醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1412号   白井一道   

2020-05-16 10:37:34 | 随筆・小説



  徒然草第235段 主ある家には



原文
 主(ぬし)ある家には、すゞろなる人、心のまゝに入り来る事なし。主なき所には、道行人濫りに立ち入り、狐・梟やうの物も、人気(ひとけ)に塞(せ)かれねば、所得顔(ところえがお)に入り棲み、木霊(こたま)など云ふ、けしからぬ形も現はるゝものなり。
 また、鏡には、色・像なき故に、万の影来りて映る。鏡に色・像あらましかば、映らざらまし。
 虚空よく物を容る。我等が心に念々のほしきまゝに来り浮ぶも、心といふもののなきにやあらん。心に主あらましかば、胸の中に、若干(そこばく)の事は入り来らざらまし。

現代語訳
 主の住む家には、無関係な人が思いのまま通りすがりに入って来ることはない。主の居ない所には通りすがりの人がみだりに立ち入り、狐や梟のようなものも、人の気配に防がれることがなく、思う存分入り込み住み始め、木霊(こたま)などという奇怪なものが現れてくるものである。
 また鏡には色と像がないので、あらゆる物の映像が映る。鏡に色や像があったとしても映ることはないであろう。
 何もない空間にはあらゆる物をいれることができる。我らの心に種々の思いが気ままに現れては浮かんでくるのも、心というものに実体がないからであろう。心に主がいるのならば、胸の中に多くの事は入り込むことはないであろう。

鏡の神秘性   白井一道
神を祀るために、弥生時代以来さまざまな品々が捧げられてきた。「鏡」はそのひとつである。古代の祭祀を考える上で手がかりとなる『日本書紀』の「天石窟(あめのいわや)(『古事記』では「天石屋戸〈あめのいわやと〉)」の神話を読むと、鏡の記述が目に留まる。鏡をサカキ(常緑樹)に下げて捧げ、天照大神のお出ましを願うシーンがあるのだ。「八咫鏡(やたのかがみ)」と呼ばれるその鏡は、のちに天上から地上世界へともたらされたという。優れた鏡は神に捧げられ、その象徴ともなったのである。一方で、鏡は神祭りのみならず、人の葬祭にも用いられた。
「古代の人々にとって、鏡は単に姿を写す実用品としてだけでなく、墓への副葬品や祭祀の道具としても使われました。多くの遺跡からも、そのような使い方をしていた形跡が見て取れます」
こう話すのは、國學院大學 研究開発推進機構の内川隆志教授(國學院大學博物館 副館長)。実際、古墳時代に作られた古墳の中には、鏡が副葬品として使われていた事実を伝える遺跡が多数ある。
「たとえば、4世紀前半に作られたとされる奈良県の黒塚古墳(天理市)。ここからは、三角縁神獣鏡が33面、そして画文帯神獣鏡が1面、出土しました。三角縁神獣鏡は、鏡面をすべて埋葬者に向けて並べられ、埋葬者の頭部付近には画文帯神獣鏡が置かれていました」
また、3世紀後半〜4世紀前半の古墳と推定される奈良県のホケノ山古墳(桜井市)からも、画文帯神獣鏡が出土している。一方で、古代祭祀の形跡が数多く残り、世界遺産にもなっている福岡県の沖ノ島では、当時の祭祀遺跡から数多くの鏡が見つかった。死者への副葬品、そして神への捧げ物として、鏡は大きな役割を果たしていたことが分かる。
「三種の神器」でもある鏡、人々が感じた特殊な力とは
弥生時代前期に日本へ伝わった鏡は、後期になると、北九州を中心に日本国内でも作られるようになる。副葬品として、また4世紀頃からは祭祀でも用いられていたことが出土事例から確認できる。
時代が進む中で「当時の祭祀遺跡からは、本物の鏡だけでなく、鏡を模した石製や土製の模造品も出現しました」と内川氏。また、古墳から出土した埴輪の中には巫女の姿を表した「巫女埴輪」があるが、腰には呪具として鏡を付けているものも見られ、祭祀と鏡との密接な関わりを想起させる。
 今年5月に行われた天皇陛下の剣璽等承継の儀では、皇位と関係する「三種の神器」が話題となった。剣・璽とともに鏡があり、長い日本の歴史の中で、鏡が果たしてきた役割の大きさの一端が伺えるのではないだろうか。最後に、古代に建物を建てるのに先立ち、土地の神を鎮め邪鬼を払いのける目的で、鏡が土中に埋納された。
吉永博彰

醸楽庵だより   1411号   白井一道

2020-05-15 11:04:23 | 随筆・小説



   徒然草第234段 人の、物を問ひたるに



原文
 人の、物を問ひたるに、知らずしもあらじ、ありのまゝに言はんはをこがましとにや、心惑はすやうに返事したる、よからぬ事なり。知りたる事も、なほさだかにと思ひてや問ふらん。また、まことに知らぬ人も、などかなからん。うらゝかに言ひ聞かせたらんは、おとなしく聞えなまし。
 人は未だ聞き及ばぬ事を、我が知りたるまゝに、「さても、その人の事のあさましさ」などばかり言ひ遣りたれば、「如何なる事のあるにか」と、押し返し問ひに遣(や)るこそ、心づきなけれ。世に古りぬる事をも、おのづから聞き洩すあたりもあれば、おぼつかなからぬやうに告げ遣りたらん、悪しかるべきことかは。
 かやうの事は、物馴れぬ人のある事なり。

現代語訳
 人がものを問う折、知らないという事でもあるまいと、本当の事を言うのに抵抗感を覚え、不明確に回答するのは悪いことである。知っていることであっても、いくぶん明確ではないと思って問うているのだろう。また、本当に知らない人もいないとは限らない。何のこだわりもなく話してやるなら相手も素直に受け入れてくれるであろう。
 人はまだ知り得ていないことを自分が知っているからというので「それにしても、あの人のことでは驚き入りました」などとばかり言いやれば、「どんなことがあったのですか」と繰り返し尋ねやることほど嫌なことはない。世間ではもう知れ渡ってしまっている事でもなんとなく聞き漏らしてしまっていることはありがちなことであるから、はっきりわかるように知らせてあげる事は悪いことでもないであろうに。
 このようなことは、世間知らずの人が良くやる事である。

