EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山好古揮毫石碑紀行 13 松山市河中町の碑 

2015年11月30日 | 伊予松山歴史散策

1.碑   文 : 両新田神社
2.所 在 地: 松山市河中町295番地 「両新田(りょうにった)神社(じんじゃ) 鳥居社号額」
3.揮 毫 者: 陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者: 記載無し
5.建立年月日: 大正14年
6.碑石大きさ: 縦 80㎝ 横 50㎝ 厚み 15㎝

両新田神社は、新田義宗(南北朝時代の武将・新田義貞の3男)が各地転戦し、応永10年11月(1403年)当地山麓で卒・脇屋義治は応永10年8月当地にて卒・天文17年(1548年)3月18日河野道直は二廟を建立し、上新田廟・下新田廟社と称えたと言う、その後、二廟を合祀して両新田神社と改めた由緒ある神社である。(愛媛県神社誌より抜粋)
さて、この境内に好古揮毫の石碑があると伺い行っていくら探しても見つからなく、カメラを片付けて帰ろうと鳥居をくぐった時「オーイ、わしが書いた石碑はここぞな・・そんな声が聞こえた。」
ふと振り向き鳥居を見るとなんと、鳥居にある神社の社号を揮毫してあった。
「好古さん、今日は」とやっと見つけた石碑に思わず一言。
「おまい(お前、好古の口癖)は、わしの後輩の仙波太郎中将の孫か?」
「いいえ違います。曽祖父の幼馴染で、それより私の父は、昭和4年に北豫中学校を卒業しました秋山校長先生の教え子です。」その後、日本陸軍関東軍中尉として軍籍し昭和20年4月ニューギニアのサラワイ島で戦死しました。
「そうか、そうか、仙波君の子供かご苦労じゃったのう、お父さん残念な事じゃたのう・・・。」
あたりには誰もいない静寂の中で、石碑と対面して好古大将と会話した感じであった。てっきり地上に在るものと思い込んで探すと見つからないので以後心して丹念に探す事にした。


両新田神社の鳥居、一礼して境内に入りここにはどんな揮毫をした石碑があるのか楽しみにして来たが石碑は無く、場所を間違えたのかカメラを片付けて帰ろうと鳥居をくぐった時「オーイ、わしが書いた石碑はここぞな・・そんな声が聞こえた。」


境内に入る時一礼したが、鳥居の社号碑は目に付かなかった。石碑はてっきり地上に建立してあるものと思い込みで来ているものだから!!
まさか社号碑を揮毫しているとは、そして鳥居にある社号の揮毫は初めてなものであったので!
社号碑はひびが入っていた。大きな地震で落下した時のものでしょか?
でも発見して一安心した。再び三脚を立ててカメラをセットして撮りました。


さて、両新田神社がある松山市日浦地区には毎年8月15日、伝統行事として他の川施餓鬼と違った供養が行われている。その画像です。(平成25年8月15日撮影しました。)
川施餓鬼は、水死者の霊を弔うために、死者の名を記した塔婆(とうば)や紙片を川に流すなどする施餓鬼供養で、全国各地で行われている。
今から428年前、天正13年(1585)長宗我部元親は四国統一のため伊予国に侵攻、伊予国守護、河野通直の居城、湯築城(現、道後公園)の支城、奥之城がこの地域にあった。土州(長宗我部軍)との合戦時に石手川で激戦となり、同城7人の武将達は深手を負い石手川で戦死した。
この7人武将の魂を慰めるための供養行事が川施餓鬼である。
川施餓鬼は、明治天皇が崩御された時に中止されたが、平成4年に日浦公民館主催行事とした復活、毎年お盆の8月15日に行われている。
川施餓鬼の見せ場は、7人武将が描かれた武者幟(高さ12メートル、重さ30キロ)を担ぎ、鐘や太鼓に合わせて石手川を練り歩き、五穀豊穣と無病息災を祈願する。また当日は、魚のつかみどり大会やお楽しみ抽選会も合わせて実施される。


7人武将が描かれた武者幟(高さ12メートル、重さ30キロ)


武者幟担ぎ石手川を練り歩く


魚のつかみどりで子供達大はしゃぎ


7人武将が描かれた武者幟(高さ12メートル、重さ30キロ)を担ぎ石手川を歩くのは大変、バランスを取りながら練り歩く

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秋山好古揮毫石碑紀行 12 松山市高浜町の碑

2015年11月29日 | 伊予松山歴史散策
大正11年11月15日昭和天皇が皇太子時に軍の大演習が高浜沖で行われ荒神山から観閲された摂政宮(後の昭和天皇)のご結婚記念に大正13年1月、記念して建立した。(当時の温泉郡新濱村が建立)
摂政宮(皇太子)が宿泊したのは、旧伊予松山藩主、久松定謨が建築した愛媛県で始めてのフランス様式で鉄筋コンクリート造り(久松定謨の松山での別宅)として建築された万翠荘に泊まられ、翌朝伊予松山城に登られた。
その時のお手植えの黒松が元気に現存している。
この石碑のある場所は、荒神山山頂標高27m、で高浜地区ボランティア団体「ひまわり会・代表・宮部 富光さん」の会員が毎週清掃活動をしている。

