今回の石碑情報は、愛媛県立伊予農業高等学校の、日山貞治先生から秋山兄弟生誕地事務局に頂いた情報に基づいての取材で、後日同高校に報告とお礼に行きました記録です。
同校を訪れ、日山先生にお礼を述べると、先生から職員室に秋山好古揮毫の扁額がありますがご覧になりますかと告げられ是非拝見したいとお願いし職員室に案内して頂きました。
職員室には、秋山好古揮毫の扁額が掲げてありました。私がお礼にお伺いしました当時の校長先生は、岩村正雄先生で、好古揮毫の扁額について今まで受け継いできた事柄を話して頂きました。この扁額の事は最後に紹介します。
その後、岩村正雄校長先生は、人事異動で愛媛県立松山商業高等学校校長として異動され、愛媛県高等学校野球連盟会長としてご活躍されました。
さて
日山先生から所在を教えていただきました場所は、大洲市長浜町戒川甲245番地1の三嶋神社で、標高324mの山深い所にあり、道は分かりにくいからくれぐれもお間違えの無いように注意して行かれて下さいと助言を頂いた。
三嶋神社にある社号碑「三嶋神社・御大典紀念」は、今までの石碑調査で一番苦労を要した取材でした。・・特に道が隘路で、多くの分岐点が有りガードレールも無い普通車一台しか通れない細い道で、・・カーナビゲーションにも該当しない地点でした。
三嶋神社には宮司いなく、他の数社を兼任しており、宮司自身経路は知らなかった。何時も地元宮総代の車に同乗して行くから分からないと言われました。
今回お世話になりました方々は
伊予農業高校日山先生・大洲市八多喜町の綿六旅館のご主人宇都宮年秀さん・地元の若い女性お二人大変お世話になりました。
ガードレールも設置されてない隘路を難儀して登るとやっと三嶋神社に辿り着きました。
すると画像の様に、若い女性二人が三嶋神社の社号碑を見聞していました。
少し伺ってみました。・・誰が書いたか知っておられますか?と問おうと・・秋山好古さんが書かれましたと返答が返って来ました。
驚きであった!!若い貴女達よく知っておりますねと尋ねると、以前松山の秋山兄弟生誕地の近くで生活をしていて、生誕地の好古さんの石碑の写真を見ておりましたので・・だけど、三嶋神社の石碑は無かったですね。
現在は、神社近くにある実家に帰っております。・・でした。そんな会話をして、後ろ姿の写真を撮らせて頂いた。(顔を写さない条件で)
女性に帰り道を伺うと、JR白滝駅方向に下りる方が分かりやすいからと教わりその方に下りましたが、しかし分岐する地点が結構ありました。・・迷路の神社でした。
1.碑 文 : 三嶋神社
2.所 在 地: 大洲市長浜町戒川甲245番地1
3.揮 毫 者: 陸軍大将 秋山好古
4.建立年月日: 昭和3年御大典紀念
5.石碑大きさ: 高さ2m39cm 横幅64cm 厚さ43 ㎝
6.石碑の由来:昭和3年11月10日、昭和天皇の即位の礼が行われた。大嘗祭と一連の儀式を合わせ大礼または大典の記念に建立された。
秋山好古が揮毫した石碑は、現在全国に53基発見されています。(令和2年10月現在)
御大典記念に合わせて建立された石碑が10基あります。三嶋神社もその一つですが他の9基は、御大典記念と揮毫されていますが、三嶋神社だけが御大典紀念と揮毫されていました。
記と紀の違いは
社号碑の裏面に御大典紀念建立とあり、「記」が「紀」であったのも今回初めてであります。
記と紀の違いは・・
『大漢和辞典』が「紀念は俗用」と書いたのが原因であるのか、『広辞苑』が「紀念は誤用」と書いたのが原因であるのかはっきりしない・・とあります。
紀念、という言葉を時々目にしながら、記念との違いは何だろうかとはあまり意識せずにいましたが、辞書で調べてみるとどうも意味に違いはなくて、中国の表記では「記念」ではなく「紀念」を用いる場合が多いらしい。・・と説明されている。
日本でも大正期の文学では紀念が一般的だった。紀には「記憶に留める」、念には「懐かしく思う」という意味がそれぞれあるようで、紀念には「物事、人物を長く記憶に留める」という名詞としての意味があるという事が分かると言葉の美しいのを感じるのと同時に、日本でも紀念という表記でいて欲しかったように思います。・・とある記述があった。
また他の記述には
古事記:
内容は日本ができるまでの歴史について書かれていますが、その内容には伝説的な要素を含み、天皇の神格化のためのツールとして使われたとされています。
つまり、天皇が自ら神の子を名乗るにあたり、その根拠として古事記という伝説を作り、国を治めたというわけです。
日本書紀では、日本という国が作られてきた流れについて説明した書物なので、「紀」の漢字が使われています。ある資料に記述されています。
