EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

伊予松山城本丸・秋に咲く花

2016年09月30日 | 伊予松山歴史散策
秋の時期になると、伊予松山城本丸に咲きだす「ツルボ・蔓穂」があります。
松山城本丸に現存する21棟の建造物「国指定重要文化財」を見ていると見落としてしまう「ひっそりと、控え目に」に咲く花です。
今年も写真を撮りに行って来ました。
余り目立たない花で何気なく咲き品の有る花です。4年前にブログに掲載し、私は植物の知識がなくこの花の名前が分かりません。伊予松山城には打って付けの花だと思います。・・と書きましたら直ぐにブログを見て頂いた方から、この花は「ツルボ・蔓穂」ですよと教えて下さいました。
それ以来忘れることなく毎年写真を撮りに行っております。
現在松山城は、本壇の下、東から北側にかけて工事を行っており一周出来ませんので東・北側の、「ツルボ・蔓穂」の花を見る事が出来ません。


「ツルボ・蔓穂」で余り大きくなく、控え目で、気品のある花お城には打って付けの花だと思います。


画像は、大手門跡から続く「隘路」で先程のツルボはこの石垣の上に咲いておりました。
また、この風景は、俳優の榎木孝明が一番お好きな松山城の風景です。
高石垣の奥に「太鼓櫓」その奥に天守が見えます。


松山城本丸本壇の一ノ門東塀前に咲いておりました。
ツルボは、別名サンダイガサ(参内傘)で、公家が宮中に参内する時に従者がさしかけた傘をたたんだ形に花穂を見立ててこの名が有る。・・と資料には説明されています。
東京新宿御苑では、最盛期の頃は、あたり一面が淡紫色に染まり、秋の訪れを知らせるツルボの花を是非ご覧下さい。・・とも紹介されています。


松山城本丸本壇の二ノ門南櫓前に咲いておりました。


松山城本丸本壇の筋金門東塀前に咲いておりました。


乾櫓の前で、石垣の間から彼岸花と一緒にツルボが咲いていました。乾門側から撮りました。


乾門を出ると素晴らしい松山城の風景が現れます。・・昨年逝去された坂東三津五郎さんが一番お好きであった風景です。
本丸を屏風折れの石垣(横矢掛り)で構築、その上に乾門東続櫓から乾門東続櫓東折曲塀、その上に小天守を望む景観、石垣が描く扇状の曲線美と、その上にそびえる壮麗な城郭、これも松山城の魅力の一つです。また乾門は、本丸本壇の裏鬼門に当たる方位でもあります。


松山城本丸本壇に在る、南隅櫓の下に咲いておりました。


画像は、南隅櫓、右は小天守。
南隅櫓の高石垣で、その下に咲いておりました。


筒井門西側で撮りました。
また来年も撮影に来ます。・・元気で一年を過ごして綺麗な花を咲かして下さい・・ツルボさん。


ツルボの花を見ながら日本100名城スタンラリーを楽しんで下さい。
平成19年6月に、日本城郭協会がデザインし、各城郭に番号を割り付けた「日本100名城スタンプ」が設置され、同スタンプを利用したスタンプラリーが開始されています。
各都道府県1城以上、5城以内の選定となっており、その基準は、
1.優れた文化財・史跡であること
2.著名な歴史の舞台であること
3.時代・地域の代表であること
の3点からなっています。
愛媛県は「松山城」のほか「湯築城」・「今治城」・「大洲城」・「宇和島城」が選ばれており、長野県、兵庫県と並んで最多の5城が選定されております。
松山城は第81番です。スタンプは天守入口に置いてあります。


私が使っている「日本100名城」スタンプ帳です。一番最初に押印した城は、平成19年8月11日、伊予松山城です。現在86城を巡っています。


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松山市窪野町北谷地区の彼岸花群生地

2016年09月27日 | 伊予松山歴史散策


松山市窪野町北谷地区に「彼岸花」の群生地がある。
官有地で許可を得て彼岸花の球根を移植し、その後地元住民たちが支援して大切に管理育成している。
桜(染井吉野桜)の木も植栽されており、28年前に植え込んだそうだ。56本あった。面積は、3ヘクタール位あるそうだ。
この地区には、四国88ヶ所第46番札所・浄瑠璃寺(松山市)があり、45番札所・岩屋寺(上浮穴郡久万高原町)から巡礼する遍路道がある。今年は、逆打ちで空海弘法大師様に巡り会えたという伝説が残る60年に一度の丙申(ひのえさる)にもあたることから、お遍路さんにとって“特別の年”と言われ例年になく逆打ちお遍路さんが多い。今日も逆打ち遍路さんに出会った。
 「彼岸花」の群生地の上に一遍上人が修行をした窪寺跡の石碑がある。
昨日、(26日)松山市窪野町北谷地区にある「彼岸花」群生地の撮影に行ってみると花が散り1輪も無かった。今年は異常気象の為かと思いながら周囲に残っていた花を撮って帰った。松山市内から鑑賞に来ていたご婦人たちもがっかりしていた。そして今年初めて撮影にきましたと言われる男性も来年元気で居れば来ますと言って帰られた。
彼岸花群生地区は、非常に珍しく愛媛県ではこの地だけではないか、県外からも鑑賞に来られる有名な所となった。
画像は、9月26日、撮った彼岸花群生地区(松山市窪野町北谷)。


