EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山好古揮毫石碑「忠魂碑」が新潟市指定の文化遺産に推薦される

2013年10月31日 | 伊予松山歴史散策


この度新潟市では、「新潟市民文化遺産制度」を創設した。
制度の概要は、文化財保護制度(指定・登録)とは異なり、地域に根差している文化資源を広く拾い上げ(認定)、地域の文化的な遺産の認知度の向上と後世への継承する活動を支援することにより地域の活性化を図るものである。
地域の宝を「新潟市民文化遺産」として認定し、地域の文化的な遺産の認知度の向上を図
るともに、後世へ継承する活動を支援し、地域の活性化に繋げる。
地域に残る文化的な遺産が、その生い立ちにおいて本市または地域にとって重要であり
また生活の一部として継承されてきている以下の文化的な資源。
1、建造物など、その技法や建造等に至る歴史的背景が貴重であり、地域の特色として認められている有形の地域遺産(例:建  造物、旧跡、記念碑など)
2、古くから伝えられてきた芸能や風俗慣習などの生活文化や、地域又は本市を象徴する無形の地域遺産(例:風俗慣習、伝承  芸能、伝統技術など)
次のいずれかに該当するもの
 1.郷土の歴史や文化を象徴しているもの
 2.世代を超えて地域で受け継がれ、今後も保存すべき貴重なもの
 3.地域の生活文化の特色を示しているもの
 4.地域の伝統行事等として親しまれ、今後も地域の活性化のために欠かせないもの
 5.本市の文化遺産として国内外に発信することで、文化創造都市づくりに寄与するもの

応募資格は、地域遺産を保存・継承している団体、又は地域遺産を活用した地域活性化を実践できる団体とある。
募集は、10月7日から11月18日まで。推薦を受けた文化遺産に対し、11~12月にかけて学識経験者により、候補の調査と審査が行われ、来年1月に「新潟市民文化遺産」として複数認定する。・・とある。
秋山好古揮毫石碑「忠魂碑」が新潟市江南区にあり、横越地区から申請されることになったと知人から連絡を受けた。現在好古揮毫石碑は、全国に51基発見されており、日本海側に発見された唯一の石碑である。現在も石碑の前で慰霊祭が行われている。
是非とも認定される事を切にお願いしたいと念じており、認定が決定されたら松山市の秋山兄弟生誕地からお喜びとお礼に伺いたいと思っております。
市民文化遺産制度を創設しているのは、岩手県遠野市と京都市が制定している。


平成22年3月17日撮影、この石碑は、平成21年11月18日、新潟市江南区横越中央在住の北方文化博物館理事、神田氏からの所在情報を得て現地取材をした時の画像。揮毫は秋山好古陸軍中将時代に揮毫した石碑で、建立は大正2年、2番目に古い石碑で台座を含めて最大級の石碑である。
所在は、新潟市江南区沢海二丁目15番30号、日枝神社・・北方文化博物館の隣接にある。


画像は、平成22年9月6日、秋山好古揮毫「忠魂碑」の前で行われた慰霊祭に参列させて頂いた時撮影。毎年慰霊祭を実施しておられる。


画像は、平成24年10月29日秋山兄弟生誕地の研究員7名を引率して行ったとき撮影、石碑建立と好古が揮毫した経緯の説明を北方文化博物館理事、神田氏から伺った。


石碑の裏側に建立した年月日と、修復した年月日が石碑として保存されている。


揮毫した秋山好古書の名前が刻印されている。
この忠魂碑は、日露戦争で横越地区から出征し2名の兵士が戦死され、その兵士を村葬として葬儀を行い、後世に伝えるために石碑を建立した。揮毫した好古は、陸軍第13師団長として新潟県高田に大正2年1月28日に赴任、同年3月22日渡満のため高田を去った。2ヶ月間しか赴任していなかった。横越村神田村長は「忠魂碑」を好古師団長に揮毫して頂きたく新潟県知事にお願いした。県知事は、伊澤多喜男氏で、奇しくも前任の地が、好古の故郷、愛媛県で新潟県に赴任したところであった。高田に着任した秋山師団長を伊澤知事は、表敬訪問している。同年2月6日、から師団配下の新発田・村松・小千谷の各連隊を巡視、8日新発田連隊の巡視を終えて、9日に伊澤県知事の招待で新潟市に立ち寄っている。この時に「忠魂碑」の揮毫を知事は好古にお願いしたものと推察される。