記の漢字の意味
文章を書き「しるす」という意味があります。
日記、記録、記事といった熟語からもわかるように、出来事やあったことなどをそのまま書き残しているときに使う漢字です。
古事記は天皇の歴史を記したもののため、「記」の漢字が使われています。
紀の漢字の意味
すじみちを立てて示したものやルールをあらわします。
紀行、世紀、風紀と言った熟語からもわかるように、流れや規則を表す時に使われる漢字です。
どうして古事記に「記」の漢字をつかったのか古事記は伝説的な要素があるため事実ではない歴史を含んでいます。
そういう意味では本来なら「記」はふさわしくありません。
しかし天皇の神格化をするために作られたということを考えれば、「こういう歴史的事実があったんだよ!」という意味を込めるために「記」を使ったと考えられます。
どうして日本書紀に「紀」の漢字をつかったのか
日本書紀は、あった事を後世に伝えるための記録です。
色々な文献を調べ、調査し、歴史に沿って順序立てて作り上げたものだから「紀」を使いました。
よく古事記と日本書紀の違いがわからないという方が多いのですが、漢字の意味の違いに着目できれば、覚えやすくなります。
このように漢字の意味を考えるだけで、歴史を深く学べることができるのです。とある学習指導塾の資料にありましたので引用させて頂きました。
「記」は単に「書きしるす。記録」という意味ですが、「紀」は「順序立てて整理して記録する」という意味です。よって、「紀」は「歴史」という意味を持ちます。これから推測すると、「旅行紀」は「今までした旅行を年代順に記載したもの」あるいは「人類の旅行の歴史」などの意味が考えられます。・・とも解説がありました。
皆さんも考えてみて下さい。日本語は難しい。
秋山好古はどんな事を考えて三嶋神社の石碑のみ「紀」を使って揮毫したのでしょうか?・・今は知る由もないです。
石碑右側に揮毫した秋山好古の肩書と氏名がありました。
私よりも先に来られて方が写真を撮るためにか?文字がよく分かるためにか、綺麗にされていました。
三島神社入口で、鳥居をくぐり境内に入ると広く立派な拝殿本殿があり、拝殿には沢山の絵馬が奉納されていました。
では、社に入りましょう。
三嶋神社の鳥居を潜り境内に入ると社は広々としていた。
注連石があり揮毫は、陸軍中将正四位勲二等功五級 烏谷 章であった。
烏谷 章は秋山好古の後輩で、一時期松山同郷会(秋山兄弟生誕地の母体)の役員を歴任したことがある人物ある。
三嶋神社に辿り着くには苦労したが、神社境内は広々としていた。
標高は、324mあり好古揮毫石碑の中で一番高い所にあった。
画像は、三嶋神社社殿で。
同神社の沿革は、保元2年8月15日に越智通次が大山祗神社の御分霊を、喜多郡横松村長尾に鎮祭したのが創始であると言われ、神紋も大山祗神社と同じ「折敷に三文字」であった。
三嶋大明神と称し、地方総鎮守の大神と崇敬されていた。
元和2年、加藤公が大洲藩主に移封とともに祈願所となり、天正の頃まで川下18ヶ村と伊予郡上灘、下灘まで産土神として尊崇を集め、天明年間8ヶ村の総鎮守となり、境外末社50社を有していた。
明治以降三嶋神社と改称、明治44年天満宮を合祀した。
現本殿は、天保4年、拝殿は、寛延元年の再建である。・・愛媛県神社誌より引用。
拝殿に奉納されていた絵馬で何故か相撲取りの絵馬が多かったです。
拝殿には、二つの社号額が掲げて在り、右側に「三嶋大明神」左に「三島宮」がありました。
拝殿の後方にある本殿で、造りは手の込んだものです。
本殿で、造りは手の込んだもので沢山の彫刻が施されてあり、腕のいい宮大工が造ったのであろう。立派な本殿であった。
三嶋神社の前でここも分岐点があり非常に分かりにくい神社までの道のりでした。
車は私のものです。
帰りは、若い女性が教えて頂いたJR白滝駅に下りる道を選択しました。途中開けたところがありシャッターを押しました。こんな山間で、藩政時代は6万石の大洲藩でした。
大洲市市制施行50周年記念事業として平成16年に木造で再建された大洲城があります。
JR四国の観光列車「伊予灘物語号」を手前にし背景に大洲城を入れた写真が大人気です。
さてここからは、伊予農業高校職員室に掲示してある秋山好古揮毫の扁額を紹介します。
揮毫は、「研精而不倦」・・けんせいにしてうまずで(心身ともに磨き、怠けず、精進努力をする・途中でやめることなく、何処までも勉強し尽くす)・・の意味の扁額で、愛媛県立伊予農業高等学校の職員室に掲示してありました。
実は、この扁額は一時期取り外しておりました。
その理由は
