EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

伊予松山城 存続に尽力した3名と英断を下した大久保利通・木戸孝允

2021年09月30日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

明治初期松山城は取り壊しの危機にあった。存続の一番の功労者は、当時愛媛県吏員であった伊佐庭如矢で、存続の英断を下した、維新の三傑大蔵卿・大久保利通と、内務卿・木戸孝允(桂小五郎)であった。

廃城を免れた明治時25年頃の松山城本壇で、天守並びに小天守・南隅櫓である。

写真の裏に「松山や 秋より高く 天主閣」明治25年秋に子規と書かれている。

愛媛県参議・江木 康直名で、伊佐庭如矢が起案し大蔵卿・大久保利通に上申した「松山城公園永久維持之儀申上候書」。

公園永久維持之儀 申上候書の起案をしたのが当時愛媛県吏員であった伊佐庭如矢であった。

王政復古・明治維新の時点で日本に存在していた城持ち大名は135家、城持ちではない大名、陣屋等18家、それ以外の大名が141家・合計276の藩があったと言われ、135基の天守があった。
しかし、幕末維新の動乱による財政悪化で、多くの城が荒廃し始め、廃藩置県によって大名所有の土地は、そして城も明治政府のものとなったが、城は巨大であるがゆえに老朽化が激しく、旧藩主は知藩事となり、明治4年その職がなくなった。そして東京移住を命じられ、主がいなくなった城はさらに荒廃していった。

明治6年政府は廃城令を発布した。
全国から存続を願う上申書が政府に上程されその取り扱いに苦慮した。
そんな中、明治6年10月27日付で、愛媛県参議・江木 康直から松山城を市民の憩いの場(公園化)に認定してほしいと上申書が提出された。
その起案をしたのが、当時愛媛県吏員であった「伊佐庭如矢」であった。

伊佐庭如矢が起案し、愛媛県参議・江木 康直名で大蔵卿・大久保利通に申上候書を上申したその内容書である。(愛媛県立図書館所蔵)

内務卿・木戸孝允の指令書で、国が松山城の公園化について無償で払い下げ、城の保存=公園化が決定した。

内務的な事務扱いを愛媛県参議・江木 康直の命を受け起案した伊佐庭如矢の功績は多大であった。これが手本となり135基の天守があったと言われているが明治政府は20基の天守存続を認めた。そして戦災で焼失また不審火で焼失した天守が8基の天守(松前城・水戸城・大垣城・名古屋城・和歌山城・岡山城・福山城・広島城)で現存するのが12天守で(弘前城・松本城・犬山城・丸岡城・彦根城・姫路城・松江城・備中松山城・丸亀城・高知城・宇和島城・伊予松山城)である。

参考事項

明治6年2月政府は、廃城令を出して旧権力の象徴である城郭を取り壊すと共に、売却による維持経費の削減を図ろうとした。

伊予松山藩は、親藩で幕末朝敵とされ松山城の売却取り壊しは免れぬ状態であった。幕末長州討伐に伊予松山藩は長州に二度進攻した。長州の出身、木戸孝允はよく聞き入れてくれたものだ。

伊佐庭如矢の功績をみてみよう。

何と言っても松山城の存続に尽力したことである。松山は何の資源もなく松山城を核として観光資源として絶対必用であった。
明治27年県職員を退職し、道後町長に就任、道後町の発展の核となる何処にもない三階建の建物を町議会の猛反対を押切改築した。(現在の道後温泉本館、国指定重要文化財)
明治28年松山中学の教師として夏目漱石が赴任、道後温泉の素晴らしさを小説坊っちゃんで取り上げ紹介した。
伊佐庭如矢町長は、中世の城跡「湯築城跡を道後公園」として整備して、道後温泉湯上がりの観光者の一時の憩いの場として整備、公園の売店に「湯ざらし団子」を考案、漱石も美味しく食べた。これが後の「坊っちゃん団子」である。その他に道後温泉の入浴客の増加を目的に道後鉄道建設を実現した。

