醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1422号   白井一道

2020-05-28 10:36:08 | 随筆・小説


 ほぼ一年をかけて『徒然草』を読んだ。定年退職後の楽しみとして取り組んだ。どうにか、毎日古文を眺め、読み、味わって読んだ。いつしか同時代の人が書いた文章として読んでいる自分に気付くことがあった。読み終わって見るとあっけないものであった。次に『方丈記』を読んでみようと思う。これからも宜しくお付き合い下さい。

    方丈記 1
原文
 行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或は去年(こぞ)焼けてことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。

現代語訳
 流れていく川の流れは絶えることなく、しかも本の水ではない。川の淀みに浮かぶ泡はすぐ消えるかと思うと新しい泡が生れ、決して留まっていることはない。世の中に生きる人と住まいもまた同じようなものだ。玉(ぎょく)を敷き詰めた都の中に家を構え、競って甍を葺いた身分の高い方の住まいも身分の低い人の家も長い年月の間、無くなる事はないが、この事実を調べてみると昔から続いている家は稀なことだ。或いは去年火事に合い、今年になって新築され、或いは大家であった方の家は亡びて小さくなる。そこに住む人も同じことだ。場所は変わることなく、人も多く行き交っているが、昔見知った人は二、三十人のうち僅かに一人、二人に過ぎない。朝亡くなったかと思うと夕方に生まれる人がいるようにまるで水に出来る泡に似ている。知らないうちに人が生れ、死ぬ人はどこからきてどこかへと去っていく。またわからない。この世に仮に宿り、誰のために心を悩まし、何かによっては目を細めることがある。この世の主と住まいとが無常を争い去っていくさまは、云わば朝顔の露と異なることはない。或いは露は落ち、花は残る。残ったとしても朝日に照らされ枯れていく。或いは花は萎み、露はなお消えぬことがある。消えぬことがあったとしても夕べを待つことはない。


 末法の世を愁う    白井一道
 世の中の無常を鴨長明は実感していた。いつまでも存続していくものだと思っていた天皇支配の体制がこんなにも脆く亡びていくのを実感していた。今あるものは必ず亡びていくものである。永遠なものなどは何もない。天皇の権威が失われていく。どんなに天皇の権威を惜しんでみても武家の力の前にはなす術がない。
 月みれば千々に物こそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど
大江千里の詠んだ歌が鴨長明の心に鳴り響いていた。天皇の権威が薄れていくのはやむを得ないものなのだ。受け入れざるを得ないのだ。私一人が嘆いてみてもどうにもならないものなのだ。
ながむれば千々(ちぢ)に物思ふ月に又我が身ひとつの嶺の松風
長明もまた大江千里の歌に刺激され歌を詠んで心を慰めた。天皇の権威は私一人のものではない。その権威が無くなっていく。この無常観に打ちひしがれている。世も末だ。この末法の世の中にひたすら耐えていかなければならない。仏にすがり、極楽への往生を願うばかりだ。念仏を唱えることだ。一刻の猶予もならない。念仏を唱え続けることが心の平安を叶えてくれる。歌を詠むことだ。文章を書くことだ。
松島や潮くむ海人の秋の袖月は物思ふならひのみかは
中秋の明月の夜、松島の、海水を汲んで塩を作る人の袖は、びっしょり濡れ、月の光が照っている。秋の袖に月が宿る。物思う人の慣(なら)いのように私の袖も秋の哀れさに涙で濡れ、悩んでない人の袖にも、哀れが満ちている。
天皇の権威と権力が失われていく世の中の動きに泪を流し、憂いている。哀しみがひたひたと打ち寄せてくる。これはどうにもならない。

醸楽庵だより   1421号   白井一道

2020-05-27 14:57:01 | 随筆・小説



 世界史から三権分立を考える

 
 最近行われた衆議院における国会討論において野党議員がフランス絶対王朝全盛期の国王ルイ14世が述べたという言葉『朕は国家なり』を引用して安倍総理に質問した。検察庁法の改正は「三権分立」を有名無実化するものではないのかと追及する質問内容であった。この野党議員の質問に対して頓珍漢な回答を安倍総理はした。「私は選挙民から選ばれた衆議院議員であり、衆議院議員から選出された総理大臣であり、断じてルイ16世のような存在ではない」と言うような回答をした。『朕は国家なり』、この言葉を発したのはルイ14世あり、ルイ16世はフラン革命で断頭台の露と消えた国王であると安倍総理の発言を野党議員の山尾志桜里氏はインターネットテレビで訂正していた。『朕は国家なり』という言葉が何を意味しているのかと言う事を安倍総理は十分理解した上で頓珍漢な回答をしたのか、それとも全然理解しているわけではなく、やむを得ず頓珍漢な回答になってしまったのか、私には分からない。ルイ14世とルイ16世との違いを充分安倍総理が理解していたとも思えない以上、『朕は国家なり』とフランスブルボン朝絶対王政全盛期の国王ルイ14世が述べた言葉が何を意味しているのかを安倍総理は理解していたとも思えない。
 1655年ルイ14世は親政開始前、最高司法機関高等法院を王権に服従させるために発言した言葉の一節だと云われている。後にこの言葉はフランス絶対王政を象徴する言葉となった。共産党の宮本徹衆議院議員は検察官に対して国家公務員法を適用することは従来の検察庁法の解釈の変更であり、「フランスの絶対王制を確立し君臨したルイ14世の言葉として伝えられる『朕は国家である』との中世の亡霊のような言葉を彷彿(ほうふつ)とさせる姿勢だ」と批判したのである。司法権を王権に服従させた言葉が『朕は国家なり』という言葉の由来なのだ。行政権が司法権を服従させようとしていると安倍内閣を批判したのが共産党宮本徹議員の発言であった。この発言に対して真っ向から反論するなら、黒川高等検察庁長官の定年延長を閣議決定で行ったことは、行政権が司法権を服従させる意図を持ったものではないということを安倍総理は説明し、反論すべきであった。
 立法、行政、司法が権力を形成している。ブルボン王朝の国王たちは絶対権力者たちであった。17世紀はフランスの世紀だと言われた。絶対権力を保持した代表的な国王が太陽王と言われたルイ14世であった。このフランスブルボン朝の絶対王朝が1789年から始まるフランス革命によって倒されて共和制が確立していく。絶対王政に変わる民主政が形成されていく過程で第一に創られたものが憲法であった。国王という人間が王権は神から授けられたものだと主張し、正当化し国を統治したのが絶対王政であった。だから明治天皇の神権政には西洋の絶対王政と似通ったところがあるように思う。明治憲法第一条には「大日本帝国は、万世一系の天皇が、これを統治する」と。第3条には「天皇は神聖にして侵すべからず」とある。憲法とうたっているところに近代性がある一方内容に前近代性が交じり合っている。憲法はフランス革命の成果として生まれたものである。人間が支配する社会から法が支配する社会に変わった。法の支配の中心にあるものが憲法のようだ。法の支配を実現していくものが行政であり、立法であり、司法である。権力とは立法であり、行政であり、司法なのだ。
 18世紀啓蒙思想家モンテスキュウのような人が出て来て『法の精神』を表し、その影響のもとにアメリカがイギリスから独立し、基本法として1787年に憲法が制定され、世界最初の共和政原理をかかげ、三権分立、大統領制などが実現した。1791年、憲法修正によって権利章典が加えられた。
 立法、司法、行政に権力を分け、互いに監視し合う関係を作ることによって独裁を防ぎ、民主政を実現する。三権分立は民主政治を実現する政治システムである。日本にあっては1945年に第二次世界大戦に敗戦し、明治憲法が廃止され、新しく日本国憲法が施行され、73年目を迎えている。この間、絶えず行政権を強化拡大しようとする動きがある一方、これを押さえようとする動きが鬩ぎ合ってきたように感じられる。民主政とは多数決という短絡的な主張がある。選挙で多数を獲得した政党が政権を取ると多数決の原理に則って何でもできると思い違いをして行政権を拡大させ、立法権や司法権をないがしろにするような事態が生れてきている。民主政とはきっと時間はかかるかもしれないが、時間をかけて合意形成をする政治なのであろう。