群生地の側に少し花が咲いていたので手ぶらで帰ることは無かった。

彼岸花は、別名「曼珠沙華」とも呼び異名が多く、死人花(しびとばな)、地獄花(じごくばな)、幽霊花(ゆうれいばな)、剃刀花(かみそりばな)、狐花(きつねばな)、捨子花(すてごばな)、はっかけばばあと呼んで、日本では不吉であると忌み嫌われることもあったが最近は趣が変わり活花として観賞するようになった。・・世も変わったものである・・・季語・花言葉 ・秋の季語。
花言葉は「情熱」「独立」「再会」「あきらめ」
「悲しい思い出」[4]「想うはあなた一人」「また会う日を楽しみに」。
迷信
花の形が燃え盛る炎のように見えることから、家に持って帰ると火事になると言われている。


早朝まで雨が降っていたので花に雨露が付いていた。

彼岸花に付いて少し調べてみると、次の記述があった。
彼岸花の分布は、北海道から琉球列島まで見られる。自生ではなく、日本には中国から帰化したものと考えられる。その経緯については、稲作の伝来時に土と共に鱗茎が混入してきて広まったといわれているが、土に穴を掘る小動物を避けるために有毒な鱗茎をあえて持ち込み、あぜや土手に植えたとも考えられる。また鱗茎は薬になり、救荒食でもある。そのような有用植物としての働きを熟知しての運搬の可能性も無視できない。
日本に存在するヒガンバナは全て遺伝的に同一であり、三倍体である。故に、雄株、雌株の区別が無く種子で増えることができない(遺伝子的には雌株である)。中国から伝わった1株の球根から日本各地に株分けの形で広まったと考えられる。・・ある。


ご婦人たち俳句を創作する人も居た。

松山に関係した俳人の句があった。
曼珠沙華落暉も蘂をひろげけり  中村草田男
なかなか死ねない彼岸花咲く   種田山頭火


撮影していると黒い大きな蝶々が飛来して来て花の蜜を取っていた。


松山市内から来たご婦人ご一行。・・来るのが遅かった残念・・と会話をしながら周囲に残っている花々を鑑賞していた。


松山市内から来た男性、初めて来ましたと言っていた・・また来年来ます・・元気で居ればと言ってカメラに納めていた。


此処は、私が案内した一遍上人生誕750年・没後700年の記念事業として記念碑で、此れも記念に撮影されていた。・・窪寺跡は聞いていましたが、初めて見ました・・と言われた。

一遍上人
延応元年(1239)伊予国の豪族、河野通広の第2子として生まれる。幼名は松寿丸。生まれたのは愛媛県松山市道後温泉の奥にある宝厳寺の一角といわれ、元弘4年(1334)に同族得能通綱によって「一遍上人御誕生舊跡」の石碑が建てられている。本家の河野氏は、承久3年(1221)の承久の乱で宮方について祖父の河野通信が陸奥国に配流されるなどして没落し、一遍が生まれた頃にはかつての勢いを失っていた。河野一族の極楽往生を願い全国遊行を行っていたが、父の死をきっかけに還俗して伊予に帰る。しかし一族の所領争いなどが原因で、文永8年(1271)32歳で再び出家、信濃の善光寺や伊予国の窪寺、同国の岩屋寺で修行する。窪寺は、一遍上人成道の地として極めて重要な所である。


例年この時期は画像の様に彼岸花の群生が咲き誇っているが、今年は既に散っていた。
画像は、昨年9月23日撮影。


昨日の画像、今年は異常気象であったのか群生地には花は無かった。


逆打ちをされる遍路さん。
四国88ヶ所第46番札所浄瑠璃寺「松山市」から、45番札所・岩屋寺(上浮穴郡久万高原町)に向かって逆打ちされる遍路さん。
今年は、60年に一度の丙申(ひのえさる)にもあたることから、お遍路さんにとって“特別の年”と言われ例年になく逆打ちお遍路さんが多い。今日も逆打ち遍路さんに出会った。大きな荷物を背負って・・お気を付けて巡礼して下さいと・・お声をお掛けして見送った。