伊佐庭如矢町長は、中世の城跡「湯築城跡を道後公園」として整備して、道後温泉湯上がりの観光者の一時の憩いの場として整備、公園の売店に「湯ざらし団子」を考案、漱石も美味しく食べた。これが後の「坊っちゃん団子」である。

少し伊佐庭如矢を辿ってみよう。

伊佐庭如矢は、現・松山市の町医者・成川国雄の三男として生まれた。成川家は、祖父が土佐から松山にやってきて松山藩の医療に携わる医家で、成川國雄の子として一家を創立し、名は如矢、通称は斧右衛門、碧梧桐とも号した。初め伊予松山藩の老職菅良弼の家令となり、明治維新後は愛媛県庁、内務省の官僚、山田香川郡長、高松中学校長、琴平神社禰宣などを務め、晩年は、道後町長に迎えられ道後温泉の改造などを行った。現在の道後温泉本館は、伊佐庭如矢が建築したものである。

胸像は、

平成7年5月、道後温泉本館建設100周年を記念して伊佐庭如矢の胸像が建立された。

伊佐庭如矢の胸像は道後温泉本館を眺めるように建立されている。

伊佐庭如矢胸像は道後温泉本館を眺めるように建立されている。

伊佐庭如矢の生誕地跡に、平成30年12月、生誕190年を記念して建立された「伊佐庭如矢翁生誕碑」で場所は、道後温泉一の老舗旅館「ふなや」の東隣りにある。

「伊佐庭如矢翁生誕碑」の裏面。

昭和21年1月13日、伊佐庭如矢の功績を讃えて、自身が整備した道後公園(国指定史跡・湯築城跡)に顕彰碑が建立された。

揮毫者は、安部能成である。

能成は、昭和21年1月、幣原内閣の第62代文部大臣に就任。

そして第18代学習院院長を昭和21年~同41年逝去されるまで在任された。

次に松山城存続に尽力された「旧松山藩主・久松家第16代、久松定謨」である。

大正12年(1923年)7月、国から松山城の払下げを受け、維持金4万円を添えて松山市に寄付した。遺憾なのは昭和8年(1933年)7月9日放火により小天守及び廻廊が焼失し、連立式城郭の一部を失ったことである。しかし国宝天守は残った。その後昭和20年7月26日、B29100機による松山爆撃には松山城城門・櫓・続塀が焼失したが、この時も天守は残った。強運の天守である。

仏蘭西のサンシール陸軍士官学校、留学時代の「久松定謨(21歳)と定謨の補導役として同行した秋山好古(29歳)、山縣有朋が欧州視察の時、好古を訪ねて来られた。その時騎兵の用兵は仏蘭西式が日本人の体型にあっている事を力説、その後騎兵の用兵だけが仏蘭西式となった。その他の用兵はドイツ式であった。

久松定謨は、陸軍士官学校を卒業してないが、陸軍総務局は、士官学校卒業扱いとした。

松山城本丸艮門の上、本壇天神櫓の下にある「伯爵 久松定謨頌徳碑」がある。
揮毫者は、徳川家正で、徳川宗家第17代当主である。
昭和30年10月に建立された。

久松定謨は15万石の大名の嗣子本来ならば侯爵の爵位が授与されるが、伊予松山藩は朝敵にされたが故に伯爵となった。10万石以上の外様大名また戊辰戦争で政府軍として参戦した旧大名たちは、侯爵扱いである。

左から「秋山好古・近衛師団長」「久松定謨・近衛第1連隊長」「仙波太郎・第1師団長」この三名が大正4年時、陸軍の重要の職に任命された。

大正4年2月15日。
秋山好古が第13代近衛師団長として、天皇と宮城(皇居)を警備する師団長になった。一般の師団とは異なり、部隊は最新鋭、最古参の儀仗部隊で、秋山好古はそのトップに就いた。