画像は、平成24年2月11日積雪の忠魂碑で、撮影は、北方文化博物館専務理事、佐藤氏が撮影し送って頂いた。新潟市の積雪は少なく久しぶりの大雪だった様子。
好古が揮毫した石碑は51基ある中で、新潟市のこの石碑は市民文化遺産選定されると確信している。地元の皆さんが大切に保存され毎年慰霊祭を行っている遺産である。来年1月が楽しみである。


画像は、平成24年10月29日、秋山兄弟生誕地の研究員が見学に伺った北方文化博物館、この博物館は、連合国軍最高司令官総司令部長官(GHQ)・マッカサー元帥が、戦後初めて許可した博物館で、柳 宗悦(評論家・文化功労者)、浜田庄司(益子焼・人間国宝)、バーナード・リーチ(英国の陶芸家)等の文化人に薦められ、司馬遼太郎も絶賛した博物館である。


平成24年10月29日、秋山兄弟生誕地の研究員が見学に伺った。北方文化博物館の説明を、第8代北方文化博物館伊藤文吉館長さんが案内して頂いた時き、大広間での記念写真。・・博物館とはいかに有るべきかを聞くことが出来た。
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俳句の街松山の句碑巡り 12 村上杏史

2013年10月30日 | 伊予松山歴史散策
前回、中村草田男が友人達と中島に行ったとき詠んだ句を紹介したが、今回は、中島で生まれた俳人「村上杏史」である。
村上杏史は、本名、清で、明治40年11月4日温泉郡中島町(現松山市中島町大浦)に生まれた。東洋大学卒業後、朝鮮木浦の京城日報で新聞記者となり、昭和5年、京城日報に着任した高浜虚子の高弟、清原拐童から俳句の指導を受け、昭和8年虚子と会い、同9年木浦で「かりたご」を主宰した。戦後、愛媛ホトトギス会(会長、酒井黙禅)に加わる。同30年ホトトギス同人、同36年愛媛ホトトギス会会長、会誌「柿」を主宰、組織発展に努め、会員数を200人から、1500人へと飛躍的に躍進させた。昭和59年、松山市民文化功労賞受賞、昭和62年には、愛媛俳句協会会長となり本県の伝統の短詩系文学の発展に努めた。80歳で逝去した。

市内と中島町に句碑が7基あり、その内生誕地の中島町に4基の句碑がある。
画像は、松山市御幸町一丁目の千秋寺と、四国88ヶ所第52番札所太山寺参道にある句碑である。
なお、市内にある句碑は、下記の通り。
竹林の奥の方より黒揚羽・・・・・・・・・松山市久万ノ台成願寺境内
むささびの落とせし山毛欅の実なるらん・・松山市立岩米之野高縄寺境内
渚行き松林ゆき島遍路・・・・・・・・・・松山市中島町大浦中島商工会議所横駐車場
一舟の渦よぎり来る月涼し・・・・・・・・松山市中島町大浦長善寺参道
朝鮮がにくくて恋し天の川・・・・・・・・松山市中島町大浦長崎墓地
                    かって村上家の墓所であった


句碑は、金色の仏の世界梅雨の燈

昭和36年7月より波多野晋平の後を受けて月刊誌「柿」の主宰となり、愛媛ホトトギス会長、俳句協会評議員、松山は俳句協会会長、松山市民功労賞受賞した村上杏史氏は、昭和63年6月8日告別式が、千秋寺で執り行われた。
句は、「金色の仏の世界梅雨の燈」、村上杏史喜寿記念句集「木守」昭和60年刊行の中の句で、この句は、杏史の傘寿を祝って昭和61年5月5日、お孫さんの手により除幕式があり、多くの俳人達の祝福を受けて建立された。
註:千秋寺は、貞享4年(1687)中国の僧即非が開いた寺で、当時は黄檗宗で大きな伽藍を有する壮大な寺院であったが昭和20年7月26日の松山大空襲により消失した。山門は現存しており文化財に指定されており全国ではこの形式の山門は二棟だけである。「海南法窟」の扁額は、即非の揮毫と言われている。


四国霊場52番札所、太山寺参道にある句碑。
句は、「道ゆづる 人を拝ミて 秋遍路」
昭和56年11月刊行の村上杏史句集「朝鶴」にあり、昭和38年の句である。句碑となったのは、昭和47年で、主宰の俳誌「柿」が300号に達したことの記念の碑。
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俳句の街松山の句碑巡り 11 中村草田男 中島町の句碑

