EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

スペシャルドラマ「坂の上の雲」回顧録 2、 秋山眞之を演じた本木雅弘さん

2018年06月27日 | 伊予松山歴史散策

秋山眞之の胸像の横に立たれる「秋山眞之を演じられた、本木雅弘さん」

平成19年10月11日、NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」のロケ開始前に松山市にある秋山兄弟生誕地に来られた時の画像です。

 NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」第1部のロケは、平成19年11月茨城県つくばみらい市で開始、以後全国各地で行われ、海外ロケも行われ、平成22年9月21日、愛媛県今治市で最後のロケが行われ終了した。

ドラマ「坂の上の雲」は最初の名称は、「21世紀スペシャル大河ドラマ・坂の上の雲」として平成18年から放映する予定であったが、ある事情で、収録延期、名称も「スペシャルドラマ・坂の上の雲」となり当初は、放映時間も120分であったのが、90分になった。

ロケも終わり画像編集され、第1回が放映されたのが、平成21年11月29日、午後8時からであった。

スペシャルドラマ「坂の上の雲」の中心人物は、秋山眞之を演じる俳優さんは「本木雅弘さん」でした。

本木雅弘さんが秋山兄弟生誕地にお越しになったのが、平成19年10月11日午前11時で、本木さんが秋山兄弟生誕地にお越しになった時の第一声は、「この度、ドラマ坂の上の雲で、秋山眞之さんの役を演じさせて頂きます本木です。本日は勉強に参りましたのでよろしくお願いします。」と述べられ深々と一礼されました。

今年で9年が経過しますが、秋山兄弟生誕地に来られた本木雅弘さんの印象は、清々しく・礼儀正しく・言葉遣いが丁寧で、字がお上手その姿が未だに私の脳裏に鮮明に残っています。

司馬遼太郎の坂の上の雲は秋山好古・秋山眞之・正岡子規さん、三人三様に描かれていますが、NHKがドラマとして脚本した中では、秋山眞之が中心で本木雅弘さんは素晴らしい秋山眞之を演じられました。

先ず、最初に秋山兄弟生誕地が準備している映像によるご案内をしました。

本木さんはご覧の様に真剣な眼差しで説明映像をご覧になられ、まさに半端でない表情です。

本木雅弘さんと一緒に来られた、事務所の女性とNHKの方と三人、連絡なしで突然起こしになられビックリしました。映像をご覧になられる三人の方々。

秋山兄弟生誕地の研究員が説明役でご案内をしました。

説明を聞かれる本木雅弘さん、真剣な面持ちで研究員の説明を聞かれました。

研究員もこの上ない光栄な面持ちで、少し緊張をしながらのご案内でした。

秋山兄弟生誕地の事を研究員から説明を聞かれ一段落した時、近所の女性二人は本木雅弘さんがお越しになっている事に気づき、本木さんに記念写真のおねだり・・本木さんは気持ちよくいいですよ・・の了解で写真撮影。二人は大喜び、座敷に飾って置くと言っていました。

私が本木さんにお願いして、秋山兄弟生誕地の記念として保存しておきたく色紙にサインを書いて頂きました。本木さんは、これでよろしいでしょうか?と言われ色紙を頂ビックリ!書かれた文字が素晴らしいく綺麗です。ご本人に聞くわけにはいかないので、お供の女性に聞きました。すると!!

本木さんは字が綺麗ですねと尋ねると・・ハイ、本木は書道7段ですと返事が返って来て!!です。

書いて頂きました色紙は、秋山兄弟生誕地生家の玄関にある見学者記帳机に飾り大切に保存し来館者の方々に研究員が説明をしています。

平成19年10月11日、秋山兄弟生誕地にお越しになられた時、午前11時16分、本木雅弘さんに書いて頂いた色紙です。

この日、本木さんをご案内いたしました秋山兄弟生誕地の研究員です。やはり記念写真をお願いし撮らせて頂きました。

私は、傍で本木さんの行動、言動を拝見拝聴させて頂きましたが、説明を受け返す言葉が丁寧で説明を真剣に聞き取り礼儀正しいお人でした。

これだけ有名人になると、横柄な仕草が知らず知らずの内に少し片鱗が見受けられるが、本木さんにはそれが一切無かったです。

秋山兄弟生誕地の後、広島県江田島市江田島町にある、旧海軍兵学校(現、海上自衛隊 第1術科学校)で一泊体験学習を受け退出時、宿泊時に使用した寝具、衣類をきちんと整理整頓し、使った洗面所も自分で丁寧に清掃をして退出された行為について、海上自衛隊第1術科学校の関係者はビックリされたそうです。普通は同伴している事務所の関係者が、私がしておきますので本木さんは先に退出して下さい・・でしょうが、本木さんはそれでは気が済まない几帳面な性格の持ち主なのでしょうご自分が行ったそうです

