大坂城残石記念公園の石碑、花崗岩の産地であるから石碑も凄く大きく立派である。
平成21年5月11日、大阪城から赤穂城を巡り赤穂市で一泊、岡山県備前市日生港から瀬戸内海観光汽船にフェリーに乗船、60分で香川県小豆島大部港に到着。この日は霧が発生し予定時刻よりも遅れが出ますのでご承知おき下さいと案内があった。予定よりも少し遅れて小豆島大部港に到着した。大部港に到着し暫くして霧は晴れ晴天になった。
先ず、土庄町小海にある大坂城残石公園を見学、大坂城で石垣として使われるはずであった残石(残念石)が展示してあり、石工さんが切り出しに使った道具類が展示してあった。
そして石を運んだ筏も実際に浮かべて展示してあった。
平成11年に開園した「大坂城残石公園」大坂城築城に関わった細川忠興の末裔である細川護熙氏を迎え開園式をしたとある。その時の記録写真が展示してあった。
残石公園を見学し、その後、岩谷にある大坂城石垣石切丁場跡を見学し、草壁港からフェリーに乗船し高松に渡り帰路に着いた。小豆島草壁港から高松港まで60分の船旅であった。
大坂城の巨石は、11石現存するが、その内小豆島から切り出された巨石は、5石ある。
担当した大名は、岡山城主、池田忠雄と、熊本城主、加藤忠弘の2大名である。
小豆島に今も残る「大坂城の残石」残念石。
当時の基準では、城のよしあしは、建築(作事)よりも石垣(普請)にあったそうだ。
大坂城残石記念公園は香川県小豆郡土庄町小海にある土庄町立の公園で、史跡「大坂城石垣石切り飛びこし丁場跡及び小海残石群」を中心に大坂城残石資料館、道の駅(道の駅大坂城残石記念公園)及び、みなとオアシス(みなとオアシス大坂城残石記念公園)の施設等がある。
切り出された大きな石は画像の様に筏に載せて大坂城に運ばれた。
切り出された大きな石は筏に載せて大坂城に運ばれた。その用具の説明板。
展示場には、実際に筏に載せ浮かばせていた。
大坂城残石記念公園には、大坂城に運ばれて役目を果たすためにその時を待っていたはずの石たちで、残石として展示してあった。・・残念石である。
大坂城に行く予定であったが行けなかった残石・・残念石。
残石約40個が並べられている。
小豆島に今も残る「大坂城の残石・残念石」。
画像の様に小豆島に上陸した時はまだ霧が残っていた。
香川県指定文化財「大坂城石垣石切とび越丁場跡・および小海残石群」説明板。
大坂城残石資料館に石切に使われた諸道具が展示してある。
大坂城残石記念公園を見学の後、今回のお目当てである石切丁場に車で移動した。
小豆島は島全体が花崗岩で、それも良質の石が産出され現在も切り出されている。
画像は、切り出されている山肌。
土庄町小海から県道26号線で福田港経由、国道436号に乗り岩谷の石切場に移動した。画像は、その説明板。
この場所で石を割っているとき8人の石工が事故で犠牲になったと言い伝えが残る石です。と説明案内板に標示されている。
国指定史跡「大坂城石垣石切丁場跡」八人石丁場の記念碑。
岩谷地区には石切丁場は大きく分けて、天狗岩、南谷、豆腐石、八人石、亀崎の5つの丁場があるとされている。
私は八人石石切場を見学、他の石切場は時間の関係で行けなかった。
大きな石の横に五輪の供養塔が建立されているのは、事故が起こり8人の石工さんが犠牲になった供養塔。
岩谷の、八人石丁場、徳川2代将軍秀忠、3代将軍家光時代の大坂城改築時に黒田藩(福岡)が石切したもので、残石も1612個があり、岩谷地区は、小豆島最大の丁場であったと言われている。
小豆島は幕府直轄領であったので何処にも了解得ず石の調達が出来た。
「大坂城石垣石切丁場跡」・「八人石苑路」の説明板が設置してあった。
関ヶ原の戦い後、大坂冬の陣・夏の陣以降、徳川秀忠・家光は3期に渡り、大坂城の拡張・修築を行い、西国の諸大名に分担させ、64の大名に動員を課して、約100万個の築城石、延4,300万人に荷役を課した。動員を課せられた諸大名は膨大な費用の出費であった。
大坂城拡張は、城郭建築よりも、石垣の構築工事が大変な事業でこれに携わった石工さんの苦労が伺える。
改めて大坂城は日本最大の城、「天下無双の城」で、日本三名城の一つと言われる由縁の城である。
日本100名城巡り指定第60番赤穂城は、平成21年5月11日伺った。
その帰りに小豆島に行った。