醸楽庵だより   1420号   白井一道

2020-05-26 10:35:18 | 随筆・小説



  徒然草第243段 八つになりし年



原文
 八つになりし年、父に問ひて云はく、「仏は如何なるものにか候ふらん」と云ふ。父が云はく、「仏には、人の成りたるなり」と。また問ふ、「人は何として仏には成り候ふやらん」と。父また、「仏の教によりて成るなり」と答ふ。また問ふ、「教へ候ひける仏をば、何が教へ候ひける」と。また答ふ、「それもまた、先の仏の教によりて成り給ふなり」と。また問ふ、「その教へ始め候ひける、第一の仏は、如何なる仏にか候ひける」と云ふ時、父、「空よりや降りけん。土よりや湧きけん」と言ひて笑ふ。「問ひ詰められて、え答へずなり侍りつ」と、諸人に語りて興じき。

現代語訳
 私が八つになった年、父に問うた。「仏とは如何なるものなのですか」と尋ねた。父が答えてくれた。「仏とは、人が成ったものだ」と。また父に問うた。「人は何をして仏になったのですか」と。父はまた「仏の教えによって人は仏になった」と。また私は問うた。「教えられた仏を何が仏に教えられたのか」と。また父は答えた。「それもまた先の仏の教えによって仏は仏になられた」と。また問う。「その教えを始めた第一番目の仏は如何なる仏なのでしようか」と言うと、父は「空より下りて来たのだ。土より湧いてきたのだ」と言うと笑いだした。「問い詰められて、満足に答えられなくなった」と、諸人に話しては面白がった。

 子供の成長期における「なぜなぜ期(質問期)」
                   白井一道
大人の都合にかまわず、いつでもどこでも、「なんで?」「どうして?」と答えても答えても質問が続く時期が「なぜなぜ期」。
このなぜなぜ期は子どもの知的好奇心が最も伸びる時期である。なぜなぜ期に子供の質問にきちんと対応してあげると知的好奇心が育って、将来、学ぶことが好きになる。しかし、なぜなぜ期の子供はそんなに甘っちょろいものではありません。子供の成長にちょっと感動することがある一方いつでもどこでも「なんで?どうして」と聞いてくる子供にイラつくことがあるものだ。
子どもの知的好奇心を育てる対応法は三つある。
1、質問されたときに答える(後回しにしない)
2、わからないことがあったら一緒に調べてみる
3、何度でも答える(前にも言ったでしょ!はNG)
子どもの質問には、なるべく質問されたその時に答えることが大事。後回しにしてしまうと、子どもがその質問自体を忘れてしまうからだ。忘れてしまうだけでなく、質問した時に「あとでね!」と言われ対応してもらえなかったというマイナスのイメージが子供に残るからである。子どもの「なんで?」は知的好奇心を育てる絶好のタイミングである。できれば手を止めて会話をしてあげるべきである。ただ、知っておいて欲しいことが一つある。それは、子どもの質問対して正確な答えを提示しなくても良いということ。質問に対する答えの内容よりも、丁寧に対応することが重要だ。ママ(パパ)が手を止めて僕(私)と話をしてくれた一緒に考えてくれたと、「ちゃんとあなたのことを見ているよ」ということが子供に伝わる対応が大切だ。四六時中の質問攻撃に適当にあしらってしまいたくなる時もあるが、ぐっとこらえて言葉のキャッチボールすることが大事だ。4才~6才になるとある程度記憶力もつき、質問自体も高度になる。忙しい時などは正直に「今は手が離せないから、後で一緒に調べてみよう(考えてみよう)」と言う。調べるまでに、どんなことを調べたいか、自分はどう思うか考えてもらう。
子どもに「なんで?」と聞かれたことが、パッとわからなかった場合や、調べたらわかりそうな内容だったら、一緒に調べてみる。図書館へ行って、いつもよく通る絵本の書架ではなく、小学生や中学生が調べ学習などで使うような本が並んでいる書架へ行く。その中からできるだけ写真や絵の多い本を選んで、お家で一緒に読んでみる。内容が難しい場合は、かみ砕いて幼児でもわかるようにして話す。
調べたことは、子ども自身がその場にいなかった誰かに話をするようになる。そうすると、次の二つの良いことが起こる。1、自分の言葉で話す練習になる。解が深まる。2、話した相手から受け入れられる。その結果、自己肯定感がアップする。
毎日子供からたくさん湧き上がってくる「なんで?」という疑問。挙げられた「なんで?」の中に、具体的な疑問があったら親子で調べてみることだ。「ハハトコtime」より

醸楽庵だより   1419号   白井一道

2020-05-25 10:40:27 | 随筆・小説



    徒然草第242段 とこしなへに違順に使はるゝ事は
原文
 とこしなへに違順(ゐじゆん)に使はるゝ事は、ひとへに苦楽のためなり。楽と言ふは、好み愛する事なり。これを求むること、止む時なし。楽欲(げいよく)する所、一つには名なり。名に二種あり。行跡(かうせき)と才芸との誉なり。二つには色欲、三つには味(あじは)ひなり。万の願ひ、この三つには如かず。これ、顛倒(てんだう)の想より起りて、若干(そこばく)の煩(わづら)ひあり。求めざらんにには如かじ。

現代語訳
 いつになっても変わることなく逆境と順境に人が翻弄されるのは、楽を求め苦から逃れようとするからである。楽と言うものを人は好み愛するからである。この気持ちが止むことはない。人が渇望するものの一つが名を得ることである。名には二つある。一つは品ある行いが讃えられる事、教養と芸で讃えられることである。二つ目が性的欲望を満足させることである。三つ目が食欲を満足させることである。すべての人にとっての願いはこの三つに尽きる。このような欲望は物事を逆に受け取り考えたための煩いである。このよう欲望を求めないに超したことはない。


バートランド・ラッセルの名言

あなたが何を信じようと、 慎みを忘れてはいけない。

愛を受け取る人間は、 愛を与える者である。

道徳は、つねに変化している。

次に起こる戦争は勝利に終わるのではなく、
相互の全滅に終わる。

私は両親の愛にまさる偉大な愛を知らない。

“自制の効用”は、列車における ブレーキの効用に似ている。間違った方向に進んでいる と気づいた時には役に立つが方向が正しい時は、害になるばかりである。

幸福の秘訣は、こういうことだ。
あなたの興味をできるかぎり幅広くせよ。そして、あなたの興味を惹く人や物に対する反応を敵意あるものではなくできるかぎり友好的なものにせよ。

