姫路城には何度も伺っておりますが、最後に行ったのは、平成19年11月23日、松本城の帰りに訪れました。快晴で写真撮影には絶好の日和でした。
現在の姫路城は、平成の大修復が終わり真っ白の天守になっていますが、未だ行っておりません。
此処に掲載する画像は、大修復前のものです。
国宝姫路城は平成5年12月11日、奈良の法隆寺とともに、日本で初の世界文化遺産となりました。
昭和6年1月、国宝指定(旧国宝保存法)、昭和26年6月9日、文化財保護法に基づき国宝再指定
昭和31年~39年、昭和の大修理、平成21年10月9日、平成の大修理が着工され、平成27年3月27日、5年半掛け、大天守の修理事業が完了した。
天守は、標高46mの姫山にあり、天守の高さは、現存12天守の中一番高く、31、5m(天守台を含めると約46mある。天守の形態は、望楼型で、平山城、日本三大連立式天守の一つである。
築かれたのは、1580年羽柴秀吉が西国攻略の根拠地として入城し、現在の大天守のある位置に三層の天守を構えたのが最初で、1601年から8年の歳月をかけて池田輝政(52万石)が天守を解体して姫山に五層六階地下一階の現存天守を築城した。
池田3代のあと本多忠政(15万石)は、長男忠刻とその室千姫(徳川秀忠の長女)のために、西の丸を整備して、1618年に今日に見る姫路城の全容を整えた。そのあとの城主は、松平氏、榊原氏と変わり、酒井氏が1749年に入封して明治維新を迎えた。
現在、大天守と三つの小天守を結ぶ渡櫓が国宝で、あとの建造物は重要文化財となっている。中濠以内は国の特別史跡に指定されている。
地階から東西の二本の心柱で建物の主軸となって支えているのは見事である。
平成5年には日本を代表する城として世界遺産に登録された。
城郭の形式は、平山城、天守の形態は、望楼型の連立式である。
日本三代連立式天守「姫路城・和歌山城・伊予松山城」、日本三代平山城「姫路城・津山城・伊予松山城」の一つである。
平成19年11月22日に訪れた時は快晴で写真撮影には絶好の日和でした。
参考事項
廃藩置県後財政困難に陥り、全国各地の城は解体され売りに出された。姫路城も競売に掛けられ、23円50銭で姫路市内の金物商神戸清一郎氏が落札したが解体に膨大な費用がかかるので権利を放棄したそうだ。その後陸軍省第四局長代理の中村重遠大佐が陸軍卿山県有朋に存続を申し出て存続が決定されたとある。本丸入り口に中村重遠大佐の顕彰碑が建立されている。
姫路城の前の内濠に架かる橋桜門橋で、幅7m、長さ22mあり平成19年2月に完成したそうで、私が訪れたのは平成19年11月23日なので、ピカピカでした。
参考に、国宝に付いて資料を見てみると、昭和25年5月30日文化財保護法の施行により旧法制化で指定された「国宝」は、そのまま「重要文化財」に指定され、その中で特に歴史上意義深いものが新たに国宝に指定された。法的には国宝も重要文化財の一種で、混同を避けるために、旧国宝を「旧国宝」と通称する事があると説明されている。国宝から、戦後の新法制で重要文化財に格下げされたとの理解が多く見られるが、旧国宝と重要文化財は同等のもので、格下げではなく単なる名称の変化に過ぎないと文科省の資料には書かれているが、我々凡人は格下げと感じる。
現在国宝の建造物は216件で城郭が5城、国宝のメリットは修復等多額の費用が必要な場合、国が一部負担(補助)をする事であろうか。と記載がある。
備前丸(本丸)からの見上げたアングルで、姫路城の大きさを一番感じられるスポットです。
見上げたアングルの幾重に重なった屋根の美しさも見ものです。
備前丸(本丸)西側からの見上げたアングルで、他の天守には無い風格を感じる。
備前丸(本丸)東側からの見上げたアングルで、他の天守には無い光景。
何時もどれにでも出て来る姫路城天守群。
右に大天守、中央手前に西小天守、左が乾小天守。
画像は、連立天守群の中心部で此処に中庭がある。
日本三代連立式天守の一つ姫路城の中庭がる場所で、画像の下側が中庭、此処は一般公開していない場所なので、気を付けて見学しないと見逃がしてしまう。
日本三代連立式天守「姫路城・和歌山城・伊予松山城」で、和歌山城・伊予松山城は中庭を通らないと天守に行けないので否が応でも中庭を見る事になる。
大天守最上階から見た、備前丸(手前の広場・本丸)と三之丸。
天守は、5層6階地階1階の構造で、2本の太い通し柱が地階から支えている。その西大柱。
天守内の展示物。
天守最上階にある長壁(刑部)神社(おさかべじんじゃ)と言うそうです。
姫路城がある姫山にあった神社で、地主神が祀られています。
大天守の骨格模型。現存12天守の中で、唯一流し台が設置してある。
平成の大修復された大天守。私の知人がガイドをしており、画像を頂いた。
平成の大修復された大天守。