・・TVで香川照之さん曰く「本木さんは、芸能界きっての真面目な人です。」と言われました。

私は、秋山兄弟生誕地で本木さんの姿を目前で拝見させて頂きましたが、まさに香川照之さんの言われる通りのお人だと感じました。

此れからも御身ご自愛されていいお仕事をされて下さい。

坂の上の雲のドラマは、一年間の空白があり第2部放映、そしてまた一年の空白を置き第3部放映を見て感激しその思いが半減した感じでした。もし再放送が叶うのであれば1年間で放映をして頂きたいとの意見が沢山ありました。私も同じ思いでした。

秋山兄弟生誕地に県外からお越しになられる方々から、もう一度スペシャルドラマ・坂の上の雲が見たいとのご意見が多くありそれも一年間での放映希望でした。

NHKさんに再放送をおねがいする署名活動を秋山兄弟生誕地が中心となり、平成25年12月21日から再放送をお願いする署名活動を開始しました。

全国各地から3万1千名の署名が集まり、署名簿を添付して再放送請願書を中村愛媛県知事・野志松山市長・秋山兄弟生誕地平松理事長がNHK松山放送局長に提出しました。その結果、平成26年10月5日から平成27年3月29日、毎週正午から45分間、全26回で再放送される事が決定しました。

全国から頂いた3万1千名の署名簿を添付して再放送請願書を中村愛媛県知事・野志松山市長も賛同して頂きNHK松山放送局に提出した時の記念写真です。

画像向かって左より

宇都宮 良治:秋山兄弟生誕地運営委員長(公益財団法人常盤同郷会常務理事)

平松 昇:公益財団法人常盤同郷会理事長

NHK松山放送局副局長

中村 時広:愛媛県知事

野志 克仁:松山市長

竹田 祥一:公益財団法人常盤同郷会評議員(自民党県連幹事長)

以上の皆さんが代表してNHK松山放送局経由でNHK放送協会さんにお願いをしました。

秋山兄弟生誕地に掲示した、NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」再放送決定の報告とお礼状を掲示し、再放送仕様のポスターでお知らせをしました。

地元紙、愛媛新聞に再放送決定が大きく報道されました。

NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」再放送仕様のポスターです。

現在も秋山兄弟生誕地に展示してあります。

NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」再放送仕様の絵葉書です。

四国一の大型L字型商店街「大街道商店街」にNHKスペシャルドラマ坂の上の雲再放送の決定の大きな掲示板が掲げられ、市民並びに県外から来られた方々に周知されました。

四国一の大型L字型商店街「銀天街商店街」の各商店入口に掲示して皆さんにNHKスペシャルドラマ坂の上の雲再放送決定の啓発ポスターが掲げられました。

 

銀天街の各商店入口に掲示して皆さんにNHKスペシャルドラマ坂の上の雲再放送の決定の啓発ポスターが掲示されその様子は壮観でした。

NHKスペシャルドラマ坂の上の雲再放送仕様のポスター裏面には、登場人物が紹介されています。

「伊予松山に三人の男がいた・・秋山好古・眞之兄弟、そして正岡子規」明治という時代に立ち向かった青春群像を壮大なスケールで描いたドラマが甦る・・・BSプレミアムで一挙放送!と書かれています。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スペシャルドラマ「坂の上の雲」回顧録 1、 秋山兄弟生誕地に2万人目の来館者

2018年06月22日 | 伊予松山歴史散策

NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」第1部、第1回が放映されたのが、平成21年11月29日、午後8時から、それから今年で9年が経過する。

田舎町である松山に、全国の坂の上の雲愛好者の皆さん方が大勢お越しになられ、3年がかりで放映されたドラマ、坂の上の雲の反響の大きさに改めて驚いた。

そして、平成26年10月5日から平成27年3月29日まで、BSプレミアムで、全26回の企画で再放送された。

出演者も豪華メンバーで、NHKは、「この壮大な物語は、伊予・松山から始まる」と題して映像がTV画面から飛び出して来た。

 これから数回に渡り私が関り、撮り収めている画像を掲載して当時を振り返ってみる事に致します。

秋山兄弟生誕地には、スペシャルドラマ「坂の上の雲」のロケが始まる前に、またロケ最中に出演者される俳優さんが来られ、また政治家の方も来館されました。

先ずは、来館者2万人目の事柄から振り返ります。

平成17年1月18日、松山市歩行町二丁目3番地6にある、秋山兄弟生誕地の整備事業が完成し、NHKは朝の大型ニュース番組「おはよう日本」で速報として秋山兄弟生誕地の様子を現場からライブで全国に紹介した。これは、平成21年から放映するNHKの歴史に残る大河ドラマとして取り上げる、その番宣を籠めてのニュース放映であったのでしょう。

