秋山眞之立像と大分県竹田市の広瀬神社から贈って頂いた護国の石の撮影の帰りに、松山市新浜町にある河野通春を祀るお堂と港山町にある河野通春の居城であった港山城跡を見て、そして梅津寺町に残る伊藤博文に纏わる松の木も見聞して来た。
先ず、河野通春について、通春は、伊予国河野氏・予州家(分家)の武将で、河野通之の孫、河野通元の子。河野氏宗家と予州家(分家)による家督をめぐる抗争は、河野通義が死没前にその弟・通之に家督を譲る際に「(通義の)妻が男児を出産したら、その子に家督を相続させるように」と遺言したことに始まる。やがて通義の妻は男児・河野通久を出産したため、通之は通久に河野氏惣領の地位を譲るが、これを不満とした通之の子・通元が通久に敵対した。この内紛は室町幕府が調停に介入したにも関わらず解決を見ぬまま次代に持ち越されることとなり、通春は嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱以来、河野氏の主導権をめぐって宗家の河野通直と対立した。そのため河野氏の衰退を招き、守護大名から戦国大名になれなかった。
時代は違うが、初代内閣総理大臣伊藤博文の祖先は河野氏であるといわれている。明治42年(1909)に松山道後温泉に来訪(一説には、体調を患い療養のため)宿泊は、道後ふなや旅館、東京に帰るとき送迎会の席で「私の祖先は伊予の河野であると演説、これから満州に行くが、来年再訪し、先祖の供養をしたい」と語ったと伝えられている。
けれど、その年の10月、満州外遊中にハルビン駅で暗殺、叶わぬ夢となった。叶わなかった先祖の供養は、その後広島県竹原市の長生寺で行われた。長生寺には、最後の伊予守護河野通直が眠っている。供養の際松山市から影浦勉氏を招いて講話会を模様したと住職から聞いた。(平成15年5月12日、長生寺訪問したとき)
註:天正15年(1587)豊臣秀吉の四国平定の命を受け伊予に侵攻した小早川軍に敗れて竹原にのがれていた伊予の河野通直が病没したのをいたみ、小早川隆景が建立し、寺領として二百石を寄進して開山した寺。
伊予鉄道高浜線、港山駅前(県道沿い)にある河野通春のお堂案内板。秋山眞之、秋山好古の銅像設置場所の近くにある。
河野通春のお堂で、地元民は通春の供養行っている。
お堂に掲示してある、河野通春の説明板。
河野通春の居城であった「港山城跡」、三津の渡し船から撮った。
この渡しは市道高浜2号線の一部として、松山港内港地区の三津と港山の間約80メートルを結ぶ市直営の渡船で、年中無休、無料で年間約5万人の利用者に親しまれている。
【運行時間】午前7時から午後7時 随時運航、年中無休(荒天などにより、運休する場合がある。)
【料金】 無料
【交通機関】伊予鉄港山駅から徒歩2分、伊予鉄三津駅から徒歩15分
三津の渡しのはじまりは港山地区側にある港山城の築城の頃にまで遡る。応仁元年(1467)当時、河野氏分家である河野予州家の河野通春が港山城に拠り、物資輸送と城兵が三津浜側にあった須崎の浜に毎朝食料を買い求めるために利用したのがはじまりという。
松山市教育委員会が設置している港山城跡の説明板。
明治42年に松山道後温泉に来訪した時の記念のお手植えの松と紹介された時期があったが、伊藤博文からのご喜捨の一部で松の種を購入して蒔き育てた松である。沢山あったが松食い虫被害で枯れ現存する松は少なくなった。所在地は、伊予鉄道高浜線梅津寺駅前にある。
松ノ木から東に100m程のところに伊藤博文来松記念として植えられた松の事が書かれている記念碑。・・この記念碑の真上に秋山好古の立像がある。
記念碑の横に説明板が設置してある。
平成15年5月12日、広島県竹原市長生寺を訪れたとき住職に案内され説明を受けた伊予守護河野通直の墓。
広島県竹原市観光協会が設置した河野通直の墓についての説明板。