『ソクラテスの弁明』より  白井一道
 無知の知を自覚する。
「この人は、他の多くの人間たちに知恵ある者だと思われ、とりわけ自分自身でそう思い込んでいるが、実際はそうではない」と。
私は帰りながら、自分を相手にこう推論しました。
「私はこの人間よりは知恵がある。この人は知らないのに知っていると思っているのに対して、私のほうは、知らないので、ちょうどそのとおり、知らないと思っているのだから。どうやら、なにかほんの小さな点で、私はこの人よりも知恵があるようだ。つまり、私は、知らないことを、知らないと思っているという点で」と。
「無知の知」は、ソクラテスの「知らないことを自覚する」という哲学の出発点に向かう姿勢を簡略して表現した言葉です。その哲学を探求するため、ソクラテスは識者に問答をしかけ、その結果、相手の無知を暴いてしまったことから憎しみを買われ、法廷で裁かれることになります。さらにその法廷の場で、人間はみな無知の中にいることをソクラテスが指摘したことから、さらに人々の憎悪が高まり、有罪に至るのです。
ソクラテスはあるとき、デルフォイの神託所から「ソクラテス以上の賢者はいない」という神託を受けます。これに対してソクラテスは、私は知恵のある者ではないことを自覚している、神は何の謎をかけているのか、と考え、この謎を解くことが神から課せられた自分の天職だと考えました。
そこでソクラテスは、賢明な人々のもとを歴訪する対話活動を開始します。その結果、賢明と言われる人々は「何も知らないにもかかわらず知っていると思い込んでいる」のだということに気が付きます。それとともにソクラテス自身は「何も知らないことを知っている」ということにも気づき、神託の真意が人間の無知を悟らせることだったと理解したのです。
それはソクラテスがのちに死罪となる罪を負わせられる原因ともなりました。つまり、ソクラテスの問答によって、相手の無知を公衆の前にさらすことになり、人々の怒りと憎しみを買う結果となったのです。
「無知の知」とは、「汝自身を知れ」という事。
『幸福論』で知られたフランスの哲学者アランは、この言葉を引用して、人間は自分以外には敵はほとんどいないものです。最大の敵は常に自分自身です。判断を誤ったり、無駄な心配をしたり、絶望したり、それこそが敵になるのです。だから、「あなたの運命は、あなた次第である」と言い残している。

醸楽庵だより   1410号   白井一道

2020-05-14 10:24:18 | 随筆・小説



    徒然草第233段 万の咎あらじと思はば



原文
 万の咎(とが)あらじと思はば、何事にもまことありて、人を分かず、うやうやしく、言葉少からんには如かじ。男女・老少(らうせう)、皆、さる人こそよけれども、殊に、若く、かたちよき人の、言(こと)うるはしきは、忘れ難く、思ひつかるゝものなり。
 万の咎は、馴れたるさまに上手めき、所(ところ)得たる気色して、人をないがしろにするにあり。

現代語訳
 いろいろな欠点をなくそうと思うなら、何事にも誠実に対応し、人を差別することなく、敬い、言葉少ないことにこしたことはない。男女、老人、子供など皆、このような人なら良いのだが、殊に若くて、美しい人の話すことの麗しさは忘れ難く、記憶に残るものである。
 いろいろな欠点は慣れて来るにしたがって見えなくなり、得意げにもなり、人を軽んずるものである。


 平等主義の歴史   白井一道

近代社会を支える人権概念は平等主義の上に成り立っている。地球上に生きるすべての人間は生まれながらにして平等である。この平等観なしには人権思想は成り立たない。平等主義は近代社会思想における他の一切の思想・信条・主張に対して優越しており、近代政治社会思想の根幹を成している。また民主制と平等主義は不可分な関係にある。
 平等主義は、その性格上、常に階級や差別や格差・差異・区別の存在が前提となり、それに対する「反発」や「負い目」として成立する。そうした(人間の)個体間の相互性・同等性に対する理解・尊重・同情・畏怖・懸念・猜疑・危機感などの積み重ねにより、古来より人間社会における普遍的な社会道徳・社会規範として醸成されてきた発想が、いわゆる「黄金律」だが、平等主義は、その「黄金律」が敷衍化・過激化した一形態であるとも言い換えることができる。裏を返せば、人間の間に絶対的・根源的な差異・区別を設けることの困難さ、個体間の能力差の僅少さこそが、平等主義が生じる背景となっていると言える。
階級・差別・格差・差異・区別によって生じる利益・特権、あるいは、それらを支えている伝統・慣習・宗教・道徳・規範・規則、更には、それらによって支えられている社会秩序を維持しようとする守旧派と、それに反発する平等主義勢力との対立は、人類の歴史上、様々な場面で見られる普遍的なものであり、近代政治学における、右翼・保守と左翼・革新の対立にも受け継がれている。
国家・社会の多数派が格差・不公平・被差別を感じる状態の場合、新興勢力がその多数派が平等主義を主張ることによって、社会改革が発生・進行する。このように、全ての国家・社会には、常に平等主義へと促されていく潜在的圧力がかかり続けている。
 キリスト教
 閉鎖的な選民宗教であるユダヤ教に立脚していた古代イスラエルでは、長年の周辺民族・国家との対立・混淆、忠誠心を欠いた自民族に対する歴代の預言者達による数々の叱責、神(ヤハウェ)の至高性・卓越性追求(神は他民族をも救う)の果てに、ついにユダヤ民族の特権性の破棄(新しい契約)を宣言するナザレのイエスが登場することになった。
初期キリスト教の代表的な使徒(伝道者)であったパウロらは、異邦人(他民族)へと布教していくにあたり、ユダヤ教徒(ユダヤ民族)の要件・義務とみなされていた、割礼等の戒律・慣習の遵守を、保守派の反対を説得し大幅に破棄・簡素化させた。これによりキリスト教は異邦人(他民族)への布教が容易になり、周辺各地に広く普及していく一方で、ユダヤ教とは完全に分離・分裂していった。
イスラム教
 開祖ムハンマドらの初期のイスラム教共同体(ウンマ)から発展して成立した、最初のイスラム系王朝であるウマイヤ朝では、アラブ人優遇政策を採り、同じイスラム教徒(ムスリム)であっても、非アラブ人はマワーリー(被征服民)としてジズヤ(人頭税)が課される等、差別待遇が成されていた。これがウマイヤ朝が打倒される一因となり、その力を借りて覇権を奪取した続くアッバース朝では、そうした差別は撤廃された。これは「アラブ帝国」としてのウマイヤ朝から、真の「イスラム帝国」であるアッバース朝への脱皮を果たした歴史的事件として、俗に「アッバース革命」と呼ばれる。
 ウィキペディア参照