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陸軍大学校第1期生・仙波太郎 陸軍中将

2016年09月25日 | 伊予松山歴史散策


仙波太郎、陸軍中将正三位勲一等功三級

画像は、昭和46年4月1日、私が福音寺公民館に掲示してあった写真を複写し、パネルに仕上げて、陸上自衛隊松山駐屯地に寄贈、駐屯地の資料館に展示してある。

 仙波太郎は安政2年(1855)4月21日に、久米郡福音寺(現・愛媛県松山市福音寺町)に生まれ、幼名を惣太郎といった。
父は、旧和気郡馬木村の庄屋田所与惣右衛門の弟で、仙波家の養子となった。
その資性は、世俗のわずらわしさを気にしないのびのびしており、まじめでおごそかで、 どっしりしており、また書が達者であった。
仙波家は、福音寺村の庄屋であったが、太郎の幼少時に家計の不如意から、家産は次第に減少したようである。(私の曽祖父、仙波友十郎と幼友達で、沢山の書簡が届いていた。それを大切に保存し、屏風にしていた。)

少年時代から三津浜で魚類を買って、松山に行商したり、小野村の山奥の駄馬に行って入会林で切り取った木の枝を刈り、これを町へ売り歩いたりしながら、僅かな賃金を得て家計を助けた。
父が病床に臥せってから、母と二人で苦労を重ねたが、この間に処しては母は貧しいなかにも太郎を激励し、その薫陶に全力を傾け激しい労働のかたわら、僅かな時間を惜しんでで南久米の三輪田塾に学び、直接米山の教えを受け明治7年の秋(20歳)の時陸軍教導団に合格、病床にあった父は彼を激励、意を決し上京、叔父の松田通博の学友河東坤(碧梧桐の父)の援助を受けた。
その後陸軍士官学校に入学、明治11年12月卒業、同12年2月歩兵少尉、同16年に中尉となった彼は、故郷星ノ岡に土居通増・得能通綱らの奮闘の生涯を永遠に伝えるために松田通博・吉田格堂・鈴木安職らの有志と謀って土居・得能氏の古戦場に「星岡表忠之碑」を建設した。
同16年4月創設された陸軍大学第1期生として入学同期生に秋山好古がいた。 
その後陸軍大学教官、ドイツ留学その時射撃術を習得帰国後射撃術の優秀な部隊に名誉旗を授与するようになったのは彼がドイツで行なわれていた制度をわが国に採用させた結果である・・中略・・陸軍士官学校教官を経て大佐に昇進第三師団(名古屋)の参謀長、このころ、陸軍の三太郎「宇都宮太郎・桂太郎、後の内閣総理大臣・仙波太郎」のひとりと呼ばれた福岡歩兵第24連隊長となりその後第二旅団長を経て明治43年11月30日陸軍中将・・中略・・かねてから永住の地を岐阜県加納町に決定していた。
退役後夫人、矢野タマの出身地である加納町に居住した。
大正9年5月衆議院議員に当選、わが国の社会教育に貢献、彼は質実剛健で正義の士あって真に軍人の典型的であり、しかも単なる軍人に終わった人でなく常に豊富な学識と社会的常識とを保持し、正確な判断と処理となし得た立派な社会人でもあった。・・秋山好古は、仙波太郎中将は良く働いたとの談話がある。
 
仙波太郎と久米村との関係は、大正7年に御下賜金を受けた時、これを直ちに岐阜県教育委員会と久米村青年団とに匿名で寄贈した。
また昭和2年(1927年)に生誕地福音寺の屋敷跡に村民のために「公正会堂」を建てて寄付し、村の社会教育のために努力した。その跡地は現在集合住宅となっている。
 昭和4年2月19日、逝去 75歳。(久米村誌より)

参考1:陸軍大学校は明治16年参謀将校の育成と軍事研究等を主任務として創設され、第1期生は、選抜された19名が入学、その中に伊予松山から秋山好古と仙波太郎がいた。卒業できたのは10名で、主席で卒業したのは、東条英教(東条英機の父)で秋山好古は9番目、仙波太郎は3番目の成績で二人とも卒業出来た。
教育期間は、歩兵・騎兵が3年、砲兵・工兵は2年であった。

参考2:陸軍士官学校の教育期間は、歩兵・騎兵が3年、砲兵・工兵は4年であった。
参考3:旧伊予松山藩主、久松定謨がフランス留学の時、同伴役として依頼を受けたが「私は、藩主久松定謨様には世話になってない、庄屋として多くの年貢を献上してお世話をした方である。よって断わる。」と言った。それで好古が行くことになった。
参考4:仙波太郎は、退役後、岐阜市から慕われて衆議議員に選ばれ社会教育の振興に寄与した。


画像は、左から、秋山好古(近衛師団長)・久松定謨(近衛第1連隊長)・仙波太郎(歩兵第1師団長)
この3人が、大正3年衛戍地である東京を、朝敵とされた旧伊予松山藩出身者の、秋山好古・久松定謨・仙波太郎の3名が守護した。軍人であったが、晩年は「世の為、人の為、故郷の為」教育に尽くした偉い人達であったと思う。・・一時期朝敵とされ苦労したが!!