人間、関心を寄せるものが多ければ多いほど、ますます幸福になるチャンスが多くなり、また、ますます運命に左右されることが少なくなる。かりに、一つを失ってももう一つに頼ることができるからである。

最も満足すべき目的とは一つの成功から次の成功へと無限に続いて決して行き詰ることのない目的である。そして、この点で建設は破壊よりも一段と大きな幸福の源であることがわかるだろう。

首尾一貫した目的だけでは人生を幸福にするのに
十分ではない。しかし、それは幸福な人生のほぼ必須の条件である。

私は、どんなに前途が多難であろうとも人類史のもっともよき部分が未来にあって、過去にないことを
確信している。

実際、人類の大半が愚かであるということを考えれば広く受け入れられている意見は、馬鹿げている
可能性のほうが高い。

愛を恐れることは人生を恐れること。そして、人生を恐れる人たちは、ほとんどの部分が死んでいる事と同じなのだ。

賢人は、妨げうる不幸を座視することはしない一方、
避けられない不幸に時間と感情を浪費することもしないだろう。

幸福な生活とは、その大部分が静かな生活であることにかかっている。なぜならその静かな雰囲気のなかでだけ、真の喜びは生き続けられるのだから。
  バートランド・ラッセル『幸福論』より

醸楽庵だより   1418号   白井一道

2020-05-23 11:08:57 | 随筆・小説


   徒然草第241段 望月の円かなる事は



原文
 望月の円(まと)かなる事は、暫(しばら)くも住(ぢゆう)せず、やがて欠けぬ。心止(とど)めぬ人は、一夜(ひとよ)の中(うち)にさまで変る様(さま)の見えぬにやあらん。病の重(おも)るも、住する隙(ひま)なくして、死期(しご)既(すで)に近し。されども、未だ病急ならず、死に赴かざる程は、常住平生の念に習ひて、生の中に多くの事を成(じやう)じて後、閑(しづ)かに道を修せんと思ふ程に、病を受けて死門(しもん)に臨む時、所願(しよがん)一事も成(じやう)せず。言ふかひなくて、年月の懈怠(けだい)を悔いて、この度、若し立ち直りて命を全くせば、夜を日に継ぎて、この事、かの事、怠らず成じてんと願ひを起すらめど、やがて重(おも)りぬれば、我にもあらず取り乱して果てぬ。この類(たぐい)のみこそあらめ。この事、先づ、人々、急ぎ心に置くべし。
 所願を成じて後、暇ありて道に向はんとせば、所願尽くべからず。如幻(によげん)の生(しやう)の中に、何事をかなさん。すべて、所願皆妄想(まうざう)なり。所願心に来たらば、妄信迷乱(まうしんめいらん)すと知りて、一事をもなすべからず。直に万事を放下(はうげ)して道に向ふ時、障りなく、所作なくて、心身(しんじん)永く閑(しづ)かなり。


現代語訳
 望月が真ん丸なのはほんのひとときでやがて欠けていく。気を付けて見ていない人にとって一晩のうちに月が様変わる様子が分からないだろう。病が重篤さも休む間もなく悪くなり、死期が迫ってきている。されども病は重篤化することなく死に向かう程ではない時は常日頃の気持ちになって生きているうちだ思い多くの事を成し遂げた後、落ち着いて仏道の修行をしようと思う程に、病を得て死に臨む時、願った事の一つも実現することはない。何を言っても仕方なく長い年月の怠りを後悔し、この度、もし病が立ち直り、命を全うできるとなれば、夜も日も一所懸命にこの事もかの事もと、怠ることなく成し遂げたいと願いを起すだろうが、やがて病が重くなってくると自分ではないようなほど、取り乱して果てる。このような事になりがちである。このような事がまずあると人々は考えておくことだ。
 願がかなった後、暇をみて仏道修行をしようと思えば、願いを尽くすことはしてはいけない。幻のように実在しないものが実在しているかのように見えるものの中で何かを人間はしようとしている。すべて願いは皆妄想である。願いたいことが心に起こったならば、邪念が心を乱しているのだと思い、何もしてはならない。即座にあらゆることを諦め、仏道修行に向かう時支障なく無用な行為もせず、心も体も長く落ち着くのだ。

 「色好み」とは   白井一道
 『古今和歌集』の紀貫之の仮名序に、「今の世の中、色につき、人の心、花になりにけるより、あだなる歌、はかなき言のみいでくれば、色好みの家に埋(うも)れ木の、人知れぬこととなりて」とある。今の世の中は華美になり、人の心が浮薄なものになった。その結果、和歌もまた浮薄なものになり、表立った公の場所に出されるような作品はなくなり、男女の心を通わすためのものになった。「色好みの家に埋(うも)れ木の、人知れぬこととなり」と貫之は表現している。
 「色好み」として公の席に公表できない日常の私的な思いを詠んだ歌が人間の真実を表現するものになった。『古今和歌集』に載せてある歌を詠んだ歌人たちは「色好み」の人々だった。仮名文字の普及が女性に歌を詠む喜びを生んだ。仮名文字で歌を詠むことが「色好み」であった。「色好み」とは、私的な思いを詠むことであった。私的なものであるが故に公的な場所で朗々と読み上げられるもではなかった。秘めたるものであるが故にそっと伝えたいものが仮名文字で書かれた歌であった。「色好み」とは、秘めたるものである。心の底深くに隠し秘めているものをそっと打ち明けたものが「色好み」の歌であった。
 平安時代、かな文字の発明、普及によって女性が歌を詠むようになった結果「色好み」の文化として人間の日常生活の細々したものを通して歌を詠むようになった。
 こうした「色好み」の文化が新しい日本文学を築くことになった。こうした「色好み」の文学を継承したものとして江戸時代の井原西鶴の好色文学が生れた。世之介は「色好み」文化の中に誕生した。

醸楽庵だより   1417号   白井一道

2020-05-22 10:28:45 | 随筆・小説



   徒然草第240段 しのぶの浦の蜑の見る目も所せく



原文
 しのぶの浦の蜑(あま)の見る目も所せく、くらぶの山も守る人繁からんに、わりなく通はん心の色こそ、浅からず、あはれと思ふ、節々の忘れ難き事も多からめ、親・はらから許して、ひたふるに迎へ据ゑたらん、いとまばゆかりぬべし。
世にありわぶる女の、似げなき老法師、あやしの吾妻人なりとも、賑はゝしきにつきて、「誘う水あらば」など云ふを、仲人、何方も心にくき様に言ひなして、知られず、知らぬ人を迎へもて来たらんあいなさよ。何事をか打ち出づる言の葉にせん。年月のつらさをも、「分(わ)け来(こ)し葉山(はやま)の」なども相語らはんこそ、尽きせぬ言の葉にてもあらめ。
 すべて、余所の人の取りまかなひたらん、うたて心づきなき事、多かるべし。よき女ならんにつけても、品下り、見にくゝ、年も長けなん男は、かくあやしき身のために、あたら身をいたづらになさんやはと、人も心劣りせられ、我が身は、向ひゐたらんも、影恥かしく覚えなん。いとこそあいなからめ。
 梅の花かうばしき夜の朧月に佇み、御垣が原の露分け出でん有明の空も、我が身様に偲ばるべくもなからん人は、たゞ、色好まざらんには如かじ。