このニュースを見られた全国の皆さんが秋山兄弟生誕地にお越しになられました。

秋山兄弟生誕地では、来館者2万人達成時には、感謝記念式典を計画していた。

計画によると、2万人達成には1年は掛かると考えていたが、6ヶ月で達成したことに秋山好古・眞之の人気の凄さに改めて驚きました。

来館者2万人目の方は7月31日午前中に達成するのではと予測し各マスコミに連絡した。なお秋山兄弟生誕地整備事業に掛かった経費は、全国の秋山好古・秋山眞之支援者の方からの醵金で完成しました。

 

平成17年7月31日は、小雨が降っており来館2万人目になる方の認定書、花束贈呈式は、秋山眞之胸像のある東屋で行う事にして準備をしました。

2万人目になる来館者をお迎えするため関係者は忙しくなってきた。

2万人目になる来館者は、何処からお越しになるのかマスコミ関係者も興味津々でその時を待った。

同日、午前10時45分時点で、19,995名となった。

マスコミの皆さんもTVカメラ撮影の準備完了。

さーいよいよ来館者2万人目の方がお越しになる。

2万人目の方にお渡しする認定書と花束も準備完了。

司会進行係から間もなく2万人目の方がおこしになりますと場内案内をする。

午前10時48分に、開館以来2万人目の来館者をお迎えしました。

2万人目のカウント掲示版。

テープカットで2万人目の方をお出迎え、その方は名古屋市西区在住の平井温子さんとそのご家族5名でした。

19,995人目から一気に2万人達成です。

生誕地の座敷では、2万人目の方をお琴の演奏でお迎えするため、正派大師範・前谷雅貴社中の高校生・中学生・小学生3名が琴の音の調整をし、万全を期してお迎えをするその準備です。

琴の演奏でお迎え、心を込めたお持て成しであります。

正派大師範、前谷雅貴社中の高校生がお祝いの演奏を奏でお迎え。

正派大師範、前谷雅貴社中の演奏者の表示。

2万人目来館者、名古屋市西区在住の平井温子さんとそのご家族でした。

秋山兄弟生誕地、平松昇理事長から認定書の授与が行われました。

秋山兄弟生誕地の研究員からお祝いの花束贈呈です。

 マスコミ各社カメラ撮影と記者の取材を受ける平井さん。

各新聞記者のインタビュー、平井さんは、まさかこんな事になるとは考えもせず来館されたのでビックリするやら、嬉しいやら戸惑いを隠せない様子でした。

平井さんは、次男の中学1年生の宿題の題材にと思い、秋山兄弟生誕地を訪れましたが、まさか自分が2万人目来館者になるとは思わず驚いていますと、そして秋山兄弟の事はよく知りませんが、此れを機会に勉強しますと語られた。

 

マスコミの応対も終わり秋山好古騎馬像の前でご家族の記念写真撮影です。

平井さんは、名古屋のお住まい、秋山好古は、大阪師範学校を卒業し、名古屋師範学校の付属小学校で教師を務めていた、名古屋とご縁がある2万人目来館者でした。

好古は、郷里の先輩、和久正辰名古屋師範学校付属小学校教務官の強い勧めで、小学校を退職し、明治10年5月4日、陸軍士官学校騎兵科に入学し軍人となる。そして大正13年故郷伊予松山からの強い要望で北豫中学(現、愛媛県立松山北高等学校)の校長として故郷の青少年の教育に少しでも役に立ちたいとの思いで、昭和5年3月まで人生最後のご奉公をした。同年11月4日、東京・陸軍軍医学校病院で永眠、享年72歳であった。・・母は子供達に「大きくなったら、世の為・人の為・故郷の為に尽くせる人になるようにと躾け育てた。」好古も眞之も母の教えを忠実に守り人生を全うした。・・ドラマの中で眞之を演じた本木雅弘は、「亡くなった母、貞の枕元に正座して、お母さんの教えの通り生きて来たと思っているが、僕の生き方で良かったかのう・・と問いかけるシーンがあった。」

秋山兄弟生誕地の関係者と一緒に記念写真を撮られ、改めて秋山兄弟生誕地の研究員から説明を聞き見学され帰られました。

 

2万人目来館者の産経新聞の記事。

坂の上の雲は、最初産経新聞の連載小説として司馬遼太郎さんが書かれ、書籍となってから人気が上がり末は、NHKの歴史に残しておきたい大河ドラマにまでなった凄い読み物です。

司馬遼太郎さんが書かれた坂の上の雲は今年で50年になるそうです。

新聞記事にもあるように、平成17年5月から秋山好古揮毫石碑の調査を開始しました。また、石碑調査記録に付いてもブログに乗せる事とします。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お遍路さんの休憩所・「坂本屋」修復工事完了

