軍森神社 旧村社
所在地:松山市来住町226番地
境 内:346坪
神 紋:三つ巴
祭 神:誉田(ほんた)別(わけ)命(のみこと) 足(たら)仲津比(しなかつひ)古(この)命(みこと)
境内社:伊勢神宮(天照大神)金毘羅者 奈良原社 素鵞社 猿田彦社 伊津奈社
由来沿革:藤原秀郷の6世首藤助六が当地に来て、岩清水八幡宮の勧請を賜り、その後鎌倉時代に忠光が地頭となり岸城を築き、岸を名乗り鎮守社としたのが始まりと言う。正平年間(1365年頃)、河野、足利の久米原の戦いがあったことにより軍ヶ森と言われるようになった。
天正中(1580年頃)岸氏の子孫八郎右衛門が社殿を建立して軍森八幡宮と称えたが、何時しか軍ヶ森神社と呼び氏神として村民の尊崇が篤かった。しかし天正後期に荒廃し、また火災により全て焼失した時代もあった。
この地区は久米原の戦いがあり、昔は戦場として兵どもの夢のあとの感が深い所だあるが、今は住宅に囲まれ、森は鬱蒼とした茂りを残して静まり、その静粛の中にも歴史を秘めている。
境内に「戦捷(せんしょう)記念」の石碑がある。此れは明治27年7月~28年3月に掛けて行われた日清戦争(大日本帝国と大清国の戦い)、明治37年2月8日~明治38年9月5日に掛けて行われた日露戦争(大日本帝国とロシア帝国)で、来住村(旧温泉郡久米村大字来住、現松山市来住町)から戦いに出征し凱旋した皇軍兵士と地元有志が、明治39年5月建立した石碑である。
そして、東山神社同様に、松山市景観樹保護地区として、昭和53年4月25日に指定され指定番号は第21号である。
註:久米原の戦いとは、延元元年(1336)12月に後醍醐天皇が吉野に移られ、足利尊氏が京都に持明院統の光明天皇をたててから約60年間、世は、宮方(吉野朝側)と武家方(足利尊氏側)とに分かれて、全国的に騒乱が続いた。伊予の守護、河野通尭(後の通直)は始め武家方であったが、讃岐の細川頼之の攻撃をうけ通尭は宮方の援助を受けるために宮方となった。通尭は、足利方の木兵部大輔義尹の兵が伊予郡八倉に陣していたが、これを浄土寺から進んで攻撃を企てた。これに対して、義尹(よしただ)も八倉から進撃、両軍はこの軍ヶ森で正面衝突し激戦の末義尹は敗走した。この古戦場を軍ヶ森といい、これが久米原の戦いである。
次回は、来住町と隣接する、南土居町に鎮座する、五十鈴神社を探訪する。
軍ヶ森神社正面、鳥居の前に社号碑がある。鳥居は、明治31年10月と刻印されている。
鳥居を潜ると沢山の灯篭が建っている。
軍ヶ森神社拝殿。
拝殿内部、正面に軍森八幡神社の扁額があり、周囲には沢山の絵馬が奉納されている。
本殿右に「戦捷記念」の石碑が建立されている。
この石碑は、明治27年7月~28年3月に掛けて行われた日清戦争(大日本帝国と大清国の戦い)、明治37年2月8日~明治38年9月5日に掛けて行われた日露戦争(大日本帝国とロシア帝国)で、来住村から戦いに出征し凱旋した皇軍兵士と地元有志が、明治39年5月建立した石碑である。
本殿左には、境内社4社が祀られている。
右から、伊勢神宮(天照大神)金毘羅者 奈良原社 素鵞社 猿田彦社 伊津奈社
松山市景観樹保護地区として、昭和53年4月25日に指定された表示板。指定番号は第21号である。
軍ヶ森神社に隣接して、昭和30年代に建設された来住岸団地があり、団地の南側には小野川が流れている。堤防の片隅に、平成5年3月建立した「史跡 久米原の戦跡」と揮毫された石碑が建立されている。建立者は、久米公民館である。