醸楽庵だより   1409号   白井一道

2020-05-13 11:19:28 | 随筆・小説



    徒然草第232段 すべて、人は、無智・無能なるべきものなり



原文
 すべて、人は、無智・無能なるべきものなり。或人の子の、見ざまなど悪しからぬが、父の前にて、人と物言ふとて、史書の文を引きたりし、賢しくは聞えしかども、尊者の前にてはさらずともと覚えしなり。また、或人の許にて、琵琶法師の物語を聞かんとて琵琶を召し寄せたるに、柱(ぢゆう)の一つ落ちたりしかば、「作って附けよ」と言ふに、ある男の中に、悪しからずと見ゆるが、「古き柄杓(ひしゃく)の柄ありや」など言ふを見れば、爪(つめ)を生(お)ふしたり。琵琶など弾くにこそ。盲法師(めくらほうし)の琵琶、その沙汰にも及ばぬことなり。道に心得たる由にやと、かたはらいたかりき。「柄杓の柄は、檜物木(ひものぎ)とかやいひて、よからぬ物に」とぞ或人仰せられし。
 若き人は、少しの事も、よく見え、わろく見ゆるなり。

現代語訳
 何事においても人間は無知で無能でいる方がいい。ある人の子が、すがた格好はまあまあだが、父の前で、人と話し合う折、歴史書から文章を引用し、賢しく見えるけれども、目上の人の前ではそのような事はしなくともいいのにと思えたことだ。また、ある人の下で琵琶法師の物語を聞こうと琵琶を取り寄せたところ、柱(ぢゆう)の一つが欠けていたので「新しく作って琵琶に付けよ」というとそこにいた男の中の一人が、卑しくもなさそうなその男が「使い古しの柄杓の柄がありますか」などと言うのを聞き見ると爪が長く伸びている。琵琶を弾いているからなのだな。盲法師の琵琶は、そのような処置をするまでもないことだ。琵琶の心得があるのかと思いきや、聞くに堪えないものであった。「柄杓の柄は檜物に使う木とかいって、琵琶の柱に適したものではない」とある人が言っておられた。
 若い人は少しの事で良くも見え、悪くも見えたりするものだ。

 琵琶法師について   白井一道
 琵琶法師(びわほうし)は、平安時代から見られた琵琶を街中で弾く盲目の僧。琵琶を弾くことを職業とした盲目僧の芸人で、平安時代中期におこった。
 日本の琵琶は古代のアジア大陸よりもたらされたものであるが、その系統には中国から奈良時代および平安時代にもたらされた器楽の琵琶楽(雅楽、芸術音楽)と、それと同時代ないしそれに先んじてもたらされた声楽の琵琶楽(盲僧琵琶、宗教音楽)との2つがある。琵琶法師は、後者に属し、宗教音楽としての盲僧琵琶を担った。なお、盲人の琵琶法師(盲僧琵琶)から宗教性を脱した語りものを「くずれ」という。
仏説を語る琵琶法師は天台宗などに属する低級の宗教者であり、仏説座頭、地神経座頭などと呼ばれ、地鎮祭や竈祓いで地神経や荒神経を行った。仏説座頭の活動範囲は後述する平家座頭に比べてあまり広くはなかった。
鎌倉時代には『平家物語』を琵琶の伴奏に合わせて語る平曲が完成した。この時代には、主として経文を唱える盲僧琵琶と、『平家物語』を語る平家琵琶(平家座頭)とに分かれた。琵琶法師のなかには「浄瑠璃十二段草子」など説話・説経節を取り入れる者がおり、これがのちの浄瑠璃となった。
平家座頭はその当初から廻国の芸能者であり、中世には文化人の伝手や紹介状を頼りに、各地の有力な大名の屋敷のあいだを芸を披露して回った。絵巻物などに登場する平家座頭は、多くの場合弟子を連れての二人旅となっている。
 天台宗系の九州の寺院で法要琵琶を演奏した盲僧たちは,この当道盲人と対立し,江戸時代初めまで軋轢を繰返した。江戸時代には,幕府の当道保護政策もあって,当道盲人は京都の職屋敷と江戸の惣録屋敷の支配下におかれた。彼らは平曲以外に三味線音楽や箏曲も扱い,また,鍼灸その他に従事する者もあったので,琵琶法師というイメージは,それらのなかの中世以来の琵琶弾奏の放浪芸能者からのみ与えられるにいたった。平曲演奏家は幕府および諸大名から厚遇され,いわゆる放浪芸能者としては,実際にはほとんど存在しないようになった。明治4 (1871) 年当道制度の廃止後,平曲は急激にすたれ,その演奏家も激減した。一方,九州の盲僧は,ごくわずかながら法要以外に門付芸能としての琵琶弾奏も行なって現在にいたっている。
            ウィキペディアより

醸楽庵だより   1408号   白井一道

2020-05-12 10:32:47 | 随筆・小説


 徒然草第231段 園の別当入道は


原文
 園の別当入道(べつだうにふどう)は、さうなき庖丁者(はうちやうじや)なり。或人の許にて、いみじき鯉を出だしたりければ、皆人、別当入道の庖丁を見ばやと思へども、たやすくうち出でんもいかゞとためらひけるを、別当入道、さる人にて、「この程、百日の鯉を切り侍るを、今日欠(か)き侍るべきにあらず。枉(ま)げて申し請けん」とて切られける、いみじくつきづきしく、興ありて人ども思へりけると、或人、北山太政入道殿に語り申されたりければ、「かやうの事、己れはよにうるさく覚ゆるなり。『切りぬべき人なくは、給(た)べ。切らん』と言ひたらんは、なほよかりなん。何条(なでう)、百日の鯉を切らんぞ」とのたまひたりし、をかしく覚えしと人の語り給ひける、いとをかし。
大方、振舞ひて興あるよりも、興なくてやすらかなるが、勝りたる事なり。客人の饗応なども、ついでをかしきやうにとりなしたるも、まことによけれども、たゞ、その事となくてとり出でたる、いとよし。人に物を取らせたるも、ついでなくて、「これを奉らん」と云ひたる、まことの志なり。惜しむ由して乞はれんと思ひ、勝負の負けわざにことづけなどしたる、むつかし。