2018年06月19日 | 伊予松山歴史散策

修復完了した「旧遍路宿、現遍路休憩所・坂本屋」。

松山市窪野町桜2146番地(旧、温泉郡坂本村大字窪野字桜)にお遍路さんの休憩所「坂本屋」がある。老朽化に伴い昨年11月から修復工事がされていたがこのほど完了した。

坂本屋は、国道33号線にある三坂峠北側の山間部にあり自然豊かな場所で、四国88ヶ所霊場第45番札所 岩屋寺から、第46番札所 浄瑠璃寺に向かう途中にある。岩屋寺と浄瑠璃寺の間約30km、徒歩で約8時間かかりその道は険しく、その途中にある坂本屋はお遍路さんにとって「ほっと」一息つく休憩所となっている。

四国88ヶ所霊場の内、愛媛県内には25の霊場がる。その遍路休憩所のシンボル的存在が「坂本屋」である。

坂本屋の家屋が老朽化し昨年11月から修復工事を行っていたがこの程完了し、6月8日修復完了式が行われた。その様子が8日地元TVで放映された。

画像は、修復工事が完了された遍路休憩所「坂本屋」で、6月9日、伺った。この日は、お接待役として、地元坂本小学校の男性の先生が居られ、「どうぞおあがりください」と言って冷たい麦茶を出して頂きました。一時間程滞在しましたが歩きお遍路さんとはお会いする事が出来なかったが岡山県から車で来れたご婦人二人に出会いました。

修復前の「遍路休憩所・坂本屋」、平成28年9月4日、撮影した。

「坂本屋」は、明治末期頃に建てられた木造民家、一時期は旅籠だったがその後遍路宿として温かくお遍路さんを迎えてきた。歩き遍路が行交っていた頃は、各地に多くの遍路宿があったが、時代と共に歩き遍路が減り遍路宿も数軒となった。坂本屋も戦後まもなく看板を下し、長く廃屋になっていた。このままでは維持も困難だったが、「一般民家としては珍しい形態の建造物である」と、ある建築家の助言があり、地域の文化遺産として保存しようと松山市と地元の有志により修復を行い、平成16年からお遍路さんの休憩所として新たに生まれ変わった。そしてこの度有志の方々からの醵金で修復工事をいたし、お遍路さんの休憩所として維持管理、地元有志の人々が交代でお接待をしている。現在は、坂本屋運営員会を結成し会員が交代でお接待をしているそうです。地元の坂本小学校の先生、幼稚園の保育士さんも会員として活動されているそうです。

遍路休憩所・坂本屋の表示板。

愛媛県内には25の霊場がる。その遍路休憩所のシンボルが「坂本屋」である。

修復に伴い新たに囲炉裏の上に「煙抜きのガラリ付の腰屋根」が増築された。

前の道路は旧土佐街道、坂本屋は明治後期に建造された遍路宿で、往時は色んな人々が宿泊した。坂本屋は、遍路宿の前は旅籠屋として営業していた。

二階部分を見ると新築の様にみえる。

 正岡子規も歩いた坂本屋の前の道、また新田長次郎も行商によく久万に出向きこの道を歩いた。もっとさかのぼると、土佐藩兵士も歩いた土佐街道である。

 慶応4年1月11日、伊予松山藩は朝敵となり、朝廷は土佐藩に対して松山藩の討伐の令が発せられた。土佐藩主山内家と、伊予松山藩松平家とは縁がある間柄、(松平定昭の室は、土佐藩山内容堂の姪である。)出来れば戦火を交えず修めたい。松山藩の占領には長州がやってくる、その前に松山に行ってやらねばと考え同年1月23日、土佐を出発、1月25日、四国88ヶ所44番札所、大宝寺で宿泊した土佐藩隊兵士915名、荷駄夫を含むと総勢2000名の大部隊が坂本屋の前の道を歩いて松山藩に入った歴史のある街道である。その当時坂本屋は未だ建築されてなかった。

 子規も坂本屋の前の土佐街道を歩いている。その道沿いに正岡子規の句碑がある。正岡子規15歳の時ここを旅して、句を残している。
「旅人の うた登り行く 若葉かな」・・明治25年作、昭和27年窪野青年団が句碑を建立した。句碑は丹波バス停の上にある。

 

軒も画像の様に修復された。瓦も吹き替えられ、全ての瓦には寄付をした方々の名前が記載されているそうだ。

お遍路さん、休んで行ってください。と書かれた案内板を出してお接待をしている。

43番霊場明石寺から46番霊場浄瑠璃寺の間、126kmの長い距離を歩き疲労困憊した身体を自分自身が励ましながら巡礼の旅をするその長丁場、浄瑠璃寺の手前6.5kmにある「坂本屋」はオアシス的な存在である。先程記載したように、衰弱して倒れ込むように辿り着くお遍路さんもいるようです。

