タイトルに改定と明記したのは、令和2年11月10日付の画像をそっくり入れ替えましたので改定と表記しました。
昭和戊辰御大典記念に秋山好古が揮毫した「山國御陵」山國村が建立した昭和天皇即位記念の石碑です。
建立した当時の地名は「京都府北桑田郡山國村(現 京都市右京区京北井戸町)で石碑は、常照皇寺の参道口にありまして、寺に隣接する山国御陵に祀られる光厳院(北朝初代の天皇)があります。
所在地は、京都市右京区京北井戸町丸山にある常照皇寺、臨済宗天龍寺派の光厳法皇ゆかりの寺です。
1.碑 文: 山國御陵
2.所 在 地: 京都市右京区京北井戸町常照皇寺参道口
3.揮 毫 者: 陸軍大将 従二位 勲一等 功二級 秋山好古
4.建 立 者: 山國村(京都府北桑田郡山國村 現・京都市右京区北井門町)
5.建立年月日: 昭和戊辰御大典記念(昭和3年11月)
6.碑石大きさ : 高さ 1m82cm 横幅 96cm 厚さ 22cm
7.石碑の由来 : 昭和3年11月10日、京都御所の賢所において行われた即位式典を記念して、
京都府北 桑田郡山國村(現 京都市右京区京北井戸町)が建立した「山國御陵」の石碑です。
この石碑は、令和2年10月8日、京都市右京区在住の左賀秀機氏より紹介を頂きました。現在全国に、秋山好古揮毫の石碑は53基発見されておりますが、53基目に発見された京都市の石碑は、関西で始めてとなる大変貴重な石碑です。
どのような経緯で秋山好古に揮毫依頼があったのかは不明で現在調査中で、石碑発見者の、左賀秀機氏にもお願いしております。
秋山好古揮毫石碑は、現在(令和5年7月8)全国に53基発見されており52基は私が現地に赴き全て取材完了していますが、この京都の石碑は体調を崩し現地に行くことが出来ず、石碑の所在のお知らせを頂きました左賀秀機氏に現地取材の代行をして頂きました。
石碑は、松山市歩行町二丁目3番地6にある、「秋山兄弟生誕地」に展示し、ご来館の皆様に「関西で唯一発見された秋山好古揮毫の貴重な石碑」としてご覧頂けるよう早急に準備をいたします。
貴重な石碑の調査に際しては、左賀秀機氏に大変お世話になり、感謝いたしております。
秋山好古も、「左賀さん、私が揮毫した石碑をよく見つけてくれました。ありがとうございましたとお礼を言っていると思います。」
参考までに:秋山好古揮毫の石碑53基なかで、揮毫者の氏名が石碑裏面に揮毫されているのはこの京都の石碑が始めてです。
※ 今回撮影に際し、石碑揮毫の文字がよく見えるように周辺を傷つけないようにクリーニングして頂き撮影して頂きました。そして石碑の寸法も計測して頂きました。あつかましいお願いを聞き入れて頂き感謝いたしております。
※ 石碑クリーニングするには、管理者の許可が必要なので、先ず常照皇寺に照会するも関知しないとの由、次に宮内庁京都事務所に問い合わせるも関知しないとの回答、地元自治会に問い合わせると自治会が管理と判明了解を得て石碑クリーニングをして頂きました。この間の下調べは全て「左賀秀機氏」が行って下さいました。貴重なお時間を割いての事務作業ご苦労様でした。そして写真撮影でした。
石碑撮影は、石碑に手を加えて撮影するには、管理者の許可が必要です。只の石碑撮影だけならば許可は要らないが、石碑ついている苔等の払いとか、文字に墨をいれて文字を浮き出すとか、手を加えるには許可が必要です。
例えば
※ 東京都世田谷区の石碑は、文字に墨を入れて撮影をしましたが、その時撮影条件は、世田谷区役所担当課の職員立会いの元が撮影条件でした。それも世田谷区役所担当課指定の日にち時間合わせて、現地集合で撮影しました。撮影後は石碑の原状復帰(文字に入れた墨を洗い落とす)石碑の撮影は大変な作業です。
石碑表面「「山國御陵」
昭和天皇御大典記念に、京都府北桑田郡山國村(現 京都市右京区京北井戸町)が建立した石碑、「山國御陵」で光厳天皇山国陵・後花園天皇山国陵・後土御門天皇分骨されている御陵です。
秋山好古揮毫の石碑53基なかで、御大典記念の石碑は7基あります。
52基目が発見された石碑は、平成28年5月31日、長野県安曇野市に発見されました。
その石碑は、墓石「正八位 内田與作 墓」でした。
それから4年後に、53基目の石碑が、令和2年10月に京都市右京区で発見され、関西地区では初めての貴重な石碑となりました。
石碑裏面には、
右側に、 「昭和戊辰御大典記念」
真中の行に、「陸軍大将 従二位 勲一等 功二級 秋山好古謹書」
左側に、 「山國村建立」と揮毫されています。
52基の石碑は、揮毫者の氏名「秋山好古」は全て石碑表面に揮毫されていますが、この京都市右京区の石碑は、揮毫者の氏名「秋山好古」は石碑裏面に書かれています。
石碑名が「山國御陵」で光厳天皇山国陵・後花園天皇山国陵・後土御門天皇分骨所であるため表面には揮毫しなかったのだと思います。
秋山好古は、大正4年2月15日付で、陸軍省人事局からの転属辞令書が発令します。その内容は、第13代近衛師団長でした。
近衛師団は、天皇と宮城(皇居)を警備する師団で、一般の師団とは異なり、部隊は最新鋭、最古参の儀仗部隊で、帝国日本陸軍最強、秋山好古はそのトップに就いたのです。
元近衛師団長であるが、身分は平民である秋山好古は、石碑表面「山國御陵」に自分の名前を書くのは、恐れ多いことなので揮毫しなかったのであろう?・・と私は拝察します。
石碑裏面の揮毫
揮 毫 者: 陸軍大将 従二位 勲一等 功二級 秋山好古
建 立 者: 山國村(京都府北桑田郡山國村 現・京都市右京区北井門町)
が揮毫されている。
石碑が建立された昭和3年11月、秋山好古は、愛媛県松山市の北豫中学校(現、愛媛県立松山北高等学校)の校長として松山の生家に居ました。揮毫はどんな経緯で認めたのか不明です。
考えることは、毎年東京で全国中等学校の校長会が開催されており、この時京都の校長先生から揮毫のお願いがあったのかもしれません??ですが!!