現代語訳
 園の別当基氏卿はたぐい稀な料理人である。ある人のお宅で立派な鯉を出されたので、皆が別当基氏卿の包丁さばきを見せてもらえるなと思ったが、軽々しく口にするのもいかがなものかと躊躇(ためら)っていると別当基氏卿は機転の利く人で「このところ、百日の間、毎日鯉を切って料理の稽古をしていますので今日のところしないというわけにもいきますまい、是非ともその鯉を調理させていただきましよう」と、言って切られた。とてもその場にかなった言葉で、人々は皆ぞくぞく期待していると、或る人が北山太政入道殿にこの話をしたことによると「このようなこと、私には気障っぽく思えるがね。『きちんと切って料理できる人がいないなら、させていただきますと、言って料理する』と言うなら,なお良かった。どうして百日の鯉を切ろうなど」というのか、面白く思ったと人に話したことも面白い。大方、わざとらしい盛り上がりより、そのような盛り上がりがなく静かな方が良い。客人のおもてなしなども、ちょうどよい折だというように計らってだしたのも誠に良いが、ただ、何という事もなく、ご馳走の品々を出した方がいい。他人に物をあげるのも、何の理由もなく「これを差し上げましょう」と言ってあげた方が誠の好意というものだ。その物を惜しみ手放し難く、相手から欲しがられたいように思ったり、勝負事に負けた理由としての贈り物やご馳走は嫌味なものだ。

 鯉の歴史について   白井一道
 鯉の原産地は、黒海・カスピ海沿岸の中央アジアと中国。ヨーロッパへの鯉の移植経路は、紀元前三世紀で、このころ、キプロス島を経てギリシャへ渡った。鯉の属名である「キプリヌス」は、この島名からきている。
 鯉は、十四世紀以降、十字軍の遠征によって、中部ヨーロッパへはいった。はじめの頃は、ハンガリーやオーストラリアにはいったが、次第に近隣の国々に広がっていった。ロシアにはいったのが十八世紀、アメリカへは十九世紀、その後、ほとんど全世界に分布した。
 いまや、地球上で鯉のいない所は、両極地帯の地域ぐらいで。鯉の養殖はずいぶん古くから行はれた。中国では、紀元前五世紀の頃に、既に養殖法の記述がある。陶朱公范蠡の『養魚経』である。
 中国から渡来した日本の鯉については、紀元一世紀のころ、景行天皇が鯉を池に放して飼った記録が残されている。古来、東洋では鯉は”出世魚”とされ我が国では端午の節句の鯉幟となって、男子の出世を象徴した。
 はじめは、食用にしていた鯉であったが、我々の祖先はいつか観賞用の色鯉を作りあげた。まず中国で緋鯉、黄鯉ができ、我が国ではさらにこのほかに、鯉の自然淘汰と遺伝を利用して紅白・三色・五色・白・青・縞など、色彩に富む色鯉を次々に生み出した。我が国の錦鯉の産地は、古くから、越後の国とされている。
 鯉の効果
鯉の肉はタウリンという、強肝剤として使われる含硫アミノ酸がある。これは飲酒時には解酒毒剤となり、酒で二日酔や脂肪肝になるのを予防するという。

醸楽庵だより   1407号   白井一道

2020-05-11 11:00:25 | 随筆・小説



    徒然草第230段 五条内裏には、妖物ありけり


原文
 五条内裏(ごでうのだいり)には、妖物(ばけもの)ありけり。藤大納言殿(とうのだいなごん)語られ侍りしは、殿上人(てんじやうびと)ども、黒戸にて碁を打ちけるに、御簾(みす)を掲げて見るものあり。「誰そ」と見向きたれば、狐、人のやうについゐて、さし覗(のぞ)きたるを、「あれ狐よ」とどよまれて、惑ひ逃げにけり。
 未練の狐、化け損じけるにこそ。

現代語訳
 五条大宮内裏には化け物がおった。藤大納言殿(とうのだいなごん)が語られたことによると殿上人(てんじやうびと)たちが黒戸の御所で碁を打っていると御簾を掲げて見る者がいた。「誰か」と振り向くと狐が人のような膝をつけ座って覗き見しているのを、「あれ狐だ」と驚かれたので慌てて逃げてしまった。
 未熟な狐が化けそこなったことだ。