平成28年9月4日、に伺った時にはなかった「無料 接待中 坂本屋」の表示が掲げてあった。

坂本屋の玄関土間。此処でお遍路さんは休憩して英気を養い再び遍路の旅を続ける。衰弱したお遍路さんは一階の部屋で横になり休息出来るそうです。

母屋に隣接して囲炉裏部屋がある。寒い日や、雨天で濡れて冷え切った身体を暖める、また湯茶を沸かしたりするそうですが、煙が部屋に充満していたのを、外に抜く装置として、増築したとの由。それが「煙抜きのガラリ付の腰屋根」である。

煙が部屋に充満していたのを、外に抜く装置として、増築した施設。いろいろな形で実験したが、この形が一番効果があったので造作したそうです。囲炉裏の上に「煙抜きのガラリ付の腰屋根」が増築された。なお、今回の修復事業に伴いお手洗いを水洗式に改良したそうです。

車で岡山県から来られたお二人。・・ここは有名ですから来ましたと言われた。

女優、お笑いタレントである柴田理恵さんが平成29年11月、松山に来られた時にお越しになり、瓦にサインをされたそうです。

修復した屋根瓦に全てに醵金をされた方の名前が記載してあるそうです。

遍路宿「坂本屋」修復事業に寄付をされた方々の署名版が設置してあった。

遍路宿「坂本屋」の前にも石碑で寄付者の署名碑が建立してある。

1階の部屋で、疲れたお遍路さんには横になって疲れを癒し元気を回復して頂くそうです。

画像は、平成28年9月4日に伺った時、許可を得て上げてもらい撮影した一階の様子。

平成28年9月4日、伺った時、許可を得て二階に上げてもらい撮影した二階の様子。

遍路休憩所「坂本屋」の利用案内。

【坂本屋】
住 所:愛媛県松山市窪野町甲2187番地
接待日:3月〜11月の土曜日・日曜日
時 間:9~15時迄

平成28年9月4日、伺った時に坂本屋の家主、船田トシ子から聞いた話では、お遍路さんの中には、衰弱しきって坂本屋に辿り着くお遍路さんが居られ、その時は応急手当をして暫く休息をして英気を養い再び遍路に旅立って行かれますが、先日そのお一人がお世話になりましたとお礼に来られました。お元気になられ良かったと思いました・・私も人間なので気持ちがモヤモヤしている時、お接待をすると気持ちが晴れやかになります。此れからも身体が動く限りお接待を続けますと話された。 6月9日伺った時はお姿がなかった。・・お元気なのか心配です。

遍路休憩所「坂本屋」で休憩され辿り着いた第46番霊場浄瑠璃寺を巡礼するお遍路さん。

四国八十八ヵ所巡礼の元祖と言われている衛門三郎に付いて。

遠い千年もの昔、伊予国浮穴荏原の郷(現在の愛媛県松山市恵原町)に衛門三郎という強欲非道な長者がいた。うだるような夏のある日、空海弘法大師がこの男の邸に托鉢に来た。快い昼寝の夢を破られた三郎は立腹した。「乞食坊主奴、うるさい立ち去れ」大師は目を閉じたまま読経を続けた。「去れと言うに分からぬのか」三郎は杖をひったくって手の鉢をはっしっと打った。鉢は八つに割れて飛び散る。「誠に非道な男ではある、心を改めぬと何か不幸が起こるであろう」大師はつぶやいた。「乞食坊主のくせに生意気をいう、早く去らぬと犬にくわせるぞ・・・・」大師は静かに遠ざかった。三郎の八人の子が次々と変死してゆく。三郎は始めて己の罪を悟り空海弘法大師の姿を求め四国巡礼の旅に出た。「一目あの僧にあって、ざんげしたい、このままでは死にきれない・・・」こう言いつづけ二十何回目かの巡礼で十二番焼山寺へ辿り着いた。余命もない時、こつ然と大師が現れ「お前の罪は許された、河野一族の子に生まれ変わるであろう・・・・南無阿弥仏・・・」三郎は「衛門三郎再来」と書いた小石と経文一巻を手に大師を伏せし拝みつつ世を去った。天長八年(831)の出来事だった。城主の子が手を開かぬ。安養寺に祈念したところ手を開き、この石が出た。石を寺に納め次号を安養寺から石手寺と改めたと言う。

この伝説の裏付として、第51番札所石手寺本堂前の春日灯籠の台座に嘉元4年(1306)安養寺と鋳造したものがある。毎年八月二十日は永代施餓鬼で善男善女でにぎあう。

文は、松山市教育委員会社会教育課発行「伊予路の文化」より引用

衛門三郎の戒名は「光明院四行蓮大居士」で、現在の番外札所、文珠院が衛門三郎の屋敷跡であると言われている。ご詠歌に「我れ人を救はんための先達に、みちびきたまふ衛門三郎」とある。

番外札所、文珠院で衛門三郎の邸宅跡だと言われている。第47番八坂寺から北方向、約800mに位置する。・・元祖88ヶ所巡礼者衛門三郎をお祀りしているので殆どの巡礼者がお参りに訪れる。

