EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

全国高校野球選手権愛媛大会 決勝戦

2014年07月29日 | 伊予松山歴史散策
第96回全国高校野球選手権愛媛大会は、7月29日決勝戦が好天の下、松山市の坊ちゃん球場で行われ、ノーシード同士の県立松山東高等学校対、県立小松高等学校の対戦となった。
松山東高校は、実に63年振りの決勝進出で第1シード県立今治西高校、第4シード県立東温高校を倒し、小松高校は、第二シード県立西條高校、第3シード帝京第5高校を倒しての決勝進出で、今年の愛媛大会はシード校が全て敗退する大番狂わせの大会であった。大会前から、今年の大会は混戦愛媛大会と言われていたが、正にその通りであった。済美高校の安楽投手が一年生の時剛腕投手として現れてから各校、打倒安楽攻略を目標に練習、特に打撃練習に取り組みその成果として各校打撃が向上しその最たる成果を揚げたのが、小松高校であった。
松山東高校は63前の第32回(昭和25年)全国高校野球選手権大会甲子園で優勝し、戦前は松山商業高校に次いで強い学校であった。秋山眞之、正岡子規の母校である。そして夏目漱石が明治28年英語教師として赴任した学校である。(当時は松山中学)
小松高校は、宇佐美監督5年目の指揮、近年力をつけてきた学校で、宇佐美監督は、川之江高校・今治西高校で監督をしており、甲子園に5回出場しているベテラン監督である。
決勝戦は、10対1の大差で県立小松高校が県立松山東高校を下し初優勝の栄冠に輝いた。この所、甲子園では愛媛代表校は一回戦で敗退している。是非頑張って野球王国愛媛の復活を願っている。・・頑張れ小松高校。


第96回全国高校野球選手権愛媛大会は参加59校が甲子園出場権を目指し戦った。今年の大会は混戦愛媛大会と言われその通りとなった。






愛媛大会、ベスト8校の戦い。


いざ決戦開始。


10対1と大差がついた。松山東高校の投手は、昨日の戦いで指の豆が潰れ、万全の身体では無かったので大差となったが、未だ2年生、来年リベンジをして欲しい。


小松高校・松山東高校両校が整列して閉会式。


松山東高校は63前の第32回(昭和25年)全国高校野球選手権大会甲子園で優勝した時の事は覚えている。池田投手と宇野捕手で優勝を勝ち取った。
池田投手の妹さんが私の中学時代の同期生。今年の戦い振りはもしかしたら甲子園に行けるのではと思ったが残念。良く戦った。


松山東校の主将、深々と一礼をして準優勝の賞状を受け取る。
あと一歩で甲子園出場出来なかったがよく頑張った。県下一の進学校、限られた練習時間で良く此処まで戦った。


小松高校の主将しっかりと優勝旗を手にして愛媛県代表としての誇りを胸に甲子園で愛媛の野球をして欲しい。・・打線は凄いのだから、後は投手が如何に頑張るかで勝敗が決まる。


優勝旗のペナントに、松山商業高等学校が見えるが、少し色あせていると言う事は、優勝してない、最近の松山商業は戦力ダウン。
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昭和20年7月26日、松山大空襲から69年