昭和20年8月14日、ポツダム宣言を受諾した我が国は、同年10月2日、連合国軍最高司令部が設置され、最高司令長官に、マッカーサーが就任、日本の戦後処理が始まった。連合国最高司令部を日本では、GHQと呼称した。
GHQは、色んな改革を行ったが、その中に教育改革が行われ、6・3・3・4の学校制度の導入、教育勅語の廃止、その他多くの改革が行われた。その一つに、教育施設内または、その周辺に軍人が揮毫した石碑・扁額等の撤去命令が発令された。
同校の扁額も、この事で撤去され当時の校長先生が自宅に持ち帰り大切に保存され、戦後(昭和27年4月28日、サンフランシスコ講和条約発効、日本の主権が回復)再び元の場所である職員室に掲示され現在に至っています。・・と岩村校長先生から経緯を伺いました。
追記:
教育施設内または、その周辺に軍人が揮毫した石碑・扁額等の撤去指示が発令された撤去され、戦後再建立された秋山好古揮毫の石碑が2基と扁額が2枚あります。
その一つの石碑は、清水小学校校庭にあった石碑「天壌無窮」で撤去され同校用具室に保管してあった石碑を、平成7年10月、同校渡部校長の許可を得て愛媛県護國神社・波爾荘宮司の努力で護國神社境内に再建立された。石碑が割れているのは、撤去作業の時のものである。
もう一つの石碑は、宇和島市立喜佐方小学校正門近くにあった石碑「忠魂碑」で、現在は喜佐方小学校近くの宇和島市吉田町河内にある安楽寺境内に再建立されている。
安楽寺の奥山住職は、危険もかえりみず「私が罪を被るから、我が寺に引き取り保存する」と断言されそれ以来、安楽寺がこの石碑を守ってきた。
安楽寺は、吉田町出身で山下汽船(現・商船三井)の創業者・山下亀三郎の本家とは、親戚同様の交際があるようだ。
山下亀三郎は、秋山眞之が「日本は中国との貿易を活発にしなければならない」と話すのを聞いて汽船会社を創業し、大成功した山下汽船である。
眞之は、小田原にいた山形有朋を訪ねるために、亀三郎の小田原の別荘に滞在していたが、そこで持病の盲腸炎が悪化して腹膜炎を併発し、大正7年2月4日、亀三郎らに見守られながら49歳で死去した。元東京都知事・石原慎太郎・俳優・石原裕次郎の父は、山下汽船の社員であった。
宇和島市立簡野道明記念吉田町図書館。
図書館の建物は寺院風である。初代の奥山昭典館長が、命がけで守った「忠魂碑」の保存者、安楽寺の住職で、奥山住職が館長だから寺院風に造ったのかと視察に来た人達から言われるそうだが、図書館建設委員から京都二条城を模して建築したそうだ。
何故二条城なのかは?で簡野道明の寄付により図書館は開館した。
註:簡野道明は、伊予吉田藩には、慶応元年4月9日、伊予吉田藩江戸屋敷で誕生した。
4歳の時伊予国吉田(現在の愛媛県宇和島市吉田町)に戻り、小学校に入ってから漢学・習字を学び、中学を卒業後小学校の教員を経て愛媛県師範学校に入学する。
卒業後は愛媛県南予地区で教鞭を執り、その後、漢和辞典「字源」を編集し刊行した有名な人物である。
もう一枚の扁額は、愛媛大学農学部付属高校(現在、愛媛大学付属高校)に掲示してあった扁額「質実剛健」です。
質実剛健の扁額は、額から外され、たたんで箱に入れ資料室に保管されていました。
私は、同校の副校長・久山 出先生とは、ある研究会の仲間で、久山先生から同校で保存するよりも秋山兄弟生誕地で来館者に観覧してもらう方がいいからと、特別な計らいで現在は、秋山兄弟生誕地の武道場に寄託扱いで掲示しております。なお額は、秋山兄弟生誕地が手配し新調しました。開館時は何時でも鑑賞できるようにしておりますので是非御覧下さい。
全国には、軍人が揮毫した石碑や扁額がGHQの撤去命令に該当し撤去され廃棄された石碑、扁額が多くあったのではないでしょうか。幸いにここに紹介しました石碑や扁額は心ある人が再建立した大切な意味深いものです。
この扁額は絹に揮毫しておりますので好古さん書きにくかったと思います。
秋山好古がこの扁額を揮毫した時は、愛媛県立松山農業学校時代で所在地は、愛媛県警察松山東署の場所で、警察署が建設されるので松山農業学は現在の愛媛大学農学部のある松山市樽味3丁目に移転しました。松山東署の敷地内には、県立松山農業学校時代の記念碑が建立されています。
※ GHQの指示により扁額は撤去され額から「質実剛健」の書は外され折りたたんで箱に約60年間眠っていたため下地の絹には染みが生じ、折りたたんだ跡がなかなかとれなく表具屋さんは、シワを取り除くのに苦労したそうです。
松山東警察署にある愛媛県農業教育発祥之地の記念碑と説明板。
この地に明治33年愛媛県農業学校(現、愛媛大学農学部)が創立されたその説明板。
愛媛県農業教育発祥之地の記念碑。
現在、松山東警察署は建て替え工事中ですが、記念碑は見ることが出来ます。