 文殊院に立つ特大のお大師さん石像、右傍に衛門三郎夫妻の坐像がある。

 塚の頂には小祠が置かれ石地像が安置してある。

 文殊院(衛門三郎の邸跡)から西に200mの所に三郎の八人の子を祀る八ツ塚がある。

 番外札所、文殊院(衛門三郎邸跡)から西に200mの所に三郎の八人の子を祀る八ツ塚がある。

 八ツ塚について・・松山市教育委員会社会教育課発行「伊予路の文化」より引用

 八坂寺の北方に文殊院と言う番外札所がある。(衛門三郎の邸跡だと言う)ここから西へ200m程行くと三郎の八人の子を祀る「八ツ塚」と言うのがある。塚の頂には小祠が置かれ石地像が安置してある。衛門三郎は天長8年(831)12番札所焼山寺で死亡したと言う。そして三郎が生まれ変わってこの世に出生したのは、文保二年(1318)らしく、五世紀近く眠っていたと見える。松山市指定の史跡である。

   

 文殊院に掲示してある絵馬で、大師に対し衛門三郎が激しい行為をしている様が描かれている。絵馬の右上には、三郎の八人の子を祀る八ツ塚が描かれている。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浄瑠璃町(松山市)の菖蒲園なくなる

2018年06月16日 | 伊予松山歴史散策

 松山市浄瑠璃町に四国88ヶ所第46番札所「浄瑠璃寺」がある。

久万高原町にある第44番札所菅生山・大寶寺から国道33号線を下り、第46番札所医王山・浄瑠璃寺に巡礼する手前にある菖蒲園、15年前に休耕田を利用した地元の関係者が「菖蒲を愛する会」を設立して約12,00株の花菖蒲を植栽育成して来た。この道は幅員4m程の細い道で普通自動車以上の車は走行不能、離合も出来ない。歩き遍路さんには打って付けの遍路道である。

第44番札所菅生山・大寶寺から、第46番札所医王山・浄瑠璃寺に歩きで巡礼する方法は二通りある。一つは、旧土佐街道で、遍路休憩所坂本屋の前を通るコースと、もう一つは、新土佐街道(国道33号線)を通り、塩が森(松山市浄瑠璃町)から46番札所の遍路道が整備されている。歩き遍路さんにとっては三坂峠を越え、長い道のりを唯ひたすら46番札所目指して歩く、塩が森からは下りの遍路道、1km位歩くと綺麗な花菖蒲園が見えてくる。どちらのコースを利用するかはお遍路さん次第だが、有名な遍路宿「坂本屋」で休憩をするお遍路さんは塩が森からの下り遍路道は使わない。そして花菖蒲を見る事は出来ない。

私は6年前、平成24年6月から毎年花菖蒲園を撮影して来た。しかしこの3年ほど前から段々と花菖蒲が少なくなった。管理育成が出来にくくなったのかと心配しながら、先日遍路休憩所「坂本屋」の帰りに行ってみると掲示板も、休憩するテントも撤収され管理されてない状態だった。

近年、農家の人達は高齢化が進み後継者不足で遊休農地が増えている。この花菖蒲園も管理が出来なくなったのでしょうか?松山近郊から毎年この時期を楽しみにして鑑賞に来ていたものとしては大変寂しい限りである。

画像は、平成24年から撮った画像の中から印象に残ったものを時系列順に掲載し回顧する事にした。

 最初に撮影に行った時の花菖蒲、平成24年6月20日撮影。

 平成24年当時は画像の様に沢山の花菖蒲が生育していた。手入れも行き届き菖蒲園の中に入れるよう木道が設置され身近に鑑賞出来るのが良かった。

 平成24年6月20日撮影。・・当時の花菖蒲。

 浄瑠璃町の花菖蒲園は、園内に入れ身近な感覚で鑑賞出来るよう木道が設置してあった。

平成25年6月6日、当時の画像。

 平成25年6月6日、の画像で西条市から鑑賞に来られた5人組。車も適当に駐車出来る広さが確保され、周辺の雑草も刈り取られ鑑賞する者の身になって整えられていた。

 平成25年6月6日、当時の画像で真剣に花菖蒲を撮るカメラマン。花も咲き終えて萎んだ花は取り除かれていた。写真を撮る時咲き終え枯れた花があるといい写真にはならないから・・この事も考慮して取り除いていた。今考えると管理にはかなりの手間暇が掛かった事でしょう。