2013年10月28日 | 伊予松山歴史散策

「一度訪ひ二度訪ふ波やきりぎりす」
愛媛県立松山北高等学校中島分校正門入り口右にある句碑。

句碑巡り6で、中村草田男の市内で唯一つの句碑、「夕桜城の石崖裾濃なる」で所在は、松山市東雲町、東雲公園内にあります。・・と紹介しましたが、もう一つの句碑が、松山市中島町(旧温泉郡中島町大浦)にある愛媛県立松山北高等学校中島分校正門入口右にあります。・・私は未だ伺ったことがないので是非一度行って句碑を見てみたい。中島には船で松山高浜港から海上約1時間40分掛かります。
この度、私の知人を介して中島分校の先生にお願いして写真を撮っていただきましたので紹介します。
この句は、昭和38年8月5日、中村草田男は帰省の余暇を旧友達と温泉郡中島町(現、松山市)で遊んだ。島では堀内町長大内分校長から非常な歓待を受け、この日中島町における草田男の一句であります。
中村草田男は、生前の文学碑を建てるべきではないという見解を持っており、その人自身が逝ってしまえば、世間は直ちにといっていいくらいに、その人のことを忘却するのがならわしである。若し、没後何年かを経過してもなお少数の人々が故人のことを追慕してやまない場合に、その人々の手によって真心を篭めて質実に建立されてこそはじめて文学碑・詩碑の意義が実現されるわけである・・中村草田男『子規、虚子、松山』みすず書房に記載されている。
草田男の生前に建てられたこの句碑は、 草田男唯一の生前句碑である。(昭和39年8月建立。)草田男の友人グループが、草田男に知らせると反対されるだろうからという理由で、当人に知らせないまま建立したもので、除幕式さえも草田男の出席を求めず実行したという事後承諾という形になった。草田男の句碑は「静かな島の、素朴な高校生達だけのいる校庭に建っている。以上のような事柄で草田男の句碑が少ないのでしょう。

註:中世の時代、瀬戸内海には村上水軍とは別に防予諸島で活躍した忽那水軍がいました。忽那氏は平安末期より中島(忽那島)を中心に活動し、鎌倉時代には島の御家人・地頭を勤めるようになりました。 南北朝時代には征西将軍・懐良(かねよし)親王を3年間中島にかくまい、吉野と九州の中継点として活躍しますが、戦国末期、伊予の守護、河野氏の滅亡とともに、忽那水軍も衰退の一途をたどったのでした。その本拠地が中島であります。




「一度訪ひ二度訪ふ波やきりぎりす」
愛媛県立松山北高等学校中島分校正門入り口右にある句碑。


県立松山北高等学校中島分校正門入り口右にある句碑の右側にある石碑で、碑文の判読は画像では困難ですが、草田男が中島に友人と訪れ、句を読みそれを句碑として建立した経緯が書かれているのではないでしょうか。
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松山市花園町通り「イルミネーション・点灯」今年拡大した

2013年10月26日 | 伊予松山歴史散策
松山市に新しく歩いて楽しめる街・花園町に誕生した。昨年までは、花園町通りにイルミネーションを仕掛けていたが、今年から範囲を広げ伊予鉄道松山市駅から花園町へそして南堀端(松山城三之丸外堀)までと拡大、過去最大級のイルミネーションで彩り、9月28日から10月26日までの金曜土曜日にはオープンテラスを開催し、カフェーや、地元店舗主体による限定グルメを提供していた。10月最後の週末は台風襲来でオープンテラスを開催が危ぶまれていた。
伊予鉄道の協力で、イルミネーション電車「光のトラム」を運行し、南堀端(松山城三之丸外堀)南入り口には、光の噴水を仕掛けてある。今年のテーマは、「光のガーデン」、花を楽しむように光の演出をしたと主催者は説明している。
イルミネーション点灯は、平成26年1月31日までで、今年は「イルミナーレ」との愛称をつけた。これは一般からの公募で選ばれた名称で「照らす」「輝かせる」と言った意味だそうです。