 落語『初音の鼓』     白井一道
骨董趣味の殿様に、毎回胡散臭いものを売りつけてゆく古商人の吉兵衛。 今日も今日とて「初音の鼓」という怪しい鼓を、百両という大金で殿様に売りつけようと画策する。
『初音の鼓』といえば、源義経が静御前に与えたとされる代物で、源九郎狐の親の雄狐雌狐の皮が張られており、本物であれば何百金にもなる由緒正しい品であるのだが、当然本物であるはずがない。
そこで吉兵衛はこの鼓が本物である証拠として「鼓を打つと、傍らにいる者に狐の霊が乗り移って『コンッ』と鳴く」と殿様に吹き込み、試しに鼓を打つ殿様の前で狐の鳴き真似をして、狐が乗り移った芝居をする。
さらに吉兵衛は、殿様の重臣である三太夫を買収し、三太夫にも狐の鳴き真似をさせることによって、まんまと殿様を騙すことに成功する。
すっかり本物だと信用した殿様は百両で買うと確約するが、その前に今度は「自分ではなく吉兵衛が鼓を打ったら、自分にも狐が乗り移るのかどうか試してみたい」と言い出し、流石に殿様まで買収することは出来ないので吉兵衛は窮地に陥ってしまう。
いざ恐る恐る吉兵衛が鼓を打つと、なんと殿様が『コンッ』と鳴いた。吉兵衛が贋物だと思っていた鼓は、実は本物だったのである。
その後、何度打っても殿様がコンコンと鳴くため、吉兵衛は本物の鼓であることに感動すると同時に、今まで自分が働いてきた詐欺まがいの行為に恥ずかしさを覚える。
それはさておき、肝心のお勘定をしてもらうと、殿様からいただいた包みには一両しか入っていない。
吉兵衛がお代は百両だと確認をすると、殿様は「それでよいのじゃ。余と三太夫の鳴き賃が差し引いてある」と答えるのであった。
ウィキペディアより
白面金毛九尾の狐 
紀元前11世紀頃、中国古代王朝殷の最後の王である紂の后、妲己を喰い殺して妃に化けると暴政を敷いたため、周の武王率いる軍勢により捕らえられ、処刑された。 この処刑の際に、太公望が照魔鏡を取り出して妲己にかざし向けると、白面金毛九尾の狐の正体を現して逃亡しようとしたため太公望が宝剣を投げつけると、九尾の体は3つに飛散した。一つは若藻という少女に化け、彼女に惑わされた吉備真備の計らいによって、阿倍仲麻呂、鑑真和尚らが乗る第10回目の遣唐使船に乗船し嵐に遭遇しながらも来日を果たした。 来日から約360年後、北面の武士である坂部行綱が子宝に恵まれなかったため、九尾の狐が化けたとも知らずに藻女という捨て子を拾い、大切に育てられる。 その17年後、坂部夫婦に大切に育てられた藻女は18歳で宮中に仕え、玉藻前と改名する。その才能と美貌、優しさから、次第に鳥羽上皇に寵愛され、契りを結ぶこととなる。しかしその後、鳥羽上皇は病を発する。そして、その原因が玉藻前であると発覚し、玉藻前は白面金毛九尾の狐の姿で宮中から逃亡した。 数年後、彼女は下野国・那須に現れ、婦女子や旅人を誘拐し喰い殺すなどの暴行を働いたため、鳥羽上皇は白面金毛九尾の狐の討伐を命令すると8万の軍勢が那須へ向かう。軍勢は白面金毛九尾の狐を殺すことに成功する。九尾の狐はその直後、殺生石という巨大な毒石に姿を変える。 その後玄翁和尚によって、殺生石は破壊され、各地へと飛散したという。
ウィキペディアより

醸楽庵だより   1406号   白井一道

2020-05-10 10:29:26 | 随筆・小説


  徒然草第229段 よき細工は、少し鈍き刀を使ふと言ふ



原文
 よき細工は、少し鈍き刀を使ふと言ふ。妙観が刀はいたく立たず。

現代語訳
 優れた職人は少し切れの悪い刀を使うという。有名な仏師の妙観が用いた刀はひどく切れが悪かった。

 「よき細工は、少し鈍き刀を使ふ」とは
白井一道
「彼は利きすぎる腕と鈍い刀の必要とを痛感している自分のことを言っているのである。物が見えすぎる眼をいかに御したらいいか、これが徒然草の文体の精髄である。」  小林秀雄著「徒然草」
この兼好の229段の文章は、「妙観が刀」が切れない、などと言っているのでは無い。 全く逆な事を言っていると小林秀雄は述べている。
つまり、その「技」と「道具」とが利きすぎる、『切れすぎることの危うさ』について、その事を語っている。
妙観は、『切れ過ぎる刀の危うさ』を畏れていた。知り抜いていた。
妙観は“切れ過ぎる刀”(=「技」「道具」)をあえて使わなかった。その理由が兼好には分かっていた。
切れすぎてはいけない。 小刀は、切れなくては困るが、切れすぎてはいけない。
なぜか。
妙観の一木を彫るという行為、それは彼にとって神聖な行為ですが、その事によって出現するであろう仏、妙観の己の「観」によって捉えた仏・・・。
妙観は、ただその仏を彫る。
妙観は、彼が“観じていたその仏”をそこに出現させるために彫るという行為に至るのです。
それが、彼の認識であり、行為です。
仏を彫るという行為は、妙観にとってそれ以下でも無く、それ以上でも無いのです。
画家がそうするように。詩人がそうするように・・。
刀など、切れなくてもいい。切れ過ぎてしまうことこそ、危うい。
むしろ、問題の本質は別にある。
饒舌は人の欲です。
切れない事は、困る程度のことですが、切れすぎる事は、すなわち欲に通じる、過度の表現は、すなわち表現の賤しさ、醜さに通じてしまう事が分かっていた。
このことは、文章において然り。
すべての芸術に通じることでもあるのかもしれない。
木食仏「子安観音像」木食上人
“妙観”という名前を見るに、僧籍に身を置いた仏師だだった。
例をあげるまでもなく、私たちは、木喰上人の彫った仏などを見る時、いわゆる“仕上がりにの良さなどというものをを鑑賞して溜息が出るわけではない。もっと別の事、まったく別の事です。
それはおそらく、“その一木に、仏が現れる”という事。 言いかえれば、美の出現。その一事なのである。仏が現れれば、妙観は、それで小刀を収める。
それ以上、小刀をふるう必要も理由もない。木喰上人であれ、妙観であれ。一木に仏(美)が現れれば、それで良し。
兼好の「徒然草」も、また、同じ事。
『彼(兼好)には常に物が見えている、人間が見えている、見えすぎている』と、小林秀雄は書いている。すなわち、兼好自身が切れすぎる事の危うさを知り抜いていた。どこまでをどう表現するか。
だからこそ兼好は刀を選ぶ。少し鈍い切れ味の刀を時として使う。『物が見えすぎる眼をいかに御したらいいか、これが徒然草の文体の精髄である。』「妙観が刀は、いたく立たず」とは、まさに、その事なのであろう。
この一行は、小林さんの兼好の批評眼(観と表現力)に対する大いなる賛辞である。小林秀雄著「私の人生観」の中から、小林さんがベルグソンの文章に関して述べている部分を抜粋する。
最もよく切れる鑿(のみ)は、科学の成果がもたらした正確な諸観念に違いなかろうが、それはあんまり切れ過ぎるかもしれぬ。
切れ過ぎるとはまるで切れないことかも知れぬ。
 やまねこ新聞社 号外より


