画像は、令和5年3月21日、松山市歩行町二丁目3番地6・秋山兄弟生誕地(公益財団法人・常盤同郷会) 武道場で開催された 秋山淳五郎眞之生誕155年・生誕祭の様子です。
秋山眞之生誕155年生誕祭 開催 次第
記
1、開催日時 令和 5年3月21日(春文の日)
午前 9時30分 式典
2、場 所 松山市歩行町二丁目3番地6
秋山兄弟生誕地 (公益財団法人・常盤同郷会) 武道場
3、開催内容と時間
第一部 式典次第
秋山眞之155年祭(慶応4年3月20日生)生誕祭式典
・国家君が代斉唱
・来賓祝辞
・献茶(秋山眞之の像へ)
・元 海上自衛隊幹部学校長 記念スピーチ
・常盤同郷会賞 令和4年度受賞者記念スピーチ
・正派邦楽大師範箏「佐川雅貴社中」の琴演奏会
・茶会 伊豫売流天山会:煎茶(立札式)
4,155年祭にご臨席頂きました皆様方
・松山市立子規記念博物館 総館長 竹田美喜 様
・松山市立坂の上の雲ミュージアム 総館長 松本敬治 様
・松山子規会 会長 烏谷照雄 様
・愛媛県立松山東高等学校 校長 和田真志 様
・愛媛県立松山北高等学校 校長 友澤義弘 様
・愛媛県立吉田高等学校 校長 村井浩昭 様
・松山市教育研修センター事務所長 光岡葉子 様
・松山市立東雲小学校長 西岡香恵 様
・(株)愛媛経済レポート社長 定行千織 様
・愛媛県防衛協会事務局長 折戸善彦 様
・松山市歩行町二丁目町内会長 竹田進一郎 様
午前10時45分 式典閉会
第二部 茶会・琴演奏会
午前11時から茶会開始
午後 2時茶会終了
会場祭壇に飾られた花と献酒。
秋山眞之生誕155年祭合同生誕祭 開催に先立ち国歌君が代を斉唱し生誕祭は始まった。
君が代独唱は、愛媛県立松山東高校合唱部 平岡 遼太郎さん。
生誕祭開式に当たり、主催者である、公益財団法人 常盤同郷会理事長 山崎 薫氏が開催の言葉を述べられた。
令和4年、秋山好古生誕163年祭は、新型コロナが蔓延であったため中止とし、秋山眞之生誕154年祭は、コロナが蔓延の中、最大の注意を祓いながら、中村時広愛媛県知事代理、野志克人松山市長代理をお迎えして秋山好古生誕163年生誕祭と秋山眞之生誕154年祭を合同で開催したのは初めてのことでした。
眞之は日露戦争(明治37年~38年)の日本海海戦で連合艦隊の参謀を務めるなどした。生誕祭は眞之や兄・好古の功績を後世に語り継ぎ顕彰していく活動も常盤同郷会の使命の一つであると、山崎薫理事長は挨拶された。
続いて
中村時広愛媛県知事代理出席の、愛媛県スポーツ文化部文化局長・山中美幸さんが中村知事の祝辞を代読され挨拶された。
続いて
野志克人松山市長代理、松山市立坂の上の雲ミユージアム 石丸耕一館長さんがご自分の挨拶と、野志克人松山市長の祝辞を代読された。
続いて
秋山眞之生の親友であった 山下亀三郎翁令孫 山下洋二郎氏(東京都在住)が挨拶。
続いて
秋山眞之の令孫である、青山芳之氏(東京都在住)が挨拶。
続いて
秋山 眞之に対して献茶した。
献茶をするのは、常盤同郷会理事・藤島寛昌氏です。
秋山眞之胸像制作時にお世話になりました、当時海上自衛隊幹部学校校長であられました元海上自衛隊幹部学校校長 牧本 信近 様(神奈川県在住)のご挨拶。
元海上自衛隊幹部学校長の牧本 信近 様が、秋山眞之胸像制作についてのお話をされた。
眞之胸像制作にあたり設計図を作成するときお世話になった当時の海上自衛隊幹部学校の校長先生です。
秋山眞之胸像は現在も海上自衛隊幹部学校3Fロビーに展示されている。
令和4年度常盤同郷会賞受賞者 玉井 咲哉(愛媛県立松山盲学校 本年度卒業)さんのスピーチ。
参考事項:常盤同郷会賞(戦前からの久松賞を継承)は、愛媛県中予地区の各高等学校の卒業式に際し、社会貢献活動と学業に熱心に取り組んだ優秀な生徒へ、校長推薦に基づいて贈られます。表彰状と秋山兄弟の言葉を刻んだ盾が贈呈されています。