大佐時代の仙波太郎(45歳)右は、少佐時代の仙波太郎(38歳)
写真は、田所氏所蔵。

本原さんが書かれた仙波太郎の手記の一部

松山の宿は木屋町一丁目の私の家、松山に帰って時は大抵1ヶ月は滞在し家族同様にして過ごした・・・中略・・軍を離れたはじめの頃は満州や支那にもよく行っていた。帰りに松山で疲れを休めていた。そして揮毫をよくするので父はその墨をするのに汗だくであった。鍾馗と達磨が得意で5分間くらいで書き上げるので驚きの目で見ていた。中略・・秋山好古が松山に帰れてからはよく訪ねて来られ「ワシ」「オマエ」の仲で昔話を楽しんでおられた。松山高等学校のストライキが起こりかけた時も丁度仙波が来ていて、北豫中学校長であった秋山好古と香坂県知事の三人で木屋町の家で密談をしておられ、ストライキは不発に終わった。
「これが仙波の帰松最後の事件であったかもしれない」
昭和3年か4年頃、仙波から今年も又そのうちに帰るからその前に福音寺に持ってゆくお地蔵さんを送るから受け取っておいてくれと連絡があり、着いたのは一米位のお地蔵さんであったが首が落ちていたので母が何か悪い予感がすると心配したが、予感通リそれが最後の帰郷計画になってしまった。お地蔵さんは久米に送ったが今は何処にあるのか時々考えることがある。尚どうしたわけか知りませんが千舟町の白石写真館で撮った仙波太郎の写真が手元にありますので司馬遼太郎の記事を機に写真と共に古いとりとめのない思い出をまとめた次第です。しかし何分にも古い事ですので思い違いがありましたらお許し下さい。・・こんな記事があります。


仙波太郎の得意であった鍾馗の絵。
写真は、田所氏所蔵。


松山平野で、此れから出て来る星岡山と土亀山の位地を確認のため掲載した。
土居・得能氏の古戦場の「星岡表忠之碑」があるのは、星岡山で、仙波太郎の墓所は、土亀山にある。


この画像は、松山市畑寺町の淡路ヶ峠から撮影。


「星岡表忠之碑」
揮毫は、二品伏見宮貞愛親王
石碑は、明治16年に中尉となった仙波太郎は、故郷の星岡山に土居通増・得能通綱らの奮闘の生涯を永遠に伝えるために松田通博・吉田格堂・鈴木安職らの有志と謀って土居・得能氏の古戦場に「星岡表忠之碑」を建設した。
参考:二品伏見宮貞愛親王・安政5年4月28日~大正12年2月4日は、日本の皇族、陸軍軍人。官位は元帥陸軍大将大勲位功二級内大臣。


「星岡表忠之碑」右側に、建立発起人 陸軍中尉 仙波太郎・松田通博・吉田格堂・鈴木安職、鴻田佐太郎の各位の氏名が刻まれている。


「星岡表忠之碑」裏面碑文
建武中興之功臣楠氏新田氏北畠氏固卓々牟亜之者莫西海菊池氏南海土居氏得能氏若也得能氏名通綱土居氏名通増並河野之族為伊予著五世祖河野通信為国守護承久之役属官軍軍敗・・中略・・仙波太郎等慨此謀建碑表之同志者・・明治十七年甲申五月
      史館編修 従五位 藤野正啓撰・・と揮毫してある。


松山市教育委員会設置の「星岡古戦場」説明板。


松山市星岡町薬師山(75m)山頂に建立されている、星岡表忠之碑と説明板。休憩用のベンチも設置されている。


古戦場に「星岡表忠之碑」の横に、三等三角点がある。
点名:星岡(ほしおか)
  種別等級:三等三角点
  所在地:松山市星岡町薬師山乙240番地
  緯度:33°49′00.1958
  経度:132°47′14.4014
  標高:74.97 m


