秋山好古・眞之兄弟生誕地(愛媛県松山市歩行町二丁目3番地6)
秋山好古・眞之兄弟生誕地整備事業については、全国の皆様からご賛同を頂き、平成17年1月18日に再建事業が完成し、この日NHKニュース番組「お早う日本」で全国放送されました。同年1月19日から、「秋山兄弟生誕地」として一般公開し現在に至っています。
秋山兄弟生誕地には研究員18名が在籍し全国から観光にお越しいただいた方々にご案内をいたしております。
研究員は日々自己研鑽し知識を身に付けておりますが、4ヵ月に一度研修会を、年に一度館外研修を実施しております。今年の館外研修は、広島県江田島町海上自衛隊第一術科学校(旧海軍兵学校)で見学研修をしました。(秋山眞之・海軍兵学校第17期生・広瀬武夫・第15期生)
昨日(9月25日)、秋山兄弟生誕地武道場で定期研修会を開催し新たな知識を身に付けた。
講師は、山崎常盤同郷会理事長が、画家、横江昌人が製作した絵肖像画「秋山好古・眞之の語らい」の展示について。
次に、前常盤同郷会常務理事・佐伯健氏が「加井尚孝と秋山好古、村上正義」と題して講話があり研修をしました。
その様子です。
昨日の研修会の情景で車座状態で行った。(所用で数名が欠席した)
研修会場は秋山兄弟武道場で、合気道と柔道の錬成を行っている。
本日の研修会の本題である「秋山兄弟語らいの想像図」で、その説明をする山崎理事長。
「秋山兄弟語らいの構図」秋山好古と眞之で、此れを描かれたのは石川県在住の横江昌人画伯で、昭和11年1月、秋山好古の騎馬像を彫刻された「横江嘉純」さんの、甥になられる方です。
肖像画は、秋山兄弟生誕地に展示公開しております。大きさは30号。
石川県在住の横江昌人画伯に、常盤会同郷会、前理事長・平松昇氏がお願いして今年の7月に描かれました。平松前理事長は、騎兵の育ての親、秋山好古大将騎馬像を彫刻して頂いた血筋のある方に是非描いて頂こうとお願いし、石川県から7月に秋山兄弟生誕地にお越しになられ描かれました。
画像下の絵が当初描かれたもので、上部が一部修正した秋山好古と眞之です。
肖像画を描かれるに付次の写真を参考にして描かれました。
「秋山兄弟語らいの想像図」右が秋山好古で、この写真を元に描かれました。
好古が少尉の時で、明治10年愛知県立名古屋師範学校附属小学校教師を退職し、同年5月4日、陸軍士官学校に入学、同年12年12月23日、陸軍士官学校を卒業、少尉に任官され、明治13年7月2日付で東京鎮台騎兵第1大隊小隊長を拝命した時の写真で、この顔をモチーフして「秋山兄弟語らいの想像図」描きあげた。
画像左が、秋山眞之で、この時期は、名前は、淳五郎時代の12歳であった。
画像は、左が秋山眞之(淳五郎)真ん中が、父、秋山久敬、左が母、貞である。
「秋山兄弟語らいの想像図」秋山眞之は、12歳の時のこの写真を元にして描かれた。
研修会の資料として山崎理事長が作成し使われたものです。
秋山兄弟肖像画(語らいの想像図)を描かれた、技法と画家・横江昌人氏の略歴。
研修会資料。
横江嘉純氏と横江昌人氏の関係図と、資料右の写真は、昭和11年1月、横江嘉純氏が彫刻し銅像として建立し時の写真と、平成17年1月18日、復元した秋山好古の騎馬像である。
富山県出身の彫刻家、横江嘉純が昭和11年1月11日制作した騎馬像は、昭和18年8月12日、金属類回収令が勅令施行され、秋山好古騎馬像もこの対象物となり回収供出され潰された。
画像は、愛媛県立北高等学校にある小さな秋山好古騎馬像と昭和11年1月11日建立した騎馬像の写真を元にしてコンピュウタ処理で設計図を作成し富山県高岡市にある制作会社に依頼して出来上がった秋山兄弟生誕地に展示してある秋山好古大将の騎馬像である。
なお、横江嘉純の作品は、「秋山好古の騎馬像」「ネール首相像」そして昭和30年11月、東京駅中央口前広場に建立された「愛の像」、廣島平和記念公園にある「祈りの像」の制作者としても著名である。
昭和10年、井上要氏が中心となり、秋山好古将軍銅像建設会を設立、井上要自ら建設委員長となり、東京の彫刻家、横江嘉純氏に構図設計共に依頼一任した。銅像は最初立像の予定であったが、「騎兵の秋山か」「秋山の騎兵か」とまで言われた将軍の銅像を馬から下すことは如何なものかとの意見があり騎馬像とすることにした。
しかし横江嘉純氏は秋山好古の騎馬の姿など見た事が無く設計を辞退した。
井上建設委員長のたっての願いと、秋山好古の人格と偉勲に感銘し騎馬像制作を引き受けた。
制作に当たり、秋山好古の副官であった、山内保次少将が馬に乗り、横江嘉純に対して好古の騎馬姿を披露しそれを見て設計した。
昭和11年1月11日、松山市道後公園に建立されていた当時の秋山好古騎馬像。
昭和11年に彫刻家「横江嘉純」が制作するにあたり、秋山好古のモデルとなった人が「山内保次」であった。
新潟市出身の「山内保次」は、秋山好古副官の一人で、日露戦争で世界最強のコサック騎兵団を破った切っ掛けは、山内保次が好古の命を受け隊員7名を率い敵陣深く斥候隊長として出向きロシア軍の動向を詳細に把握して帰還し戦いを有利にした事であった。
また、『敵中四騎挺進』(昭和16年刊行 山内挺進斥候がモデル)により紹介され、大ベストセラーとなったことも有名である。
写真提供:新潟市江南区澤海、北方文化博物館・神田勝郎館長