EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

暑い日が続いておりますお見舞い申し上げます

2016年07月28日 | 伊予松山歴史散策


暑中お見舞い申し上げます

何時も拙いブログを見て頂き有り難うございます。
7月18日、四国地方梅雨が明けました。
昨年よりも6日早い梅雨明けです。
現在各地で、全国高校野球選手権大会の地区予選が行われていますが、皆さん方の地区は如何ですか。
愛媛県予選は、本日(28日)が決勝戦です。
今年は第一シード・第二シード校が初戦で敗退、第三シード校新田高校だけが勝ち残り。第四シード校今治西校も二試合目で敗退しました。
シード校は、新田高校だけが勝ち残り、決勝戦は、松山聖陵高校対新田高校でどちらが勝っても甲子園出場は初出場となります。
12時20分試合開始です。
此れから猛暑到来となります 皆さま御身ご自愛下されお過ごし下さい。

画像は、昨年8月2日、松山港祭り三津浜花火大会を松山空港滑走路を挟んで南側にある「空港南公園」から撮った写真をアップしました。


羽田から787型機が松山空港に着陸しました。
787型機に使用されている炭素繊維は松山空港に隣接する松前町にある東レ愛媛工場で生産されており、ボーイング社から視察によく来るそうです。


現地に午後5時40分頃行きました。なんと既にプロ・アマのカメラマンが、三脚を立てて場所取りしてました。!!


良い場所は既に無かったですが、何とか場所を確保、三脚を立てて場所取り完了。目指す花火の撮影打ち上げ時間まで暫しの休憩です。


午後8時02分、いよいよ花火大会の幕開けです。
皆さん方三脚に自慢のカメラにレンズをセットして撮影開始。


皆さん方は、カメラをセット「シャッタースピード・露出、アングル」を慎重に構えます。




午後9時20分、最後の15号大玉花火は迫力満点でした。撮影場所は、花火大会会場からは離れているため仕掛け花火は見る事が出来ません。規模は四国最大で打ち上げられる花火は1万発、目玉は日本煙芸術協会会員による10号玉作品そして、超特大15号玉(45センチ)のダイナミックな花火が真夏の夜空に打ち上がりました。
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西尾市の福田さん:日本の歴史街道21街道を徒歩で完全踏破を目指して

2016年07月20日 | 伊予松山歴史散策


先日、伊予松山城に観光でお越しになった凄い人にお会いいたしました。
その方は、愛知県西尾市にお住いの福田さんで、日本歴史街道21街道を徒歩で完全踏破を目指して挑戦中の方でした。
伊予松山城にお越しになられたので、てっきり日本100名城巡りをしておられるものと思いご案内をいたしておりました。
すると、私は現在日本歴史街道を徒歩で巡っており、現在21街道の内、11街道踏破しました。21街道の総距離は、約7,820Kmで、四国路が一番長く、1,400Kmあるそうです。・・と言われ私はビックリいたしました。
昨日(7月9日)から、四国路を踏破に来ましたと述べられ名刺を頂きました。歴史街道を歩き名所旧跡を訪れ気に入った所でスケッチをしております。松山城のお勧めの場所をお教え下さいとの由、私は、大手門跡にある隘路から見た場所をお勧めしました。一昨日その絵が、絵手紙として送られて来ました。
8月は、猛暑なのでお休みをして、9月から四国路の歴史街道と残りの完全踏破を目指して再開するとの事でした。
凄いお人が居られるなと驚きました。くれぐれも御身ご自愛して目標達成して下さいとお送りしました。お別れ際に四国は初めて来ましたが旅の(特に歩き)人に対してお持て成しの気持ちが有難いですと、・・そして松山城は良きお城ですねとお褒めの言葉を頂きました。旅のご安全と目標達成をお祈りいたしておりますとお送りしました。
なお、福田さんは歴史街道を歩かれ描かれた絵を地元で個展を開催されているそうです。

街道は、古くから人々が行き交った知られざる歴史が埋もれている。車では触れ合うことが出来ないが、ゆっくりと歩きその土地の人と触れ合う事により過去・現在・そして自分なりの未来が見えて来る。街道は、文化の伝道でもある。