星岡山登り口に設置されている案内板。


星岡山(薬師山)山頂にある「薬師堂」で、1200年前聖武天皇詔を国司散位太夫平智宿彌に降りし給し天平13年3月に建立せられる。尊像は行基菩薩の作と伝えられる。別に脇仏として日光菩薩月光菩薩十二神将の尊像を安置す。また薬師堂の西側には、南朝の忠臣土居・得能両氏の勤王についての表忠碑あり星の岡古戦場として史跡を保存す。・・と雲門寺所蔵古文書に記述がある。(石井村誌)


星岡山、山頂から見た伊予郡砥部町方向の風景。


山麓にある「雲門寺」、曹洞宗五岳山雲門寺、伊予十二薬師八番霊場である。


松山市福音寺町「土亀山」にある仙波太郎中将のお墓。
仙波太郎は、奥さんの郷、岐阜市加納町で死去した。福音寺の墓は分骨である。
墓石の左側に先妻の「妻ケイ」の名前が揮毫されている。
正岡子規の「凩にはひつくばるや土亀山」明治25年 終わりの冬、に詠んだ句がある。
生前墓は、大きな墓石にするなと言われたのではないか? 先祖の墓石とほぼ同じ大きさである。
軍人の墓石は、肩書入りの大きな墓石であるが、秋山好古も墓石は家族と一緒「秋山家」の墓で眠っている。
仙波も、秋山もよく似たものだ。
参考までに:秋山好古の墓は東京青山霊園に在るが「秋山家」の墓に家族と一緒に眠っている。軍人時代の肩書は一切揮毫していない。また松山道後鷺谷墓地に在る墓は、東京青山霊園からの分骨である。


昭和49年、仙波太郎の長男、仙波正、孫の仙波昭が建立した「仙波家墓所」の石碑。


仙波太郎中将の先祖代々のお墓。
仙波太郎の一族は松山には居なく時より岐阜市から墓参りに来ておる。
時々秋山兄弟生誕地で研究員として活動している、「仙波女史」が墓掃除をしている。・・親族ではないが。


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久松定謨と秋山好古・仙波太郎

2016年09月22日 | 伊予松山歴史散策
久松定謨と秋山好古・仙波太郎は、不思議な縁がある。
久松定謨がフランスのサン・シール陸軍士官学校に留学時、補導役として白羽の矢が立った、好古・太郎。
大正3年衛戍地である東京を、朝敵とされた旧伊予松山藩関係者の、久松定謨・秋山好古・仙波太郎の3名が守護したのも予測していなかった事。・・それとも陸軍司令部は分かっての指示であったのか??この3名に付いて少し触れてみた。


陸軍中将正装の久松定謨

久松定謨(さだこと)(松平鋹三郎)
慶応3年9月9日、伊予松山藩松平の支族、静岡の旗本、豊後守松平勝実の3男として生まれる。幼名は鋹三郎。


松平鋹三郎(久松定謨(さだこと))の実父、旗本豊後守松平勝実。

伊予松山藩第14代、松平定昭には嫡男がなく、家臣の大原観山・三上是庵・秋山久敬(秋山好古・眞之の父親)などの有力者会議で、養子を迎える事と決まった。それまでの養子は大名から来ていたが、明治維新以降であったので血筋のはっきりしている親族からと言う事になり、静岡の伊予松山藩松平の支族で旗本の豊後守松平勝実の3男、鋹三郎が、本家の養子として迎えられた。明治5年7月16日、鋹三郎6歳の時であった。
次の記述がある。「明治五年七月十六日静岡御発駕ニテ鋹三郎様(注・・定謨)、乳母壱人、駕挾箱壱荷、恒次郎(三輪田高房・・三輪田米山の弟)、山本両人、御供仕、四十里ノ道中六日ニテ東京浜丁御邸へ御着相成申候、六歳ノ(注・・数え年)、御小児ニテ道中其難渋仕候事御推察被下可候、鋹三郎様渋色紙の御形体、実二英雄ノ度量有之云々」・・ある。
「注、恒次郎・・三輪田高房・・三輪田米山の弟。江戸に出て昌平校に学び「伊予の田舎にもこんな男がいたのか。」と教授や同僚を驚かせたと言われた。松山に帰り万延2年(1861)伊予松山藩校明教館(現愛媛県立松山東高等学校)で藩士の子弟を教え、明治5年久松定謨(旧伊予松山藩、久松家第16代当主)の守役となり、明治16年学習院の講師及び幹事になった。明治43年11月5日、88歳で逝去。」