1.碑  文 : 摂政宮殿下特別大演習御野立場
2.所 在 地: 松山市高浜町二丁目乙74番地29 荒神山 標高27m
3.揮 毫 者: 陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者: 新濱村
5.建立年月日: 大正13年1月 
6.碑石大きさ: 高さ、2m97㎝ 横幅、99㎝ 厚み、36cm

参考事項1:大正11年11月15日 昭和天皇が皇太子時に軍の大演習をこの荒神山から観閲され皇太子ご結婚記念に大正13年1月に記念して建立した。
「海南新聞:大正11年11月17日付に詳細記事有り」この記念碑のある荒神山は、伊予鉄道高浜駅から徒歩10分の所にある。

参考事項2:大正11年11月15日 摂政宮(後の昭和天皇)が皇太子時に軍の大演習をこの荒神山から観閲され皇太子ご結婚記念に大正13年1月に記念して建立した。
「海南新聞:大正11年11月17日付に記事有り」
荒神山は、伊予鉄道高浜駅から徒歩10分の所にある標高27m。

参考事項3:昭和天皇は、松山に4度お越しになっている。
第1回目は、大正11年11月15日、摂政宮時代
第2回目は、昭和25年3月17日~20日、戦後の復興巡幸
第3回目は、昭和28年10月22日、第8回国民体育大会開会式
第4回目は、昭和41年4月17日、第17回国土緑化大会植樹祭


大正13年1月26日、摂政宮(後の昭和天皇)のご成婚を記念して温泉郡新濱村が軍の大演習を観閲された荒神山山頂に建立した。
大正天皇は御身が御弱かったので殆ど地方には行幸されず摂政宮様がご名代として公務をされていた。


軍の大演習があった方向に向けて建立されている。


荒神山山頂にある記念碑、背面からの石碑。


荒神山山頂にある石碑周辺は、地元ボランティア団体が毎週清掃活動をしている。


荒神山山頂からみた軍の大演習があった会場で、手前の島は、夏目漱石の坊っちゃんに出て来る「青島」「愛称、ターナー島」で「四十島」、その奥は興居島。


大正11年11月17日付けの海南新聞(現、愛媛新聞)の記事、摂政宮さんが荒神山に登られるお姿。その下の画像は荒神山山頂に設けられた玉座。 


摂政宮(皇太子)が宿泊した旧伊予松山藩主、久松定謨が建築した愛媛県で始めてのフランス様式で鉄筋コンクリート造りの万翠荘。


久松定謨が松山の別宅として建築中に急遽松山で軍の大演習が決定、摂政宮の宿泊所にする為突貫工事で仕上げた万翠荘である。場所は松山市一番町、伊予
松山城の南面山麓にある。


万翠荘に宿泊され、翌朝伊予松山城本丸を散策された時に本壇天守台東、天神櫓南に摂政宮がお手植えされた松。
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秋山好古揮毫石碑紀行 11 松山市窪野町の碑 

2015年11月28日 | 伊予松山歴史散策
1.碑   文 :  作善降之百祥・ 不善降之百殃
2.所 在 地:  松山市窪野町北谷甲1、098番地 正八幡神社(しょうはちまんじんじゃ)
3.揮 毫 者:  陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者:  記載無し
5.建立年月日:  記載無し
6.碑石大きさ:  高さ:3m56㎝ 表幅:37㎝  横幅:33㎝
7.碑文の意味: 作善降之百祥は、「よいことをすれば百の嬉しいことがあり」
           不善降之百殃は、「悪いことをすれば百の災いがある」・・である。

参考事項:境内には、日露戦役凱旋記念の石碑「明治40年9月1日」建立がある。 
また社殿横には大きな「クスノキ」の大木がある。クスノキは暖地に多く自生する常緑樹で、この地は海抜200mの山間部、冬季寒冷になる地にこのように大きく育っている事は極めて珍しく松山市内最大のクスノキで、根回り8,5m、樹高20m、樹勢は極めて旺盛で樹は若々しい。昭和43年10月25日、松山市指定の天然記念物である。


松山市窪野町北谷甲1、098番地にある、正八幡神社


正八幡神社には二つの鳥居が有り石の鳥居と木製で切り妻の瓦屋根がある鳥居との間に注連石がある。向かって右に「作善降之百祥」左に「不善降之百殃」が揮毫され ている。


右の注連石の左横に揮毫した秋山好古の氏名が書かれている。


境内左側に「日露戦役凱旋記念の石碑」が建立されている。
この地区からも日露戦争に出征され無事全員生還されての記念碑ではないのでしょ うか。松山市窪野町は、旧温泉郡坂本村大字であった。


日露戦役凱旋記念の石碑裏面で、「明治40年9月1日」刻印されている。


御神木のクスノキ


クスノキには小さな社と、大きな玉石が置かれている。
この玉石の由来は?