長生寺本堂に安置されている位牌で、右が河野通直の位牌、左が、村上元吉の位牌。住職さんの許可を得て撮影した。
先ず、河野通春について、通春は、伊予国河野氏・予州家(分家)の武将で、河野通之の孫、河野通元の子。河野氏宗家と予州家(分家)による家督をめぐる抗争は、河野通義が死没前にその弟・通之に家督を譲る際に「(通義の)妻が男児を出産したら、その子に家督を相続させるように」と遺言したことに始まる。やがて通義の妻は男児・河野通久を出産したため、通之は通久に河野氏惣領の地位を譲るが、これを不満とした通之の子・通元が通久に敵対した。この内紛は室町幕府が調停に介入したにも関わらず解決を見ぬまま次代に持ち越されることとなり、通春は嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱以来、河野氏の主導権をめぐって宗家の河野通直と対立した。そのため河野氏の衰退を招き、守護大名から戦国大名になれなかった。
時代は違うが、初代内閣総理大臣伊藤博文の祖先は河野氏であるといわれている。明治42年(1909)に松山道後温泉に来訪(一説には、体調を患い療養のため)宿泊は、道後ふなや旅館、東京に帰るとき送迎会の席で「私の祖先は伊予の河野であると演説、これから満州に行くが、来年再訪し、先祖の供養をしたい」と語ったと伝えられている。
けれど、その年の10月、満州外遊中にハルビン駅で暗殺、叶わぬ夢となった。叶わなかった先祖の供養は、その後広島県竹原市の長生寺で行われた。長生寺には、最後の伊予守護河野通直が眠っている。供養の際松山市から影浦勉氏を招いて講話会を模様したと住職から聞いた。(平成15年5月12日、長生寺訪問したとき)
註:天正15年(1587)豊臣秀吉の四国平定の命を受け伊予に侵攻した小早川軍に敗れて竹原にのがれていた伊予の河野通直が病没したのをいたみ、小早川隆景が建立し、寺領として二百石を寄進して開山した寺。
伊予鉄道高浜線、港山駅前(県道沿い)にある河野通春のお堂案内板。秋山眞之、秋山好古の銅像設置場所の近くにある。
河野通春のお堂で、地元民は通春の供養行っている。
お堂に掲示してある、河野通春の説明板。
河野通春の居城であった「港山城跡」、三津の渡し船から撮った。
この渡しは市道高浜2号線の一部として、松山港内港地区の三津と港山の間約80メートルを結ぶ市直営の渡船で、年中無休、無料で年間約5万人の利用者に親しまれている。
【運行時間】午前7時から午後7時 随時運航、年中無休(荒天などにより、運休する場合がある。)
【料金】 無料
【交通機関】伊予鉄港山駅から徒歩2分、伊予鉄三津駅から徒歩15分
三津の渡しのはじまりは港山地区側にある港山城の築城の頃にまで遡る。応仁元年(1467)当時、河野氏分家である河野予州家の河野通春が港山城に拠り、物資輸送と城兵が三津浜側にあった須崎の浜に毎朝食料を買い求めるために利用したのがはじまりという。
松山市教育委員会が設置している港山城跡の説明板。
明治42年に松山道後温泉に来訪した時の記念のお手植えの松と紹介された時期があったが、伊藤博文からのご喜捨の一部で松の種を購入して蒔き育てた松である。沢山あったが松食い虫被害で枯れ現存する松は少なくなった。所在地は、伊予鉄道高浜線梅津寺駅前にある。
松ノ木から東に100m程のところに伊藤博文来松記念として植えられた松の事が書かれている記念碑。・・この記念碑の真上に秋山好古の立像がある。
記念碑の横に説明板が設置してある。
平成15年5月12日、広島県竹原市長生寺を訪れたとき住職に案内され説明を受けた伊予守護河野通直の墓。
広島県竹原市観光協会が設置した河野通直の墓についての説明板。
長生寺本堂に安置されている位牌で、右が河野通直の位牌、左が、村上元吉の位牌。住職さんの許可を得て撮影した。