笑顔で手を振られる両陛下。
令和元年11月10日、快晴の下新調された御料車で「祝賀御列ノ儀」に皇居を出発される令和天皇陛下と皇后陛下。
私たちが身近に感じるようになった天皇は、平成天皇からでありますが、令和天皇皇后陛下になられてから一層身近になりました。
秋篠宮様が発言された「身の丈に合った儀式をすべき」とご発言されたことは華美にならない、いいかえれば国費の節約も含まれたお言葉であったと思われます。大嘗祭にかかる費用が27億円とか、11月14日、行幸通りで「天皇は要らない、そんなお金があれば他に使えと書いたプラカードを持参して一部の国民が反対運動をしていた団体があった事も事実の出来事であった。
「大嘗宮」は7月下旬から3か月余りかけて皇居・東御苑に設営され、令和元年11月14日に行われ、伊勢神宮に皇位継承・即位の儀等御大典が無事終了した事を報告され一連の儀が終わる事になる。
お住まいは、改修工事が完了次第、皇居御所にお移りになられる。
これからの画像は、平成17年1月25日、カメラ持参で私が一日かけて散策した皇居外苑と東御苑です。
それを振り返ってみたいと思います。
参考に
令和元年5月1日現在、宮家は、4家で、皇族は、17名、天皇は含まれず、天皇を含む場合は皇室と呼ぶ。
4家の宮家は、秋篠宮・常陸宮・三笠宮・高門宮である。
皇居宮殿から正門鉄橋を渡られる両陛下の御料車と皇宮警察の警備車列隊。
正門石橋をゆっくりと進まれた。
皇居正門石橋から皇居外苑に出て最初に国民から祝福の声を受けられた。
雅子皇后陛下が流された感情の涙
民間から皇室に入られ色んなご苦労があり上皇后陛下も一時期体調を崩されたが今上皇后陛下も慣れない皇室の生活の中で、特にお世継ぎの件で体調を崩されマスコミにも嫌な事を書かれ一層体調を悪くされた。
祝賀御列ノ儀に沿道でお迎えした国民は、皇后陛下が流された涙は誰一人知る由もなかったがTVを観ていた国民はこの事を知り受けた。
流された涙の中には、今までの辛い事、今後の皇后としての在り方、そして何よりも即位パレードに全国各地からお祝いに駆け付けてくれた国民からの「雅子様おめでとうございます。」・・の言葉が嬉しくて思わず涙が出たのではないでしょうか。これからは体調も良くなられ歴代最高の皇后陛下として天皇を支えられて行かれると思います。・・くれぐれもお体を大切にされて下さい。
新しく新調された御料車(オープンカー)、日本車としては2台目で最新な技術を取り入れて製作された7代目だそうです。
石橋と皇居正門、祝賀御列ノ儀はこの位置から最初に天皇皇后陛下の姿を国民が拝謁し祝福を受けられる地点。
正門石橋は、二重橋だと誤認されていることがあるが、厳密には奥にある正門鉄橋が「二重橋」である。
宮殿を出られて先ず皇居正面鉄橋を渡られた。
鉄橋は、石橋の奥にある橋が鉄橋で、二重橋と言われる橋である。
江戸時代壕が深かったことから途中に橋脚を立て橋桁を支える構造にするのが困難だったため、橋桁を上下2重にして強度を上げ架橋した木造橋であった。現在の鉄橋は二重ではないため二重橋とは呼ばない。
正式名称は、正門鉄橋と呼ぶ。
皇居正門で、門の形式は、渡り櫓門、正門石橋には鉄城門で普段は固く閉ざされている。
正門は、新年や天皇誕生日の皇居一般参賀時には正門が開放され渡ることができるが普段は渡る事は出来ない。
皇居正門石橋にあった飾電燈で東御苑に展示してある。
この門は、明治になってから建てられた薬医門形式の門で、御所がある旧西の丸の裏門にあたり、皇居の乾(いぬい)の方角にあるので、 この名がついた。
現在は、御所の表門で天皇に越権される時はこの門から出入りする。何時も皇宮警察が厳しい警固をしている。
高麗形式の門「半蔵門」
半蔵門で、この門の奥は、江戸時代吹上御庭と呼ばれ、隠居した先代将軍や、将軍継嗣などの住居とされていた。
現在は、吹上御苑と呼ばれ、宮中三殿、生物学御研究所、天皇が田植えをする水田などがある。
天皇や各皇族の皇居への日常の出入りには、主にこの門が用いられている。
一般人の通行は認められてなく、大東亜戦争で旧来の門は焼失し、現在の門は和田倉門の高麗形式の門を移築したもの。警護が特に厳しく写真撮影する時も警察官から注意されるほどである。
半蔵門から見た警視庁。このあたりの濠は石垣でなく土塁である。
平河門で徳川御三家・御三卿の登城される時この門から入城され、また大奥の女性達、商人達が江戸城に出入りする大名以外の人々はこの門から出入りをした。
また渡櫓門に付随して造られている高麗形式の門「不浄門」がある。枡形内に出入りとは逆方向の濠水に接するように開く高麗形式の門がある。城内で起こった犯罪人、死者等不浄なものを城内より水上輸送するための不浄門で、全国で唯一存在する。松の廊下で吉良に刃傷に及んだ浅野内匠頭名長矩はこの門から出された。
藤堂高虎が手掛けた独立式層塔型5層5階地下1階が創建されていた江戸城天守台で、現在見る石垣は第8代将軍吉宗が瀬戸内の花崗岩で積み替えたもの、正面黒っぽい石は伊豆石で、家光時代に積まれた石垣だそうです。
江戸時代最大の規模であった天守は、明暦3年明暦の大火により天守は焼失。保科正之の提案で町の復興を優先し、また経済的な理由から天守は再建されなかった・・と言われている。
