1.碑 文 : 忠魂碑
2.所 在 地: 松山市中島町 「姫ヶ浜」
3.揮 毫 者: 陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者: 記載なし
5.建立年月日: 昭和3年11月「御大典為記念」
6.碑石大きさ: 高さ:1m64㎝ 横幅:74㎝ 厚み:26㎝
参考資料:石工 :油田 恵とある。
日清・日露の役で御国の為名誉な戦死された方々の慰霊を込め御大典記念
に際し石碑を建立した。碑石は、戦地方面に向き裏面に数名の姓名が記載あるも刻印が浅いのと風化で判読不能である。
秋山好古が揮毫し、石碑となっているのが現在全国に52基発見されているが、石碑の種類は、忠魂碑・招魂碑・社号碑・社号額・御大典記念・愛馬慰霊碑、その他の記念碑等々があるが、一番多いのが忠魂碑である。
さて、その忠魂碑であるが、忠魂を広辞苑で引くと、忠義を尽くして死んだ人の魂とある。
忠魂碑は、江戸時代には無かったもので、明治維新以降、日清戦争や日露戦争をはじめとする戦争や事変により出征し皇国軍として戦い戦死した、地域出身の兵士の英霊を祀るために建立された記念碑で、忠霊碑、尽忠碑、碧血碑など、碑銘は一様ではないが、いずれも戦死者の天皇への忠義を称える意味がある。
特に忠魂碑は、日露戦争以降に建立された石碑で、日清戦争の時にはなかった。また軍馬や軍用犬のための忠魂碑も存在する。
昭和20年10月2日、東京に、連合国軍最高司令部が設置され、総司令官にダグラス・マッカーサー元帥が就任した。マッカーサー総司令長官は色んな通達事項を発令しているが、その一つに、教育施設内に軍人が揮毫した石碑・扁額またそれに相当するものの撤去命令が発令された。これは戦争賛美をする事を禁止しするためであった。
秋山好古が揮毫した石碑もこれに該当し3基の石碑と、扁額一つが撤去され、戦後日本の主権が回復する昭和27年4月28日以降に石碑は、他の場所に再建立され、扁額は元の場所に掲げられた。その扁額は、松山市のある高等学校の職員室にあった扁額である。石碑の、その一つは、元松山市立清水小学校にあった「天譲無窮」の碑で、現在は愛媛県護国神社境内に、一つは、旧北宇和郡吉田町の小学校にあった「忠魂碑」で現在は、宇和島市吉田町の安楽寺に再建立、もう一つは、旧北宇和郡城川町の集会所にあった「忠魂碑」で現在は、西予市城川町の高野井公園に再建立されている。しかし再建立されずして撤去され埋もれてしまった石碑も数基あったと思う。好古以外の軍人が揮毫した石碑もこの限りではない。
松山市中島町、姫ヶ浜にある忠魂碑で、取材には高浜港から高速艇で行き帰りはフエーリーで帰った。
石碑の所在は、中島町神浦港からからバスで、姫ヶ浜まで行き石碑を探すも不明、近くの店で店主に聞くもそんな石碑は見たことないとの由、またしても所在違いかと諦めて散策していると、店の近くにあった。石碑等々関心のない人にはこんな事かと寂しい気持ちになった。その石碑はお国の為に戦った旅順、奉天、特に203高地での戦いで松山歩兵22連隊の兵士が激戦しているがその方角に向けて建立されている。
石碑の裏面には、中島町から出征し戦死された方々のお名前が刻まれている。そして建立は、御大典記念の昭和3年11月建立と記してある。
石碑裏面から見た全体。
忠魂碑近くに鳥居があった。この鳥居は何故か高さが低い。もしかしたら以前はこの辺りは海岸であったが埋め立てられ海にあった鳥居は陸地になったのか?・・島にある石碑は此れのみである。