道後地区の発展の基盤とするには、日本にはない建造物を創る必要がありと、明治25年9月に全面改築起工式を行い、明治27年4月10日、伊佐庭如矢町長の大英断で現在の本館を町議会の猛反対を押し切り建造竣工した。
本館改修については、反対派の町議や住民が、伊佐庭如矢町長宅に、夜討ち朝駆けでやって来て抗議し、この事が原因で、奥さんは心労により病に陥り亡くなられた。
最大の理解者、奥さんを亡くされ、それでも道後地区の発展の思いは変わらず計画を実行し道後地区の発展に尽くされ現在の道後がある。
3楼の建物に改装する前の道後温泉本館である。
江戸時代の道後温泉の様子。
寛永12年に伊勢国桑名藩から、松山藩主に封ぜられた松平定行(徳川家康の甥)は、その翌年、道後温泉の施設充実に着手し、浴槽を「士族・僧侶用」、「婦人用」、「庶民男子用」に分けた。
これは、三階に改装された明治27年時も、一の湯(旧士族・僧侶・神社用)二の湯(婦人用)三の湯(庶民男子用)と入り口を仕分けた。
又新殿
その後
明治32年8月4日、霊の湯(特別湯)が落成した。新築間もない日本の何処にもない三層の本館で霊の湯開業式が挙行され、ついで入浴事始め式が行われた。
男湯は、伊佐庭如矢町長が、女湯は、町内最高齢者の、越智トク女が初めて入浴し開業が始まった。
同年11月15日、又新殿(御召湯)が落成し道後温泉の骨格が出来上がった。
さて、ここで道後温泉の古今を見てみよう。
神代の昔、四国伊予に来られた「大国主命・少名彦命」二神のお一人、少名彦命が体調を崩された。少名彦命を、大国主命の掌にのせ湯で温めた。暫くすると回復し、石の上で飛び跳ね喜ばれた。大国主命・少名彦命にまつわる伝説の石その石が本館北側にある「玉の石」です。この事が記紀に書かれています。
その温泉の効用の著しいのに神の念を抱き、湧出する温泉そのものを神であると信じ崇敬するようになった。これが道後温泉の起源です。
回復し、石の上で飛び跳ね喜ばれた。大国主命・少名彦命にまつわる伝説の石その石が本館北側にある「玉の石」です。
近くの小学校の生徒が道後温泉で校外社会学習を行った時「玉の石」を見学、熱心に聞き入る様子です。
玉の石の保存状態。
玉ノ石の右側には源泉を引き少量の湯が湧き出るよう仕掛けがしてあり、その湯を長い柄がついた「柄杓」ですくい玉の石にかけて祈願をします。
白鷺伝説
足を痛めた白鷺が岩の間から流れ出る湯に浸していたところ、傷は癒えて、飛び立って行くのを見て、白鷺に効力があるのであれば、人々にも効能があるのではと試行すると温泉であり、効能を確認したという伝説がある。これが道後温泉の発見とされています。
推古4年(596年):聖徳太子がこの地(道後温泉)を訪れ、温泉の素晴らしさに感動したと伊予風土記にあります。
聖徳太子道後温泉碑
記念碑の現物は亡失して無いが、『伊予風土記』逸文には、推古4年(596年)聖徳太子(厩戸皇子)と思われる人物が伊予(現在の愛媛県)の道後温泉に高麗の僧・慧慈と大和の豪族葛城臣なる人物を伴って赴き、その時「湯岡」の側にこの旅を記念して「碑」を建て、その碑文が記されていたとされている。・・その時の画像です。
復元された「聖徳太子道後温泉碑」・・「飛鳥乃湯」の庭に建立されています。
記念碑の現物は亡失して無いが、『伊予風土記』逸文には、推古4年(596年)聖徳太子(厩戸皇子)と思われる人物が伊予(現在の愛媛県)の道後温泉に高麗の僧・慧慈と大和の豪族葛城臣なる人物を伴って赴き、その時湯岡の側にこの旅を記念して「碑」を建て、その碑文が記されていたとされている。
その原文は
「法興六年十月 歳在丙辰 我法王大王与慧慈法師及葛城臣 道遙夷予村正観神井 歎世妙験 欲叙意 聊作碑文一首 惟夫 日月照於上而不私 神井出於下無不給 万機所以妙応 百姓所以潜扇 若乃照給無偏私 何異干(天の誤りか)寿国 随華台而開合 沐神井而?(癒)疹 ?(言巨)舛于落花池而化弱 窺望山岳之巌?(愕) 反冀子平之能往 椿樹相?(蔭)而穹窿実想五百之張蓋臨朝啼鳥而戯?(峠の山が口) 何暁乱音之聒耳 丹花巻葉而映照 玉菓弥葩以垂井 経過其下 可以優遊 豈悟洪灌霄霄庭 意与才拙実慚七歩 後之君子 幸無蚩咲也」(「法隆寺ハンドブック」より)