『五重塔』幸田露伴著
あらすじ
腕はあるが愚鈍な性格から世間から軽んじられる「のっそり」こと大工の十兵衛。しかし谷中感応寺に五重塔が建立されることを聞いたときから、一生に一度あるかないかの、その仕事をやり遂げたいという熱望に苦しめられ、朗円上人に聞いてもらいたい一心で会いに行く。

本来ならば、感応寺の御用を務める川越の源太が請け負うという話である。世間から名人よ、器量者よと褒められる源太はその通りの男であり、さらに十兵衛は日頃から源太の世話になっていた。十兵衛の女房お浪は心中で苦しめられ、源太の女房お吉は利口な女だが、のっそりの横着ぶりに怒りを覚える。

上人は十兵衛の熱意を知り、模型を見てその技術と反面の不遇に同情する。十兵衛と源太を寺に呼んだ上人は、技術においても情熱においても比べられない二人だからこそどちらが仕事をするか二人で話し合って決めるように諭す。

人を容れる難しさと、それゆえの尊さを伝える上人の思いやりに応えようと源太は十兵衛の家を訪ね、職人の欲も不義理への怒りも捨て一緒に作ろうと提案する。お浪は涙を流して源太に感謝するが、十兵衛は無愛想にその提案を断る。寺からの帰りにすべてを諦めた十兵衛だが、それでも自分が作るか、作らないか、どちらかしかないのであった。

情とことわりを尽くした源太の言葉にも嫌でござりますとしか返事をかえさない十兵衛に源太は虚しさを感じ、五重塔は己で建てると帰っていく。家には弟分の清吉が待っていた。誠実で優しい兄貴に尽くすことを生き甲斐とする清吉は十兵衛への怒りを隠さないが、源太は酔いつぶれた清吉を見ながら先ほどの己を振り返る。

葛藤の果てに源太は上人のもとへ向かい先日の顛末を語り、十兵衛に任せても自分に任せても一切のわだかまりを持たないため上人に決めてほしいと願いでる。上人は十兵衛も全く同じ話をしていったと源太に伝え、満面に笑みをたたえながら建てる以上の立派なことだと褒められた源太は「兄として可愛がってやれ」と言われて涙を流す。

源太は五重塔を建てることになった十兵衛を宴に招き、全てを水に流そうと申し出る。更に己が描いた五重塔の下絵や寸法書を役立てて欲しいと渡すが、十兵衛は見ることもなく断る。十兵衛が五重塔の仕事がやれるのは、源太より優れているからでもなく、正直さが上人から好かれた訳でもない。

ただ源太が上人の言葉により全てを胸に納め席を譲ったことによる。それが事実である。しかし十兵衛は他人の心を汲むよりも職人としての構想、技術を満たそうとするdemonic possession が優先した。もはや源太も怒りを抑えることは出来なかった。下卑た足の引っ張りはしないが、いつか失敗することを待っていると口にして席を立った。弟子や馴染みの娘を集めて賑やかな宴をひらくが、誇り高い男だけに周りに愚痴や怒りは毛筋ほども見せなかった。

仕事に取り組む十兵衛は誠を尽くし、全てに心を入れて己を捧げる。しかし情の鈍い「のっそり」だけに、源太への応接も忘れていき純粋に仕事の悦びに浸る。お吉は十兵衛の仕打ちを周りから知らされ、清吉に毒づいてしまう。清吉は十兵衛を殺そうとして重傷を負わせるが源太の兄貴分である火の玉鋭次に抑えつけられ散々に殴られる。

清吉を預かった鋭次は源太の家を訪ねると、主人は不在で代わりにお吉が応対に出た。鋭次は源太が十兵衛のもとに頭をさげに向かっていたと知り、人を殺そうとした清吉も浅はかだが、十兵衛にも非があったため源太が上人様にお詫びをした上では話もつく、心配のしすぎはするなとお吉に労りの言葉を残して去る。

源太は十兵衛のもとを訪れて頭を下げるが、先日よりの怒りは深く硬く、気分は晴れない。世話をかけた鋭次のもとに向かうつもりで家に戻ると清吉の母が訪ねてくる。愚かなまでに子を思う親の心の深さに源太は感じるものがある。一方、お吉は金を工面するために家をでると鋭次のもとに向かい、源太の怒りがとけるまで上方へ清吉を向かわせるため身銭をきり路銀を工面してきたと事情を説明する。清吉の母の面倒もみるつもりである。

片耳を切り落とされる重傷を負った十兵衛は休むことなく仕事場に向かう。十兵衛は職人たちが自分を軽んじていることを承知しており、働いて貰うには身体を労ることも無用だった。塔は完成する。

落成式を前にして江戸を暴風雨が襲う。百万の人が顔色無く恐怖に襲われるなか、感応寺の世話役は倒壊の恐怖から十兵衛を呼び出すが、使者の寺男へ十兵衛は倒れるはずは無く騒ぐに及ばずと断る。しかし世話役からの再びの呼び出しは上人からの呼び出しと偽りのものだった。上人様は自分を信用してくれないのか、恥を知らず生きる男と思われたなら生きる甲斐なしと嘆きながらも嵐の中を谷中に向かう。塔に登り嵐に向かう十兵衛。その頃、塔の周りを徘徊する源太の姿があった。果たして塔が壊れれば恥を知らず生きる職人として十兵衛を許さざる腹だったのか、叙述はない。

人の為せぬ嵐が去った後、人が為した塔は一寸一分の歪みが無かった。落成式の後、上人は源太を呼び、十兵衛とともに塔を登り「江都の住人十兵衛これを作り、川越の源太これをなす」と記し満面の笑みを湛える。十兵衛も源太も言葉なく、ただ頭を下げて上人を拝むだけだった。
ウィキペディアより