現代語訳
 人目を忍び女に逢うにも邪魔されることが煩わしく、闇に紛れて女に逢おうとすると女を見張り逢わせないようにする人が多い中、何としても女に逢おうとする男の気持ちには浅からぬ思いがあるように思われ、その折々の忘れ難い事も多いであろうに、女の親や兄弟が許してくれ、どうぞと迎えてくれたなら、どんなにか心躍ることであろう。
世渡りに困っている女が釣り合わない老法師や関東の田舎者であっても、豊かなようなので「妻に迎えて下さるなら」などと言うのを仲人が男女どちら側にも奥ゆかしい人であるかのように言いくるめて相手も知らず、こちらも知らない人を迎え入れることほどくだらないことはない。この男女は何事についての言葉をかけあうのであろうか。気安く逢えなかった年月の辛さをも、「無理をかさねての逢瀬だった」と語り合うことほど尽きぬ言葉なのであろう。
 すべて、他人が取りまとめた結婚は何とはなしに気にくわないことが多かろう。良い女であったにしても、下品で醜く年も取っている男にとってはあれほどの女が身を持ち崩していくと女の人柄も思ったより下らなく思え、男自身にとっても立派な女と向かい合っていると自分自身の醜い容姿が恥ずかしく思われるであろう。これでは本当にあじけないものであろう。
 梅の花の香り漂う夜の朧月に佇み、恋人が住む邸の垣の辺りの露を分けて出てくるころの夜明けの空も我が身のように偲ぶことのない人は本当に恋愛に夢中にならないに越したことはない。

 「夜這い「について     白井一道
赤松啓介の『夜這いの民俗学』によると、夜這いは、時代や地域、各社会層により多様な状況がある。夜這い相手の選択や、または女性側からの拒絶など、性的には自由であり、祭りともなれば堂の中で多人数による「ザコネ」が行われ、隠すでもなく恥じるでもなく、奔放に性行為が行われていた。ただし、その共同体の掟に従わねば、制裁が行われることもあった。赤松によれば戦争その他などで男の数が女に比して少なかったことからも、この風習が重宝された可能性があるという。
また明治以降、夜這いの風習が廃れたことを、夜這いと言う経済に寄与しない風俗を廃して、各種性風俗産業に目を向けさせ、税収を確保しようとする政府の意図が有ったのではないか、とみている。
なお、日本の共同体においては、少女は初潮を迎えた13歳、または陰毛の生えそろった15 - 16歳から夜這いの対象とされる。その際に儀式として性交が行われた。少年は13歳でフンドシ祝いが行われ、13歳または15歳で若衆となるが、そのいずれかの時に、年上の女性から性交を教わるのが儀式である。その後は夜這いで夜の生活の鍛練を積む。
赤松は明治42年(1909年)兵庫県の出身である。この当時はまだフンドシ祝いが残っていた。日本の共同体では夜這いの前に以上の如くの性教育があった。夜這いが認められていたので、赤ん坊が誰の子であるのかよく解らない、などと言った例がよく見られたが、共同体の一員として、あまり気にすることなく育てられた。 ウィキペディアより

醸楽庵だより   1416号   白井一道

2020-05-21 10:22:31 | 随筆・小説



    徒然草第239段 八月十五日・九月十三日は

原文
 八月十五日・九月十三日は、婁宿(ろうしゆく)なり。この宿、清明なる故に、月を翫(もてあそ)ぶに良夜とす。

現代語訳
 八月十五日・九月十三日は、婁宿(ろうしゆく)である。この日は曇りなくはっきりしているので月を愛でるには良い夜である。

 婁宿(ろうしゆく)とは    白井一道

婁宿(ろうしゆく)とは月28宿の内の一つの星座である現在、星座といえば太陽の通り道に当たる黄道を12等分した12星座ですが,古代の中国では月を基準に考え、月が毎晩どの星座を宿とするかで二十八宿が定められていた。
月が天球を1周する約27.5日分(月の満ち欠けの日数ではありません)で28宿です。
月が現在、天球上の土の星座にいるかで、物事の吉凶を判断した。
暦の歴史
暦は中国から朝鮮半島を通じて日本に伝わりました。大和朝廷は百済(くだら)から暦を作成するための暦法や天文地理を学ぶために僧を招き、飛鳥時代の推古12年(604)に日本最初の暦が作られたと伝えられています。
日本最古の歴史書である「日本書紀」の欽明天皇14年(553)6月の条に、百済から「暦博士」を招き、「暦本」を入手しようとした記事がある。これが、日本の記録の中で最初に現れた暦の記事である。
暦は朝廷が制定し、大化の改新(645)で定められた律令制では、中務省(なかつかさしょう)に属する陰陽寮(おんみょうりょう)がその任務にあたっていました。陰陽寮は暦の作成、天文、占いなどをつかさどる役所であり、暦と占いは分かちがたい関係にありました。平安時代からは、暦は賀茂氏が、天文は陰陽師として名高い安倍清明(あべのせいめい 921-1005)を祖先とする安倍氏が専門家として受け継いでいくことになります。
当時の暦は、「太陰太陽暦(たいいんたいようれき)」または「太陰暦」、「陰暦」と呼ばれる暦でした。
1ヶ月を天体の月(太陰)が満ち欠けする周期に合わせます。天体の月が地球をまわる周期は約29.5日なので、30日と29日の長さの月を作って調節し、30日の月を「大の月」、29日の月を「小の月」と呼んでいました。一方で、地球が太陽のまわりをまわる周期は約365.25日で、季節はそれによって移り変わります。大小の月の繰り返しでは、しだいに暦と季節が合わなくなってきます。そのため、2~3年に1度は閏月(うるうづき)を設けて13ヶ月ある年を作り、季節と暦を調節しました。大小の月の並び方も毎年替わりました。
暦の制定は、月の配列が変わることのない現在の太陽暦(たいようれき)とは違って非常に重要な意味をもち、朝廷や後の江戸時代には幕府の監督のもとにありました。 太陰太陽暦は、明治時代に太陽暦に改められるまで続きます。
陰陽寮が定める暦は「具注暦(ぐちゅうれき)」と呼ばれ、季節や年中行事、また毎日の吉凶などを示すさまざまな言葉が、すべて漢字で記入されていました。これらの記入事項は「暦注(れきちゅう)」と呼ばれています。また、「具注暦」は、「注」が具(つぶさ=詳細)に記入されているのでこの名があります。
「具注暦」は、奈良時代から江戸時代まで使われましたが、特に平安時代の貴族は毎日暦に従って行動し、その余白に自分の日記を記すことが多く、古代から中世にかけての歴史学の重要な史料となっています。
江戸時代に入り天文学の知識が高まってくると、暦と日蝕や月蝕などの天の動きが合わないことが問題となり、江戸幕府のもとで暦を改めようとする動きが起こりました。それまでは、平安時代の貞観4年(862)から中国の宣明暦(せんみょうれき)をもとに毎年の暦を作成してきましたが、800年以上もの長い間同じ暦法を使っていたので、実態と合わなくなってきていたのです。
貞享2年(1685)、渋川春海(しぶかわはるみ 1639~1715)によって初めて日本人による暦法が作られ、暦が改められました。これを「貞享の改暦」といいます。江戸時代には、そのあと「宝暦の改暦」(1755)、「寛政の改暦」(1798)そして「天保の改暦」(1844)の全部で4回の改暦が行われました。

