EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山好古揮毫石碑紀行 29 松山市中島町の碑

2015年12月31日 | 伊予松山歴史散策


1.碑  文 :  忠魂碑
2.所 在 地:  松山市中島町 「姫ヶ浜」
3.揮 毫 者:  陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者:  記載なし
5.建立年月日:  昭和3年11月「御大典為記念」
6.碑石大きさ:  高さ:1m64㎝ 横幅:74㎝ 厚み:26㎝
参考資料:石工 :油田 恵とある。
 日清・日露の役で御国の為名誉な戦死された方々の慰霊を込め御大典記念
に際し石碑を建立した。碑石は、戦地方面に向き裏面に数名の姓名が記載あるも刻印が浅いのと風化で判読不能である。
     
秋山好古が揮毫し、石碑となっているのが現在全国に52基発見されているが、石碑の種類は、忠魂碑・招魂碑・社号碑・社号額・御大典記念・愛馬慰霊碑、その他の記念碑等々があるが、一番多いのが忠魂碑である。
さて、その忠魂碑であるが、忠魂を広辞苑で引くと、忠義を尽くして死んだ人の魂とある。
忠魂碑は、江戸時代には無かったもので、明治維新以降、日清戦争や日露戦争をはじめとする戦争や事変により出征し皇国軍として戦い戦死した、地域出身の兵士の英霊を祀るために建立された記念碑で、忠霊碑、尽忠碑、碧血碑など、碑銘は一様ではないが、いずれも戦死者の天皇への忠義を称える意味がある。
特に忠魂碑は、日露戦争以降に建立された石碑で、日清戦争の時にはなかった。また軍馬や軍用犬のための忠魂碑も存在する。
昭和20年10月2日、東京に、連合国軍最高司令部が設置され、総司令官にダグラス・マッカーサー元帥が就任した。マッカーサー総司令長官は色んな通達事項を発令しているが、その一つに、教育施設内に軍人が揮毫した石碑・扁額またそれに相当するものの撤去命令が発令された。これは戦争賛美をする事を禁止しするためであった。
秋山好古が揮毫した石碑もこれに該当し3基の石碑と、扁額一つが撤去され、戦後日本の主権が回復する昭和27年4月28日以降に石碑は、他の場所に再建立され、扁額は元の場所に掲げられた。その扁額は、松山市のある高等学校の職員室にあった扁額である。石碑の、その一つは、元松山市立清水小学校にあった「天譲無窮」の碑で、現在は愛媛県護国神社境内に、一つは、旧北宇和郡吉田町の小学校にあった「忠魂碑」で現在は、宇和島市吉田町の安楽寺に再建立、もう一つは、旧北宇和郡城川町の集会所にあった「忠魂碑」で現在は、西予市城川町の高野井公園に再建立されている。しかし再建立されずして撤去され埋もれてしまった石碑も数基あったと思う。好古以外の軍人が揮毫した石碑もこの限りではない。


松山市中島町、姫ヶ浜にある忠魂碑で、取材には高浜港から高速艇で行き帰りはフエーリーで帰った。
石碑の所在は、中島町神浦港からからバスで、姫ヶ浜まで行き石碑を探すも不明、近くの店で店主に聞くもそんな石碑は見たことないとの由、またしても所在違いかと諦めて散策していると、店の近くにあった。石碑等々関心のない人にはこんな事かと寂しい気持ちになった。その石碑はお国の為に戦った旅順、奉天、特に203高地での戦いで松山歩兵22連隊の兵士が激戦しているがその方角に向けて建立されている。


石碑の裏面には、中島町から出征し戦死された方々のお名前が刻まれている。そして建立は、御大典記念の昭和3年11月建立と記してある。


石碑裏面から見た全体。


忠魂碑近くに鳥居があった。この鳥居は何故か高さが低い。もしかしたら以前はこの辺りは海岸であったが埋め立てられ海にあった鳥居は陸地になったのか?・・島にある石碑は此れのみである。
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秋山好古揮毫石碑紀行 28 松山市玉谷町の碑(社号碑)