 平成25年6月6日、の画像で維持管理費に充当いたしたく御芳志をお願いします。・・お願い掲示板。・・私も少額だが気持ちだけの醵金をさせて頂いた。

 平成25年6月6日、の画像で休憩用のテントと、椅子が用意されてゆっくりと鑑賞出来るよう配慮されていた。

 平成25年6月6日撮影、作業姿で地元菖蒲を愛する会のメンバーの方が欠かさず手入れをされていた。

 平成25年6月6日撮影、屈んでいる人は雑草の除去作業している「浄瑠璃町花菖蒲を愛する会」のメンバーのお一人・・ご苦労様でした。

 平成26年6月5日、石川県からの女性一人歩きのお遍路さんで、携帯で写真を撮られていた。・・お許しを得て後姿を撮らせて頂いた。

 43番霊場明石寺から46番霊場浄瑠璃寺の間、126kmの長い距離を歩き疲労困憊した身体を、自分自身が自分を励ましながら、巡礼の旅をするその長丁場、浄瑠璃寺の手前850mにある「菖蒲園」は、遍路休憩所「坂本屋」と同様にオアシス的な存在である。花を鑑賞し元気を取り戻し、46番霊場浄瑠璃寺えと向かう。しかしこれが無くなるのは寂しい。

 女性一人歩きのお遍路さん先ずは、強靭な体力、意志の強さの持ち主そして十分な時間がなければ行歩き遍路は出来ない。菖蒲園を鑑賞され第46番札所医王山・浄瑠璃寺に向かわれた。・・お気を付けてご安全に巡礼されて下さい・・とお送りした。

因みに、88ヶ所を歩き遍路で巡礼すると、足の速い人で約50日、普通の歩きだと60日掛るそうです。費用も、宿泊費・食費・納経帳御朱印を含め約41万円必要です。

 平成26年6月5日の画像で、鑑賞用の木道周辺の雑草も取り除かれ手入れが行き届き気持ちよく鑑賞出来た。当たり前の事の様に思うが、雑草を取り、咲き終わった花を処理する作業の大変さをどれだけの人々が感じ取って鑑賞していたのでしょうか?

 平成26年6月5日は木曜日、平日だったが大勢の皆さんが鑑賞に来ていた。

 テントには、「浄瑠璃町花菖蒲を愛する会」と書かれていた。そして平成15年吉日と書かれていた。この会は、平成15年に結成されたと言う事で、平成30年をもって閉園にしたのでしょうか?15年間ご苦労様でした。

 平成26年6月5日当時の花菖蒲園で、この頃から菖蒲が減少しだした。

 平成27年6月10日、鑑賞に行った時出くわしました仲良しお二人さん、花菖蒲を懸命に描かれていた。

 お許しを得て後ろから撮らせて頂いた。

 そして描かれた絵を見せて頂きました。上手に描かれていた。

 平成28年6月14日の画像ですが、この頃から手入れがあまりされてない様で菖蒲の数も減り、雑草が目立つようになっていた。

 平成28年6月14日の画像で、部分的に見ると沢山の菖蒲が見えるが、全体を見ると雑草だけの所が目についた。

 平成29年6月12日の画像。

 平成29年6月12日、画像の様に御芳志お願いの掲示板があったので維持管理はしていたのでしょう。

 平成29年6月12日の画像。雑草も除去されてない。

 平成30年6月9日、花菖蒲よりも雑草の方が沢山あり菖蒲園ではなく雑草園と言った感じになっていた。

 平成30年6月9日、手入れを怠るとあっという間に荒れてしまうか?雑草の力は凄い。

 平成30年6月9日、遍路休憩所「坂本屋」の帰りに菖蒲の花を撮りに行ってみると、看板もテントも撤収され雑草に覆われ、昨年までの花菖蒲園の面影はなかった。物寂しさを感じた。

 国道33号線(土佐街道)三坂、峠塩が森から整備された遍路道があり浄瑠璃寺への道しるべが掲示してある。

 国道33号線三坂峠塩が森から整備された遍路道で、その道沿いには地元松山市立坂本小学校の児童が描いたポスターが掲示されている。山を大切に・道を綺麗に・ゴミを捨てないでと言った事柄をポスターで呼びかけている。

 この地区(松山市坂本校区)には、彼岸花の群生地区があり秋になると(9月中旬)花が咲く。地主さんが土地を整備し自分の鑑賞の為にと25年前に植栽し、その後地元住民たちが支援して大切に管理育成している彼岸花が咲き誇る風景は壮大である。私は7年前から写真を撮っているが一昨年から花(株)が少なくなった。地球温暖化の為でしょうか?それとも、手入れが行き届かなくなったのか?、日本列島各地で大きな水害が、噴火、地震が発生し、この所日本列島異変続きである気象の変化が原因なのか?です。

 毎年なぜか花が減少している。

 この地は、時宗の開祖「一遍上人」が修行した窪寺があった場所です。

 9月中旬になると彼岸花が開花する遠く広島・岡山県から鑑賞に来られ、地元松山の施設の高齢者が介護士さんに連れられて鑑賞に、またアマチュアカメラマンが撮影に、近年ご婦人たちは一眼レフカメラで撮影される方が増えました。今年も御幸町のジャカランダの花、伊予郡松前町のジャカランダの花の開花が少ないのです。・・何が原因なのでしょうか?です。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年もやって来た・ジャカランダの季節「松山市御幸町一丁目」満開です