醸楽庵だより   1415号   白井一道

2020-05-20 06:01:07 | 随筆・小説



  徒然草第238段 御随身近友が自讃とて



原文
 御随身近友(みずゐじんちかとも)が自讃とて、七箇条書き止めたる事あり。皆、馬芸、させることなき事どもなり。その例(ためし)を思ひて、自讃の事七つあり 。
一、 人あまた連れて花見ありきしに、最勝光院の辺にて、男の、馬を走らしむるを見て、「今一度馬を馳するものならば、馬倒れて、落つべし。暫し見給へ」とて立ち止りたるに、また、馬を馳す。止むる所にて、馬を引き倒して、乗る人、泥土の中に転び入る。その詞の誤らざる事を人皆感ず。

現代語訳
 御随身近友(みずゐじんちかとも)が自慢話として七か条を書き留めたことがある。皆、馬術に関する事ばかりでたいしたことではない。その例を思い、私にも自慢したいことが七つある。
一、多くの人を連れて花見をしたときに、最勝光院の辺りで男が馬を走らせているのを見て、「今一度、馬を走らせようものなら馬は倒れて、乗り手は落ちるであろう。暫し見て置け」と立ち止まっていると、また馬を走らせる。馬を留める所で馬を引き倒してしまい、男は泥土の中に転びこんだ。私の言葉が間違っていなかったことに皆は感嘆じた。

原文
 一、当代(たうだい)未だ坊におはしましし比、万里小路殿御所(までのこうじどのごしょ)なりしに、堀川大納言殿伺候し給ひし御曹司(みざうし)へ用ありて参りたりしに、論語の四・五・六の巻をくりひろげ給ひて、「たゞ今、御所にて、『紫の、朱奪ふことを悪む』と云ふ文を御覧ぜられたき事ありて、御本を御覧ずれども、御覧じ出されぬなり。『なほよく引き見よ』と仰せ事にて、求むるなり」と仰せらるゝに、「九の巻のそこそこの程に侍る」と申したりしかば、「あな嬉し」とて、もて参らせ給ひき。かほどの事は、児どもも常の事なれど、昔の人はいさゝかの事をもいみじく 自讃したるなり。後鳥羽院の、御歌に、「袖と袂と、一首の中に悪しかりなんや」と、定家卿に尋ね仰せられたるに、「『秋の野の草の袂か花薄(ずすき)穂(ほ)に出でて招く袖と見ゆらん』と侍れば、何事か候ふべき」と申されたる事も、「時に当りて本歌を覚悟す。道の冥加なり、高運なり」など、ことことしく記し置かれ侍るなり。
九条相国伊通公(くでうのしやうこくこれみちこう)の款状(くわじやう)にも、殊なる事なき題目をも書き載せて、自讃せられたり。

現代語訳
 今上天皇がまだ春宮坊(とうぐうぼう)におられた頃、万里小路殿邸(までのこうじどのてい)が御所であった頃、堀川大納言殿が参上しご機嫌を伺っておられた部屋、御曹司(みざうし)に用があり私が参った折、論語の四・五・六の巻を繰り広げられて「ただ今、御所で『紫が朱を奪う事を憎む』という文をご覧になりたい思っておられたことがあり、御本をご覧になられても、探し出すことができなかったようだ。『なおよく探してみよ』と仰せられて、求められた」とおっしゃられた折に「九の巻のそこそこにある」と申されたので、『とても嬉しい』と、持ってこさせた。このようなことは、子供には常の事ではあるが、昔の人は小さなことも大事にすることを自慢していた。後鳥羽院の和歌に「袖と袂とが一首の中にあるのは悪いことでしようか」と、藤原定家卿にお尋ねになられたところ、「『秋の野の草の袂か花薄(ずすき)穂(ほ)に出でて招く袖と見ゆらん』とあるので、何の差支えがありましょう」とおっしゃられた事も、「大事な時に巡り合い典拠となる歌を覚えていた。歌の神様のご加護であり、運に恵まれた」など大げさに記述されている。
 九条相国伊通公(くでうのしやうこくこれみちこう)の上申書に格別な事もない題目も書き載せて自慢している。

原文
一、 常在光院(じやうざいくわうゐん)の撞き鐘の銘は、在兼卿(ありがねのきやう)の草(さう)なり。行房朝臣清書(ゆきふさのあつそんせいじよ)して、鋳型(いかた)に模(うつ)さんとせしに、奉行(ぶぎやう)の入道(にふだう)、かの草を取り出(い)でて見せ侍りしに、「花の外(ほか)に夕を送れば、声(こゑ)百里に聞ゆ」と云ふ句あり。「陽唐(やうたう)の韻と見ゆるに、百里誤りか」と申したりしを、「よくぞ見せ奉(たてまつ)りける。己れが高名(かうみやう)なり」とて、筆者の許へ言ひ遣りたるに、「誤り侍りけり。数行(すかう)と直さるべし」と返事侍りき。数行(すかう)も如何なるべきにか。若(も)し数歩(すほ)の心か。おぼつかなし。数行なほ不審。数(す)は四五也。鐘四五歩不幾也(かねしごほいくばくならざるなり)。たヾ、遠く聞こゆる也。

現代語訳
 一、常在光院(じやうざいくわうゐん)の撞き鐘の銘文は在兼卿(ありがねのきやう)が書いたものだ。行房朝臣が清書し、鋳型(いかた)に模(うつ)そうとした折、奉行の入道がこの銘文を取り出して見せてくれ、「花の彼方で夕べを送り、鐘の音は百里遠くまでとどく」という句がある。「この銘文は陽唐(やうたう)の韻を踏んでいるように思うが、百里では間違いではないか」とおっしゃられたら、入道は「よくぞお見せ下さった。私の手柄だ」と、筆者のところに言いやったところ、「私の間違いでした。数行書き直して下さい」と返事がありました。数行もどうしたら良いものやら。もしいくつかの言葉だったら。はっきりしない。数行の意味が分からない。数とは四五ぐらいということか。鐘の音が四つ五つはっきりしない。ただ遠く聞こえるだけである。

原文
一、 人あまた伴ひて、三塔巡礼(さんたふじゆんれい)の事侍りしに、横川(よかわ)の常行堂(じやうぎやうだう)の中、龍華院〈りようげゐん〉と書ける、古き額あり。「佐理(さり)・行成(かうぜい)の間(あいだ)疑ひありて、未だ決せずと申し伝へたり」と、堂僧ことことしく申し侍りしを、「行成ならば、裏書あるべし。佐理ならば、裏書あるべからず」と言ひたりしに、裏は塵積り、虫の巣にていぶせげなるを、よく掃き拭ひて、各々見侍りしに、行成位署(かうぜいゐじよ)・名字・年号、さだかに見え侍りしかば、人皆興に入る。

現代語訳
人をたくさん連れて、比叡山延暦寺の東塔・西塔・横川を巡り礼拝することがあった折、横川の横川(よかわ)の常行堂(じやうぎやうだう)の中に龍華院〈りようげゐん〉と書いてある古い額がある。「藤原佐理(ふじわらすけまさ)が書いたのか、藤原行成(ふじわらいくなり)が書いたのか、分からず、未だに決していないと申し伝えられている」と、お堂の僧侶がものものしく話していた時「行成ならば裏書があるはず、佐理ならば裏書があるはずがない」と言うと、裏は塵が積もって虫の巣になり汚れているのを良く掃きぬぐい、各々を見ると行成署名、官位、年号がはっきり見ることができたので人は皆、感じ入った。