名刺2枚頂きました。その⒈です。


名刺その⒈の裏面です。「東海道薩埵峠からの富士山」が描かれておりました。
(街道歩きと同時に楽しんでいるスケッチ画)と記載されておりました。


名刺その2です。20街道が記載されており、赤い文字で踏破と印が押されておりました。
そして新たに21街道として千国街道、120kmと手書きで書かれておりました。


名刺その2の裏面で、日本国道道路元標(国道1号・4号・6号・14号・15号・17号・20号、7国道の起点)である「日本橋」が描かれておりました。


初めての四国路の出発点は、西条市小松から徒歩で松山は二日目でした。
7月9日大手門跡から描かれた松山城で、7月15日絵手紙として送って頂きました。


松山城のスケッチを開始されました。


松山城をスケッチされる愛知県西尾市にお住いの福田さん。
俳優の榎木孝明さんも松山城一番お好きな場所で榎木さんもこの場所からスケッチされました。


日本橋にある道路元標複製で本物は日本橋の真ん中にあります。


道路元標複製の横に在る「里程標」で平成17年1月23日撮影しました。


日本橋の袂に画像の様に設置してあります。


本物の道路元標は日本橋の道路の中央に設置してあり交通量が多く近くで見る事は不可能です。
コメント (2)
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道後温泉に新しい湯屋建設

2016年07月06日 | 伊予松山歴史散策
耐震補強工事中の代替え湯屋として平成29年完成予定絵図。



日本最古の温泉、道後温泉の本館建物は、明治27年、道後湯之町初代町長伊佐庭如矢が当時で13万5千円(現在では13億5千万円以上に値する。)という破格の予算で現在の木造三階建に改築しました。
明治28年4月東京大学を卒業した夏目金之助(漱石)が松山中学の英語教師として赴任、小説「坊ちゃん」により有名になりました。
また、平成6年、に全国で初めて温泉の建造物が国の重要文化財に指定され、平成21年3月、ミシュランガイド(観光地)日本編において2つ星に選定されました。
同年、経済産業省の「近代化産業遺産」にも認定されました。
近年全国各地で大規模地震が発生、松山市は早急に耐震補強工事を着工いたしたく計画していますが、平成29年9月から第72回国民体育大会が愛媛県で開催されます。
地元道後地区から耐震補強工事は国体が終了してから着手して欲しいと市に要望しています。(それまで大地震が起こらないように祈りたいものです。)
道後温泉の建物は、築後120年を経過していおり、今まで大きな地震に3回遭遇それに耐えて来ました。
明治38年の芸予地震、昭和21年12月21日の南海地震、この時は温泉の湯が止まりました。
平成13年3月24日の芸予地震いずれも震度5強、から6弱でした。
建築士は松山藩の城郭建築棟梁の家に生まれた坂本又八郎が建築、その卓越した技法で建てられたので巨大地震に耐えて来ました。
そこで松山市は、耐震補強工事中の代替え湯屋として平成29年完成予定の工事に着手しました。
下記の画像が完成予想図です。










商店街から見た本館正面。


道後温泉椿湯で、新しい湯屋は椿湯の西側に建設されます。


新しい湯屋建設予定地で、既に埋蔵文化財発掘調査も終わりました。
これから構造物の工事に入ります。
後方の建物が椿の湯です。


道後温泉本館の女性浴室(湯船・浴槽)で普段は見る事の出来ない画像です。
年に一度の大掃除が行われますがこの時撮影しました。
昨年12月1日撮影しました。
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長野県安曇野市にある秋山好古揮毫石碑が新聞記事になった

2016年07月04日 | 伊予松山歴史散策


現在ブログで秋山好古揮毫石碑紀行と題して掲載しご覧頂いておりまが、此の度、地元紙・愛媛新聞が取り上げて頂き7月1日付けで記事になりましたのでご紹介させて頂きます。
石碑の調査を初めて11年、その間全国に秋山好古が揮毫した石碑が52基発見され取材を終えまして皆さんに見て頂き、コメントを頂いております。


今回、愛媛新聞の記事に取り上げられた理由は、120年前の明治29年6月30日、東京都世田谷区池尻に秋山好古自身が招魂碑を建立しました。(日本陸軍騎兵第一連隊跡に日清戦争で従軍し、戦死した15名の騎兵隊員の招魂碑です。石碑裏面に戦死者の当時の階級・氏名・戦死地・戦死年月日を刻印しおります。)
その15名の一人が今回の石碑、内田與作さんの石塔です。
また石碑が、石塔として発見された事は今回初めての事ですし、好古が揮毫した石碑は此れが最後の碑となるでしょう。
この様な事を加味して新聞に取り上げて頂いたものと思います。
もしも好古は石碑として建立しなく、書類資料であれば軍の一つの資料として現防衛省の資料室の片隅に置かれ一般の市民が目にする事はなかったでしょう。
高が石碑、然れども石碑であります。