巨石で築いた天守台で上部黒く見える石は、大奥が炎上した安政の大火で焼けたものだそうです。女子高生と比較すると如何に大きい天守台かがよくわかる。特に算木済みの石の大きいことが。
江戸城二之丸庭園跡で、現在も手入れされ一般に公開されている。
明治維新後東京宮城・皇居となり、以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として一般開放されている。
南側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。
但し休園日があるから調べて行かれる事。月曜日・金曜日が休園日ですが11月・12月は大嘗祭の関係で休園日が変則になっているので気を付けて。
徳川御三卿の一つ田安家の屋敷跡で、現在は日本武道館が建設されている。
千鳥ケ淵戦没者墓苑で、東京都千代田区三番町にある「無名戦没者のお墓」である。第二次世界大戦争の折に海外で死亡した日本の軍人・一般人のうち、身元が不明の遺骨を安置するため、昭和34年に創られた。
警視庁から見た桜田門、開国か攘夷かで大きな問題が浮上、井伊直弼大老が暗殺された所で有名である。
警視庁から見た桜田門。祝賀御列ノ儀はこの前を通られた。
高麗形式の桜田門から見た警視庁舎。
坂下門前で、この奥に宮内庁があり宮内庁ご用達の関係者はこの門から出入りする。この門も乾門・半蔵門に次いで警固が厳しい。
天皇が列車で地方に行幸される時には東京駅から発たれる。
画像は平成26年10月29日、復原された東京駅で、お披露目された時に行幸通りから撮影しました。
皇居一周も終わり日を改めて靖国神社に参拝に行きました。
最敬礼で参拝をされる若い方が居られました。
明治元年から明治2年に天皇政府側と徳川幕府側が戦った戊辰戦争で亡くなった天皇政府側の人々をお祀りするために明治天皇が創建された当時の東京招魂社。
この画像は、平成15年7月24日新潟市江南区にある北方文化博物館を拝観に行かれた当時の皇太子殿下と雅子妃殿下で説明される方は、第八代伊藤文吉北方文化博物館館長。
北方文化博物館は、戦後日本国内で初めてGHQが許可して開設された私立の博物館で、イギリスの陶芸家「バーナード・リーチ」日本民藝館初代館長「柳宗悦」人間国宝「浜田庄司」作家「司馬遼太郎」さん達も絶賛した博物館で、最近では歌手「加藤登紀子」さんもよく訪れるそうです。
画像は、令和元年5月1日発行「ヒストリア・北方文化博物舘」より引用
平成26年10月30日、秋山兄弟生誕地研究委員を引率して新潟市江南区にある北方文化博物館清水苑(旧新発田藩屋敷跡)を見学した時拝見しました、雅子皇后陛下のご父上が誕生された表示板です。
これからの画像は、初代天皇神武天皇をお祀りしている橿原神宮です。
近鉄橿原神宮駅で立派な神宮造りの駅舎です。
平成28年6月1日、私がお参りした時の画像です。
畝傍山(うねびやま)の北東の麓に鎮座する場所に橿原神宮があり、神宮に北接する場所に神武天皇陵がある。
令和元年11月22・23日天皇即位の報告を天照大神にされるため伊勢神宮に行幸され、11月27日、神武天皇陵をお参りされるご予定なので掲示してみました。
初代天皇であると伝えられる神武天皇が、橿原宮で即位したという日本書紀の記述に基づき、明治23年4月2日、明治天皇が創建された橿原神宮表参道入口である。
画像は、平成28年6月1日、私がお参りした時の画像です。
橿原神宮の表参道で、奥に南神門がある。
橿原神宮の表参道入口に「橿原神宮の大綱が掲示してある。」
南神門をくぐると、大和三山のひとつである畝傍山を背に外拝殿が建つ。
外拝殿から本殿のお姿で、本殿は安政2年建立の京都御所賢所(内侍所)を創建に際して移建したもので重要文化財である。
外拝殿より更に奥に位置する内拝殿は、橿原神宮の祭典が執り行われる非常に聖なる聖域で、その奥に幣殿と本殿がある。
外拝殿の右側にさざれ石とその説明版が設置してある。
さざれ石は全国に16カ所に整備設置されているそうでその内の一つである。
平成28年6月、橿原神宮に参拝に行った時撮りました。
「君が代は 千代に八千代に さざれ石の いわおとなりて こけのむすまで」
さざれ石とは:
君が代の歌詞に登場する石として有名でですが、言葉を知っていても実際に「さざれ石ってどんな石のこと」と聞かれたときに、答えられません。
君が代に登場してくる「さざれ石」とは岐阜県春日村にある天然記念物の石であり、なんと実在するそうです。
なぜ「さざれ石」というかというと、これは平安朝の時代にかかれたお伽草子の中の登場人物のお姫様の名前に「さざれのきみ」という名があり、それがもとになっていると言われます。
さざれ石を漢字で書くと「細石」となるそうで、もともとは小さな石のことをさしています。
橿原神宮の「さざれ石」の説明版。
ラグビー日本代表は、令和元年7月17日、宮崎市での強化合宿を打ち上げた後、宮崎県日向市の大御神社を訪れ、日本最大級の「さざれ石」を見学した。「さざれ石」が歌われている君が代への理解を深め、海外出身選手も多いチームの結束強化を図る目的で、リーチ・マイケル主将(東芝)らリーダー陣が発案し唄われワンチームの強固な気持ちを堅持したと言われている。