大正4年2月15日。
仙波太郎が第11代第一師団長として、当時6師団中で近衛師団部隊に次いでの精鋭隊員の師団として首都東京を護った。

大正4年5月11日。
久松定謨は、第19代の近衛兵第一連隊長として、天皇と宮城を護り抜いた。

秋山好古・仙波太郎共に親藩、朝敵の出身者、久松定謨はその元藩主、故に身分の昇進が遅れていた。

大正4年、東京を朝敵とされた伊予松山の、久松定謨・秋山好古・仙波太郎の3名が護ったのである。
※ この3名は、明治維新の時、朝敵の汚名を被ったがこれでようやく汚名を返上できたと喜んだそうだ。

陸軍人事当局は、秋山好古・仙波太郎・久松定謨は朝敵藩の出身者を承知の上で要職の指揮官として任命抜擢した。余程優秀であったのだろう!!

次に命がけの消火活動で国宝松山城天守を守った「住田 晋監視長」について。

昭和42年6月24日、松山市長・宇都宮孝平からの感謝状である。

昭和8年7月9日、放火により天守を除く連立式城郭の建造物が焼失した。

その後、昭和20年7月26日、午後11時08分からB29爆撃機100機あまりが松山上空に飛来し攻撃された。翌7月27日未明に攻撃は終わり一瞬にして城下町は焼け野原になった。
B29が飛び去ったあと天守から煙が立ち上るのを見て取った住田 晋監視長は、本壇に駆け上がり天守米蔵前にあった防火用水をバケツに汲み取り懸命に命の危険をかえりみず消火に徹し天守は残った。

昭和43年復元完了した松山城本壇、連立式城郭。

昭和8年7月9日、放火により天守を除く連立式城郭の建造物が焼失した。

終戦後、昭和43年から松山市は年次計画的に文化庁の指導の元松山城本丸復元工事に着手した。先ずは本壇の連立式城郭の復元で小天守の復元から始まり、昭和46年に画像のように3年の歳月を掛けて往時の姿に復興した。

なお、本丸の復元は平成2年太鼓門西塀の復元をもって完了した。実に22年の歳月を要した。

加藤嘉明が松山城完成に26年を掛け築城したが、それに匹敵する年月が掛かった。

文部大臣・田中耕太郎から、住田 晋監守長に贈られてきた感謝状。

昭和20年7月27日、未明に焼夷弾投下(完全爆発しなかった)による火災が発生、その消火活動に対して
昭和20年9月9日、文部大臣・田中耕太郎から、住田 晋監守長に贈られてきた感謝状で、その一文に「国宝松山城天守を貴殿の命がけの消火活動により守られた」とある。

文部大臣・田中耕太郎から、住田 晋監守長に贈られてきた感謝状。

昭和43年8月3日付の愛媛新聞夕刊の記事である。
見出しに「守り抜いた天守・濠」として松久 敬記者の記事である。

昭和43年8月3日付の愛媛新聞夕刊の記事である。

今回の最後に。

昭和20年10月22日、米軍第24歩兵団1万2千人が松山市に進駐してきた。その時の司令官が退官し母国に帰る時、住田監守長に天守に展示してあった甲冑をお土産に持って帰りたいで欲しいと願い出た。住田監守長は、この展示物は松山市の物件ではなく、市民の篤志家から寄託展示しているので幾ら司令官とはいえ差し上げることは出来ないと断った。しかしどうしても差し出せと言われ、代々住田家は元松山藩士の家系で、家宝としてきた住田家の甲冑を差し上げた。

画像書面は、トーマス陸軍大佐から住田監守に対してのお礼状である。

参考まで
新潟市に進駐してきた軍司令組織の中に教育の6・3・3制推進司令官がいた。越後の豪農伊藤家を、新潟司令本部として接収する計画だったが、その司令官は、マッカーサー元帥極東軍最高司令長官に働きかけて博物館として残した司令官もいた。現在の新潟市江南区の「北方文化博物館」である。土産に甲冑を持ち帰った司令官と博物館として残した司令官は「月とスッポン」である。

