵馬が奉納されている。


辰岡天満宮の本殿で、有刺鉄線で厳重な保護がなされている。


本殿斜め後ろに位置されている、奈良原神社から分祀された社。体力的に奈良原神社行けなかった人達はこの社を詣でた。


伝承される「菅原公御腰掛石」とその記念石碑である。


拝殿左に石段改修記念碑が建立されている。


辰岡天満宮の参道前にある、松山城南高等学校。


松山城南高等学校正門に建立されている、野村朱燐洞の句碑。
れうらんの はなのはるひを ふらせる
この句碑は、はじめ昭和26年4月、永木町の松山城南高等学校旧校舎を入ったところに建立されたが、校舎移転に伴い、昭和56年7月、現在地に移された。朱燐洞自筆。
大正4年4月21日、朱燐洞は数え年23歳の時の句である。この句は、後に「層雲」大正5年8月号にも掲載されている。朱燐洞は26歳の若さで亡くなった。


野村朱燐洞の句の説明板、設置は松山市教育委員会。
野村朱燐洞を尊敬していた自由律の俳人、種田山頭火は、朱燐洞が育った伊予松山を終焉の地と定めやって来た。ある日、好きな酒を飲みコロリと亡くなった。
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