父定昭は、同年7月19日死去、27歳であった。鋹三郎は、定謨と改名し、久松家第16代当主として家督を相続した。苦難の道を歩む定謨の旅立ちである。
先ずは、朝敵とされた松山藩討伐(朝廷は徳川慶喜に追従した汚名で)また、慶応3年9月23日、幕府の重鎮であった会津藩主の松平容保と桑名藩主の松平定敬らは相談した結果、伊予松山藩第14代、松平定昭を老中職に任じ幕府は難局を打開しようとした。
定昭は前藩主勝成の養嗣子、伊勢国藩主の藤堂高猷(たかゆき)の4男で、勇敢で他より優れていたので史上最年少の22歳の若さで老中に就任したが、尊王運動の激しさが増すなか幕府の統率力は失い、慶応3年10月14日、将軍慶喜は大政奉還を朝廷に申し出た。
松山藩では多事多難の時期に定昭の老中就任は、喜ばない多くの重臣たちは即その職を離れるように促し、定昭は老中を辞した。
松山藩は親藩でありながら、徳川氏をはじめ会津・桑名等の佐幕派の諸藩からいやがられ、朝廷からは朝敵とされ大変な事になった。


明治20年、フランスのサン・シール陸軍士官学校に留学時代の、久松定謨(左)と陸軍騎兵大尉秋山好古(右・29歳)、久松定謨は好古よりも9歳年下である。

久松定謨は、明治20年7月25日:フランスのサン・シール陸軍士官学校に留学する事になった。軍事補導役として白羽の矢が向けられたのが、仙波太郎であったが、仙波はこれを断り、久松家の家令藤野漸は、秋山好古に是非とも定謨の補導役として渡仏を強く求められこれを受けた。こうして好古は、出世への道が遠ざかってしまった。渡仏は、陸軍を休職し、自費留学で、費用は久松家から年額1,000円の手当を受けた。しかし渡仏してよかったのである。
当時の日本陸軍の用兵は、ドイツ式であった。山形有朋中将が欧州視察の際、フランスに居た秋山好古を訪ねてくれた。騎兵の用兵だけは是非ともフランスの用兵を採用して欲しい旨説明した。山形有朋は、好古に対して即答は出来ぬが、東京に帰り要人たちと相計らい連絡すると約束した。後日、明治23年2月10日、陸軍総務局長、桂太郎から、正式に官費留学の許可となり、学資金は、1ヵ年1、600円が支給された。日本騎兵用兵はフランス用兵を採用し改めて好古は、日本騎兵隊を育てる事になった。

衛戍地である東京を朝敵とされた旧伊予松山藩出身者の、久松定謨・秋山好古・仙波太郎の3名が護った。
日清・日露戦役も終わり大正3年凄い事が起こるのである。伊予松山藩は朝敵とされ15万両の制裁金の上納、旧藩主、久松定謨の爵位は本来なれば侯爵であるはずが、朝敵であったがために伯爵止まり。しかし大正3年、摂政宮時代、衛戍地である東京を朝敵とされた伊予松山の、久松定謨・秋山好古・仙波太郎の3名が護ったのである。先ず、秋山好古が、近衛師団長に、仙波太郎が、歩兵第1師団長に、久松定謨が、近衛歩兵第1連隊長に任された。明治維新の時、朝敵の汚名を被ったがこれでようやく汚名を返上できたと喜んだそうだ。
しかし、秋山好古・仙波太郎共に親藩、朝敵の出身者が故に身分の昇進が遅れていた。

注:秋山好古、仙波太郎共に陸軍大学校第1期生で、第1期生は推薦入学で19名が入学、卒業出来たのは10名、仙波太郎は、優等第3位で卒業、秋山好古は6番目だったとか、優等第1位で卒業したのは、東条英則(東条英機の父親)であった。しかし、東条も仙波も中将止まり、秋山は、昇進が遅れたが大将まで上り詰め、大正12年元帥に推薦されるもこれを辞退、大元帥は特旨として官位従二位を与えた。郷里の熱い要望で北豫中学校長として昭和5年3月まで郷里松山の青少年の教育に貢献した。
仙波太郎は、陸軍退役後夫人の郷里、岐阜県岐阜市に居住、社会教育の振興に尽くし、久松定謨は、東京に常盤会を創設し、伊予松山から勉学に上京してくる少年に便宜を図り、経済的に困難な者には育英金も補助した。
後に常盤学舎として現在も育英事業は継続されている。


陸軍中将時代の仙波太郎

仙波太郎は、安政2年4月21日、伊予国久米郡福音寺村の庄屋の長男として誕生。
明治8年、創設された陸軍士官学校歩兵科2期生として入学。明治12年2月卒業、陸軍少尉に任官、大阪の歩兵第8連隊付けとなった。明治16年4月、創設された陸軍大学校の第1期生として、秋山好古ら19名(卒業出来たのは10名)が入学した。