空飛ぶ要塞・B29(スーパー・フォートレス・長距離爆撃機)。

松山市は、昭和20年7月26日、サイパン・イスレイ飛行場の米軍第73爆撃団所属の空飛ぶ要塞、B-29・(スーパー・フォートレス・長距離爆撃機)350機が大牟田・松山・徳山の三都市を攻撃のため飛び立った。その内128機が四編隊に区分され、投下高度1万1千フィート、から攻撃が始まった。開始時刻は、23時08分に松山を攻撃したと記述がある。

松山は爆撃を受け一瞬にして焼け野原となった。

慶長5年(1600年)加藤嘉明は、関ヶ原の戦いで武勲を上げ徳川家康から伊予国20万石を拝領し慶長8年(1603年)10月この地を「松山」とすると言ってから長い年月を掛けて築き挙げてきた松山の街は、342年後の

昭和20年7月26日午後11時08分に始まり27日午前1時13分頃まで約2時間余り爆撃は継続、攻撃要領は、大都市に対するものと同じ方法で行われ、攻撃の先頭部隊は無数の小型焼夷弾を投下、次いで後続の部隊が大型の焼夷弾を投下した。投下した焼夷弾は896トンと米軍の資料にある。

 これで江戸時代から構築してきた松山の街は、一夜にして焼け野原と化した。
「松山爆撃に参加したカリフォルニア出身のスミス中尉の談話、松山の火災は此れまでに私が見たベストのものだった。全市が燃えた。煙はゆうに上空1万8千フィート(6000m)に達していた。」と記述がある。

 但し、松山城は攻撃から外されていたそうだが誤って焼夷弾が投下され貴重な国宝建造物が焼失した。
東京大空襲(昭和20年3月9日)から約4ヶ月後の事である。

しかし天守は残ったのである。これは久松家の元祖菅原道真のご加護であったのか?

空飛ぶ要塞、B-29(スーパー・フォートレス・長距離爆撃機)の大きさ比較。

 

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伊予松山城 天守内部を観る

2021年09月15日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

伊予松山初代藩主、加藤嘉明が築城した5層の偉観を誇った天守を、第3代藩主、松平定行は、天守改築を幕府に願い出て、寛永16年(1639)7月13日に許可が下り3年後の同19年(1642)3層の天守に改築完成した。
改築の理由は、天守山頂部が谷を埋め立てた所に当り、建造物の保存上の安全を期するためであったと資料にある。

落雷による天守群焼失。

天明4年(1784)1月元旦真夜中に天守に落雷があり、そのため本壇をはじめ本丸を焼失、この時の藩主は、松平定国で、徳川御三卿の一つ、田安宗武の次男が養嗣子として伊予松山、第9代藩主として継承していた。
定国は、落雷の事につき使者を江戸に送り、その旨幕府に報告、幕府から定国に対し参勤の時期を同年9月に延期するように伝えられた。
そして同年6月29日に本丸城郭復興計画を幕府に請願しその許可を受けた。

その後諸事情で天守復興はままならず、嘉永5年(1852)12月20日、層塔型天守をはじめ本丸城郭全部が完成し翌々年の安政元年2月8日盛大に落成式が行われた。
天明の落雷で焼失してから71年の歳月が経っていた。
これが現在の松山城天守で、江戸時代に創建された一番新しい天守である。

注1:松山藩主、第9代松平定国は、第8代将軍徳川吉宗の次男、田安宗武の次男である。定国の弟は、松平定信であって、陸奥白河藩主、後に江戸幕府老中となり寛政の大改革断行した政治家である。