2014年07月28日 | 伊予松山歴史散策
日本中が度重なる空襲と艦砲射撃、機銃掃射を受け、大都市から小さな街まで焼け野原になった69年前、昭和20年7月26日、忘れられぬ熱い夏がやって来た。
昭和12年に起きた慮溝事件に始まった日中戦争、やがてアジア全域を巻き込んだ太平洋戦争へ突入する引き金となった。何故太平洋戦争が起きたのか。それには複雑な背景と要因があるほか、歴史的、政治的いろいろ諸説が入交答えは見えない。国内では軍部の暴走一方では国際的には戦争へと日本が追い込まれた。石油や鉱物資源が乏しい日本は輸入に頼るしかなかった。当時最大の依存先であった米国は、中国やインドシナでの日本の展開を封じ込める外交手段として対日輸出禁止に踏み切り日本を追い詰めた。日本が戦争を始めた理由は単に軍国主義だったから、軍事的解決を目指しただけでは説明がつかない。戦況は次第に悪くなり、ついに日本本土無差別爆撃、普通に当たり前に生活をしていた一般市民を巻き込む悲惨な結果となり、お粗末な無条件降伏と言う最低の戦争終結となった。日本は未だに戦争の総括を国民に示していない。我々国民に本当の歴史教育を行っていない。韓国と中国と歴史問題で何時もいやな思いをしている。これは何故か??
今、松山である団体が平和展を開催している。先日見学に行ってみた。その画像である。


松山市総合コミセンで平和展が開催中。


















昭和20年7月26日午後11時08分から始まった松山大空襲約2時間、B29重爆撃機が焼夷弾投下して一瞬の内に焼け野原となった松山の街。立花橋から県庁方面を望む光景、残った建物は鉄筋コンクリート造りだけ。
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松山市戦争犠牲者平和祈念追悼式

2014年07月26日 | 伊予松山歴史散策


愛媛県松山市道後姫塚乙22番地1
松山市平和記念広場 松山戦争犠牲者平和祈念碑前
松山市平和祈念実行委員会
(共催)松山市、松山市遺族会、松山市戦災遺族会、他

今日、7月26日は、69年前に松山の街が燃えた「松山大空襲」の日である。
平成17年に建立した「松山市戦争犠牲者平和祈念碑」の前で、先の大戦で犠牲になられた多くの戦没者と戦災死没者を偲び、鎮魂の祈りを捧げて、改めて恒久平和を願う追悼式が7月26日午前10時から松山市道後姫塚にある松山市平和記念広場・松山戦争犠牲者平和祈念碑前で式典が開催された。本日松山は、猛暑その炎天下の下での式典であった。


式典は、午前10時00分、愛媛県松山市道後姫塚乙22番地1、松山市平和記念広場 松山戦争犠牲者平和祈念碑前にて、中山・松山市平和祈念実行委員会 中山会長の式辞により開式された。