「仙波太郎生誕の地」記念碑建立除幕式に参列した関係者。
記念碑「仙波太郎生誕の地」の揮毫は、久米出身の元郵政大臣、桧垣徳太郎氏で石碑は、昭和49年4月25日、松山市福音寺町にある福音寺公民館に碑が建立された。
公民館の敷地は、仙波太郎が生誕した屋敷跡で、此処に「公正会堂」と命名され、福音寺町に寄付され福音寺公民館として社会教育の推進の活動拠点として使われた。

久松定謨の功績
(朝敵とされ、15万両の制裁金を上納させられた伊予松山藩、藩士、藩民諸氏に大変な迷惑を掛けた。それを報いる為に興した事業ではないかと、勝手に推測する。)

功績その1、常盤会の創設

画像は、明治20年久松定謨が、坪内逍遥の邸宅を購入し私財で建てた常盤舎。

明治16年7月、日本橋浜町の私邸を寮として開放し、伊予松山から勉学の為上京してくる青少年に対して寄宿舎として提供、経済的にも恵まれない者には育英金を提供し人材育成に力を尽くした。
正岡子規も入舎し、一時期秋山好古が常盤舎の監督をした。
その後これを組織化し常盤会とし現在の常盤学舎となる。現在、東京都東久留米市中央町4-18-17にある。


本郷4丁目にある常盤会跡の説明板が現在も設置してある。


常盤同郷の資料の一部で、秋山兄弟生誕地と常盤学舎の管理運営を行っている。
現在の常盤学舎は、東京都東久留米中央四丁目18番17号にある。昨年改装され綺麗になった。

功績その2、久松小学校の創設に尽力

東京都中央区立久松小学校。

東京都中央区立久松小学校は、明治6年3月、日本橋久松町に設立され、現在に至っている。
その校名の由来については同校校友会の方々もこれまで解明を試みていたようだが、「町名からきており、伊予松山の久松家と特別の関連がある訳ではない。」との説が有力でした。しかしその後の調査の中で、平成5年に当時校友会会長である渡邊氏により「東京府志料」に、「久松学校 明治六年七月創建ス華族久松定謨ノ献金ヲ資本トシテ新築セシカハ其姓ヲ取ツテ校名トセリ」との表記が発見され、考証が重ねられた結果、史実として認識が改められた。
明治維新後の財政難から、初等教育成立時期には華族の援助が大きかったようで、久松家からの寄付一金千圓(現在の貨幣価値では数千万円)を筆頭として学校が設立されたとの事実が明らかとなりました。・・久松定謨は、近代的な日本を構築して行くには青少年の教育が必置である事に鑑みて学校創設に特別な思いがあり援助をしてのではないか?


久松小学校創設記念式典に来賓として出席した久松定謨の孫、第18代久松定成氏。・・新聞記事。

功績その3、伊予松山城、松山市に寄贈


伊予松山城の全体写真で、本丸、二之丸、三之丸がよく確認できる。現在三之丸の施設は殆ど撤去され(NHK松山放送局・市民会館・愛媛県立図書館・愛媛県立美術館のみ現存)城山公園として整備された。
久松定謨は、城山・城濠の縁故払い下げを受け、松山市に寄付した。
松山城は、現在松山市の最大の観光資源である。


伊予松山城本丸で標高132mある。
伊予松山城は、日本三大平山城(津山城・姫路城・伊予松山城)で本壇にある天守は、日本三大連立式天守(姫路城・和歌山城・伊予松山城)である。また伊予松山城には、国指定の重要文化財指定の建造物が21棟あり、姫路城に次いで多く現存する。
現存12天守の中で唯一本壇城郭建造物の瓦に「三つ葉葵紋」が付されているので是非ご覧ください。


伊予松山城本丸、艮門東続櫓の前に建立されている「伯爵久松定謨頌徳碑」

揮毫は、徳川家正、(明治17年~昭和38年)で、家正は徳川宗家第17代当主。
久松定謨(慶応3年~昭和18年)は旧松山藩主久松家の当主。大正12年7月、政府から松山城山・城濠の縁故払い下げを受け、維持金4万円を添えて松山市に寄付した。「伯爵久松定謨頌徳碑」はその功績を称えた石碑で昭和30年建立された。