伊予鉄道の協力で、イルミネーション電車「光のトラム」を運行、電飾電車、道後温泉から松山市駅行き。


「光のトラム」、電飾電車、松山市駅から道後温泉行き。


南堀端(松山城三之丸外堀)に仕掛けられた噴水と、松山城三之丸入口の橋の欄干にもイルミネーションが仕掛けられ幻想的な夜景で多くのカメラマンが撮影に来ていた。

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東京世田谷区・秋山好古揮毫の石碑取材紀行

2013年10月25日 | 伊予松山歴史散策

平成17年5月3日GWの時に大阪から来た観光客が「秋山好古に関する書き物が重信町(現、東温市)の神社にあると聞いて来た。その神社に行きたいので教えて欲しい」と聞かれた。生誕地は開館してまだ期間も浅くそのような情報を持っていなかったので後日連絡させて頂くようお願いすると、「そんな事も知らんのか、バカタレが、わしは大阪から来たのだ、そんなに度々くる事など出来ない。そのくらい調べておけ」と・・その時は怒りをおぼえた。所在を調べると重信町下林にある築島神社とわかり早速伺い宮司さんに尋ねると本殿にある社号を好古が揮毫したことがわかった。大阪の人はこれを見に来たかったのかと判明しました。
この事があり私は、秋山好古が揮毫した石碑を調査し資料として保存し何時でもご案内出来る様準備をしておこう、そして平成21年1月7日が秋山好古生誕150年になる。是非記念の石碑写真集を刊行しようと思い全国各地から石碑の所在情報を得て写真取材を開始し現在に至っています。
平成25年4月1現在51基の石碑が発見され全て取材完了している。
今から思えば平成17年5月3日大阪の方の怒りの言葉がなかったら好古揮毫石碑の調査はなかったのである。

さて、これから石碑の中の一つである東京都世田谷区池尻にある石碑調査をしてきた出来事を紹介します。私が調査したときは、天候の関係と時間の制限のため、石碑裏面の事までは詳細な調査が出来てなかったが、今年、神奈川県平塚市の添田吉則氏が調査されましたので紹介します。
この石碑は現在発見されている中で一番古い石碑で明治29年6月30日に建立された石碑で建立者も好古自身である。日清戦争で戦死した騎兵隊員と亡くなった軍馬の哀悼碑である。
石碑裏面には亡くなった騎兵隊員の名前が刻まれている。この石碑の取材には苦労した。まず建立地が国有地で土地の管理者は財務省関東財務局、ここに秋山好古が建立したもので国は関知しない、現在は世田谷区役所に管理をさせているとの事、区役所に連絡をした。実はこの石碑は文字の刻印が浅く写真を撮っても文字を写し撮る事が難しく文字に墨を入れ浮きださせて撮る必要があった。区役所にこの事をお願いすると担当職員立会いのもとが条件となった。

区役所の指定する日時で了解をえた。指定された日時は、平成18年10月6日午前10時に現地集合であった。この日は朝から雨で文字の墨入れは難儀をした。石碑にビニールを被せ作業を行い不思議に写真撮影時は雨が止んだ。職員ともども今がシャッターチャンス急ぎ早に撮った。撮り終わるとまた雨が降り出した。「これは好古さんのご加護ですよ」雨が止んだのは、皆がそう思った。
画像は、東京都世田谷区池尻四丁目の石碑と千葉県習志野市の関係の画像です。


世田谷区役所の許可を受けて文字に墨をいれて文字を浮き出させて撮影。
世田谷区池尻の碑文表面
征清之役戦死者哀悼碑建設工ヲ竣ル茲ニ其ノ姓名ヲ勤シ永久後世ニ傳フ
明治二十九年六月三十日
騎兵第一聯隊長秋山好古謹記
秋山好古は、日清戦争で御国のため名誉な戦死をした15名の騎兵隊員の名前を石碑裏面に刻印し後世に伝えるために騎兵第一聨隊長秋山好古が直筆で記し好古自身が建立した。


墨入れする前の石碑の文字は殆ど見えない。先ず石碑の汚れを洗い落とし水分を取り除
墨を入れた。


晴天時に撮ると木漏れ日により画像のような状態となり、綺麗な画像を取ることは困難、この時は雨天であった。そして墨を入れ終わった時一時期雨が止み撮影し終わった時点でまた降雨となった。・・不思議な一瞬であった。この画像は事前調査をお願いした東京の知人が撮り送ってくれた画像である。