原文
一、 那蘭陀寺(ならんだじ)にて、道眼聖(だうげんひじり)談義せしに、八災と云ふ事を忘れて、「これや覚え給ふ」と言ひしを、所化(しよけ)皆覚えざりしに、局(つぼね)の内より、「これこれにや」と言ひ出したれば、いみじく感じ侍りき。

現代語訳
 一、 那蘭陀寺(ならんだじ)で道眼聖が経典の講義をした折、人の心を乱す八つの災いがあるということを忘れて「これらを覚えているか」と言った時、弟子たちが皆覚えていなかったのに、聴聞の別席から「これこれでは」と言い出すと道眼聖は感心していた。

原文
一、 賢助僧正(けんじよそうじよう)に伴ひて、加持香水を見侍りしに、未だ果てぬ程に、僧正帰り出で侍りしに、陳(ぢん)の外(と)まで僧都見えず。法師どもを帰して求めさするに、「同じ様(さま)なる大衆(だいしゆ)多くて、え求め逢はず」と言ひて、いと久しくて出でたりしを、「あなわびし。それ、求めておはせよ」と言はれしに、帰り入りて、やがて具して出でぬ。
現代語訳
 賢助僧正(けんじよそうじよう)にお伴して加持香水の儀式を見に行った折、まだ儀式が終わらないうちに僧正が帰り出て行かれたので真言院の外陣にも僧都は見えない。随行してきた法師どもをかえして探させると「同じような僧侶が多くて探すことができません」と言ってとても長い間たってから出て来たので「あぁ、困ったことだ。あなたが探してきてください」と言われたので儀式の会場に戻り、やがて連れ出してきた。

原文
一、二月十五日、月明き夜、うち更けて、千本の寺に詣でて、後より入りて、独り顔深く隠して聴聞し侍りしに、優なる女の、姿・匂ひ、人より殊なるが、分け入りて、膝に居かゝれば、匂ひなども移るばかりなれば、便(びん)あしと思ひて、摩り退きたるに、なほ居寄りて、同じ様なれば、立ちぬ。その後、ある御所様の古き女房の、そゞろごと言はれしついでに、「無下に色なき人におはしけりと、見おとし奉る事なんありし。情なしと恨み奉る人なんある」とのたまひ出したるに、「更にこそ心得侍れね」と申して止みぬ。この事、後に聞き侍りしは、かの聴聞の夜、御局の内より、人の御覧じ知りて、候ふ女房を作り立てて出し給ひて、「便よくは、言葉などかけんものぞ。その有様参りて申せ。興あらん」とて、謀り給ひけるとぞ。

現代語訳
 二月十五日、月の明るい夜更けに千本釈迦堂にお参りしていると、後から入って来て、独り顔を深く隠してお経の講釈を聞いてる女性の容姿や薫りが抜きんでて、人より特別な人が分け入りて、私の膝に触れるので匂いなどがうつる状況なので、具合が悪いと思い、擦り退いたところ、猶すり寄って来て、同じような状況になったので、立ち上がった。その後、ある御所様に仕えた古い女房がとりとめもないことを言われたついでに「あなたをひどく無粋な方でいらっしゃったわとお見下げ致したことがありましたわ。つれないとお恨み申し上げる人がいるのです」と言い出したので、「全然何のことなのかわかりません」と話してそのまままになった。この事を後に聞いたことによると、かの聴聞の夜、お局の中からある方が私のいることをお見知りになって、お側の女官を聴聞者のように仮装させてお出しになり、「いい折があったら言葉でも言いかけるようにせよ。その時の様子を帰って後に申し上げなさい。面白いことであろう」と云いつけられて、私をお試しになったのだそうだ。


醸楽庵だより   1414号   白井一道

2020-05-18 10:37:33 | 随筆・小説



  徒然草第237段 柳筥に据うる物は



原文
 柳筥(やないばこ)に据(す)うる物は、縦様(たてさま)・横様(よこさま)、物によるべきにや。「巻物などは、縦様に置きて、木の間(あはひ)より紙ひねりを通して、結い附く。硯(すずり)も、縦様に置きたる、筆転ばず、よし」と、三条右大臣殿仰せられき。
 勘解由小路(かでのこうじ)の家の能書の人々は、仮にも縦様に置かるゝ事なし。必ず、横様に据ゑられ侍りき。

現代語訳
柳筥(やないばこ)に乗せて置く物を縦向きに置くのか、横向きに置くのかは物によるのだろうか。「巻物などは縦向きに置き、木の間(あはひ)から紙縒(こよ)りを引っ張り出し結びつける。硯も縦向きに置き、筆を転ばさないようにするのが良い」と三条右大臣殿がおっしゃっておられた。
勘解由小路(かでのこうじ)家の能書家の人々は、仮にも縦向きに置くことはない。必ず横向きに置かれていた。