松山市戦争犠牲者記念碑に献花する、野志松山市長。




追悼のことばを述べる、野志松山市長。


追悼作文を朗読する、松山市立拓南中学校3年生、丹生谷 紫月さん。


参加者全員が起立して、献歌斉唱する。献歌は、この街でと故郷に曲を捧げた。


参列者一同が献花。


犠牲者のご冥福を祈り献花された花々。


本日式典参列者に配られた資料。





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昭和20年7月26日、松山大空襲から69年

2014年07月24日 | 伊予松山歴史散策
今年も7月26日が遣って来る。69年前松山大空襲の日である。
松山市主催の平和資料展が本日24日(木)午後1時から松山市総合コミュニティセンターロビーで開催された。7月30日(水)まで展示される。
松山は、昭和20年7月26日、サイパン・イスレイ飛行場の米軍第73爆撃団所属の空飛ぶ要塞、B-29、350機が大牟田・松山・徳山の三都市を攻撃のため飛び立った。その内128機が松山を爆撃し一瞬にして焼け野原となった。
昭和20年7月26日は、松山大空襲の日であるがその前後、14回の空襲を受けている。
それは昭和19年海軍松山航空隊に、源田 実海軍大佐率いる当時日本海軍最強部隊が居たためである。
海軍航空隊は、三四三航空隊を編成しその司令官に「源田 実」海軍大佐が航空隊指令官として任命され、隊の編成は横須賀であったが、訓練基地は松山がいいと源田大佐の意向で急遽松山に決定したそうだ。(源田 実は、戦後国会議員となり、またノンフイクション作家として海軍航空隊に関する多くの著作物を出版している。また、松山航空隊三四三航空隊を源田実の事実に基づいた映画が製作され、主演は確か三船敏郎だったと思う)
 源田大佐は、昭和20年1月15日に松山に赴任しここで世界最強の航空隊を結成することを目的にしており、戦線で活躍の優秀なパイロット、撃墜王と呼ばれるゼロ戦パイロット達、そして紫電改の訓練を始め、ドイツ空軍が始めた集団戦法の訓練が目的で、パイロット1200名その他整備兵等関係兵士総勢3000名の編成航空隊が松山に居た。
 三四三航空隊の編成は次のようなもので、三四三航空隊(属名:剣部隊)指令:源田大佐、その下に、戦闘三○一飛行隊(新撰組)、戦闘四○七飛行隊(天誅組)、戦闘七○一飛行隊(維新組)、偵察第四飛行隊(奇兵隊)、戦闘四○一飛行隊(極天組)が昭和19年12月正式に編成され、昭和20年1月15日に源田航空隊指令が松山に赴任した。
しかし初期訓練、集団戦法訓練をする間もなく、昭和20年3月13日米機動部隊が松山飛行場などを沖縄上陸作戦に先立って四国沖に接近、3月19日松山航空隊は編成早々四国上空で多数の米機と大空中線のため遂に紫電改の発進の時が来た、紫電改51機が松山飛行場を一斉に飛び立った。
この日、飛来したのは、約150機のグラマン機で、42機を撃墜、この日初めてグラマン機の一部が松山飛行場を攻撃したそうだ。
 この時私は6歳だったがグラマン機との空中戦の様子が記憶にある。
 米国は、優秀な世界最強の零式戦闘機に対抗する戦闘機を開発、それがグラマンF6F、F4Uでこれに打ち勝つために、日本海軍は紫電改を製機した。
しかし、米国はすでにその先を見込んで昭和17年9月にB-29の製作に取り組んでいた。
 このB-29を使い日本本土を攻撃するには航続距離550K(爆弾搭載4トン)これに必要な滑走路は、マリアナ、サイパン、グァム、テニアンが必要であった。
 それが、ミッドウエー海戦でこれが日本の敗戦が決まったのも同然であった。
 米国は、この四国での空中戦で手痛いダメージを受け改めてB-29の必要性を感じたそうだ。(B-29、スーパー・フォートレス、空飛ぶ要塞と呼ばれた。)
 昭和20年5月4日初めてB-29による松山攻撃が始まりその後10日、14日の攻撃で松山飛行場一部使用不能と記述がある。
 その後松山大空襲があった。
時、昭和20年7月26日午後11時08分に始まり27日午前1時13分頃まで約2時間余り爆撃は継続、攻撃要領は、大都市に対するものと同じ方法で行われ、攻撃の先頭部隊は無数の小型焼夷弾を投下次いで、後続の部隊が大型の焼夷弾を投下した。
 これで松山は一夜にして焼け野原と化した。
 但し、松山城は攻撃から外されていたそうだが焼夷弾を投下され城門櫓が焼失し、本壇にある連立天守中庭に焼夷弾が投下され天守一部が焼けだしたが住田監守の命がけの消火活動で消し止め国宝松山城天守は残った。
 東京大空襲(昭和20年3月9日)から約4ヶ月後の事であった。
無謀な戦争をしたものだ!!親父もニューギニアで戦死、未だに密林で眠っている・・遺骨は我が家には帰ってない。


本日24日(水)午後1時に展示開館された「平和資料展」のチラシ。


会場にはマスコミ関係者が取材に来ていた。


海軍・陸軍の軍服と当時の国防婦人会が着ていた物が展示してあった。


保存状態の良い「千人針」が展示してあった。此れを持って祖国の為、家族の為に戦い元気で生還する事を祈り出征したのでは??