石碑裏面で、下記の事項が記載されている。
日清戦争戦騎兵隊の戦没者 世田谷区池尻の碑文裏面
陸軍騎兵少尉 山口毅夫
君資性謙譲ニシテ敏活頗ル支那語ニ通ス征清ノ役金州乃旅順ニ転戦シ常ニ勇徃奮進敵状地形ノ偵察ニ盡力シ我騎兵隊ノ活動ヲシテ極メテ容易ナラシメタリ旅順陥落ノ後普蘭店ニ派遣セラレ復洲方面ノ警戒ニ任ズルヤ疾病ヲ犯シ尚能ク激務ニ服シ遂ニ起ツ能ハサルニ及ビ帰朝シ明治二十八年二月十三日廣島陸軍豫備病院ニ於テ卒ス享年二十八歳

陸軍騎兵曹長     吉田四郎   明治二十八年二月八日於老爺廟
豫備陸軍騎兵一等軍曹 藤堂立    明治二十七年十一月十七日於龍口戦死
陸軍騎兵一等軍曹   渡邉武松   明治二十八年二月八日於二道河戦死
陸軍騎兵一等卒    西澤三十   明治二十八年二月二十四日太平山戦死
陸軍騎兵一等卒    根本由之助  明治二十八年二月八日於高刋戦死
陸軍騎兵一等卒    羽毛田安太郎 明治二十八年二月八日年於老爺廟戦死
陸軍騎兵一等卒    添田賢次郎  明治二十八年二月八日於二道河戦死
陸軍騎兵一等卒    内田與作   明治二十八年二月八日於二道河戦死
陸軍騎兵一等卒    新井斧三郎  明治二十七年十一月十九日於龍口戦
豫備陸軍騎兵一等卒  小野田勝三郎 明治二十七年十一月十九日於龍口戦
陸軍騎兵一等卒    飯尾金彌   明治二十七年十一月十八日於土城子
陸軍騎兵一等卒    芝章    明治二十八年二月二十二日聶家堡子戦死
豫備陸軍騎兵一等卒  加瀬音吉   明治二十七年十二月三十日於蘇家屯病死
陸軍騎兵一等卒 蕪木夘八 明治二十八年一月三十一日朱家旬子戦死
石碑裏面記載事項調査は、神奈川県平塚市の添田吉則氏である。

陸軍騎兵一等卒 添田賢次郎氏の父である保吉氏に、好古は、添田賢次郎隊員の事を「斥候の任務に服し蓋平の戦いに於いて勇ましく戦い、二道溝栄口に敵を迎え撃つも激戦の末名誉な戦死した。」と漢詩で表現して書き送った。保吉氏は、之を元に石碑を建立なされた。その石碑が、平成24年4月18日神奈川県平塚市のあることが判明した。

明治29年6月30日東京都世田谷区池尻に好古は後世に伝えるために石碑を建立「日清戦争で戦死した騎兵隊員の哀悼碑」その裏面に優秀で且つ勇敢に戦い戦死した15名の騎兵隊員の氏名を揮毫、その一人である騎兵一等卒添田賢次郎氏の名前も好古は忘れることなく揮毫していた。この事が今回この石碑が発見され、好古が哀悼の意を篭めて建立した思いが116年経過したいま実ったのである。・・「高が石碑、然れど石碑」である。今回の取材で特に痛感した。
平塚市の石碑は、2番目に古い貴重な石碑である。


神奈川県平塚市に建立されている陸軍騎兵一等卒 添田賢次郎氏の石碑。
平成24年5月23日取材撮影。


東京都世田谷区池尻四丁目石碑のある場所で、ここは騎兵第一聨隊の跡地で、そのご千葉県習志野市に移転する。


秋山好古が建立した石碑の横には大きな表忠碑がある。


石碑は画像のような鉄製の柵の中に保存されている。


東京世田谷池尻にあった騎兵第一聨隊は、千葉県習志野に移転した。
現在千葉県習志野騎兵隊の跡は、東邦大学、日本大学生産工学部、東邦大学中高等学校になっており、騎兵第一旅団司令部跡は、習志野市民プラザ大久保の施設が建設されている。
画像は、騎兵第一旅団司令部本部の模型で、製作は日本大学生産工学部の学生が造った。展示は、平成24年3月25日完成した「習志野市民プラザ大久保」に展示してある。


騎兵第一旅団第13第一聨隊時代(明治時代の建物・現東邦大学に現存)に創建された兵舎で東邦大学では、永久保存すことに決定した貴重な建造物。


その内部で、保存状態は非常に良い。・・昨年10月撮影。

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