久松賞とは、旧伊豫松山15万石の藩主・久松家である。(久松家の祖先は、菅原道真公で由緒ある家系である。)
詩舞披露
吟詠:塚本康江様の吟詠により、愛媛県立松山北高校吟詠剣詩舞部の二宮 大翔さんと福田 妃菜さん。
献奏・琴曲演奏
演奏者は、正派邦楽会 佐川雅貴社中 東雲高等学校 永田 優月さん。
演奏曲は、「六段の調べ」
式典終了後関係者一同の記念写真。
式典も終了し第二部の茶会を開催。
茶会は、伊豫売流天山会 岩田 天山 様です。
秋山眞之生誕155年祭合同生誕祭で眞之の思いをはせながらお茶を頂いていた。
この日(3月21日)は、WBCのメキシコとの対戦で、メキシコに再逆転で決勝進出を不振であった村上選手の逆転タイムリーツーベースを打ち勝った日でした。
決勝戦は、アメリカと対戦し優勝しました。
その余韻は、今も各TV番組に取り上げられています。(今日3月28日も)
秋山眞之も正岡子規と一緒に野球を楽しんだ時期がありました。
昭和8年2月10日、東京市牛込区矢来町26番地 秋山眞之会から刊行された「秋山眞之」が発行されました。
発行者は、櫻井 眞清で、この書籍のページ54~61ページに、秋山眞之が野球に関する記述があります。興味のある方は一読されて下さい。
また、書籍「秋山眞之」は、平成21年4月20日、マツノ書店から復刻版として再版されました。
松山市立図書館に所蔵してあります。
図書館相互貸借制度を利用して松山市以外の方も図書の貸出が受けられます。
伊豫売流天山会 岩田 天山さん主催のお茶会の始まり。
元海上自衛隊幹部学校長の牧本 信近 様と秋山眞之胸像で記念の一枚。
毎年3月21日(春分の日)に秋山眞之生誕祭を開催していますが、秋山兄弟生誕地のソメイヨシノ桜は開花していませんが今年は、開花しました。地球温暖化が進んでいる証拠でしょうか?
地元紙の記事です。
秋山淳五郎 眞之
大政奉還・王政復古・戊辰戦争・廃藩置県・西南戦争と短期間の間に日本は一変した。
そんな中、伊予松山に慶応4年3月20日、一人の男の子が秋山家に誕生した。
当時松山は朝敵とされ住民は苦しんだ。
元藩主、久松家の先祖は菅原道真で学問の神様、伊予松山の子供たちは学問を身に着け独立し世の中に出て行った。
その一人が秋山淳五郎で、元服して眞之となり、国家存亡の危機を克服した明治の先人の一人ある。
眞之は、兄である秋山好古の支援をえて東京大学を目指し、東京大学予備門に入学、東京帝国大学を目指すが、尊敬する兄、好古に学費、生活費の負担を掛けることは偲びがたしの思いを持ち、兄を説得し了解を得て海軍兵学校17期生として進学した。(なお、東京大学予備門の同級生に夏目漱石がいた。)
日本最大の危機、日露戦争勃発には日本海軍連合艦隊司令長官東郷平八郎の下で、作戦担当参謀となり、旗艦「三笠」に乗艦、日本海海戦では、帝国ロシア海軍太平洋第二艦隊・第三艦隊(日本ではバルチック艦隊と呼んだ)を日本海で撃滅その作戦を全て秋山眞之が専任参謀として立案し勝利に導き世界を驚かせました。
その後大佐となり、海軍少将と昇進、大正6年12月1日中将に昇進、大正7年2月4日、小田原に居た、山縣有朋にこれからの日本の国造りについてお願いに行った。その時盲腸炎を再発し、腹膜炎を患い、山下亀三郎(山下汽船創設者)の別宅で亡くなった。
享年49歳、海軍中将従四位勲二等旭日重光章である。
墓所は、東京青山霊園に兄好古と一緒であったが、昭和62年鎌倉霊園に改葬した。
カラー肖像画について
カラー仕立ての肖像画を制作されたのは、千葉県習志野市大久保にある、習志野騎兵連隊史跡保存会、会長・三橋正文氏が秋山好古生誕150年(平成22年1月7日)を記念して白黒写真を基にして、東京芸術大学を卒業された丸山浩司画伯に依頼し画伯がカラーで描かれた肖像画です。
そして弟の秋山眞之の肖像画もカラーで同時に制作されました。その複製で、本物は千葉県習志野市大久保商店街資料館に展示されています。