三筆と三蹟について   白井一道
三筆は9世紀頃に活躍した空海(くうかい)・嵯峨天皇(さがてんのう)・橘逸勢(たちばなのはやなり)の3人を指し,三蹟は10世紀頃に活躍した小野道風(おののみちかぜ,通称は「とうふう」)・藤原佐理(ふじわらのすけまさ,通称は「さり」)・藤原行成(ふじわらのゆきなり,通称は「こうぜい」)の3人を指す。彼らは傑出した書家として古くから尊崇され,江戸時代には三筆・三蹟という呼び名が定着した。
弘仁9(818)年,嵯峨天皇は大内裏(平安宮)の門号を唐風に改めるとともに,自ら大内裏東面の陽明門(ようめいもん)・待賢門(たいけんもん)・郁芳門(いくほうもん)の額を書き,南面の美福門(びふくもん)・朱雀門(すざくもん)・皇嘉門(こうかもん)の額を空海に,また北面の安嘉門(あんかもん)・偉鑒門(いかんもん)・達智門(たっちもん)の額は橘逸勢に書かせました。この3人が三筆である。
平安時代中期,9世紀頃までの日本の書法は,東晋の人で書聖と称された王羲之(おうぎし,4世紀)を初め、中国の書家にならったものでした。当時の日本が中国の制度や文化の摂取につとめていたからである。三筆の書風も中国に規範を求め,その強い影響を受けている。しかしその一方,彼らは唐風にならいながらも,それぞれ独自の書法を開拓し,やがて後に確立する和様(わよう)への橋渡しという役割を果たす。
空海 五筆和尚(ごひつおしょう)
 空海(8世紀末~9世紀)は後に弘法大師(こうぼうだいし)と号され,真言宗の開祖として知られている。佐伯田公(さえきのたぎみ)の子として讃岐国(さぬきのくに,香川県)多度郡屏風浦(びょうぶがうら)に生まれ,上京して仏門に入りました。延暦23(804)年には遣唐使にしたがい入唐し,大同元(806)年に帰国して真言宗を開創しました。
空海は優れた宗教家であっただけでなく漢詩文にも秀で,唐では仏教のほか書法や筆の製法なども学びました。その達筆ぶりは,後世にさまざまな伝説を生み出しています。たとえば空海は,左右の手足と口に5本の筆を持って一度に5行を書し,「五筆和尚」と呼ばれたと伝えられますが(『入木抄』<じゅぼくしょう>),これも能書家として尊崇されたことの反映といえます。現代でも「弘法筆を選ばず」「弘法も筆の誤り」など,空海と書道にまつわることわざが残されています。
空海の筆跡として最も有名なものが,天台宗の開祖最澄(さいちょう,767~822)に宛てた手紙「風信帖」(ふうしんじょう,国宝)です。またこのほかにも,空海が高雄山寺(神護寺)で真言密教の秘法,灌頂(かんじょう)を授けた人々を記した「灌頂歴名」(かんじょうれきみょう,国宝)などが知られています。
こうした筆跡から窺える空海の書風は,伝統的な王羲之の書に,唐代の書家顔真卿(がんしんけい,709~85)の書法を加味し,彼自身の個性を加えたものとされています。また空海は様々な書体に優れ,たとえば唐で流行した飛白(ひはく)の書という技法もいち早く取り入れました。「五筆和尚」とは,このように多くの書体を使い分けたことに由来するともいわれます。
嵯峨天皇 能筆の天皇
 嵯峨天皇(786~842)は,桓武天皇の第二皇子で平城天皇の弟にあたり,大同4(809)年に天皇となりました。詩文や書にすぐれ,在位中は宮廷を中心に唐風文化が栄えたことで知られています。
嵯峨天皇は唐代の書家欧陽詢(おうようじゅん,557~641)を愛好し,また空海に親近したことから,その書風にも影響を受けたようです。『日本紀略』には「真(まこと)に聖なり。鍾(しょうよう,魏の書家)・逸少(いつしょう,王羲之),猶いまだ足らず」とあり,筆づかいは羲之らにも勝るとまでほめたたえられました。
嵯峨天皇の確実な筆跡では,光定(こうじょう)という僧が延暦寺で受戒したことを証明した文書「光定戒牒」(こうじょうかいちょう,国宝)が知られています。その書風には欧陽詢や空海の影響が認められるとされています。
橘逸勢 配流された能筆家
橘逸勢(?~842)は入居(いりすえ)の子で,延暦23(804)年,空海らとともに入唐して一緒に帰国しました。しかし承和9(842)年に起きた承和の変に連座し,配流地の伊豆へ向かう途中に病没するという非業の死を遂げました。
『橘逸勢伝』(たちばなのはやなりでん)によれば,逸勢は留学中,唐の文人たちに「橘秀才」(きつしゅうさい)と賞賛されたほどの学才があり,また隷書体(れいしょたい)に優れていたといわれています。残念ながら逸勢の確かな筆跡は残っていませんが,その筆と伝えられるものに,桓武天皇の皇女が興福寺東院西堂に奉納した「伊都内親王願文」(いとないしんのうがんもん)があります。
三蹟と和様の創成
以上のような中国を模範とした時代は,10世紀頃になると次第に変化を見せるようになりました。たとえば絵画での唐絵(からえ)から大和絵(やまとえ)への移り変わりや,文学に見られる物語文学の起こりなどがそれで,いわゆる国風文化(こくふうぶんか)の成立がそれにあたります。
書道でも,この頃には和様(わよう)と呼ばれる日本風の書法が創成され,新たな規範として広く流行することになりました。この和様を創始し定着させたのが,小野道風・藤原佐理・藤原行成の三蹟です。彼らの書は新しい日本独自の規範として長らく尊重され,鎌倉時代の書道指南書『入木抄』(じゅぼくそゆ)にも,野跡(やせき)・佐跡(させき)・権跡(ごんせき)(小野道風・藤原佐理・権大納言藤原行成の筆跡),この三賢を,末代の今に至るまで,この道の規模(模範)として好む事,面々彼の遺風を摸すなり。
小野道風 「羲之の再生」
小野道風(894~966)は,篁(たかむら)の孫にあたる官人で,当代随一の能書として絶大な評価を受けました。延長4(926)年,醍醐天皇は僧寛建の入唐にあたり,唐で広く流布させるため,道風の書いた行書・草書各一巻を与えました。当時,道風は唐にも誇示すべき書家として認められていたわけです。また『天徳三年八月十六日闘詩行事略記』も「木工頭(もくのかみ)小野道風は,能書の絶妙なり。羲之(王羲之)の再生,仲将(ちゅうしょう,魏の書家)の独歩(どっぽ)なり」と評しています。
道風は羲之の書風を基礎としながら字形を端正に整え,筆線を太く豊潤なものとして,日本風の穏やかで優麗な書風,つまり和様をつくり出した人物とされています。
その道風の真跡としては,円珍(814~91)へ智証大師の号が贈られたときの「円珍贈法印大和尚位並智証大師諡号勅書」(えんちんぞうほういんだいかしょういならびにちしょうだいししごうちょくしょ,国宝)や,内裏の屏風に文人大江朝綱の詩句を書したときの下書きとなった「屏風土代」(びょうぶどだい)などが知られています。
藤原佐理 異端の能筆家
藤原佐理(944~98)は摂政(せっしょう)太政大臣(だじょうだいじん)実頼(さねより)の孫で,「日本第一の御手」(『大鏡』)といわれ,達筆で名を馳せました。円融・花山・一条天皇ら三代の大嘗会(だいじょうえ)で屏風の色紙形(しきしかた)を書く筆者に選ばれ,永観2(984)年には内裏の額を書いて従三位(じゅさんみ)に昇進するなど,その筆跡がもてはやされました。
しかし筆跡への高い評価とはうらはらに,宮仕えの貴族としての佐理は,非常識でだらしない人物と見られていたようです。関白(かんぱく)藤原道隆(ふじわらのみちたか,953~95)の依頼で障子の色紙形を書いたときには,日が高くなり人々が参集した後でようやく現れたため,見事な能筆ぶりを見せたにもかかわらず,場が興醒めとなり,恥をかきました。『大鏡』はこのことから佐理を「如泥人(じょでいにん,だらしのない人物)」と評しています。
佐理の真跡では,大宰府へ赴く途中に書いた手紙「離洛帖」(りらくじょう,国宝)や漢詩文の懐紙「詩懐紙」(しかいし,国宝)などが有名です。その筆運びは緩急の変化に富み,奔放に一筆で書き流したもので,道風や行成の丁寧な筆致とは違って独特の癖があるといわれます。こうして見ると,佐理の非常識な行動も,むしろ個性的で型破りな異才ぶりを際だたせているように思えます。
藤原行成 「入木相承の大祖」
藤原行成(972~1027)は摂政太政大臣伊尹(これまさ)の孫で,実務に堪能な公卿として藤原道長(966~1027)の信頼も高く,権大納言まで昇進しました。この頃の名臣を称したいわゆる「寛弘の四納言」の一人にあたる人物です。
行成は本人だけでなく子孫も代々書道を相承して,この家流は「能書の家」となっていきました。このことはそれまでと大きく異なる点といえます。そうして生まれたのが後世に多くの書流の源となった世尊寺流(せそんじりゅう)であり,行成はその始祖として「本朝(ほんちょう,日本)入木(じゅぼく,書道)相承の大祖」(『尊卑分脈』<そんぴぶんみゃく>)と尊重されるようになったのです。
行成は道風の書を尊重し,自分の日記『権記』(ごんき)にも,夢で道風に会って書法を伝授されたと記しました。道風への尊崇や,彼の創始した和様を継承しようとする意識が読み取れます。行成は穏やかで優美な筆致を持ち,まさに完成された和様の姿を窺うことができます。性格も冷静で温厚だったらしく,そうした人柄も書風に反映したのかもしれません。
行成の代表的な筆跡としては,菅原道真(すがわらのみちざね)らの文章を書写したもので本能寺に伝来したために「本能寺切」(ほんのうじぎれ,国宝)と呼ばれる書や,唐代の詩人白居易(はくきょい,772~846)の詩集『白氏文集』(はくしもんじゅう)を書写した「白氏詩巻」(はくししかん,国宝)などがあります。
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醸楽庵゜だより   1413号   白井一道