秋山好古は、大阪高等師範学校を卒業し名古屋師範学校付属小学校の教諭をしていましたが、この学校の教頭(和久正辰、伊予松山の出身)の強い勧めで、明治10年教師を辞任し、陸軍士官学校に入学。軍人の世界に身を置いた。そして大正12年元帥に推薦されるも之を辞退、大元帥(大正天皇)は驚かれ、大正天皇は、特旨として官位従二位を与えた。
大正13年予備役となった秋山好古大将に、郷里の伊豫松山から北豫中学校の校長にと要請を受けた。最初は、名前だけの校長で松山に帰られた時に学校に顔を出して頂ければ結構です。・・の条件だったが、名前だけの校長などありえない、私で郷里のお役に立てるのならば常任の校長として受諾するよと気持ちよく校長に就任した。好古は、子供・奥様達は東京の自宅置き、単身で松山の生家で大正13年4月から昭和5年3月まで過ごした。校長就任7年間一日の休まず郷里の青少年の教育に尽くした。
この事を知った東京の要人たちは次のことを言ったそうだ「秋山好古は馬鹿な男よ、陸軍大将でそれも元帥に推薦されるも之を辞退し、田舎の中学校の校長として松山に都落ちするそうだ」この事案は、当時全国に広がり大きな話題となった。
秋山好古は、世間の馬鹿呼ばわりする聞く耳は持たずで、母の教え、「大きくなったら・世のため・人のため・そして故郷のためになるような立派な人間になるようにと強く躾けられた。」母の教えの通り生き抜いた72歳であった。16歳の時出会った福沢諭吉の学問のすゝめを読破し、僕は学校の教師になる。・・が大きな志として根付いていた。教師として世の中に出て、、軍人時代が少し長かったが、最後はやはり教師として人生を全うした。
秋山好古の座右の銘は「独立自尊」である。
東京で全国中等学校の校長会が開催されて、この人が有名な伊豫松山の北豫中学校長先生かと知らぬ校長先生は居なかった有名校長であった。
校長会で出会った校長から「山國御陵」の揮毫をたのまれたのかも??
常照皇寺参道口にある秋山好古揮毫の石碑「山國御陵」・・画像右端の石碑です。
画像は、京都市の左賀秀機様が撮影し先日(令和5年7月8日)から送って頂いた貴重な画像です。
以前にも写真をお送り頂きました。令和2年10月に。
左賀様とは来春(令和3年)現地でお会いいたし、取材のご協力を頂く事をお約束頂いておりましたが、新型コロナウイルス蔓延のため現地に行けず、今年5月都道府県間の往来が解除となりましたが、今度私が体調を崩し現地移動ができなくなり、改めて私の要望の画角の写真を撮影して頂きました。
来年、1月7日、秋山好古生誕165年を迎えます。その記念として「秋山好古揮毫の石碑写真集 第3版」発行の予定ですが、京都の石碑は、左賀様ご提供の写真を掲載する事を既にご了承を頂いております。
※ 写真提供、京都市右京区在住の「左賀秀機氏」
令和2年10月1日現在、秋山好古揮毫の石碑一覧表です。
なお、48番の千葉県鎌ケ谷市道野辺神社の石碑は、三分割されて境内に眠っております。
平成23年6月13日、再建立のお願いに私は、千葉県鎌ケ谷市道野辺神社の北山秀彦宮司にお目にかかり、強く石碑再建立についてお願いし約束を頂きました。
NHKスペシャルドラマ坂の上の雲第3部が放映されるまでに建立して頂けるものと思っていました。
北山宮司は必ず再建立をいたします。その時は除幕式も行います。その時は私に連絡を頂けると約束して頂きましたが残念に未だ再建立はされていません。何か特別な事情が起こったのでしょうか?・心配です。
たぶん秋山好古揮毫の石碑はこれが最後の石碑発見になるような予感がします。
日本各地の秋山好古を尊敬の念を持って頂いている方からの情報提供有難うございます。
標記石碑一覧表49番以降を、「秋山好古揮毫の石碑写真集 第3版 改定版」追加掲載いたします。48番までは、「秋山好古揮毫の石碑写真集 第2版」に掲載しています。第1版初版は、石碑NO42番までです。
※ 体調が回復しましたら是非現地に赴き関西で始めての秋山好古揮毫の石碑「山國御陵」を見聞しカメラに収めたいものです。
そして、左賀秀機様にお会いしてお礼を言いたく思っております。