すでに矢野晴美先生を始めとする多くの感染症専門家の方たちが何年も前から言い続けていることですので気が引けますが、
http://www.m3.com/sanpiRyouron/article/140578/?portalId=mailmag&mm=EA110824_111&scd=0000029807 (登録が必要?)
まあICU医の立場からと限定すればいいかな、と思ったのが一つと、朝のカンファレンスでディスカッションの話題になったから整理しておきたいと思ったのが一つと、「言い続けてもプラクティスが変わらない」なら「変わるまで手を変え品を変え言い続ける」しかない、と思ったことが一つ。
というわけでおつきあいください。
まず結論
いきなり結論ですが、ルーチーンにCRPを測定することによるベネフィットは小さく、むしろ弊害が多い。そして、必要に応じて使う、という使い方が恐らく賢い。しかし、「いつ、どのように」使うべきかは、確定していない、としておきます。
そもそもCRPは何のために測定するのでしょうか。理論的にはどのような使い方が考えられるのでしょう。
一つ目は、感染症の有無の判定のため。これはすなわち抗菌薬の使用開始基準といっても良いでしょう。その判定にも2つの使い方が考えられる。一つは感染症の有無の「確定」、と有無の判定の「補助」という2つです。
感染症の有無の判定の「確定」のため
さすがにCRPが高いことが感染症の診断確定に必要である(他に所見が出そろっていてもCRPの高値がないと感染症とは言いきれない、という意味)と言い切る人は少ないと思いますが、たとえばバイオプシー、血液培養のような検査にとって変わることができるのか、「CRPが高ければ必ず感染症あり」と言えるのか、という命題です。特異度が高くないことはみんな知っています。ただし、こういう文脈の話し方、たとえば「心不全にしてはCRPが高いので、感染があると思うので抗菌薬を使う」と語る先生がいるのは確か。これは後でも述べますが、ルーチーン化してしまったことによる弊害の一つでしょう。検査結果、推移が1人歩きして、それに踊らされてしまう、検査データ(実はその背後に潜む“自分自身の安心感”)を治療対象としてしまう「CRP依存症」の典型です。
感染症の有無の判定の「補助」のため
ICUでは他に所見のはっきりしない感染症はたくさんあります。感染で、WBC、身体所見を含めて全身所見が出るか出ないかは、患者さんと菌の戦い方が激しければ出るし、うまく局所に抑え込めればはっきりしない。またステロイド、免疫抑制があればWBCも怪しい、そもそも身体所見もはっきりしない人はたくさんいる。
今のところ感染症は早期発見、早期治療開始が患者のベネフィットになる(本当は実はそうでないかもしれませんがね。コントロールド研究ができない案件の一つなので。むしろ遺伝子の多型が決める患者の感染症に対する反応の仕方の方がファクターとしては大きいと予想しています)。ある有望な若いICUドクターが以前にM&Mで示してくれた乳酸 vs ScvO2の研究のデータを使った二次的な解析で、ショックが成立してからではSSCG提唱の「1時間以内の抗菌薬投与」でもすでに遅いかもしれない、ショックの前から抗菌薬が開始されないと生存率が上がらない、という論旨の論文がありました(Puskarich MA. Association between timing of antibiotic administration and mortality from septic shock in patients treated with a quantitative resuscitation protocol. Crit Care Med 2011)。すると、そんなときにCRPは補助的に使えば有用である可能性が出てくる。そのためにはもしかしたら毎日測定することが正当化されるのかもしれない。これは熱が出たり、ショックになったりする以前に「軽微な早期の変化」をつかまえるという意味で有用かもしれない。
しかし、この有用性はCRPのルーチーン化により、マスとしてどの程度余分に患者を救命できるか、その分余分に費用はどの程度かかるか、必要のない抗菌薬治療がどの程度増えるか、という文脈で考える必要があります。ICU医師としてお預かりした患者は全員助けたいとは思うのは当然で、「軽微な早期の変化」を見つけることでもし救命率をあげることができるのなら、そうしたい。しかし、答えは直感的にNOだと予測します(もう少しおおらかに構えて、CRPの上昇だけでなくそのほかのもう1つ2つヒントが出現してから介入するぐらいで遅くないのではないか、と思うから。そのためにICU医がICUに常駐しているから。もちろんやってみなけりゃわからないですが)。
一方、もし仮に救命率を向上させたとしても、「はずれ」の症例に介入する資源が莫大になり、NNT的に考えてそれに見合うだけの救命率の向上は得られないと予測します。資源が莫大になるばかりでなく、かえって「CRP=感染症=カルバペネムの処方」という考え方を蔓延させ(すでに蔓延していますが)、かえってマスとして耐性菌を増やし、それが将来の患者に跳ね返ってくる。
初期抗菌薬の効果判定
確かに初期抗菌薬が効けばCRPは下がってくる。しかし、多くの場合にはその他の所見からも抗菌薬の効き具合はわかる。患者が良くならないときに、CRPを提出すると有用でしょうか。確かに初期抗菌薬療法が不適切な場合、CRPは高いままあるいは上昇しつづけるかもしれないが、その可能性を考慮するのは、患者が良くならないからである。逆に患者が良くならないのにCRPだけ改善する。そのときCRPが良くなったから安心、とは思わない。その他の良くならないときに考えるべき鑑別診断をリストアップする、そのときにCRPの上昇という所見はあくまで補助的に使えるかもしれないが、かえって迷い道に入り込んでしまい、余分な介入を行うリスクもある。
患者が良くなっているときにCRPを見ると、明らかにやっかいな状況を作る可能性があります。患者が良くなっているのにCRPが改善しないと「CRP依存症」の先生は何かせずには自分のココロを落ち着けることができなくなる。だから、患者が良くなっているときには「出さない」に限ります。これは原則よくなっているときに確認の培養検査をしない方が良いのと同じ理屈(カテ抜去後のルーチーンのカテ先培養はさすがに見なくなりました)。やらない方がよい検査、見ない方がよい検査もあると思います。
というわけでCRPを抗菌薬治療の効果判定に使おうとすると、かえって混乱させるもとになる可能性もあるわけです。あくまでその他の所見とともに使いましょう。
抗菌薬の継続の適否の決定
「CRPが陰性化するまで抗菌薬を使うべし」と述べる先生がいらっしゃいます。これには根拠がありません。ちなみに、「CRPが陰性化するまでICUにおいてくれ」とまでおっしゃる先生はさすがに見たことありませんが、「CRPが陰性化するまで退院はまかりならぬ」とおっしゃる先生はたくさんいらしゃるでしょうね。経験値としてこの感染症にはこのくらいの投与期間、という標準形があって、あとは臨床の現場で毎日継続の適否を判断する。そのときCRPの推移を見てもよいがあってもいいけれども、それはあくまで参考にする程度です。CRPがいくつ以上だからまだ継続、いくつ以下だからやめる、そのいくつはどこから出てきた数字なんでしょう、といつも思います。
確かに長期戦になる深部感染症で、他に指標が見当たらなくなったときに「いつまで継続するか」補助的にCRPを使用する、というエキスパートは多そうですが、我々ICUとは若干違うシチュエーションですが、ICUでもこの考え方は応用できます。たとえば感染症だと思って抗菌薬を始め、患者が良くなり培養から何も生えて来ない。そんなとき、培養が生えない感染症だった(もちろん培養は感度100%ではありませんからね)と考え予定の抗菌薬使用期間を薬を継続するか、やっぱり感染症ではなかったんだと考えるかは臨床的判断ですが、CRPが補助的に役に立つ場合があるかもしれませんね(おそらくプロカルシトニンがこのような使われ方が似合っていそう。豪州の林先生のレヴューClin Infect Dis 2011;52:1232-40がよくまとまっています)。
CRPの数値で侵襲の大きさ
他には、CRPの数値で侵襲の大きさを語る先生がいて、それの亜型が「CRPが◯◯だから(あんまり他の所見がそろっていなくても)抗菌薬行っておいて」と語る先生がたです。CRPの数値が侵襲の大きさとある程度相関することは想像に難くありませんが、私はそれによって治療方針を変えません。治療や管理の方針は変えるのはその他の全身の所見です。
CRPを測定しないICU
Aという病院のICUではCRPのルーチーンに測定しません。ときどきお邪魔することがありますが、「CRPを毎日見る世界」から「存在しない世界」に行って回診すると違和感を覚えます。ああ、見ないと不安に思う「CRP依存症」に自分もにかかってしまったんだな。ルーチーンって恐ろしいな、と思います。しかし冷静に患者を見てみると、確かにほとんどの場合必要ない。ただ「存在しない世界」にどっぷりつかると逆にそれがルーチーン化してその存在を忘れる、という事態にもなる。逆に私から「ここは補助的にCRPを提出してみたら」と提案することもあります。
まとめると、CRPは毎日ルーチーンで提出する必然性はない。それによる代償は大きい。北米、豪州のように(欧州はどうなんだろう)なくてもやっていけるが、使うなら賢く使いましょう。結局ありきたりの結論になってしまい少しだけ残念。
以下脱線。
日本人は確率論的な考え方が極端に苦手ですね。またベネフィットを得るためにリスクをある程度背負い込むことを本能的に避ける国民なんでしょうか。低い確率の事象を拾うために全員に行う、という態度が正当化され、それに疑問を挟まない国民とも言えます(だから医療費がかさむ?)。わずかなリスク、少数意見のために、多くの人が利益を被ることができるはずなのに、あえてしない、ことを好むというお国柄なのか。
たとえば、どのみち標準予防策をするのに術前にルーチーンで肝炎ウイルスばかりかHIVまで測定する。輸血の可能性が少ない上に、輸血するときにどーせ調べるのに入院時に血液型を調べておかないと気がすまない(これはさすがに減りましたかね)。元気な小児の術前に「決まりだから」心電図、採血までする。たとえば最近改善されつつありますが日本のワクチン行政もこの範疇ですね。
ルーチーン、決まりは人間を何も考えなくする麻酔作用を持っています。気をつけたいものです。と同時に、我々は「ほうら◯◯をやってない」という指摘を後ろ向きに行い、やらなかった人をしばしば「反省」に追い込みます。これもルーチーン化に一役買うでしょう。これも気をつけたいものです。