「聖徳太子道後温泉碑」の説明板。
道後温泉別館として新しく造られた「飛鳥乃湯」。
飛鳥時代の建築様式を取り入れた湯屋「新湯」です。
道後温泉本館最上階には、振鷺閣ありその上にシンボルの白鷺があがっている。
飛鳥の湯には、最上階に「飛鳥といえば、聖徳太子・聖徳太子といえば、法隆寺の夢殿」で飛鳥乃湯の最上階には、法隆寺の夢殿を模した建造物をつくりその上に、道後温泉のシンボルである白鷺を配しています。
法隆寺の夢殿です。
法隆寺の夢殿で、現地に撮影に行って来ました。
道後温泉別館、飛鳥乃湯「法隆寺の夢殿を模した建造物」と「白鷺」。
又新殿(皇族専用浴槽)湯釜には、小松宮彰仁親王が揮毫された「健歩如故」を刻印し、大国主命・少名彦命のお姿が彫刻されている。このような事がなされているのは全国で道後温泉のみです。
神の湯「女湯」の湯釜にも大国主命・少名彦命の石像が置かれてあり、大きな壁面にも、大国主命・少名彦命の絵が掲げられています。そして道後温泉のシンボル「白鷺」も掲げられています。
これが3000年の歴史を持つ日本最古の温泉と言い伝えられる証です。
画像は、年に一度休館をして大掃除をします。その時見学会が開催され撮影しました。営業中は絶対見ることが出来ないです。
又新殿(皇族専用浴槽)湯釜。
明治32年7月5日、この当時の文部大臣であった樺山資紀から「霊」の字を揮毫した書が届いたので、これを特別湯の湯釜に彫刻、また御召湯の湯釜の銘は、小松宮彰仁親王の揮毫で「健歩如故」を彫刻した。そして道後温泉の起源である「大国主命・少名彦命」が彫刻されました。
この時、特別湯を「霊の湯」に御召湯を「又神殿」と改めたのです。
道後温泉本館「神の湯」男子東浴室。
1号源泉は、現在汲み上げていませんが、本館神の湯(男)東浴室の石張りの床に、井戸があった位置を記しています。
洗い場に印があります。男性の方は、入浴の際にご覧いただけます。
1号源泉は、現在汲み上げていませんが、本館神の湯(男湯)東浴室の石張りの床に、井戸があった位置を記しています。その時使われていた湯釜です。
愛媛県指定の有形文化財で、展示場所は、湯築城北口(子規記念博物館側)に展示されています。
平成29年11月に、道後温泉駅北西にある道後温泉第4分湯場を改築し、見学できるスペースや、源泉を触れる手湯を設置しました。
複数の源泉が貯湯槽に落ちる様子を見ることができ、温度の高い源泉を肌に感じることができます。
現在道後温泉の源泉は、18ヶ所で一日当り1,970トンの湯を汲み上げています。
明治42年3月、道後温泉に来遊された「伊藤博文内閣総理大臣」。
夏目漱石が道後温泉入浴に通い乗った「坊ちゃん列車」、復元された「坊ちゃん列車」営業運転しています。
道後温泉の略歴特記事項
道後温泉の起源となった「大国主命・少名彦命」が伊予国にお越しになった。
道後温泉は白鷺により発見され、人々がその霊験を知って入浴するようになったと伝わります。人たちがこの伝説を記念するために、鷺石と称する石を置き、現在は道後温泉駅前のカラクリ時計のそばに保存されている。
傷ついた白鷺が岩の割れ目から湧き出る湯で傷を癒やし回復、人々もこの湯を利用温泉としてその効用を確かめ利用はじめた。
推古4年(596年):聖徳太子がこの地(道後温泉)を訪れ、温泉の素晴らしさに感動したと伊予風土記にある。
天正15年:伊予松山第3代藩主、松平定行入府、道後温泉の施設充実を計る。
明治28年4月:松山中学英語教師として赴任した「夏目漱石」道後温泉に入浴。入浴後に食べた「さらしな団子」が後に「坊っちゃん団子」となる。
乗車した軽便鉄道が「坊っちゃん列車」で現在も市電の軌道を走り営業運転をしている。
明治37年2月27日:ロシア兵の俘虜入浴の許可下った。
明治42年3月20日:伊藤博文内閣総理大臣道後に来遊。
大正13年に増築された南棟と玄関棟で以後ここが入浴の入口(玄関)となった。
昭和20年10月11日:進駐軍先遣部隊が松山市に進駐道後温泉霊の湯が接収され進駐軍専用となった。
昭和21年12月21日:午前4時20分、最大震度8,1、震源地は熊野灘で松山の震度も5強で、道後温泉の湯が止まった。