醸楽庵だより   1404号   白井一道

2020-05-09 10:14:41 | 随筆・小説



   
 徒然草第228段 千本の釈迦念仏は



原文
 千本の釈迦念仏は、文永の比、如輪上人(によりんしやうにん)、これを始められけり。

現代語訳
 千本の釈迦念仏は文永のころ、如輪上人(によりんしやうにん)が始めたものである。

 釈迦念仏とは     白井一道
釈迦念仏とは称名念仏(しょうみょうねんぶつ)のことである。千本釈迦堂とは瑞応山(ずいおうざん)大報恩寺をいう。
称名念仏(しょうみょうねんぶつ)とは、仏の名号、特に浄土教においては「南無阿弥陀仏」の名号を口に出して称える念仏(口称念仏)をいう。「称名」とは、仏・菩薩の名を称えること。また諸仏が阿弥陀仏を称讃することもさす。宗旨により、「称名念仏」を行として捉える場合と、非行として捉える場合がある。
初期の仏教では、六隨念や十隨念の第一である「仏隨念」を「念仏」と呼ぶ。
原始経典の「南無仏」のように口称念仏として仏の名を呼ぶことによって、仏を具体的に感得しようとする信者たちの願いが生じる。常に信者たちの実践と結びついていたのは「阿弥陀仏への念仏」であった。
『般舟三昧経』では、諸仏現前三昧の代表として阿弥陀仏の念仏が説かれ、これが天台宗の常行三昧のよりどころとなる。
中国では、念仏の流れとして慧遠の白蓮社の観想念仏、善導による称名念仏、慧日による慈愍流の禅観的念仏の三流が盛んになる。このように阿弥陀仏の念仏については、おおむね3つの形態がある。
日本においては、「称名念仏」が平安時代末期には主流を占め、名号を称える道を歩めば、末法の濁世でも世尊の教えを理解できると説かれ、浄土教の根幹をなす。また名号の中でも「南無阿弥陀仏」と称える称名念仏が中心となる。そのような動き中で鎌倉時代中期には一遍などにより、より具体的に歓喜のこころを身振りや動作の上に表そうと「踊り念仏」が派生する。
この「称名念仏」を純粋な形で人間生存の根底にすえ生きる力を求めたのは、良忍の融通念仏であり、さらに法然や親鸞の教えであった。
『佛説無量寿経』には、阿弥陀仏に現世で救われて「南無阿弥陀仏」と念仏を称える(称名)身になれば、阿弥陀仏の浄土(極楽浄土)へ往って、阿弥陀仏の元で諸仏として生まれることができると説かれている。
その故は、法蔵菩薩(阿弥陀仏の修行時の名)が、48の誓願「四十八願」を建立する。その「第十八願」
「設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法」
意訳 「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。」と誓う。そしてすべての願が成就し、阿弥陀仏に成ったと説かれていることによる。
法然平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、「南無阿弥陀仏」をひたすら称える「専修念仏」の教えを説いた。後に法然は、浄土宗の開祖と定められる。法然の説く念仏は、阿弥陀仏の本願(第十八願『念仏往生の願』)を信じて「南無阿弥陀仏」と仏の御名を称えれば、善人、悪人、老若男女、貧富の別なく、すべての衆生を救うと誓われた阿弥陀仏によって、臨終には阿弥陀仏をはじめ観音菩薩、勢至菩薩や極楽の聖衆が来迎(らいこう)し、極楽浄土へ迎え入れ、彼の地に往生することが出来ると説いた。
また、この阿弥陀仏の選択本願の念仏は、臨終間際の悪人が善知識の勧めによってただの一遍称えただけでも救われると説く一方で、念仏の教えを信じる人は平生(普段から)より一生涯念仏を称え続けることが、阿弥陀仏の本願に順ずる事であると説き、法然は自らも日に六万遍、七万遍の念仏を称えたと伝えられている。 また、門弟の中に、一念義等の邪義を説くものが出たおりには浅ましき僻事(いつわり)であると、その間違いを世に示した。自らが著した『選択本願念仏集』で阿弥陀仏の選択本願念仏を詳しく説き示し、親鸞などの限られた弟子達にそれを授け、正しい念仏の教えを説いた。
                                             ウィキペディアより

醸楽庵だより   1403号   白井一道

2020-05-08 10:46:24 | 随筆・小説


   
 徒然草第227段 六時礼讃は



原文
 六時礼讃(ろくじらいさん)は、法然上人の弟子、安楽といひける僧、経文を集めて作りて、勤めにしけり。その後、太秦善観房(うずまさのぜんくわんぼう)といふ僧、節博士(ふしはかせ)を定めて、声明(しやうみやう)になせり。一念の念仏の最初なり。御嵯峨院の御代より始まれり。法事讃(ほうじさん)も、同じく、善観房始めたるなり。

現代語訳
 六時礼讃(ろくじらいさん)は、法然上人の弟子の安楽という僧が経文を集めて作り、勤行にしたものである。その後、太秦善観房(うずまさのぜんくわんぼう)という僧が調節を定めて声明(しやうみやう)にしたものである。御嵯峨院の時代から始まったものである。法事讃(ほうじさん)も同じように善観房が始めたものである。

