EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

松山の染井吉野桜

2015年03月30日 | 伊予松山歴史散策
日本で桜は一般的な花でありますが、最も愛されている花が桜であります。桜の花は往々にして葉が出揃う頃に開花しますが、染井吉野桜は葉が出揃う前に花が咲揃う桜で、桜の代名詞となっています。この「何もないところに花が咲く」という状態が素晴らしいです。
松山での観桜は、1月に「16日桜」・2月に「四季桜」・3月に「椿寒桜」・「乳母桜」・「江戸彼岸桜」・「陽光桜」・4月に「染井吉野桜」・「大島桜」・「西法寺桜」・「薄墨桜」・「牡丹桜」・最後に松山市三番町の街路樹として南側歩道に151本 北側に134本 計285本植栽されていまして、松山市で二番目に長い町に街路樹として「一葉桜」・「間山桜」、が植栽されております。松山管内の観桜は終わりを告げる桜達です。
今年松山の染井吉野桜の開花は、3月27日で、昨年よりも二日遅い開花でした。
昨日(29日)松山地方気象台管理の観測樹(染井吉野桜)を見に行って来ました。昨日の松山は、午前中降雨でありましたが、午後から雨が上がり、晴天に急変、気温21度まで上がり桜は急速に開花し3分咲きでした。大勢の桜好きの人々が花見をしていました。
次の土日が満開になると思いますが、天気予報は曇り時々雨と余りいい天候ではないようです。
画像は、昨日の道後公園です。


松山地方気象台の観測木「染井吉野桜」で3分咲きでした。


松山地方気象台の観測木「染井吉野桜」の下で午後から雨はやみ、好天になり待ちかねた花見客は松山一番の花見名所「道後公園」に繰り出し賑やかでした。
画像は午後4時過ぎに撮りました。


午後4時過ぎでも気温は21度ありいい花見が出来たようです。


松山地方気象台の観測木「染井吉野桜」です。部分的に見ると5分咲き以上に見ますが全体的に3分咲きと私は判断しました。


道後公園は、中世「室町時代から安土桃山時代」の城跡で内堀沿いに桜が植栽されています。殆どが染井吉野桜です。
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道後に正岡子規、野球姿の銅像建立

2015年03月24日 | 伊予松山歴史散策
3月20日、道後温泉駅前にある放生園に「当時の野球ユニホーム」姿の青年正岡子規の銅像が建立され除幕式がおこなわれました。
建立したのは、松山中央ライオンズクラブが結成50周年記念として事業費1200万円で建立し、松山市に寄贈しました。
正岡子規の野球姿像は、高さ3mで、子規が22歳、明治23年春の写真を元に再現、右手にバット、左手にボールを握り腰かけています。
銅像の左には、「まり投げて 見たき広場や 春の草」の俳句を掲示してあります。
この俳句掲示は、季節に合わせた野球に関する俳句を掲示するそうです。

今年、高校野球21世紀枠候補に選ばれ甲子園に出場する愛媛県立松山東高校野球部は県内最古の野球部で、松山東高の前身は松山中学、正岡子規の母校であります。
正岡子規によって松山に明治22年野球が伝えられ、明治25年に設立された「球技同好会」が起源で硬式野球部の設立は愛媛県内で最古であり、昭和25年に、夏の甲子園で優勝しています。
21世紀枠候補に選ばれ、その後選抜出場が正式に決定、主催者の毎日新聞によれば、「(選抜史上)過去最長のブランクを埋める82年ぶり2回目」の出場となりました。・・と紹介されております。
野球ユニホーム姿の青年正岡子規の銅像建立は、奇しくも選抜甲子園に出場する愛媛県立松山東高校の記念にもなる銅像となりました。
子規も喜んでいると思います。

対戦相手は、東京代表、二松學舎大付属高校で大会5日目第3試合です。
学校法人二松學舎の前身である、漢学塾二松學舎を創設した、三島中洲は、伊予松山藩の出身であり、漢学塾二松學舎で学んだ夏目漱石が、松山東高校の前身・愛媛縣尋常中学校(松山中学)時代に教鞭をとった、とてもご縁のある学校との対戦となります。
不思議な巡り合わせであります。
両校の健闘を祈ります。


3月20日、道後温泉駅前にある放生園に「当時の野球ユニホーム」姿の青年正岡子規の銅像が建立されました。


高さ3mで、子規が22歳、明治23年春の写真を元に再現、右手にバット、左手にボールを握り腰かけています。


明治22年、子規は松山に帰る度に野球を子供たちに教えました。
最初に教えたのは、子規門の高弟、河東碧梧桐でした。東京予備門時代には、秋山眞之や夏目漱石達と野球を楽しんでおります。


子規像の説明板、英文と日本語。


子規像の説明板。


第87回全国高等学校選抜野球大会で紹介されました、塩原金之助(夏目金之助・漱石)の卒業証書です。


塩原金之助、明治14年11月二松學舎の卒業証書。
二松學舎を卒業し東京大学予備門に進学、予備門時代に正岡子規と秋山眞之との出会いがありました。
夏目金之助と正岡子規は、東大に進学しますが、秋山眞之は東大進学を断念し、海軍兵学校に行きます。
参考事項:夏目漱石は、慶応3年1月5日江戸の牛込馬場下の夏目家5男として出生、明治元年11月塩原家に養子として入籍するが、その後夏目家に復籍します。
漱石は、明治28年松山中学の英語教師として赴任、52日間漱石の下宿先(愚陀佛庵)で子規と共に生活をしますが、この時子規の俳号であった「漱石」が気に入り、子規より漱石を譲り受けて、夏目漱石と呼ばれるようになりました。本名は、夏目金之助です。