石碑裏面には
松山城は道後平野の中央に屹立せる勝山の頂にあり慶長七年
加藤嘉明の築く所にして現に国指定重要文化財に推され我が
松山市の象徴たり加藤氏転封の後寛永十二年久松定行封を
此処に受く爾来版籍奉還に至るまで二百有余年治績大に挙
り藩民堵に安じ市運亦振ひ俊秀の士を輩出せり明治維新の
後城廓廃毀の令に接せしが幸にその厄を免れ終に大蔵省所管とな
る伯爵久松定謨家を承け陸軍中将に任ぜらる松山市に帰住するに及
び巨資を捐てゝ城山全部の下附を請ひ更に維持金若干を添へて
松山市に寄せらる実に大正十二年なり依て市はこれを松山公園とし
四時行楽の所となす伯の志真に篤しと謂ふべし嗚呼勝山の松鬱
として晩翠を含み拓川の水淙々として長へに流るその令徳を頌
するにあらざらむや石を建て勒して不朽に伝ふ
昭和丗年十月 久松定謨伯顕彰会建之・・と書かれている。


「伯爵久松定謨頌徳碑」の側に画像の石碑が建立されている。


久松定謨を中心に撮られた記念写真、久松家の法要で当時の伊予松山の名士が集まったのではないかと言われている。撮影場所は、芝公園栄町にあった久松家の本邸では? 貴重な写真であるが撮影場所が不明である。
真中の軍服の人が、久松定謨で、左に、秋山好古・右に仙波太郎。
最後列左から4人目が、秋山眞之、もし正岡子規が元気で居れば参列していたがこの時既に逝去していた。
久松定謨、慶応3年9月 9日生まれ
秋山好古、安政6年1月 7日生まれ
仙波太郎、安政2年4月21日生まれ


芝公園栄町にあった久松家の本邸


芝公園栄町にあった久松家の本邸の内部で、此処で久松家の法要が行われ、先ほどの集合写真はここで撮られたのでは?・・です。


久松定謨が創設した常盤学舎120年の歴史年表

松山にあった松山同郷会(秋山眞之が提唱して創った組織)と、東京の常盤会が合併して現在財団法人常盤同郷会を結成した。松山市歩行町二丁目3番地6にある、秋山兄弟生誕地と東京の常盤学舎を管理運営している。この基は久松定謨が資金提供をして出来た組織である。

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敬老の日の贈り物(届きました)

2016年09月19日 | 伊予松山歴史散策


今日は9月19日、敬老の日である。
岡山県に居る次男夫婦から、妻と私に贈り物が届いた。
妻には、「何時までもお元気で」とおカードが添付された綺麗な花「甘木リンドウ・心美・白寿」と、私には好物のビールの詰め合わせが贈られて来た。
家内は、玄関に飾り大切に置いている。私のビールは早速開封して冷蔵庫に入れて冷やし今夜から頂くことにする。
来年2月、次男夫婦に子供が誕生する予定、今から楽しみにしている。


贈られて来た「甘木リンドウ・心美・白寿」我が家の玄関に大切に飾ってあります。


甘木リンドウ 心美シリーズ 白寿 宿根草。
甘木リンドウは、福岡県甘木で作られたリンドウだそうで、白寿はブルーと白のストライプがとてもきれいな花色のリンドウです。
甘木リンドウは、普通のリンドウと比べ弱光でも開花してくれるので人気です。
このあたりなら外でも越冬できます。・・添え書きが付けてあった。




私に贈られて来た各社のビールで、贈呈仕様の箱に詰められていた。


次男が岡山県に在住しているので大きく撮ってみた。
味見は今夜のお楽しみ。
松山市では、各地域の集会所(公民館)で対象者を招待してお祝い会が開催されている。

さて敬老の日は何時から制定されたのか調べてみると、昭和22年に兵庫県多可郡野間谷村(現在の多可町)で「お年寄りを大切にし、お年寄りの知恵を生かした村作りをしよう」という考えのもと「としよりの日」が提唱されたのが始まりで、 農閑期であり気候も良い9月15日を「としよりの日」と定め、昭和25年には兵庫県全体に広がり、次第に全国に広がっていき、その後「としよりの日」ではなくもっと良い呼び方にしようということで、昭和39年に「老人の日」と改称され、昭和41年に国民の祝日「敬老の日」となりました。・・とある。
また「敬老の日」となった理由は、ほかにもあると言われている。
そのうちひとつは「聖徳太子が大阪・四天王寺に悲田院を建立した日が9月15日だから」という説。この悲田院というのは、現在でいうところの老人ホームです。
もうひとつは「717年、元正天皇が養老の滝に御幸した日が9月15日である」という故事にちなんだという説。現在の岐阜県にある養老の滝は「万病を癒す薬の滝」とされ、ここに御幸した元正天皇は年号を「養老」に改元したそうです。
いずれの説も定かではないそうですが、いつの時代もお年寄りを敬う心は同じということなのでしょう。
敬老の日は、平成14年まで固定の祝日でしたが、ハッピーマンデー制度の適用により、平成15年からは9月第3月曜日となった。・・と記述がある。

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