それでは、江戸時代最後に築城された天守に入りましょう。

小天守からみた日本三大連立式天守(姫路城・和歌山城・松山城)日本の本壇造りで一番整備が整っている天守です。
お城愛好者はこの風景を見学に松山城を訪れるのです。

天守を見学する順路が決められているのでそれに従い鑑賞して下さい。

本壇中庭、西南方向隅から見た天守で、右の城門が筋鉄門・天守左が、内門その左が玄関多聞櫓・玄関です。

玄関の懸魚に徳川家の家紋「三ツ葉葵」が施されている。

それでは、天守に入りましょう。
扉の上に見える石材、楣石(まぐさいし)で重さ6トンの花崗岩が5本並列して用いられている。地下一階の米蔵の出入口を支える石です。
観光に来られた方々は殆ど気が付かずに入られますが、お越しになった時はぜひご覧ください。
こんな重い石をどんなにして運んだのでしょうか。?
花崗岩の楣石一個の長さは、3,6m、断面が0,8X0,75mで専門家が計算すると約6トンであろうと数値を出しています。

天守台の石垣は二重構造で、外側は花崗岩で、切込み接ぎ工法、内側の石は米蔵であることを配慮して、湿度調整が出来る安山岩を用い切込み接ぎ工法で、外からの害虫を阻止しています。

大きな部材が目につきますが、全て楠木材で抗菌効果を利用し防虫の意味で使用されています。

そして床には、素焼きの瓦が敷き詰められています。これも米が嫌う湿度調整を図るものであります。

入口には鉄板張りの扉が取り付けてあります。
当時の職人さんは適材適所に必要な部材を用いて建築しています。

 

注1:「楣石・まぐさいし」とは、水平に渡した構造を指し、上部の重量を支える役目を持つ石のことです。

地下一階(米蔵)。

奥の石垣が、湿度調整が出来る安山岩で、切込み接ぎ工法です。

木材は、全て楠木で抗菌効果を利用し防虫の意味で使用されています。

床は、素焼きの瓦が敷き詰められています。米が嫌う湿度調整を図るものです。

地下一階。

石垣の手前の箱は、下駄箱で松山城は土足で上がれないので靴を脱ぎ、スリッパに履き替えて上がります。

現在は、コロナが蔓延しておりスリッパの利用は中止しています。素足で上がって頂いております。

注:現存12天守で弘前城は土足で上がれます。それ以外の11天守は禁止です。素足で上がるのが抵抗を感じる方は「マイスリッパ」を持参されたらいいと思います。

現存12天守の階段は何処も急勾配なので気をつけて上がり下りされて下さい。

玄関多聞櫓からみた玄関内側です。奥に見えるのは中庭です。

玄関多門櫓に接続しているのが「北隅櫓」そして「十間廊下」です。

北隅櫓は現在コロナが蔓延防止の為閲覧禁止中です。
画像は十間廊下に展示している「刀剣・甲冑類」です。

槍が展示してあります。

槍の達人の一人が「新選組隊士・10番隊組長・原田左之助が有名で、左之助は伊予松山藩士で、脱藩して新選組に入隊しました。流派は、種田流で松山藩の槍術の流派です。
晩年中国大陸に渡り馬賊の頭目になり、言葉は伊予弁であったそうです。日清・日露戦争のとき、秋山好古率いる騎兵隊に支援したとの逸話があります。

注:松山藩の剣術流派は、新当橋本流・直心影流長沼派・新陰柳生流・大三輪流である。

南隅櫓の一階を通り、小天守一階には「長持」が展示してあります。

長持には二つの家紋が描かれています。

小天守に展示されている長持ちで、右に三つ葉葵、左に久松家(菅原家)の星梅鉢家紋が描かれています。

長持は、参勤交代で江戸に行くとき、国元に帰るとき何時も三ツ葉葵が江戸に向くようあしらわれています。

注:伊予松山三代城主、松平定行の父は、定勝で母は伝通院(於大の方)伝通院は、初め松平広忠に嫁ぎ家康を生みました。

定勝は、家康と異父同母弟で、定勝の次男、定行が伊予松山三代目城主、松平(久松)定行です。

定行は、徳川家康より、家門に准じて松平氏の称号並びに三つ葵紋を賜い明治維新まで松平姓を名乗りました。

維新以降、新政府の指示に従い本姓である久松姓に戻しました。

久松家については

延喜元年(901)菅原道真は、大宰府に流され、その時一族は安古居(あごい)(愛知県知多郡阿久比町)に同じように流されました。道真の死後宇多上皇は、無実であったとして許し、遺族を京都に戻しました。道真の長男、高規(たかのり)は喜んで京都に帰りましたが、その子雅(まさ)規(のり)は、9歳の時から安古居に住み、良くなじんでいるからと言って父について帰らず住み付き、後に地頭守護職になりました。この雅規の幼名が「久松丸」であり雅規の後、14代目の定道が菅原姓を捨てて、久松姓を名乗りこれが久松姓の起こりです。

