EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山好古 揮毫石碑紀行 44番目―1「日枝神社」追記

2010年03月22日 | 往年の名車 メグロ
秋山好古 揮毫石碑紀行 44番目―1「日枝神社」追記
 
平成21年11月6日に新潟市江南区沢海二丁目新たに発見された秋山好古揮毫石碑の追記2である。

3月17日石碑取材に行って来ました
なぜ新潟に好古揮毫の石碑「忠魂碑」があるのか判明した。

石碑建立の由来
203高地は当初あまり重要視されなかったが、旅順港停泊中のロシア海軍太平洋第一艦隊に砲撃しようとする際、弾着を観測する兵を配置するのに最適な場所であると気づいた日本海軍連合艦隊の参謀であった秋山眞之少佐がこの高地を攻略することを進言した。203高地からは旅順港が良く見通しが出来る高地で日露戦争の決する重要な鍵を握る場所になった。
明治37年9月20日の総攻撃戦闘に大町助作一等兵士も参加露軍鉄條網切断の任に当たり目的は達成したが敵弾に当たり戦死した。第8中隊所属の斉藤源次郎上等兵は、奉天に前進中盛京省田義屯地点に於いて露軍と激戦奮闘したが敵弾を受け壮烈な戦士を遂げた。また清田幾平伍長は、ローゼンガルトフカの激戦で戦死した。三名の陸軍兵士は、新潟県沢海地区から出兵し名誉の戦死をされ村葬として明治37年12月3日に葬儀が行われた。

神田又一横越村長、阿倍浩新潟県知事、第15旅団長斉藤徳明大佐、他多数の関係者が参列され壮大に行われた。大正2年7月に沢海地区の戦死者の英霊を祀り、後世に残して行くために、賀表講の皆様が忠魂碑を建立した。揮毫は、当時高田市に駐屯していた第13師団長秋山好古中将に横越村長神田又一氏、横越村会議員大町為作氏が碑文「忠魂碑」を依頼したものである。

現在も忠魂碑の前で慰霊祭が行われており今年は盛大に開催されるそうだ。
以上建立の経緯に付いては、元、横越町会議員議長・現、横越コミュニティ協議会会長・神田勝郎氏の詳細なる調査により判明した。

3月17日石碑の取材に付きましては、北方文化博物館佐藤部長様、神田勝郎様に大変お世話になり、現在秋山好古揮毫石碑は46基判明しているが建立の経緯が詳細に分かったのは新潟市沢海の石碑のみである。改めて神田様に御礼を申し上げます。

そして、新潟市文化観光・スポーツ部 歴史文化課 福田様にもお世話になりました。
16日は雨天であったが17日はいい天候に恵まれいい取材が出来た。何時もながら好古さんは私の取材にはいい天気にしてくれる。

平成22年3月17日
秋山好古揮毫石碑専任調査員:仙波満夫・現地取材

画像は、今回の取材で私が撮影した画像である。

1.碑   文 :  忠魂碑
2.所 在 地:  新潟県新潟市江南区沢海二丁目15-30  日枝神社
3.揮 毫 者:  陸軍中将 秋山好古
4.建 立 者:  賀表講
5.建立年月日:  大正2年7月 
6.碑石大きさ:  高さ 2m70cm 横幅 1m48cm 厚さ 42cm
7、石碑の由来: 上記記載の通り
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『坂の上の雲』のまち松山スペシャルドラマ館

2010年03月14日 | 伊予松山歴史散策
『坂の上の雲』のまち松山スペシャルドラマ館

ドラマで使用された衣装など展示
「『坂の上の雲』のまち松山スペシャルドラマ館」が7日、松山市丸之内の松山城ロープウェイ東雲駅舎2階にオープンした。開館期間は平成24年1月末まで。

松山商工会議所などでつくる「交流人口・産業拡大会議」が開いた。
県内などを舞台にしたNHKのスペシャルドラマ「坂の上の雲」の放送をきっかけにして、松山の観光産業を発展させるのが狙いという。

ドラマで実際に使用された野球道具や衣装、秋山真之が誕生した当時の秋山家を再現したセット、写真パネルなど、約110点が並ぶ。
 開館時間は午前8時半~午後5時半。見学は有料である。

画像は、松山スペシャルドラマ館開催に合わせてロケに使った28サンチ榴弾砲が展示されている。
コメント (2)
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平成22年3月12日の石鎚山 

2010年03月12日 | 伊予松山歴史散策
平成22年3月12日の石鎚山 

三寒四温とよく言いますが、此の所の気温の差が激しく春になったと思いきや行き成り真冬に逆戻り、今年の天候は異変続きである。
一昨日松山の山々も積雪で雪化粧し、西日本最高峰の「石鎚山」は真っ白かと思い、その姿を待っていたが今日姿を現した。
思ったよりも積雪が少なくどうなっているのか不思議である。
松山自動車道は積雪で通行止めになったには石鎚山の積雪が少ないのには驚きである。

画像は、本日我が家から見た西日本最高峰の「石鎚山・1982m」です。
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萩 往還

2010年03月07日 | 伊予松山歴史散策
萩 往還

先日TVで、萩往還を見た・・武士が天皇の勅命により征夷大将軍を拝命し政権を遂行、天皇の臣下というより天皇の統制者であったが、江戸時代になると事実上の国内を代表する支配者となり天皇を抑えるようになった。

1603年開幕した江戸幕府、264年続いたが徳川慶喜が大政奉還して閉幕した。
武士が政治関わった始まりの鎌倉幕府から675年目に王政復古、明治維新、此れに関わった一人として小伝馬の牢獄で処刑された、吉田松陰の石碑がある。

吉田松陰は、明治維新の精神的指導者として贈正四位を受領され靖国神社に祀られている。

吉田松陰の門下生達も尊皇攘夷、討幕、新しい政治の構築をこころざし、どんな思い出萩往還を歩いたのであろう。
明治維新は近代日本の基礎を築いたが、果たして良かったのかどうかは??である。

維新に関わったもう一人の人物が、政治に軍人を入れると日本はダメになるから絶対に入れてはならぬといって亡くなった。戦前の政治形態は正にその通りとなった。

画像は、小伝馬町にある吉田松陰終焉の地にある石碑で、石碑には辞世の句が刻まれている。(昨年9月に行った時に撮影)

吉田松陰辞世の句
身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂
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