 声明(しようみょう)とは     白井一道
 754年(天平勝宝4年)に東大寺大仏開眼法要のときに声明を用いた記録があり、奈良時代には声明が盛んにおこなわれていたと考えられる。
平安時代初期に最澄・空海がそれぞれ声明を伝えて、天台声明・真言声明の基となった。天台宗・真言宗以外の仏教宗派にも、各宗独自の声明があり、現在も継承されている。源氏物語の中に度々出てくる法要の場でも、比叡山の僧たちによって天台声明が演奏されていた。
平安時代に中国から入ってきた実践的な仏教声楽は梵唄と呼ばれていた。また、インドの声明にあたる悉曇学という梵字の文法や音韻を研究する学問が盛んとなった。やがて、悉曇学と経典の読謡を合わせたものを声明と呼ぶようになり、中世以後には経典の読謡の部分のみを指して声明と称するようになった。
声明は口伝(くでん)で伝えるため、現在の音楽理論でいうところの楽譜に相当するものが当初はなかった。そのため、伝授は困難を極めた。後世になってから楽譜にあたる墨譜(ぼくふ)、博士(はかせ)が考案された。なお、各流派により博士などの専門用語には違いがある。
しかし博士はあくまでも唱えるための参考であり、声明を正式に習得しようとすれば、口伝(「ロイ」とも言う。指導者による面授。)が必要不可欠であり、面授によらなければ、師から弟子への流派の維持・継承は出来ない。そのために指導者・後継者の育成が必須であった。
中世以前の声明は一般の日本人のみならず、僧侶にとってもその内容は理解し難いものだった。そのため、日本語の歌詞によるわかり易い声明が求められるようになり、講式という形式の声明が成立した。講式は既存の声明の約束事とは逸脱した音組織で成り立っていたため、新たな記譜方式を考案するに至った。講式は平曲・謡曲など邦楽の発展に大きな影響を及ぼした。
天台声明は最澄が伝えたものが基礎となり、独自の展開をした。最澄以後は、円仁・安然が興隆させた。後に融通念仏の祖となる良忍が中興の祖として知られる。1109年(天仁2年)に、良忍は、京都・大原に来迎院を建立した。大原の来迎院の山号を、中国の声明発祥の地・魚山(ぎょさん)に擬して、魚山と呼称された。やがて、来迎院・勝林院の2ヶ寺を大原流魚山声明の道場として知られるようになった。また、後に寂源が一派をなして、大原には2派の系統の声明があった。のちに宗快が大原声明を再興するに至った。
湛智が新しい音楽理論に基づいた流れを構築した。以降、天台声明の中枢をなし、現在の天台声明に継承されている。融通念仏宗、浄土宗、浄土真宗の声明は、天台声明の系統である。
 真言声明は空海が伝えたものが基礎となり、現在に至っている。声明が体系化されてきたのは真雅以降である。寛朝はなかでも中興の祖ともいえる。声明の作曲・整備につとめた。
 鎌倉時代までは多くの流派があったが、覚性法親王により、本相応院流・新相応院流・醍醐流・中川大進流の4派にまとめられた。このうち中川大進流は、奈良・中川寺の大進が流祖。
 南山進流(古義真言宗系声明) :中川大進流がもとになった。貞永年間(1232~1233)に高野山蓮華谷・三宝院の勝心が本拠地を高野山に移した。後に高野山の別名、南山を冠して、南山進流と称した。進流・野山進流とも称する。
         ウィキペディアより

醸楽庵だより   1402号   白井一道

2020-05-07 16:23:44 | 随筆・小説



   
 徒然草第226段 後鳥羽院の御時



原文
 後鳥羽院(ごとばのゐん)の御時(おんとき)、信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)、稽古の誉ありけるが、楽府(がふ)の御論議(みろんぎ)の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者(くわんじや)と異名(いみやう)を附きにけるを、心憂き事にして、学問を捨てて遁世したりけるを、慈鎮和尚(じちんくわしやう)、一芸ある者をば、下部(しもべ)までも召し置きて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持(ふち)し給ひけり。
 この行長入道、平家物語を作りて、生仏(しやうぶつ)といひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門の事を殊(こと)にゆゝしく書けり。九郎判官(くらうはうがん)の事は委(くわ)しく知りて書き載せたり。蒲冠者(かばのくわんじや)の事はよく知らざりけるにや、多くの事どもを記し洩らせり。武士の事、弓馬の業(わざ)は、生仏、東国の者にて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生仏が生れつきの声を、今の琵琶法師は学びたるなり。

現代語訳
 後鳥羽院の時代、信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)の学問の名声は高かったが、漢詩の問題点について、天皇の前で論議する席に招かれ、七徳の舞を二つ忘れてしまったので五徳の冠者(くわんじや)とあだ名を付けられたのを苦にして学問を辞め遁世したことを慈鎮和尚(じちんくわしやう)は一芸ある者をと思い、下僕まで抱えさせて、不便のないようにと、信濃入道行長の面倒をみられていた。
 この行長入道が平家物語を作り、生仏(しやうぶつ)という盲目の者に教えて語らせた。さて、比叡山延暦寺の事は特に素晴らしく書いた。九郎判官(くらうはうがん)義経のことは詳しく調べて書き載せた。源範頼のことはよく分からなかったので、多くの事々を書き漏らしている。武士の事や弓馬の技は生仏が東国の者であったので、武士に聞いて書いている。かの生仏の生まれつきの声を今の琵琶法師は学んでいるのだ。

 『平家物語』について     白井一道
作者について『徒然草』の作者、吉田兼好法師は、信濃前司行長(しなののぜんじ ゆきなが)が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧に教えて語り手にしたと書いている。その他にも、生仏が東国出身であったので、武士のことや戦の話は生仏自身が直接武士に尋ねて記録したこと、更には生仏と後世の琵琶法師との関連まで述べているなどと記述している。
この信濃前司行長なる人物は、九条兼実に仕えていた家司で、中山(藤原氏)中納言顕時の孫である下野守藤原行長ではないかと推定されている。また、『尊卑分脈』や『醍醐雑抄』『平家物語補闕剣巻』では、やはり顕時の孫にあたる葉室時長(はむろときなが、藤原氏)が作者であるとされている。なお、藤原行長とする説では「信濃前司は下野前司の誤り」としているが、『徒然草』では同人を「信濃入道」とも記している。
そのため信濃に縁のある人物として、親鸞の高弟で法然門下の西仏という僧とする説がある。この西仏は、大谷本願寺や康楽寺(長野県篠ノ井塩崎)の縁起によると、信濃国の名族滋野氏の流れを汲む海野小太郎幸親の息子で幸長(または通広)とされており、大夫坊覚明の名で木曾義仲の軍師として、この平家物語にも登場する人物である。ただし、海野幸長・覚明・西仏を同一人物とする説は伝承のみで、史料的な裏付けはない。
現存している諸本は、次の二系統に分けられる。
盲目の僧として知られる琵琶法師(当道座に属する盲人音楽家。検校など)が日本各地を巡って口承で伝えてきた語り本(語り系、当道系とも)の系統に属するものと読み物として増補された読み本(増補系、非当道系とも)系統のものである。
 明治維新後は江戸幕府の庇護を離れた当道座が解体したため、平曲を伝承する者も激減した。昭和期には宮城県仙台市に館山甲午(1894年生~1989年没)、愛知県名古屋市に荻野検校の流れを汲む井野川幸次・三品正保・土居崎正富の3検校だけとなり、しかも全段を語れるのは晴眼者であった館山のみとなっていた。平曲は国の記録作成等の措置を講ずべき無形文化財に選択されて保護の対象となっており、それぞれの弟子が師の芸を伝承している。2018年、三品検校の弟子である今井勉が生存しているだけである。      ウィキペディア参照