次に展示されているのは、武士の似顔絵です。
平成16年10月から平成18年11月の間に松山城天守は平成の大修復保存工事が行われました。

その時天守の壁から武士の似顔絵や武士の姿を真上からみた姿を板に描かれた絵が発見されました。

これは当時携わった宮大工さんが休憩時に描いたのではないかと言われNHKは全国放送で報道された貴重なもので、松山市は大切に保存し展示しています。

小天守二階の棟に取り付けてある「奉上棟 松山城小天守 札」です。

松山城本丸建造物復元工事は、本丸の「馬具櫓」を最初に復元され、次いで本壇の小天守と9棟の建物が復元されました。

画像は、小天守お上棟式に掲げられた棟札です。

昭和42年10月15日・松山市長 宇都宮孝平と揮毫されています。

現在は、コロナ蔓延防止のため小天守二階は見学できませんが、解禁になれば是非ご覧ください。

本壇の城郭が復元され落成式が盛大に行われました。これが現在開催されている松山お城まつり(松山春まつり)の始まりです。

小天守二階です。

二之丸・三之丸がよく見えます。

小天守から見た二之丸御殿跡と、三之丸で、三之丸に現存する施設建物は「愛媛県立図書館・県立美術館・松山市民会館・NHK松山放送局(NHK四国地方拠点局)」の施設があります。

 

小天守二階東の窓から見た本壇入り口です。

一番右端の建物が切符販売所で、真ん中の城門が「一ノ門」です。

寄手を防御する手配がよく伺えます。

画像は、天守二階で本壇復元工事の様子をCD画像で上映していましたが、最近は他の映像設備を完備されています。

天守二階から最上階に上がる最後の階段です。

天守三階最上階です。

標高160mあり東西南北の眺望は抜群です。

天候が良ければ、北方向に瀬戸内海を望み、その奥には本州の広島県呉市川尻町の野呂山839mが眺望出来ます。

全国の三層三階建天守の中で各階の床面積は松山城天守が一番広いです。それは元五層の天守台に三層の天守に改築したからです。

床には畳が敷ける仕様となっており、天井仕様となっています。

全国の城の中でも床の間を有する天守は数少ないです。
毎年12月末に一日だけ本壇を休業して、年末大掃除を行い新年を迎えています。

床の間には注連縄を飾り付けます。

天守最上階には「床の間」があり、注連縄を飾りお供え物を献上し今年無事終える事

が出来た感謝の礼と、新たな年も無事故でお客様をお迎え出来る事を祈願します。

松山城管理事務所の代表が新たな年も無事故でお客様をお迎え出来る事を祈願します。

天守最上階からの眺望で、加藤嘉明が築城するとき第一番候補地とした天山を望み、奥の山並みは四国山地で土佐方向です。

春や昔 十五万石の 城下哉・・子規

西日本最高峰「石鎚山・1982m」を背景に松山城を撮りました。

此の風景は一年の内数回しか無い風景です。

令和3年9月12日迄、新型コロナ感染拡大防止のため臨時休業していましたが引き続き臨時休業が延期になりました。休業予定は9月26日迄となるでしょう。

画像の掲示板は、新型コロナ感染拡大防止のため臨時休業する前の案内板です。

臨時休業が解禁されると、またこの案内板が掲示されるでしょう。

早くコロナが収束し安心安全な以前のような日常生活に戻るよう祈念します。

 

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