現在ブログで秋山好古揮毫石碑紀行と題して掲載しご覧頂いておりまが、此の度、地元紙・愛媛新聞が取り上げて頂き7月1日付けで記事になりましたのでご紹介させて頂きます。
石碑の調査を初めて11年、その間全国に秋山好古が揮毫した石碑が52基発見され取材を終えまして皆さんに見て頂き、コメントを頂いております。
今回、愛媛新聞の記事に取り上げられた理由は、120年前の明治29年6月30日、東京都世田谷区池尻に秋山好古自身が招魂碑を建立しました。(日本陸軍騎兵第一連隊跡に日清戦争で従軍し、戦死した15名の騎兵隊員の招魂碑です。石碑裏面に戦死者の当時の階級・氏名・戦死地・戦死年月日を刻印しおります。)
その15名の一人が今回の石碑、内田與作さんの石塔です。
また石碑が、石塔として発見された事は今回初めての事ですし、好古が揮毫した石碑は此れが最後の碑となるでしょう。
この様な事を加味して新聞に取り上げて頂いたものと思います。
もしも好古は石碑として建立しなく、書類資料であれば軍の一つの資料として現防衛省の資料室の片隅に置かれ一般の市民が目にする事はなかったでしょう。
高が石碑、然れども石碑であります。
内田與作の石塔、「正八位内田與作墓」と好古が揮毫し、石塔3面には内田與作さんが従軍し戦死するまでの経緯を、内田與作隊員の直属の上官であった、稲垣三郎大尉が撰文書している。
秋山好古は余程の事でないと揮毫はしなかったが、自分の支配下の優秀な騎兵隊を戦死に至らせたのは自分の責任大である事を自覚して揮毫したものと考えます。
52基の石碑の内、漢詩で哀悼の撰文を認めて石碑として建立されているものが3基あります。
取材に先駆けて、内田與作隊員の墓参をさせて頂きました。
取材を、内田與作隊員の弟さんの子孫に当たる内田勝仁さんと、荻原鈴子さんに話をお伺いしました。
明治29年6月30日、東京都世田谷区池尻に秋山好古自身が招魂碑を建立しました石碑です。(日本陸軍騎兵第一連隊跡地に、日清戦争で従軍し、戦死した15名の騎兵隊員の招魂碑を建立、裏面に戦死者の当時の階級・氏名・戦死地・戦死年月日を刻印し建てた。)
東京都世田谷区池尻に秋山好古自身が招魂碑を建立、その石碑裏面で「陸軍騎兵一等卒内田與作
、明治28年2月8日、二道河戦死」・・と好古は刻印しました。内田與作さんの右側に、「陸軍騎兵一等卒添田賢次郎、明治28年2月8日、二道河戦死」の文字が見えますが、添田賢次郎隊員は、神奈川県平塚市広川の出身で、その子孫になられる、添田敬子さんが15名の戦死された方々の家族の消息を調査され家族(子孫)の所在が判明したのが長野県安曇野市豊科の石碑でありまして、この事を昨年10月、私に連絡を頂き今回の取材となったわけです。
東京都世田谷区池尻に秋山好古自身が招魂碑を建立、その石碑裏面の書かれている戦没者の氏名。
この石碑は、神奈川県平塚市広川神社に建立されている「陸軍騎兵一等卒添田賢次郎、明治28年2月8日、二道河戦死」添田賢次郎隊員の招魂碑で、石碑上部に篆書として・「義烈」と揮毫、そして撰文書を漢詩で秋山好古が書き上げました。それを添田賢次郎隊員の実父、添田保吉が明治31年11月吉日、石碑として建立されたのです。
神奈川県平塚市広川の石碑取材は、平成24年5月23日に行いました。この時点では添田敬子さんは東京都世田谷区池尻の石碑に付いては知らなかったのです。
平成24年5月23日、平塚に取材で伺った時に「秋山好古が揮毫した石碑写真集」を贈呈しまして、その後添田敬子さんは、写真集を見て、世田谷区池尻の石碑裏面に添田賢次郎隊員の名前がある事を知りました。敬子さんは、NHK放送大学生で卒業論文に取り上げられました。
卒論文の主題は「日清戦争における戦没兵士遺族の行動と心情」で副題に「秋山好古揮毫の添田賢次郎招魂碑建立の軌跡」添田敬子さんの許可を得る事が出来れば論文を紹介したいと考えております。
日清戦争に従軍した兵士たちは、私の知る限りでは、地主農家の出身者が多くそれも長男が出征している。皇軍の兵として志願する兵は、なにか制約があったのでしょうか。
神奈川県平塚市広川の添田賢次郎隊員も地主の長男、長野県安曇野市豊科の内田與作隊員も地主の長男であります。
註:篆書とは、石碑など上部に篆書体で書かれた題字の事。
神奈川県平塚市広川神社に建立されている「陸軍騎兵一等卒添田賢次郎、明治28年2月8日、二道河戦死」添田賢次郎隊員の招魂碑の秋山兄弟生誕地内部資料です。
平成28年5月31日、現在発見されている秋山好古が揮毫した石碑です。
これ以外に秋山好古揮毫の石碑建立地をご存知の方は是非ご連絡下さい。お願いいたします。
ご覧頂き有り難うございました。