所在地:松山市来住町226番地
境 内:346坪
神 紋:三つ巴
祭 神:誉田(ほんた)別(わけ)命(のみこと) 足(たら)仲津比(しなかつひ)古(この)命(みこと)
境内社:伊勢神宮(天照大神)金毘羅者 奈良原社 素鵞社 猿田彦社 伊津奈社
由来沿革:藤原秀郷の6世首藤助六が当地に来て、岩清水八幡宮の勧請を賜り、その後鎌倉時代に忠光が地頭となり岸城を築き、岸を名乗り鎮守社としたのが始まりと言う。正平年間(1365年頃)、河野、足利の久米原の戦いがあったことにより軍ヶ森と言われるようになった。
天正中(1580年頃)岸氏の子孫八郎右衛門が社殿を建立して軍森八幡宮と称えたが、何時しか軍ヶ森神社と呼び氏神として村民の尊崇が篤かった。しかし天正後期に荒廃し、また火災により全て焼失した時代もあった。
この地区は久米原の戦いがあり、昔は戦場として兵どもの夢のあとの感が深い所だあるが、今は住宅に囲まれ、森は鬱蒼とした茂りを残して静まり、その静粛の中にも歴史を秘めている。
境内に「戦捷(せんしょう)記念」の石碑がある。此れは明治27年7月~28年3月に掛けて行われた日清戦争(大日本帝国と大清国の戦い)、明治37年2月8日~明治38年9月5日に掛けて行われた日露戦争(大日本帝国とロシア帝国)で、来住村(旧温泉郡久米村大字来住、現松山市来住町)から戦いに出征し凱旋した皇軍兵士と地元有志が、明治39年5月建立した石碑である。
そして、東山神社同様に、松山市景観樹保護地区として、昭和53年4月25日に指定され指定番号は第21号である。
註:久米原の戦いとは、延元元年(1336)12月に後醍醐天皇が吉野に移られ、足利尊氏が京都に持明院統の光明天皇をたててから約60年間、世は、宮方(吉野朝側)と武家方(足利尊氏側)とに分かれて、全国的に騒乱が続いた。伊予の守護、河野通尭(後の通直)は始め武家方であったが、讃岐の細川頼之の攻撃をうけ通尭は宮方の援助を受けるために宮方となった。通尭は、足利方の木兵部大輔義尹の兵が伊予郡八倉に陣していたが、これを浄土寺から進んで攻撃を企てた。これに対して、義尹(よしただ)も八倉から進撃、両軍はこの軍ヶ森で正面衝突し激戦の末義尹は敗走した。この古戦場を軍ヶ森といい、これが久米原の戦いである。
次回は、来住町と隣接する、南土居町に鎮座する、五十鈴神社を探訪する。
軍ヶ森神社正面、鳥居の前に社号碑がある。鳥居は、明治31年10月と刻印されている。
鳥居を潜ると沢山の灯篭が建っている。
軍ヶ森神社拝殿。
拝殿内部、正面に軍森八幡神社の扁額があり、周囲には沢山の絵馬が奉納されている。
本殿右に「戦捷記念」の石碑が建立されている。
この石碑は、明治27年7月~28年3月に掛けて行われた日清戦争(大日本帝国と大清国の戦い)、明治37年2月8日~明治38年9月5日に掛けて行われた日露戦争(大日本帝国とロシア帝国)で、来住村から戦いに出征し凱旋した皇軍兵士と地元有志が、明治39年5月建立した石碑である。
本殿左には、境内社4社が祀られている。
右から、伊勢神宮(天照大神)金毘羅者 奈良原社 素鵞社 猿田彦社 伊津奈社
松山市景観樹保護地区として、昭和53年4月25日に指定された表示板。指定番号は第21号である。
軍ヶ森神社に隣接して、昭和30年代に建設された来住岸団地があり、団地の南側には小野川が流れている。堤防の片隅に、平成5年3月建立した「史跡 久米原の戦跡」と揮毫された石碑が建立されている。建立者は、久米公民館である。