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松山地方の染井吉野桜の現況

2015年03月23日 | 伊予松山歴史散策
松山地方の染井吉野桜の開花予想日は、3月23日頃とされていますが、この所寒暖の差が激しく未だ開花しておりません。
今日、午前中、道後公園にある松山地方気象台が管理する染井吉野桜観測標本樹の状態をカメラ持参で見て来ました。
現地には、松山地方気象台の職員さんと、地元TVカメラが取材に来ていました。
開花予想は2日後の25日頃に開花するのではと言っていました。
なお、昨年は3月25日に開花しましたので、同じ日になるかも?です。

画像は、23日に撮りました染井吉野桜観測標本樹です。


松山市道後公園(中世の城・湯築城跡、日本100名城第80番)に管理してある、松山地方気象台・ソメイヨシノ観測用標本樹。


松山地方気象台・ソメイヨシノ観測用標本樹の全容。


松山地方気象台の職員さんが観測に、そして地元TVカメラが取材に来ておりました。


3月23日午前中の松山地方気象台・ソメイヨシノ観測用現況です。


本日(3月23日)の松山市は、冬に逆戻りした気温で暫し開花は遅れそうです。
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秋山眞之生誕147年祭 開催されました

2015年03月23日 | 伊予松山歴史散策
昨日(3月22日)、愛媛県知事、松山市長、他多くの来賓参列の下盛大に秋山眞之生誕147年祭が秋山兄弟生誕地で開催されました。
式典は、秋山兄弟生誕地を管理している、公益財団法人常盤同郷会、宇都宮良治常務理事の挨拶で始まり式典後は、お茶会、お琴の演奏会で眞之を暫しの間偲びました。
秋山眞之は、伊予松山藩士・秋山久敬の5男として慶応4年3月20日、に生まれ幼名は淳五郎で、元服し名を眞之と改めました。
眞之は、兄好古の支援をえて東京大学を目指し、東京大学予備門に入学、東京帝国大学を目指しますが、尊敬する兄、好古に学費、生活費の負担を掛けることは偲びがたし、の思いを持ち、兄を説得し了解を得て海軍兵学校17期生として進学しました。(なお、東京大学予備門の同級生に夏目漱石がいました。)
海軍兵学校では、終始首席で卒業し海軍大学校教官を経て、日露戦争勃発には、日本海軍連合艦隊司令長官東郷平八郎の下で作戦担当参謀となり、旗艦「三笠」乗艦、日本海海戦では、ロシア海軍太平洋第二艦隊・第三艦隊を日本海で撃滅その作戦を全て秋山眞之が専任参謀として立案し勝利に貢献しました。
その後大佐となり、海軍少将と昇進、大正6年12月1日中将に昇進、大正7年2月4日、小田原の山下亀三郎(山下汽船創設者)の別宅で盲腸炎を患い腹膜炎を併発し亡くなりました。享年49歳、海軍中将従四位勲二等旭日重光章であります。
墓所は、東京青山霊園に兄好古と一緒でありましたが、昭和62年鎌倉霊園に改葬しました。

画像は3月22日開催された秋山淳五郎眞之の生誕147年祭であります。


開場となった「秋山兄弟生誕地」。


式典会場「秋山兄弟生誕地・武道場」。


午前9時30分開式、生誕147年祭開催の挨拶を述べる、公益財団法人常盤同郷会、宇都宮良治常務理事。


公益財団法人常盤同郷会・藤島理事が眞之に献茶。


147年祭を祝い、正派邦楽会、大師範・琴・三弦前谷雅貴社中の皆さんが演奏した。最初に演奏された曲は「さくら・さくら」を素晴らしいアレンジで演奏し会場から一斉に大きな拍手が起こった。


秋山眞之生誕147年祭に参列された愛媛県・松山市の来賓各位。


演奏された曲「さくら・さくら」の素晴らしい演奏を聞き入る参列者。


琴の演奏を聴きながら、伊豫売茶流・天山会の茶会が午後3時まで開催されました。
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我が家から見た西日本最高峰「石鎚山」

2015年03月12日 | 伊予松山歴史散策
昨日(11日)松山は、最低気温零下0,4度まで下がり寒い一日でありました。一昨日は、午前中と、午後に雪が降り一時期雪化粧をしましたが、直ぐ解けました。
西日本最高峰「石鎚山」はこの所姿を観る事が出来なかったですが、昨日久しぶりに姿を現しました。
積雪の状態は、例年にない多い積雪で山の裾野まで真っ白な石鎚山が夕方現れました。
画像は、我が家から見た西日本最高峰、石鎚山(1982m)です。
松山市内一ヶ所だけ松山城と背景に石鎚山をいれて撮影出来る場所があります。今回は時間がなく移動できなかったです。


午後5時50分我が家からの石鎚山。
近年最高の積雪です。


近年は、地球温暖化現象のため積雪が少ないのですが、久しぶりに裾野まで冠雪した石鎚山を見ました。石鎚山(1982m)と二ノ森。


石鎚山(1982m)をアップに撮りました。


中央に三角形の地点が観えますが、ここに石鎚神社山頂社があり標高1974m(弥山)です。その右に最高点の天狗岳(1982m)があります。
弥山と天狗岳を総して石鎚山と呼びます。
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