2018年06月13日 | 伊予松山歴史散策

松山市御幸一丁目409番地8の写経道場「天龍山・空無我堂」で今年も青紫色の花が鮮やかに咲いている「ジャカランダの花」を昨日(6月12日)撮影に行って来ました。

昨年工事中であった改修工事も終わり外壁は一新されていました。

天龍山・空無我堂主の村上空山先生お気に入りのジャカランダの花は今年も健在で、昨年は花が少なく心配していたが、残念ながら今年も昨年同様少なめでした。

伊予郡松前町中川原木下490番地3にある花楽庵のジャカランダは昨年殆ど開花しなかったが、今年は沢山花を咲かせるかその状態を近日に観察に行ってみたい。

4月18日、松山市御幸一丁目の「ジャカランダの花」の開花状況が知りたいですと私のブログにコメントがありました。4月19日、現地に行き状態をお知らせしましたが、毎年開花時期は6月10日頃ですので晴天の日に行ってみて下さい。今が見頃です。

アップで撮影してみると綺麗な色の花です。流石が世界三大花木の一つです。

現地に行ってみると昨年同様花は少なめでした。市内からタクシーで4人のお友達の女性が鑑賞に、大洲市からはご夫婦で一眼レフのいいカメラ持参で撮影に来ていました。

通りは遍路道で画像の様な表示板があります。

清水小学校・ロシア兵墓地・一草庵・護國神社の案内板その後ろにジャカランダがあります。

お遍路さんに「お休み下さい」の立て札と、椅子が用意されていてこの時期は、ジャカランダの花を見て疲れを癒すいい場所です。

ジャカランダのある大川沿いの通りは、四国八十八カ所巡礼の遍路道で、第51番札所石手寺から第52番太山寺は13kmの道程、巡礼者に「お休み下さい」の立て札と、椅子が用意されていてこの時期は、ジャカランダの花を見て疲れを癒すいい場所です。これも松山市民のお接待の心の現れです。

背景の青空に映える綺麗な花です。

世界三大花木の一つで、平成15年にブラジルを訪れた村上空山先生、散った花が紫のじゅうたんのように地面を覆った景色の美しさにひかれ、宮崎県の造園者にお願いして苗を取り寄せたそうです。

熱帯性の植物だから日本で育てるには、越冬が難しいので2年ほどビニールハウスで育苗しながら耐寒性を養い露地に出す様指導を受けたそうです。

3年目に現在の所に7本植栽して18年になり一昨年の開花が今までで一番多い花が咲き誇ったと言われました。

日本では、日南市、熱海市がジャラカンダの名所として有名だそうです。

村上さんは、松山にも沢山のジャラカンダを植栽したいと構想を述べられた。

愛媛県護國神社の前を流れる大川沿いに植栽されています。愛媛県護國神社から下流約500mの所にあります。

 

花がラッパ状に咲く事から、ファンファーレを吹くトランペットを連想させるとして「名誉」「栄光」という花言葉がつけられたそうです。

ジャカランダには画像の様な表示板が設置してあります。ブラジル原産だそうです。

近くに一護国神社があります。境内には秋山好古揮毫の石碑がありますのでジャカランダの花を鑑賞され帰りに是非見て下さい。

1.碑   文 :  天壤(てんじょう)無窮(むきゅう)  昭和3年御大典・清水小学校開校記念碑

2.所 在 地:  松山市御幸一丁目476番地・愛媛県護国神社境内

3.揮 毫 者:  陸軍大将 秋山好古

4.建 立 者:  裏面に建立者20数名の先生記載殆ど判読困難

5.建立年月日:   昭和3年 

6.碑石大きさ:   縦・1m35cm 横・1m10cm 厚み・35 ㎝

参考までに:昭和3年清水小学校開校及び昭和天皇即位の大礼を記念して20数名の先生方が醵金をして建立した。

 昭和20年11月米・英軍が進駐しGHQは、軍人が揮毫した石碑・扁額等々教育施設内にあるものは撤去せよと命令が発令された。この石碑も撤去の対象で撤去した。

撤去された石碑は、同校の用具室に保管してあったのを、平成7年10月渡部校長の許可を得て愛媛県護国神社、波(は)爾(に)荘(さかえ)宮司の努力で境内に再建立された。碑石が割れているのは、撤去作業時に破損したものである。

秋山好は、当時北豫中学校長在任中であり天壌無窮を揮毫依頼された。

なお、醵金し建立した先生方の名前が碑石裏面に刻印してあったが、風化が激しく消えて見えません。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする