Dr. 讃井の集中治療のススメ

集中治療+αの話題をつれづれに

メディアに適応するヒトのコミュニケーション技術

2012-03-31 12:31:25 | その他

「きゃー期限過ぎちゃった」という表題の電子メールをいただきました。とある若い方(もちろん女性、男性なら気持ち悪い)に雑誌原稿の分担執筆をお願いしたのですが、こう来られると怒るに怒れませんねー。実際、添付文書として原稿と図がついていますし(当たり前か)、遅れたと言っても1日程度だし、ひとのコト全く言えないし。

こういうセンスはどっから来るのでしょうか。とても人を和ませる作用があります。

実際メールは、顔が見えない、口語のようで口語でない、手紙のような文語でもない、という特徴を持っています。メールを書く時には、なんとなくですが、まるで会話しているように、相手がインターネット上の先に実体として存在していると、無意識的に仮定してメール書いているのかもしれません。

だから、主語、述語、修飾語、補足説明などさまざまな“抜け”や“落ち”があって、後から見返すと意味不明であったり、まったくもってとんでもなく失礼であったり、「これじゃあ誤解して当然だよね」と顔が真っ赤になることもあります。仮に自分が発生させた“抜け”や“落ち”のせいで、相手が憤慨、当惑していても、相手がどのような気持ちなのか返事をいただくまでは一向にわからない。即時的な口頭の補足説明が成立しないので、誤解が増幅される可能性も大です(逆に、相手に頭を冷やす時間を持ってもらえてかえって良い方向に転がる可能性もあります)。

このようなコミュニケーション・バリアを避けるために、意図せず長文のメールになったりして、読み流されてかえって誤解を生んでしまったり。長文は書くのが大変だから、ついつい書くのが遅くなってタイミングを逸したり。逆にメールが短過ぎて、冷たさ、ぶっきらぼう、誠意のなさを相手に感じさせてしまったり。

このように、メール上のコミュニケーションを、正確に失礼なく、かつ気楽にフレンドリーに行うのは相当に難しいですよね。携帯メールとともに生まれ育った世代はうまいのでしょうか。それとも、社会人的な電子メールは携帯メールとは異質なものなのでしょうか。

端的かつ誤解のないメールを書くにはどうしたらよいのでしょうか。確かに良い文章を書くのに要求される技術の多くはメール作成にも通用しますが、それだけでは足りないような。

疑問が尽きません。

さらに考えると、スカイプなどのインターネット会議もある種のコツが必要ですね。オンサイトで直接会話するのとは異なる別のコミュニケーション技術が求められる気がします。このようにメディアによってヒトのコミュニケーションはすこしずつ変化していくのでしょう。

しかし、実際に電話で会話したり会議で話して、言いたいこと言いあう時間は貴重です。3往復(6通)のメールのやり取りが1回の電話、5往復(10通)のメールのやり取りが1回の会議に相当するのではないか、と感じています。最近は、すこし込み入った話をメールで頂戴すると、すぐに相手の電話番号をうかがって電話でお返事したり、往復の時間を厭わずにスタバなどでミニ会議をしたりします。

そのほうが、応急処置や抜本対策のアイデアが出て、結局アウトカムが出るまでの労力と時間が小さくなるばかりでなく、たわいのない会話の途中でポロッといただくヒントなどから、とっても良い新たな副産物が生まれやすいと感じるようになりました。

メールはなかなかこういう芸当はできません。

おっと長文になりましたのでこの辺で失礼。


集中治療医を目指す総合診療医。総合診療医を目指す集中治療医

2012-03-19 14:43:28 | 集中治療

 レジデントノート4月号の巻頭インタヴュー「あの先生に会いたい」を拝見しました。藤田保健衛生大学 総合救急内科教授の山中克郎先生のインタヴュー記事です。その中に嬉しいご発言を発見しました。

「これからは集中治療が大事だと思っています」

「麻酔や救急のチームに入って、そこで集中治療を私たちも学ばせてもらいたいです」

など、大変有り難いお言葉です。

 総合診療医も集中治療医も救急医も同じ総合医で、得意とする部分に違いはありますが共通点も多いですよね。米国がそうであったように、今後さらに内科系の先生がたが集中治療に参入してくださることを期待しています(注1)。ボク自身のバックグラウンドは麻酔科ですが、未だに内科系の先生がたに教えていただく部分はたくさんあります。そもそも、根本の診断を突き詰めるという内科的な考え方なしに、集中治療を場当たり的な対症療法に終始する場、技術であると捉えると、患者を失うことにつながります。もともと若い人を修行に出すのは大好きなのですが、内科の経験が少ない若者がその洗礼を受けられるよう、総合診療科に修行に出していました。

 集中治療というとどうも術後ICUのイメージが強くて....とおっしゃる内科系の先生も多いかもしれません。確かに外科系の問題になると急に拒絶反応を示す内科系の医師がいることも否定できないでしょう。しかし、外科ICU患者の重症度は実は高くありませんし(予備軍は多いが)(注2)、「ICU患者診療の8割は共通部分」(注3)なので、その8割を行うことができるようになるための「良いICUトレーニング」を受ければ、どの科の医師にでもどの科の患者のICU管理もできるようになります(注4)。私の周囲でも、元循環器内科医、元血液内科医、元腎臓内科医が、心臓外科の大手術の術後患者を何の問題もなく診療しています。ただし、残りの部分を埋める専門医との良好な協力関係を作っておく必要があり、重要です(注5)。

 確かに内科系の医師は、外科医に比べて当然手術の体験・知識は少ないですし、麻酔科医に比べて各種の生命維持技術の経験は少ないですが、逆に診断力、考察力では格段に優れています。おそらく最強のICUはこれらの違うバックグラウンドを持ったタレントの集団かつ、専門医、コメディカルとの良好な関係が築かれている場所ではないでしょうか。

 これからどんどん混合が起こるといいですね。均一なモノの考え方をするメンバーの集団はお行儀は良いが、自ら間違いを発見して更新しにくい、新しいものを生み出すパワーに欠ける、という一般論は真だと思います。別に日本のことを言っているわけではありませんけどね。

 

注1:米国の集中治療医の8割は内科系とくに呼吸器内科の先生です。集中治療の創設期には多くの麻酔科医が参与していたが、現在麻酔科医の中で集中治療をやりたいと思うのは少数です。個人的経験でもレジデントの同期35人中、集中治療のフェローシップに進んだのは私1人でした。

注2:「外科ICU患者の重症度は実は高くない」ことは、Intensivist 2012年第2号の 特集「術後管理」で内野滋彦先生が述べてくれます。現在、4月の内科学会、外科学会に間にあわせようとMEDSI編集部の方々が休日返上で作業中。

注3:集中治療医に求められる素養とは何か. Intensivist 2009年第4号 特集「不整脈」; 865-866 参照。

注4:「どの科の医師にでも」診れるがいままでそうやって来なかったことは変えずらいのは確かです。Intensivist 2012年第2号 特集「術後管理」の「心臓外科術後管理は誰がやる?」で心臓外科医、麻酔科医、集中治療医の間のバトルが繰り広げられています。必見です。

注5: 集中治療医に求められる素養とは何か. Intensivist 2009年第4号 特集「不整脈」; 865-866 参照。そこでも述べられているように、集中治療医のカバーする範囲は広く8割、専門医のカバーする残りは範囲は狭いが高く険しい道のりでもあります。


横文字好きな医療者たち

2012-03-15 12:55:53 | その他

 私たち日本人は、江戸時代末期の黒船の出現以来の横文字好きと言えるのでしょうか。巷には横文字が溢れています。ただ、この横文字を外来語と置き換えれば、そもそも漢字は中国から輸入したものですし、ひらがなにしてもカタカナにしてもその派生形に過ぎないので、元来日本民族は外来語好きと言えるのかもしれませんが(注1)。

 医療界ではどうでしょうか。しばしば使用される横文字をあげてみると、レジデント、ドクター、ナース、ケア、キュアに始まり、アセスメント、マネージメント、コントロバーシーなどが次々出てきますね。近年では、エビデンス、フィジカルアセスメントなど、神保町の三省堂の医療書籍新刊コーナーの、特に看護のコーナーに行くと、二冊に一冊はこの手の横文字が使われている印象を持ちます。確かにその用語がもつイメージを端的に表現する日本語がない(=適切な訳語がない)という事情から、“そのまま“使うのが最も適切な場合があります。しかし、レジデント、ドクター、ナースなど、すでに対応する適切な日本語もあるのに横文字をそのまま使うことも多いですよね。やっぱりわたしたちは“横文字好き”なんでしょう。

 横文字を使用すると、何となく表現が穏やかになったような気になりますし、黒船的な有無を言わせない強引な押しつけ作用、水戸黄門の印籠的に皆を黙らせる作用、シンボルとして注目を集める作用、かつ、オレが言ってんじゃないもん的な「責任を回避できる」ような作用がある気がします。すくなくとも「ちょっとかっこいい感じ」は確実で、それを出版社が利用し本の表題に使うからさらに広まるという悪循環(出版社にとっては好循環?)になるわけです(Intensivistもそーじゃない? おっしゃるとおりです)。

 それと同時に、日本には「自分が知らないことを他人に知られるのは恥である」と思わせる空気が漂っています。だから人前で「質問しにくい」。これは、ほぼすべての日本人が幼少時代から無意識にもつ共通感覚だろうと思います。その結果、多くのカンファレンスは恐ろしいほどに単調で静寂で(居眠り以外にすることがなくなりま)す。

 したがって、このような“横文字好き”かつ“質問しない”日本人に対し、新しい横文字を使用して見せることは、それを聞いたわたしたちを「おおっ凄い。知らない自分が悪いのね」と思わせる効果があるでしょう。すると、聞いた人の中の賢者、勇者たちが「何となくこの用語はこんな意味なんだろうな」と想像してシロートの火遊び的に使用するようになるでしょう。結果的に、それが伝言ゲームのように伝搬し、最後には意味が原義からズレていくこともあるでしょう。

 私は「横文字を使うな」と主張しているわけではありません。コトバは生き物であり、多くの外来語が輸入され定着する過程は似通ったものであるはずなので、いくら私が学生時代「美しい日本語を守る会」の会長だった(会員2名)としても、黙って見守ることしかできません。私が指摘したいのは、新しい横文字が上記のような定着過程を辿るうちに、その横文字本来の意味が見えにくくなってしまうのではないか、という点です。結果として、横文字をちりばめた発言や文章が「何となくわかるけど心の底から納得できない」といつまでも違和感が消えなかったり、コトバのイメージが共有されていないために議論が噛み合なくなったりします。

 先日、とある先生(医師)が私との会話の中で、“オーディット”ということばをお使いになり、その意味は確かインスペクション(査察、監査)みいたな意味だったと思うけど、はてどのようなコンテクストで使われているのかな、と自分の頭で考えながらその先生のお話を聞きしていました。結果として「で、オーディットって何ですか」と訊くタイミングを逸してしまい(注2)、このオーディットがしっくりこないうちに、次の話題に移ってしまいました。このブログを書いている今も自分の中にモヤモヤが残っています。

 このような「使う方も使われる方もよくわからんで使う、あるいはわかっているつもりで使っているのに実はよくわかっていない」横文字の代表に、“エビデンス”という用語があります。いまや医療従事者の間で、エビデンスやEBM(evidence-based medicine)という用語は共通語、流行語になりました。例えば、「エビデンスはないですが.....」とか「エビデンス的には....」などの発言を耳にしたり、「エビデンスにもとづく◯◯学」とか「◯◯ケアのエビデンス」という表題を三省堂の医療書籍新刊コーナーで五冊に一冊はみかけたり、「エビデンスに厳しい」先生(この言い方も変です!)が「エビちゃん」という別称で呼ばれたりするようにさえなりました。

 しかし、多くの場合その発言、記述の中にエビデンスやEBMに対する誤解の匂いを感じ取ることが多いのです。自分の中ではそのような誤解が恐くて、1990年代の登場時に魅了されたエビデンスというコトバが、近年ではなるべく使わないように心がける相対的禁忌にさえなっています。

 もと「美しい日本語を守る会」の会長だった(会員2名)ので、コトバに対する感度は失いたくないものです。というよりも、自分の中のそういう衝動を消そうと思っても消えません。これが性(さが)なんでしょうか。

 

注1:歴史や漢字の事情通には、日本語の書き言葉の成り立ちをそんな軽く扱うなー、不適切な引用やめてください、と怒られそうですけど....

注2:年取ったことの特権の一つに、人に尋ねることを厭わなくなることがあるので、たいがいの場合「◯◯って何ですか」と聞けるようになったのですが、話の流れで聞くタイミングを失うことは今でもあります。