2020-05-17 10:53:11 | 随筆・小説



    徒然草第236段 丹波に出雲と云ふ所あり



原文
 丹波に出雲と云ふ所あり。大社(おおやしろ)を移して、めでたく造れり。しだの某(なにがし)とかやしる所なれば、秋の比、聖海上人、その他も人数多誘ひて、「いざ給へ、出雲拝みに。かいもちひ召させん」とて具しもて行きたるに、各々拝みて、ゆゝしく信起したり。
 御前なる獅子・狛犬、背きて、後さまに立ちたりければ、上人、いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ち様、いとめづらし。深き故あらん」と涙ぐみて、「いかに殿原(とのばら)、殊勝の事は御覧じ咎(とが)めずや。無下なり」と言へば、各々怪しみて、「まことに他に異なりけり」、「都のつとに語らん」など言ふに、上人、なほゆかしがりて、おとなしく、物知りぬべき顔したる神官を呼びて、「この御社の獅子の立てられ様、定めて習ひある事に侍らん。ちと承らばや」と言はれければ、「その事に候ふ。さがなき童どもの仕りける、奇怪に候う事なり」とて、さし寄りて、据ゑ直して、往(い)にければ、上人の感涙いたづらになりにけり。

現代語訳
 丹波に出雲という所がある。出雲大社の神霊を請い迎えてめでたく造った。しだの何某とか言う者が支配する所なので、秋の頃、聖海上人とその他の人も多数誘い、「さぁーお出で下さい。出雲神社の参拝に。牡丹餅をご馳走しましょう」と手に持ち行った折、皆それぞれ拝み、えらく信仰心を起した。
 神社の前の獅子や狛犬が背むいて後ろに立ち上がっているので、上人は大事なことだと思い、「なんとめでたいことか。この獅子の立ち上がった姿はとても珍しい。きっと深い理由があるのだろう」と涙ぐみ「どんなにか皆さん、この素晴らしいことをご覧になって不思議にお思いになりませんか。それではあんまりです」と言うと、各々不思議がり、「本当に他とは違っていますね」、「都への土産話にしましょう」などと話すと、上人はなおそのいわれを知りたいと思い、かなり年配の事情を知っていそうな顔をしている神官を呼び、「この御社の獅子が立っているさまを決められている。すこし伺いたい」と言われたので「そのことでございますか。いたずらな子供たちのしたことで、怪しからんことでございます」と、獅子に近寄り、向き合うように据え直して立ち去ったので上人の感涙は無意味なものになってしまった。

 映画『汚れなき悪戯』   白井一道
 映画は祭礼のために丘の上の寺院に向かう人々の流れと逆方向に歩き、町に住む病気の少女を見舞う無名の神父の話で始まる。彼は今日の祭りは何を記念するものか知っているかと少女とその父親に問い、祭礼の起こりを語りだす。
19世紀の前半、スペインのある町の町長を2人のフランシスコ会神父、1人の修道士、計3人が訪れ、侵略者フランス軍により破壊されたまま廃墟となっている丘の上の市有地の修道院を再建する許可を求めた。町民の助けを得て再建された修道院ではやがて12人に増えた修道士たちが働いていたが、ある朝、門前に男の赤子が置かれていた。神父たちは、赤子にその日の聖人の名前、「マルセリーノ」で洗礼を施した。両親は既に亡くなっていたことが判ったので、修道士たちは近隣に里親を求めて歩き回った。
しかし適当と考えられた人々の生活は苦しく、また引き取ると申し出た鍛冶屋は徒弟を乱暴に扱っているため修道士の方で断り、結局赤子は修道院で育てることになった。5年後、マルセリーノは丈夫で活発な少年になっていた。彼は修道士たちから愛され、また宗教や学業の手ほどきを受けはじめていたが、細やかな愛情を注ぐ母親もいなければ同じ年頃の遊び相手もいない境遇に、修道士たちは憂慮していた。
ある日町に行く途中で馬車の故障で修道院に立ち寄った家族がいて、マルセリーノはその母親と話すことで女性に初めて接し、また自分と同じくらいの歳だというマヌエルという息子の話も聞いた。マルセリーノは炊事係のトマス修道士に自分の母親のことを尋ね、彼は母親はもちろん美人で今は神様のところにいると請け合った。またマルセリーノはマヌエルを仮想の遊び仲間として独り言を言いながら遊ぶ癖がついた。
修道院の再建を許可した町長は死ぬ前に土地の寄贈を採決しようと申し出たが院長は断っていた。しかし彼の死後町長となった鍛冶屋はまず子供の里親となることを要求し、拒否されると他の議員への影響力を駆使して修道院を立ち退かせようと画策し始めた。
トマス修道士は農具や工具を保管する屋根裏部屋には決して入るな、奥の部屋には男がいておまえを捕まえるとマルセリーノに言いつけていたが、ある日おっかなびっくり階段を上がって行ったマルセリーノは奥の部屋で大きな十字架のキリスト像を見た。
転がるように階段を下って逃げたマルセリーノだが、怖いもの見たさで再び様子をうかがいに戻ると「男」は元の場所から動いていなかった。トマス修道士の話を信じ、「男」が彫像だとは思わないマルセリーノは像に話しかけた。男は答えなかったが痩せて空腹そうだと思った少年は台所に走るとパンを持ってきて差し出した。すると像の腕が動いた。
像はマルセリーノが大きな肘掛け椅子をすすめると降りてきて、私が誰だか分かるかと問うとマルセリーノは神様ですと答えた。像は特にパンと葡萄酒を喜んだのでマルセリーノは毎日それらを盗み、それに気づいた修道士らは訝りながらも気付かぬふりをして彼を見張ることにした。
像との話題はマルセリーノの母のことや像の母のことに及んだ。ついにある日、トマス修道士が見張っている時、例のようにパンと葡萄酒を持っていったマルセリーノに対し、キリストは彼が良い子だから願いをかなえようと申し出た。迷わずマルセリーノは母に会いたい、そしてあなたの母にも会いたいと言った。今すぐにかという問いには今すぐと答えた。ドアの割れ目から覗くトマス修道士の前で像は少年を膝に抱き、眠らせた。
トマス修道士は階段上まで戻ると兄弟たちを呼んだ。駆けつけた神父、修道士たちは空の十字架を見て、やがて像が十字架に戻るのを見て扉を開いた。輝く光のなかで、マルセリーノは椅子の上で顔に微笑みを浮かべて死んでいた。
奇跡を聞きつけた町の人々が続々とあつまる中、町長とその妻は、彼らに混じって行った。
やがて修道院は寺院に作り変えられ、礼拝堂には奇跡のキリスト像が祀られ、そのひと隅にマルセリーノが葬られ、奇跡の記念日には遠近の町村から大勢の人々が集まるようになった。