1.碑 文 : 両新田神社
2.所 在 地: 松山市河中町295番地 「両新田(りょうにった)神社(じんじゃ) 鳥居社号額」
3.揮 毫 者: 陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者: 記載無し
5.建立年月日: 大正14年
6.碑石大きさ: 縦 80㎝ 横 50㎝ 厚み 15㎝
両新田神社は、新田義宗(南北朝時代の武将・新田義貞の3男)が各地転戦し、応永10年11月(1403年)当地山麓で卒・脇屋義治は応永10年8月当地にて卒・天文17年(1548年)3月18日河野道直は二廟を建立し、上新田廟・下新田廟社と称えたと言う、その後、二廟を合祀して両新田神社と改めた由緒ある神社である。(愛媛県神社誌より抜粋)
さて、この境内に好古揮毫の石碑があると伺い行っていくら探しても見つからなく、カメラを片付けて帰ろうと鳥居をくぐった時「オーイ、わしが書いた石碑はここぞな・・そんな声が聞こえた。」
ふと振り向き鳥居を見るとなんと、鳥居にある神社の社号を揮毫してあった。
「好古さん、今日は」とやっと見つけた石碑に思わず一言。
「おまい(お前、好古の口癖)は、わしの後輩の仙波太郎中将の孫か?」
「いいえ違います。曽祖父の幼馴染で、それより私の父は、昭和4年に北豫中学校を卒業しました秋山校長先生の教え子です。」その後、日本陸軍関東軍中尉として軍籍し昭和20年4月ニューギニアのサラワイ島で戦死しました。
「そうか、そうか、仙波君の子供かご苦労じゃったのう、お父さん残念な事じゃたのう・・・。」
あたりには誰もいない静寂の中で、石碑と対面して好古大将と会話した感じであった。てっきり地上に在るものと思い込んで探すと見つからないので以後心して丹念に探す事にした。
両新田神社の鳥居、一礼して境内に入りここにはどんな揮毫をした石碑があるのか楽しみにして来たが石碑は無く、場所を間違えたのかカメラを片付けて帰ろうと鳥居をくぐった時「オーイ、わしが書いた石碑はここぞな・・そんな声が聞こえた。」
境内に入る時一礼したが、鳥居の社号碑は目に付かなかった。石碑はてっきり地上に建立してあるものと思い込みで来ているものだから!!
まさか社号碑を揮毫しているとは、そして鳥居にある社号の揮毫は初めてなものであったので!
社号碑はひびが入っていた。大きな地震で落下した時のものでしょか?
でも発見して一安心した。再び三脚を立ててカメラをセットして撮りました。
さて、両新田神社がある松山市日浦地区には毎年8月15日、伝統行事として他の川施餓鬼と違った供養が行われている。その画像です。(平成25年8月15日撮影しました。)
川施餓鬼は、水死者の霊を弔うために、死者の名を記した塔婆(とうば)や紙片を川に流すなどする施餓鬼供養で、全国各地で行われている。
今から428年前、天正13年(1585)長宗我部元親は四国統一のため伊予国に侵攻、伊予国守護、河野通直の居城、湯築城(現、道後公園)の支城、奥之城がこの地域にあった。土州(長宗我部軍)との合戦時に石手川で激戦となり、同城7人の武将達は深手を負い石手川で戦死した。
この7人武将の魂を慰めるための供養行事が川施餓鬼である。
川施餓鬼は、明治天皇が崩御された時に中止されたが、平成4年に日浦公民館主催行事とした復活、毎年お盆の8月15日に行われている。
川施餓鬼の見せ場は、7人武将が描かれた武者幟(高さ12メートル、重さ30キロ)を担ぎ、鐘や太鼓に合わせて石手川を練り歩き、五穀豊穣と無病息災を祈願する。また当日は、魚のつかみどり大会やお楽しみ抽選会も合わせて実施される。
7人武将が描かれた武者幟(高さ12メートル、重さ30キロ)
武者幟担ぎ石手川を練り歩く
魚のつかみどりで子供達大はしゃぎ
7人武将が描かれた武者幟(高さ12メートル、重さ30キロ)を担ぎ石手川を歩くのは大変、バランスを取りながら練り歩く