松山市教育委員会が設置したクスノキの案内板で玉石の事は書かれていない。


この神社から約600m奥に時宗の開祖一遍上人縁の窪寺跡がある。


窪寺跡の前に個人が植栽した彼岸花の群生場所が有る。最近口コミで有名になり県外からも鑑賞に、また写真撮影に来れる。彼岸花の群生地には、染井吉野桜も植えてあり花見の時期になると賑やかである。
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秋山好古揮毫石碑紀行 10 西条市三芳の碑 

2015年11月27日 | 伊予松山歴史散策
1、揮毫碑文 :表彰碑
2.所 在 地:西条市三芳町 「日切山・弘福寺」
3.建立年月日:昭和3年10月
4.揮 毫 者:陸軍大将 秋山好古
5.建 立 者:三芳村(現、西条市三芳)
6.碑石大きさ:高さ・1m74㎝ 横幅・1m22㎝ 厚み・16cm

表彰碑建立の由緒
旧愛媛県周桑郡三芳村は、下記の如く、渡邉スエ女の功徳を称えその事を後世に残す為昭和3年10月、表彰碑を建立した。
「スエ女は渡邉小市の妻として農業の手助けをしていたが、夫がリューマチに罹り病床で呻吟る身となった。
スエ女は病夫の枕辺に付き添い看病に勤しむ傍ら、三児の養育を一身に引き受け、14年の長い年月を働き続けた。
しかし、その甲斐もなく夫は明治21年他界した。
官府及び各種団体はスエ女の貞操を表彰し、賞状及び金品を十数度にわたり贈っている。
スエ女はあとに残された子女の成長に望みをかけ働いたが、今までの疲労が重なり病気となり36年に亡くなった。」
 スエ女の貞操は「人の鏡」と題して、小学校修身書に載せられた。

参考事項1:渡邉スエ女の表彰碑の裏面に文部大臣 勝田主計の献上文書が埋め込まれている。

参考事項2:勝田主計(しょうだかずえ)は明治2年9月15日、伊予松山御宝町に松山藩主勝田久兼の5男として生まれ、大正5年12月、寺内正毅内閣において愛媛県人初の大蔵大臣となる。大正13年1月、清浦圭吾内閣において再度大蔵大臣となり、前年発生した関東大震災からの復興にあたった。昭和3年5月、田中義一内閣において文部大臣となりこの時「渡辺スエ女の碑・表彰碑の裏面に文部大臣 勝田主計が献上文を書き上げた」

参考事項3:勝田家と秋山好古、秋山眞之の生家とは近く、特に秋山眞之、とは幼少時代竹馬の友であった。

参考事項4:渡邉スエ女の表彰碑文の揮毫依頼は、村長が秋山好古に依頼、この時好古は北豫中学校長で、また御大典記念の年である。


昭和3年御大典記念の年にこの表彰碑が建立された。


石碑の所在は分かりにくい所に建立されている。


文部大臣 勝田主計が献上文を書き上げた銅版が石碑裏面に設置されている。


渡邉スエ女の表彰碑建立に付いての説明板、三芳公民館・社会福祉協議会三芳支部が設置してい
る。


石碑の所在地、西条市三芳町にある「日切山・弘福寺」入口参道。


西条市三芳町にある「日切山・弘福寺」で、地元では「ひぎり大師」として親しまれている。
石碑は山門手前の左に位置する。
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秋山好古揮毫石碑紀行 9 松山市厳島神社の碑 

2015年11月26日 | 伊予松山歴史散策
現地に行ってみると堂々とした立派な大きな石碑が境内にあり直ぐ分かった。
表は「表忠魂」と大きく堂々とした揮毫で、裏面にはこの地区から出征され日清・日露戦争で戦病死された264柱の氏名が合祀され記載されている。
好古は、日清・日露戦争で従軍し亡くなった部下の事を思い陸軍大将になって
も極力華美な生活は控え元帥に推薦されるも辞退した。郷里の北豫中学(現、愛媛県立松山北高等学校)の校長を引き受け郷里の青少年育成に尽くした。この石碑は、平成20年10月3日、NHK四国スペシャル「拝啓秋山校長殿」で紹介された。
現在発見されている52基の石碑の中で一番大きな碑です。

石碑の概要
1.碑   文 :  表忠魂
2.所 在 地:  松山市神田町1番7号 厳島神社
3.揮 毫 者:  陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者:  裏面に世話人8名の記載有り判読困難
5.建立年月日: 記載無し 
6.碑石大きさ: 高さ 4m63㎝ 横幅 2m50㎝ 厚み53㎝


松山市神田町1番7号ある厳島神社


厳島神社は境内が広く、この広い境内に合わせるかの如く大きな立派な石碑です。
この神社は松山の秋祭り、市内で一番早い宮出しと神輿の鉢合わせが行われる有名な神社(暁の宮出しと言われ早朝4時に境内で鉢合わせが行われる)


52基の中で一番大きな石碑「表忠碑」です。
NHK四国スペシャル「拝啓秋山校長殿」で紹介されました。


「表忠碑」の裏面で、三津浜地区から出征し日清・日露戦役で戦病死された264柱の氏名が合祀され記載されている。


「表忠碑」裏面の題額

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