2015年12月30日 | 伊予松山歴史散策

1.社 号 額:    八幡若宮神社
2.所 在 地:    松山市玉谷町甲325番地 八幡若宮神社 鳥居
3.揮 毫 者:    陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者:    記載なし
5.建立年月日:    昭和2年12月
6.社号額大きさ:   縦:70㎝ 横:45㎝  厚さ:11㎝
7.社号額の由来:
新たに、好古揮毫石碑が発見された。・・46基目である。
平成21年12月31日、松山市玉谷町の方からの情報で平成22年1月4日、写真撮影機材を持って現地取材に行った。
今まで石碑の取材をして来たが一番難しい撮影である。
困難第一、殆ど揮毫の文字が判読出来ない。(刻印の文字が浅い)
困難第二、鳥居の社号額は国道端にあるため車の往来が多く三脚の設営が出来ず手持ち撮影となる。
平成22年1月6日、玉井宮司の許可を得て文字に墨入れをして浮き出し撮影することにした。
平成22年5月10日友人の小原氏の協力で三点式の脚立を持参して先ず社号額の汚れを落し、水性マジックで字を浮き出させて写真を撮った。
殆ど文字が風化して判読できず残った僅かな線をたどり、線の無い所はあえて墨を入れない事にしたので違った文字になり困難な作業となった。
この揮毫は、先代宮司の弟さんの「玉井 恵一氏」が松山高等商業学校(現・松山大学)に勤務していた時好古に揮毫依頼をしたものである。
松山高等商業学校と北豫中学校は隣接していたので・・しかしこの社号額に携わった石工さんの仕事はあまりいい仕事をしていなかったのでは?もっと深くどっしりとした仕事が出来ていない。
取材しての所感:現存する石碑の中で極めて困難な作業であった。神社の顔である社号碑だからもっと深く文字を刻んでほしかった。


松山市玉谷町甲325番地 八幡若宮神社は、国道317号線の直ぐ傍に神社が有り鳥居の前は、国道である。


八幡若宮神社の社号額で、殆ど文字の判読は困難。


八幡若宮神社は、国道317号線沿いで、国道拡張時に境内の正面部分は国道として収容されたのでは??


これから社号碑に墨入れ作業開始。


作業をする大型脚立の設営も国道端なのでままならぬ。社号額の汚れを綺麗にふき取る。


社号額の汚れを綺麗にふきとると少し文字が見えて来た。


水性の黒色で殆ど判読困難な文字に墨を入れ文字を浮き出し写真を撮った。
社号碑に神紋、隅切り折敷三文字があった。この紋は伊予国守護、河野氏の家紋である。


八幡若宮神社の拝殿。


八幡若宮神社の本殿。

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秋山好古揮毫石碑紀行 27 松山市安城寺町の碑(注連石)

2015年12月29日 | 伊予松山歴史散策



1.碑   文 :  斯 神・歆 之 
2.所 在 地:  松山市安城寺1293番地2  和霊神社・鎮守社神社
3.揮 毫 者:  陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者:  井上 又蔵・高橋 常吉
5.建立年月日:  大正拾五年丙寅七月
6.碑石大きさ:  高さ:4m10㎝  幅:45㎝×38,5㎝
参考資料:現地神社には、和霊神社と社号碑石が建立あるも、愛媛県神社誌には、鎮守社と記載あり。
神社名称について、元宮総代曰く、和霊神社は「夏祭り」・鎮守社は「秋祭り」として地元では祭礼が行われるが、夏祭りが盛大に実施されている。
拝殿には、二つの社号額あり、和霊神社・鎮守社の二社を主祭神としている。
拝殿は、明治30年勝岡神社拝殿を移築したそうだ。

秋山好古は、この神社の注連石に「斯 神・歆 之 」を揮毫している。


神社注連石、左の揮毫


神社注連石、左の揮毫

好古が揮毫した石碑の中に「注連石」に揮毫したものが多い。
さて、注連石とは、広辞苑では、土地の領有を示し、または場所を限るために、木を立てまたは縄を張るなどして標(しるし)とするもの。しるし。標識。しめなわに同じ』とあります。
「注連石(しめいし)」とは、この注連縄(しめなわ)を張ったり、掛けたりする石柱で、注連縄は、神道における神祭具、糸の字の象形を成す紙垂(しで)をつけた縄をさす。標縄・七五三縄とも表記する。
現在の神社神道では「社」の神域と、現世を隔てる結界の役割を持つ。また神社の周り、あるいは神体を縄で囲い、その中を神域としたり、厄や禍を祓ったりする意味もある。御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)として神がここに宿る印ともされる。古神道においては、神域はすなわち常世(とこよ)であり、俗世は現実社会を意味する現世(うつしよ)であり、注連縄はこの二つの世界の端境や結界を表し、場所によっては禁足地の印にもなるものとある。



正面左の注連石内側に揮毫者「秋山好古」の名が刻まれている。


神社正面に和霊神社の社号碑がある。
拝殿には、和霊神社・鎮守社の二つの社号額が掲げてある。
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秋山好古揮毫石碑紀行 26 東温市築島神社の社号額

2015年12月27日 | 伊予松山歴史散策


1.社 号 額: 築島神社
2.揮毫年月日: 不明
3.所 在 地: 東温市下林甲2616番地
4.大 き さ: 縦:1m95cm 幅:1m35㎝ 厚さ:5cm
5.参考資料 :遼陽大戦に於ける司令官戦況展望の絵馬が築島神社本殿にある。
築島神社渡部神主に秋山好古と築島神社について伺うも宮司の代が変わり諸関係不明と言われた。