内田與作の石塔、「正八位内田與作墓」と好古が揮毫し、石塔3面には内田與作さんが従軍し戦死するまでの経緯を、内田與作隊員の直属の上官であった、稲垣三郎大尉が撰文書している。
秋山好古は余程の事でないと揮毫はしなかったが、自分の支配下の優秀な騎兵隊を戦死に至らせたのは自分の責任大である事を自覚して揮毫したものと考えます。
52基の石碑の内、漢詩で哀悼の撰文を認めて石碑として建立されているものが3基あります。


取材に先駆けて、内田與作隊員の墓参をさせて頂きました。


取材を、内田與作隊員の弟さんの子孫に当たる内田勝仁さんと、荻原鈴子さんに話をお伺いしました。


明治29年6月30日、東京都世田谷区池尻に秋山好古自身が招魂碑を建立しました石碑です。(日本陸軍騎兵第一連隊跡地に、日清戦争で従軍し、戦死した15名の騎兵隊員の招魂碑を建立、裏面に戦死者の当時の階級・氏名・戦死地・戦死年月日を刻印し建てた。)


東京都世田谷区池尻に秋山好古自身が招魂碑を建立、その石碑裏面で「陸軍騎兵一等卒内田與作
、明治28年2月8日、二道河戦死」・・と好古は刻印しました。内田與作さんの右側に、「陸軍騎兵一等卒添田賢次郎、明治28年2月8日、二道河戦死」の文字が見えますが、添田賢次郎隊員は、神奈川県平塚市広川の出身で、その子孫になられる、添田敬子さんが15名の戦死された方々の家族の消息を調査され家族(子孫)の所在が判明したのが長野県安曇野市豊科の石碑でありまして、この事を昨年10月、私に連絡を頂き今回の取材となったわけです。


東京都世田谷区池尻に秋山好古自身が招魂碑を建立、その石碑裏面の書かれている戦没者の氏名。


この石碑は、神奈川県平塚市広川神社に建立されている「陸軍騎兵一等卒添田賢次郎、明治28年2月8日、二道河戦死」添田賢次郎隊員の招魂碑で、石碑上部に篆書として・「義烈」と揮毫、そして撰文書を漢詩で秋山好古が書き上げました。それを添田賢次郎隊員の実父、添田保吉が明治31年11月吉日、石碑として建立されたのです。
神奈川県平塚市広川の石碑取材は、平成24年5月23日に行いました。この時点では添田敬子さんは東京都世田谷区池尻の石碑に付いては知らなかったのです。
平成24年5月23日、平塚に取材で伺った時に「秋山好古が揮毫した石碑写真集」を贈呈しまして、その後添田敬子さんは、写真集を見て、世田谷区池尻の石碑裏面に添田賢次郎隊員の名前がある事を知りました。敬子さんは、NHK放送大学生で卒業論文に取り上げられました。
卒論文の主題は「日清戦争における戦没兵士遺族の行動と心情」で副題に「秋山好古揮毫の添田賢次郎招魂碑建立の軌跡」添田敬子さんの許可を得る事が出来れば論文を紹介したいと考えております。
日清戦争に従軍した兵士たちは、私の知る限りでは、地主農家の出身者が多くそれも長男が出征している。皇軍の兵として志願する兵は、なにか制約があったのでしょうか。
神奈川県平塚市広川の添田賢次郎隊員も地主の長男、長野県安曇野市豊科の内田與作隊員も地主の長男であります。
註:篆書とは、石碑など上部に篆書体で書かれた題字の事。


神奈川県平塚市広川神社に建立されている「陸軍騎兵一等卒添田賢次郎、明治28年2月8日、二道河戦死」添田賢次郎隊員の招魂碑の秋山兄弟生誕地内部資料です。


平成28年5月31日、現在発見されている秋山好古が揮毫した石碑です。
これ以外に秋山好古揮毫の石碑建立地をご存知の方は是非ご連絡下さい。お願いいたします。
ご覧頂き有り難うございました。

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