招魂碑の取材の帰りに大山祇神社を参拝した。
画像は、今治市大三島町にある、大山祇神社入口で、四国一の大社である。
大山祇神社は、愛媛県今治市大三島町宮浦にある神社で式内社、伊予国一宮。
旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社である。
四国一の大社、大山祇神社は、全国にある大山祇神社の総本社で、また、主祭神の大山祇神は三島大明神とも称され、大山祇神社から勧請したと伝える三島神社は、四国を中心に新潟県や北海道まで広がる。静岡県の三嶋大社と共に三島神社の総本社とされる。神社正面入り口には、伊藤博文が公の場で揮毫した最後の書が大山祇神社の社号碑として建立されている。
紫陽殿・国宝館には、中世の武将たちが奉納した武具が数多く展示してあり、中でも源義経の甲冑が有名で国宝である。国宝8点重要文化財が数多く展示してあり見ごたえがある。
伊予守護、河野通有が鎌倉幕府の命により博多湾に出征の際、この神社に戦勝祈願をした時の大絵馬も展示されている。博多湾では、蒙古と勇敢に戦い「河野通有は、石築地の前に陣を張って決死の覚悟で戦ったことから、「河野の後築地」と称賛された。その伊予守護、河野氏の末裔が、初代内閣総理大臣、伊藤博文である。
それでは、画像で大山祇神社を参拝しよう。
初代内閣総理大臣、伊藤博文公が揮毫した「大日本総鎮守大山衹神社」神社正面、ニの鳥居の向かって左に建立されている。
大日本総鎮守大山衹神社碑の裏面と側面で、裏面には、従一位大勲位公爵伊藤博文謹題とあり側面に、明治42年3月22日と書かれている。この日に参拝に来られ記念の揮毫。
松山を去る時、これから東京に帰り、朝鮮に行くが帰ったら再び松山に来て祖先(河野氏)の法要お行うのでよろしくお願いいたしますと挨拶されたが帰らぬ人となった。
伊予の守護、河野氏の時代に河野通起がいた。通起の子孫は後に林氏に改称、天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐の命を受けて小早川隆景は湯築城を攻め落とし、河野通直他家臣たちは伊予を追われた。通起の子孫、林は、長州熊毛郡に移り、伊藤家に養子として入った。その11代目の嗣子が明治の元勲、初代総理大臣伊藤博文である。博文公が朝鮮総督府統監の時代に伊予道後に来られ、来年再び松山に来て祖先の供養をしたいと言われ明治43年(1910)10月、ハルピン駅で暗殺され、その計画は果たせなかった。
その時、大山祇神社を参拝し揮毫したのがこの石碑であり、公の場で揮毫した絶筆である。
鳥居を潜り往くと、左に石碑がある。書道家、村上三島が揮毫した社号碑である。
更に往くと、大きなご神木がある。
樹齢2600年の楠で根周りは実に32mにも及ぶ昭和26年11月27日に愛媛県の天然記念物に指定された。パワースポットと云われる場所で、縁結び、安産祈願、大願成就。
更に進むと数段の石段があり神門が見えて来る。
大山衹神社の神門。
神門を潜ると回廊、拝殿と広い中庭がある。
回廊には、著名な人々が参拝に来た記念写真が掲示されている。
回廊には、著名な人々が参拝に来た記念写真が掲示されている、その内の一枚の写真で、大正14年5月6日、元内閣総理大臣、清浦圭吾子爵が、新田長次郎、秋山好古、愛媛県知事佐竹義文らとの参拝記念写真。・・写真は回廊に掲示しているため汚れている。
大山衹神社に大正14年5月6日、元内閣総理大臣、清浦圭吾子爵が、新田長次郎、秋山好古、愛媛県知事佐竹義文らとの参拝記念写真。写真は大山衹神社回廊に掲示している同じ写真で、秋山兄弟生誕地所蔵の写真。
大正14年5月6日、元内閣総理大臣、清浦圭吾子爵が、新田長次郎、秋山好古、愛媛県知事佐竹義文らとの参拝記念写真を切り取った。
左から、秋山好古北豫中学校校長・元内閣総理大臣、清浦圭吾子爵・新田長次郎ニッタ会社社長・佐竹義文第19代愛媛県知事。
博多湾で、蒙古と勇敢に戦い「河野通有は、石築地の前に陣を張って決死の覚悟で戦ったことから、「河野の後築地」と称賛された。その石塁(防塁)博多湾にて撮影。
博多湾にある史跡元寇防塁記念碑。
博多湾で、蒙古と勇敢に戦い「河野通有は、石築地の前に陣を張って決死の覚悟で戦ったことから、「河野の後築地」と称賛された。画像はその河野通有の石像で、愛媛県松山市北立花町2番地4にある井出神社境内にある。
河野通有の石像の台座に刻印されている説明文。