臨時召集令状、展示場には複製と書かれてあった。俗に言う赤紙、この令状一枚で戦場に駆り出された。惨い事である。


「平和資料展」会場3Fから撮りました。


米軍が松山攻撃する前に偵察機で空撮情報収集、鮮明に映っている。中央が伊予松山城。写真は、米国立公文書館提供。


海軍松山航空隊基地、・・現在の松山空港。


平成25年月に松山市が発行した「平和のひびき」より抜粋。


平成25年月に松山市が発行した「平和のひびき」より抜粋。


平成25年月に松山市が発行した「平和のひびき」より抜粋。


平成25年月に松山市が発行した「平和のひびき」の表紙と裏表紙。


平成25年月に松山市が発行した「平和のひびき」P12・13の記事。


平成25年月に松山市が発行した「平和のひびき」P14・15記事。


平成25年月に松山市が発行した「平和のひびき」P4・5記事。

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松山ロープウェー街・門前土曜夜市今年から開催

2014年07月20日 | 伊予松山歴史散策
松山市内の小中学校は、昨日から(7月19日)から夏休みに入った。期間は8月31日まで、小学校一年生は初めての夏休み、そして初めての通信簿を担任の先生から貰い、自分が学んだ成績をみて納得した生徒、努力の足りなかった生徒、二学期に意気込みを感じた生徒いろいろであったと思う。
大街道三丁目商店街では、昨日から土曜夜市が開催された。夏休み初日が土曜夜市、低学年の子供たちは両親に連れられて、高学年の子供たちは5.6人のグループで浴衣を着て土曜夜市を楽しんでいた。
今年から、ロープウェー街(大街道三丁目商店)も歩行者天国として土曜夜市「門前土曜夜市」と名付けて開催!開催日は、7月19日(土)26日(土)8月2日(土)9日(土)の4回開催する。
銀天街商店&大街道一丁目、二丁目には立派なアーケードがあり、6月21日(土)から8月2日(土)まで毎週土曜日に既に開催している。
大街道三丁目商店街にはアーケードがないが、その代り天空が見えて気分爽快な土曜夜市である。この商店街には、藩政時代伊予松山藩筆頭家老の屋敷があり、現在は松山東雲中・高等女学校となっており、校門は家老屋敷の門を模して立派な櫓門が再建されており女学生達は櫓門を潜って校舎に入る。直ぐ近くに秋山兄弟生誕地もある。
大街道三丁目商店街副理事長さんとは顔馴染みなので昨夜カメラ持参で出掛けてみた。
沢山の夜店や、地元芸能人の路上演技披露等々で賑やかで外国人も楽しんでいた。


今年から開催される、大街道三丁目「通称・ロープウエー街」門前土曜夜市のお知らせポスター。


ロープウエー街「門前土曜夜市」横断幕。


ロープウエー街にある、邦楽楽器店が開催する「お琴の演奏会プログラム」。


画像、右よりロープウエー街婦人部役員さん、藤島大街道三丁目副理事長さん、商店街にスタジオを持つジャズダンサー「FeelDanceAcadmy」代表の辻 良孔さん。


星空コンサートで演奏するお琴、演ずるのは小学5年生凄く上手でした。曲は、現在風にアレンジした曲でした。


一番町交差点前でジャズダンスを披露する、辻 良孔さん。


二人組の地元演奏者が奏でる歌を聴きながら画像に取り込む外国人女性。


大街道二丁目商店街と、三丁目商店街は一番町の電車通り(国道11号線)を挟んで続く街で、夜市を楽しむ若者たち、二丁目と三丁目商店街を行き来していた。


三丁目商店街「ロープウエー街」にある、松山東雲中・高等女学校の校門。それでこの通りで行う行事名を門前祭りと言っている。


大街道一丁目・二丁目が開催する土曜夜市の看板。


大街道一丁目・二丁目土曜夜市風景。


二丁目にある三越松山前で演奏する三人組、曲はサンバを演奏、夏にはぴったりのリズム。
中々の腕前であった。真ん中の女性シンガーの歌が上手かった。
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