湯が止まったのは、嘉永7年11月5日の地震以降93年目の事で、古代からの記録によると14回目の出来事である。その後関係者の並々ならぬ努力で、湯が湧き出し、昭和22年3月20日営業を開始。復旧祝賀式を本館2階大広間で行った。
この式には、米国進駐軍司令官、カーチス少佐以下各将校、知事・市長・温泉関係者100名余りが参列し、奇跡に近い温泉復旧を祝福した。
それ以来、毎年3月20日を「湯祈祷」の日と定めて、玉の石の前に神楽演上された。
これが道後温泉まつりの始まりである。
昭和24年11月:マーシャル司令官(中佐)に返還を要求、霊の湯は開放された。その代替の湯場、「しらさぎ湯」が造られた。場所は、子規記念博物館の正面入口付近で、湯場は取り壊され今はその面影は全く無い。
昭和25年6月5日に獅子文六の小説、愛媛県津島町を舞台にした「てんやわんや」の映画ロケが行われその時、道後温泉の証しとなるものがなく映画会社からの提案で松山市出身の村田英鳳画伯によって製作された「道後温泉」の扁額が掲示された
現在の扁額は、傷みが生じたため、昭和61年に村田画伯により2代目の扁額として作成し掛替えられた
昭和27年:常陸宮正仁親王が松山にお越しになり又新殿に入浴され、これが皇族の方が入浴された最後である。
昭和28年10月22日:第8回国民体育大会が愛媛県松山市が中心に四国で各競技が行われた。
全国から参加選手、役員、応援関係者1万人が来松、道後温泉に「椿の湯」が増設された。
平成6年12月:神の湯本館、又新殿・霊の湯棟・南棟・玄関棟の4棟が国の重要文化財に指定された。
平成 8年7月、環境庁の「残したい日本の音風景100選」に指定された。
平成13年3月24日 15時27分、震源は広島県上蒲刈島の南で最大震度6弱、松山市は震度5強で、道後温泉の湯は幸いに止まらず、少し湯が濁った程度であった。
平成19年3月、美しい日本の歴史的風土100選に松山城とともに選定された。
平成21年2月、経済産業省の「近代化産業遺産」に認定された。
平成21年3月、ミシュランガイド(観光地)日本編において「2つ星」に選定された。
平成29年9月30日、第72回国民体育大会・愛媛国体が、同年10月28日、全国障害者スポーツ大会・愛媛大会が開催と、本館の保存修理工事に伴い「飛鳥之湯」が増設された。
平成31年1月15日、から保存修理工事始まり、完成予定は令和6年12月末である。
南海地震は過去6回発生しており、世界でも類のない記録が残されています。
近々では、
1、宝永4年(1707年)10月4日(宝永地震)、49日後に富士山が噴火。
2、嘉永7年(1854年)11月5日(安政南海地震)
3、昭和21年(1946年)12月21日(昭和南海地震)、道後温泉の湯が38日間止まる。
道後という名称は
大化の改新が行われると、全国に国府が置かれた。
伊予の国府は、現在の今治市の国分寺の辺りに置かれ、京から見て国府よりも遠い地域を「道後」近い地域を道前と呼ばれたことから、後世になるとこの温泉のある松山一帯が「道後」と呼ばれるようになった。
もう一つの道後温泉。
明治27年4月10日、伊佐庭如矢町長の大英断で現在の本館を町議会の猛反対を押し切り建造竣工した予算とは、別枠で振鷺閣を追加建築した。まだ予算がいるのかと猛反発、それを押し切って建造した「振鷺閣」である。
振鷺閣の刻太鼓
太鼓を鳴らす場所で、朝6時の開館時に6回、正午に12回、午後6時に6回太鼓を打ち鳴らし時を知らす。
平成 8年7月、環境庁の「残したい日本の音風景100選」に指定された。
平成19年3月、美しい日本の歴史的風土100選に松山城とともに選定された。
平成21年2月、経済産業省の「近代化産業遺産」に認定された。
平成21年3月、ミシュランガイド(観光地)日本編において「2つ星」に選定される。
※ 道後温泉は、無料で利用できる11ヶ所の足湯や手湯を巡って街歩きが楽しめ、治安も良い事から女性の一人旅で人気があり、3年連続で1位に選ばれた観光地です。是非お越しください。
これが現在の道後温泉の姿で、後期保存修復工事に入り完成予定は令和6年12月末です。