私が秋山好古揮毫の石碑調査を初めた切っ掛けとなった築島神社の社号額です。
秋山兄弟生誕地の生家・好古・眞之の銅像等々の整備事業は、平成17年1月18日に完成し、NHK朝の大型ニュース番組「おはよう日本」で現地から生放送で全国に放映され紹介された。翌19日から一般公開され、来年1月18日で公開11年を迎える。
さて、平成17年5月5日、秋山兄弟生誕地で大きな出来事が起こった。大阪から来た好古ファンと言う人が、隣町(旧温泉郡重信町・現在、東温市)の神社にある好古揮毫の額について聞かれた。私をはじめ他の関係者も分からない。松山の人なら当然わかるだろうと思ったようだ。その大阪の人は短期のようであった。次のような罵声が飛んできた。「そんな事も知らんのか、バカタレが、と言う感じで罵倒された。・・最初は腹が立ったが、それならよーし、調べてやろうと思い、それ以降10年カメラを持って好古さんの揮毫を追い求めています。
調べ始めると揮毫した石碑はどんどん出て来た。松山市・西条・伊予市・今治市等々愛媛県内が多いが、東京・静岡・千葉・新潟・神奈川そして今年の9月新たに長野県安曇野市に、撮った写真は生誕地に展示すると、来館者から所在情報が集まって来た。平成21年1月7日、秋山好古生誕150年にあたり、秋山兄弟生誕地の管理母体である、公益財団法人常盤同郷会から「秋山好古揮毫の石碑写真集」として出版して頂いた。
現在全国に52基の石碑が発見されているが、長野県安曇野市の石碑は来春取材に行く予定である。
平成17年5月5日、バカタレ事件がなければ好古揮毫の石碑調査はしていなかった。
この事に付いては、週刊朝日の平成21年7月31日号に掲載して頂いた。


築島神社拝殿に奉納されている絵馬で、大阪の御仁は此の絵馬も観に来たのではないか?
絵馬の奉納者は、日露戦役に従軍し無事生還された皇軍の隊員である。
所属は、歩兵第22連隊でなないでしょうか?
絵馬は、遼陽の大戦に於ける司令官の戦況展望と題額されている。
長い顎鬚の軍人は、乃木希典司令官かも・・です。


東温市下林にある築島神社の拝殿と本殿。


境内には、南北朝時代、松山市星岡町にある星岡山を中心に繰り広げられた戦いで亡くなった方のお塚がある。


築島神社境内から見た松山方向。
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秋山好古揮毫石碑紀行 25 松山市上野町の碑

2015年12月26日 | 伊予松山歴史散策


1.碑  文 :  郷社 大宮八幡神社
2.所 在 地: 松山市上野町  大宮八幡神社参道口
3.揮 毫 者: 陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者: 上野 西野 恵原町 小村 浄瑠璃 久谷 氏子中
5.建立年月日: 昭和3年11月 「御大典奉祝記念」
6.碑石大きさ: 高さ:3m58cm 幅:70cm 厚さ:32cm

参考資料:往古は、神名宮と称えたという。貞(しょう)観(かん)9年(867年)筑紫宇佐宮を合祀し大宮八幡宮と称し征南将軍宮満良親王奉納の御剣等の記録もあったとの記録あるが、慶長5年(1600年)9月兵火に罹り社殿宝物記録など焼失したが、同年9年神殿・楼門等再建した由緒ある神社である。



秋山兄弟生誕地に来られた方の情報で取材に行ったが境内にあるものと考え探すも見当たらず、探すのに時間が掛かった。
参道口にあった。


郷社・大宮八幡神社社号碑の裏面で、御大典奉祝記念と書かれている。
御大典記念と言う石碑が多いが、これは全て昭和天皇の即位大典の記念碑である。
そこで、昭和天皇即位大典を整理してみたい。
即位の礼は、天皇が践祚(せんそ)後、皇位を継承したことを内外に示す儀典で、最高の皇室儀礼とされ、諸外国における戴冠式にあたる。即位式の後に、五穀豊穣を感謝し、その継続を祈る一代一度の大嘗祭が行われる。即位の礼・大嘗祭と一連の儀式を合わせ御大礼または御大典と称される。
明治維新により都は東京に遷都し、天皇が国家の最高指導者に位置付けられてからは、旧皇室典範並びに登極令の制定により、天皇の践祚・即位に関わる一連の儀式の様式が定められ、御大礼(即位の礼)は京都で行う旨規定されていた為、大正天皇・昭和天皇では、京都御所で平安様式により執り行われた。
昭和22年、制定の現行の皇室典範では場所については規定されず、平成の即位の礼・大嘗祭は皇居(東京)で行われた。この為、従来「紫宸殿の儀」と称していた儀式が「正殿の儀」となった。


大宮八幡神社には、松山市・松山市教委委員会が設置している説明板の通り「恵原の金平狸」の伝承がある。
次のような言い伝えがある。
伊予鉄道社長「宮脇」さんの帰りが遅くなると、何時も森松駅まで提灯を持って迎えに行き自宅までお供をした。・・と言われている。
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